「暴力ガードマン」と労働運動
――「労働立法」としての警備業法――
私は、交通誘導警備において、24~36時間の連続勤務が常態化している労働実態をテーマとした修士論文を提出しました。もともと提出後には、どこかの企業へ就職する気でいました。修士論文執筆時、警備業法の国会審議を記録した会議録を紐解くうちに、「労働争議」「暴力ガードマン」「右翼」との単語をたびたび目にするなかで、「これは、なにかあるぞ!」と思い、交通誘導警備の労働実態とは別のテーマの存在を確信しました。そして、2015年の修士論文発表後に、私は警備業法の成立過程について研究すべく後期博士課程への進学を決意してしまいます。
2017年3月に私は、東京都町田市にある法政大学大原社会問題研究所などにおいて、一次資料を集めていました。この時は、とても楽しかったことは今でも忘れられません。先行研究に記されていない事実に真っ先にふれたことにより、「論文書き」としてのテンションが最高潮に達した至福のひと時だからです。このような心持ちのなか、資料を撮影する数日間を過ごしました。
さて、この時に収集した一次資料を紐解くと、ウソのような話が浮かび上がってきました。当該企業の労働争議の初期段階では、管理職などが労働組合員に対して暴力をふるっていました。その後、1969年に特別防衛保障という労組潰しを専門とする警備会社が発足します。それからは、管理職に代わり警備員が労働争議へ介入して労働組合員へと暴力をふるいはじめたのです。つまり、当時の経営側が、警備会社へと「暴力のアウトソーシング」を していたことがわかったのです。
では、特別防衛保障の社長は、どのような人物だったのか。調査の結果わかったのは、これまた驚くような話でした。社長の飯嶋勇は戦前の大陸浪人であり、後に日本陸軍の士官になっています。そして、彼の思想上の師匠である三上卓は、5.15事件の実行犯の一人でした。つまり、特別防衛保障の社長は、筋金入りで武闘派の極右活動家だったのです。ただ、一次資料を読み進めていくと、飯嶋の背景が見えてきました。終戦後に陸軍士官としての地位を喪った飯嶋は、極貧にあえぎました。そのようななか部下や友人を食わせるために、様々な事業を興していったのでした。
一方、特別防衛保障による暴力は、当時の労働組合にとって団体交渉などを行う際の大きな問題でした。「乱闘服」を着た警備員がいるおかげで、団体交渉などの諸活動が困難となり、なんとか策を講じようとします。警備員による暴力の矢面に立っていた全国金属労働組合は、上部団体の日本労働組合総評議会(以下、総評)へ、警備会社を取り締まるための法規制を訴えます。当時の総評は国鉄労組も傘下におり、当時の国鉄労組はその気になれば、全国の鉄道を止めることも辞さなかったため、今からは想像もつかないくらい強力な圧力団体でした。加えて総評は、日本社会党の大票田でもありました。
このような背景のもと、1972年の第68回国会において警備業法案は審議され成立し、同年11月1日に施行されました。つまり、警備業法は、警備会社の暴力から、労働組合による活動を護るための「労働立法」の色合いが濃い法律だったのです。
このようにして「警備業の労働実態を明らかにする」とのテーマで始まった私の研究は、「労働組合や社会運動団体等の活動の自由を、如何にして守るのか」との別のテーマにつながり、現在に至っています。この文章の読者の方で、「更に一次資料を読みたい」「修論で得た知見を深掘りしたい」との欲求を持たれた方々は、後期課程への編入学をおすすめします。そのような欲求をかなえることにより、社会へと知的基盤を提供するのが、大学院の役目のひとつだと思っています。
いま私は、2024年初頭において実施した、参与観察の結果をまとめています。このような研究活動を通じて「雇用とは何か」「労働とは何か」との議論へ、何らかの貢献ができれば幸いです。
岩﨑 弘泰(立命館大学先端総合学術研究科 院生)
参考リンク 「東京争議団物語」、そしてその後‼