「福島原発事故をどう伝えるか――市民による語り直しと継承」

掲載日: 2025年11月01日

 2011年3月12日、東京電力福島第一原子力発電所の原子炉が水素爆発を起こした。マグニチュード9.0の地震と津波により損傷を受けた原子炉は、大量の放射性物質を東日本の広範囲と太平洋に拡散させた。

写真1: 双葉町から大熊町へと向かう国道六号線沿いの壊れた建物。私が初めて現地を訪れた2018年から、現在もなおこの状態で取り残されている。

 私が原発事故の最も深刻な被害を受けた地域を訪れたのは、それから7年後のことだった。事故を起こした原子炉から直線で30~40㎞離れた場所にある高齢者施設を訪れた際のことである。ある女性は「原発は爆発して怖かったけど、遠くまで避難するなんて大げさよ」と語った。その言葉に一瞬、私自身の理解が揺らいだ。復興が進み、人々は事故を過去の出来事として暮らしているかのように見えたからだ。しかし現実には、沿岸を走る国道6号線沿いには今も帰還困難区域が残り、多くの人々が土地や生活基盤を失い、避難先での困難も含めて、途切れることなく続いている。事故がもたらした被害状況は時間の経過に伴ってやがて変化する。だが、事故が起きれば誰もが同じような被害を受けるであろうことに変わりはない。

 原発事故とは何を意味するのか、なぜ起きてしまったのか、そして人々はどう経験したのか。これらは単なる事実や時系列の整理だけでは捉えきれない。私の研究では、人々が経験した出来事をいかに語り、またどのように他者へ伝えようとするのか、その実践にある「継承」の意味を探求している。

 2023年から約1年半、福島県いわき市を拠点に、原発事故を経験した人々が、「事故を知らない人々」にどのように被害を伝えているかを、参与観察を通じて調査した。いわき市は避難指示区域ではなく空間線量も比較的低い地域にあたる。それでも事故直後の被ばく状況は十分に共有されず、住民自身が自らのリスクを把握できないまま生活を続けている。

写真2: 公園の放射線量測定に同行した。子どもが遊んでいる隣で測定をおこなうという、非日常が現在も続いている。

 私がとくに注目したのは、母親たちを中心に活動する市民グループだ。彼女たちは公園や保育所の土壌・空間線量を自主測定し、行政の調査では見落とされがちな汚染を可視化してきた。また、測定結果をもとにした茶話会を継続し、事故を知らない住民に日常の延長線上で情報を共有している。

 私が参加した茶話会では、事故後にいわき市に転入した女性たちが集まっていた。彼女たちは事故の存在は知っていても、具体的な汚染状況を知る情報にはあまり触れていない様子だ。茶話会では、「原発」や「放射能」といった言葉をあえて前面に出さず、海洋プラスチックごみなど身近な環境問題から話題を広げ、主催者が自然な流れで「海を守るには原発の問題を考える必要があるよね」と話をつなげた。

 そこにはデモや抗議とは異なる「伝え方」の工夫が見られた。原発事故を「過去の出来事」として現在と切り離して語ることで、人々の関心事にフィットしないことは度々ある。しかし、話題を他の社会問題と結びつけて語ることによって、聴き手の関心を広げる可能性が生まれている。こうした原発事故の「語り直し」は、事故を経験した人々から生まれている実践である。事故の被害や影響を、過去の出来事として固定化せず、現在との連続性のなかでとらえ直す新たな視点といえるだろう。

 復興事業が加速する一方で、人々が自らの経験を語る言葉は時間をかけて紡がれてきた。国や地域といった大きな枠組みだけでなく、個々人の証言や表現の積み重ねが、事故の伝え方そのものを変えつつある。私自身もじっくりと時間を重ねながら、人々の記憶の伝え方の変化を記録し、事故を語るための言葉にこれからも向き合っていこうと思う。

坂本唯(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

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