「新しい死生の術」としての意思決定――生/死、あるいは自己の作品化をめぐって
わたしは「人生の最終段階(終末期)」における意思決定、生/死をめぐる意思決定に関する倫理がどのように展開されてきたのか、どのように構成されているのかについて研究しています。2024年8月には、博士論文をもとにした『生/死をめぐる意思決定の倫理――自己への配慮、あるいは自己に向けた自己の作品化のために』(晃洋書房)を刊行しました(https://www.koyoshobo.co.jp/book/b650479.html)。本書は、「人生の最終段階」における医療・ケアに関する理論的枠組みを検討することを通じて、〈生/死をめぐる意思決定の倫理〉を批判的に再構成することを目指したものです。
現代の医療やケアに係る意思決定は、医療者と患者の二者関係のみで成立させるよりも、家族等の関係者も含めて共同(協同)して行われる共同意思決定が、より「善い」かたちとして推進され、現場だけでなく社会的にも受容されつつあります。各種ガイドラインなどに目を向けてみても、「もしものとき」を見据えた意思の共有や意思決定を繰り返し行うプロセスである「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」や共同意思決定の重要性が全面的に押し出されています。加えて、そこでの家族等の存在はいわば自明の前提とされていることが少なくありません。
家族等とは、法的なつながりや血縁関係に基づく伝統的・法的家族にとどまらず、本人が大切に思っているひとであったり、本人の価値観・人生観や意向をよく理解している関係にあるひとであったりと、その範囲は拡張されてきました。ガイドライン等においても、「善い」関係性に基づく家族等が共同意思決定や本人意思の推定などを担う重要な役割・位置にあるものとして期待されているわけですが、はたして本当に/実際にそのように機能しているのかという疑義もまた払拭できないようにも思われます。
これまでの生命・医療倫理の研究では、家族等に期待されているのは本人が意思表示/意思決定できない場合の「代弁者・代諾者」としての役割にとどまることがほとんどでした。言い換えるならば、本人が意思表示/意思決定できる場合には、家族等にはとりたてて意味のある役割が見出されてこなかったのです。関係性であるとか、家族等の役割であるとか、そういったものを前景化するのであれば、こうした先行研究とは別の仕方で家族等の役割・位置を問い直す必要があります。当然、家族等の存在が自明視されていることにも疑いの目を向けることが求められます。あるいはまた、われわれが生/死をめぐって意思決定するということは、たんに医療やケアの方針を定めるためだけに行われているのか、ということも問われなければならないはずです。
以上のような問題に取り組んだ拙著では、家族等の役割・位置(そしてその存在)、生/死をめぐる意思決定の倫理や論理自体を徹底的に疑って再構成することを試みています。家族等や「善い」関係性を踏まえて/関係性のなかで意思決定を行うことは、本人が自己自身を見つめ直すことや「人生の物語り」を再構成することにきわめて大きな意味をもつことであるというのは、これまでにも不十分ながら語られてきたことです。そのことよりも重要なのは、生/死をめぐる意思決定を通じて、われわれ一人ひとりが自己自身に向けて自らの生あるいは「人生の物語り」を作品化し、再構成しているということ、そしてそれは自己と他者との自他関係においてこそ成し得るということです。もちろん、この「他者」は眼前のだれかだけでなく、自己の中に展開される自他関係における「他者」でもあり得るため、この意味で家族等の存在を自明視せずとも〈生/死をめぐる意思決定の倫理〉は成立すると言い得るでしょう。
「死の社会学」の第一人者であるトニー・ウォルターの言葉を借りるなら、現代の生/死をめぐる意思決定は「新しい死生の術」として成熟しつつあると言えます。しかしその内実はいまなお哲学的・倫理学(あるいは死生学)的に吟味され続けており、それは研究者や専門家のみが考えればよいというわけではないとわたしは思っています。死すべき定めにあるわれわれ一人ひとりが自らの生を見つめ、他者と生きる自己自身を考え続けることこそ、新しい「生の技法」の在り方を追い求めることであると、自戒を込めて宣言しておきたいと思います。
秋葉 峻介
(山梨大学大学院総合研究部医学域講師/立命館大学生存学研究所客員協力研究員)