植民地主義の時代を越えて――引揚げ少年少女たちの戦後文学

掲載日: 2014年11月01日English

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国際シンポジウム:《敗戦/引揚げ/性暴力》『竹林はるか遠く』ブームを問い直すでの報告

今年(2014年)10月で、立命館大学で長らく教鞭をとられ、その間に私の博士課程の指導教員も務めてくださった西川長夫先生が逝去なさってから、一年が経ちます。先生が病床から最後に送り出したのは、『植民地主義の時代を生きて』(平凡社、2013年)というタイトルの、半世紀にわたるご自身の研究が総まとめされたかのような大部の論集でした。こうして先生は、79年のご自身の生涯を、痛恨の思いをこめて一言で「植民地主義の時代」と要約なさったのでした。私は、先生の植民地主義研究(国民国家論、「文明」イデオロギー批判など)に学びながら、自分の「研究の現場」に入っていきました。

もともと私は、近代日本の精神史の根底を流れる西洋コンプレックスとそれと対を成す激しいアジア嫌悪の生成過程と構造に関心を抱き、人文学研究の世界に足を踏み入れました。近代日本の「西高東低型」世界認識は、日本が死命を賭けて取り組んだ国民国家と西洋式「文明」の建設事業になかば不可避的に付随する一種の副産物だといえます(西川長夫『国境の越え方――国民国家論序説』平凡社ライブラリー、2001年)。

研究を続ける中で、私の関心は、植民者二世の戦後日本文学に収斂していきました。大日本帝国の敗戦時、海外の領土や戦場には700万人もの日本人がいました(そのうちのおおよそ半分が軍人・軍属、もう半分が民間人でした)。彼らは戦後日本で「引揚者」と呼ばれ、多くが貧困と排除の中で苦しい生活を余儀なくされました。その一人であった作家の五木寛之が、植民地の日本人が置かれた歴史的位置は、「貧しいゆえに外地へはみ出し、その土地で今度は他民族に対して支配階級の立場に立つという、異様な二重構造」をしていた、と振り返っています(『深夜の自画像』文春文庫、1975年、38頁)。宗主国と植民地の境界に生じたこの「異様な二重構造」は、ある意味で、帝国主義の時代に日本が置かれた世界史的状況の縮図でした。

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小林勝の中学時代の日記の1ページ

私は、彼ら引揚者(植民者)こそが、「文明」と「野蛮」、あるいは「一等国」と「四等国」という対極的幻想の中をさまよい、「西洋」と「アジア」の狭間で引き裂かれた近代日本の精神史的な矛盾と苦悩を集約した歴史存在だった、という考えを持つようになりました。そうして、確かに少なくない数の引揚者たち、とりわけ引揚げ少年少女たちが、長じて文学者となり、自らの生の根源と不可分に絡み合う植民地主義の歴史と真摯に向き合おうとしていたことが明らかになっていきました。私は朝鮮半島に特に興味を持っていたので、博士課程では、近代日本精神史における最大の難題の一つである「朝鮮」と真向から対峙し、自己と日本人の魂の脱植民地化を目指した引揚者作家小林勝(1927-1971)の研究に集中することにしました。現在は、彼以外の引揚者作家や在日朝鮮人作家など、戦後日本で植民地主義の問題と切り結んだ文学者たちの比較文学的研究へと視野を広げようとしているところです。

ところで、西川先生は、最後の論集『植民地主義の時代を生きて』を公刊なさった後も、様々な構想を抱き、次なる著作の執筆を始めておられました。惜しくもそれがまとまった形を成すことはついにありませんでしたが、どうも「ある引揚少年の回想」という副題を添えた戦後史論を温めておられたようです。思えば、植民地朝鮮でお生まれになり、敗戦を満洲で迎えられた先生ご自身が、北部朝鮮で死線をさまよい、敗戦後の焼跡で栄養失調にかかった一人の引揚げ少年でした。先生は晩年、植民地での暮らしと引揚げの体験は自らの人生の原風景であり研究の原点だった、と打ち明けておられました。その西川先生から学び、「研究の現場」に入っていった私(たち)が、その遺志を受けて何かしらの書物を書き継ぐとすれば、それは「植民地主義の時代を越えて」という展望を含むものであるべきでしょう。

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