人は表現するために生きる ―マダン劇の現場から―

掲載日: 2014年10月01日English

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マダン劇「土地プリ」@京大西部講堂(1990年)

生存学の言葉を借りれば、「生きて存るを表現する」現場、それが私の研究のフィールドです。1960年代後半から70年代にかけて、朝鮮半島の伝統的な仮面劇の要素を取り入れた「マダン劇」という新しい芝居形態が韓国で生まれました。1980年代半ば、京都でもマダン劇を上演しようと、在日韓国朝鮮人と日本人の若者たちが集まりました。彼らは表現活動をする場を、「在日にとっては奪われた民族と人間性を取り戻す場所として、日本人にとっては、日本社会の抑圧から自らを解放する場所として」(ハンマダン結成の呼びかけ文)位置づけ、そこから在日韓国朝鮮人と日本人の「共生」を模索していきます。彼らが活動の拠点とした東九条地域では、自己解放や共生を理念とする「東九条マダン」という祭りが開催され、新たな表現を生みだしています。こうした現象に着目し、人間の「生」と「表現すること」との関係を解明することが私の研究のテーマです。

「マダン(原語)」とは、庭や広場を表す言葉です。マダン劇とは、芝居のための舞台や装置がない、観客が周囲を取り囲んだ直径10メートルほどの円形空間の中で、楽士・演者・観客とが即興も交えてつくり上げる芝居で、それは「何もない」時空間を流転する生成変化の場といえます。マダン劇で演じられてきた表現とは、モノとして残らず実体として固定されない、その場に居合わせた人たちの純粋な意思の構成であり、意思で構成された宇宙とも捉えられます。

こうしたマダン劇と、マダン劇が生みだされる東九条という地域との関係もまた、私の研究の対象です。東九条は京都で最大の在日韓国朝鮮人の居住地域で、戦前戦後を通じて多くの在日韓国朝鮮人や生活困窮者を包摂した地域です。かつて多重多層の差別構造を有した一方、独特の生活文化が息づいています。例えば、朝鮮半島で추석(秋夕)と呼ばれる陰暦の中秋節の朝、今でも東九条の道端には、先祖を祀る제사(祭祀)の供え物が置かれていたりします(※1)。ガードレール脇に置かれた、ゴミと間違われそうな供え物ですが、しっかりと天に向けられ、この世界と天とをつなぐ小宇宙を形成しているその光景に、私は東九条で創造される表現の豊かさの一因を感じています。

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和太鼓&サムルノリ

私のこれまでの研究は、東九条地域の表現活動に、どれだけたくさんの人間の「生」が存在し、それらが作用・反作用しあっていたのかを記すことであり、今もその途上にいます。社会に出て働き、学校に通い、仕事や人間関係、家族関係に悩み、躓く市井の人たちが芝居や祭りをつくる過程は、自らのルーツや生き方に悩み、仕事や家庭、子育てに追われながら必死で生きる「生」そのものを表現していく作業です。このことは「生」の営みの中に、表現する行為が含まれているのと同じように、表現をすることこそが人間の生きる目的、人間の根源的な姿なのではないかという新たな問いを私に与え、この問いを論証することが、今後の私の研究です。

そうしたことを意識して、私は今年の東九条マダンでのマダン劇をつくりました。鳳山仮面劇の中の「ミヤルハルミ(ミヤルばあさん)」という表現を用い、一人の人間が生きてきた事実は誰も消せないという意思を反映させました。芝居の中の手振りやしぐさ、踊りのリズムに、東九条の生活文化や、表現を繋いだ人たちの意思が息づいています。みなさん、11月2日に開催される東九条マダンにぜひ来て下さい(http://www.h-madang.com/)。

1)祭祀の終わりには、少しずつちぎった供え物を家の前などに撒くことになっている

梁説

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