「権利だからどうぞ」で済ませられない話——知的障害者と投票
博士論文をもとにした「知的障害者と『わかりやすい選挙』——新しい権利保障としての『狛江モデル』構築の軌跡」という書籍を出版しました。これは東京都狛江市で続けられてきた知的障害者向け投票支援の先進的な取り組みをまとめ、権利保障の観点から検討を加えたものです。
2013年に成年被後見人の選挙権が回復し、重い知的障害があって成年後見人が付いている人も投票できるようになりました。このことは重要な変化でした。ただ、「これをもってすべて解決」、「権利があるから投票したい人はしましょう」では済ませられない問題がそこにはあります。狛江で取り組みを主導してきた人たちはそのような意識で、さまざまな投票支援を充実させてきました。書籍では取り組みの試行錯誤を記述しました。
狛江の取り組みを記録にしっかり詳しく残すこと。そのことを僕は大事にしました。一般論としても「先進的な取り組み」が最初から多くの人々の揺るぎない支持を得て順調に進むわけでは決してないでしょう。公文書や報道からは見えてこない「実態」もあります。狛江の例もご多分に漏れません。うまくいかなかったこと、関係者が語る反省点、取り組みに対する否定的見解も書籍に書き残しました。これから投票支援に着手しようという他の自治体や団体にとっては、美談ではないことも、あるいは美談ではないことこそ価値ある参考情報になるはずだと信じています。
ところで、知的障害者の投票を考える際、能力の問題を避けて通るわけにはいきません。投票というものを狭く考えても、立候補者の中から誰かを選び、投票用紙にその人の名前を書き、投票用紙を投票箱に投函するという「能力」が必要です。投票に求められる能力をもっと広く捉えるなら、社会・政治問題を幅広く把握したうえで、各立候補者の公約を理解・比較し、自分(あるいは地域・日本の将来?)にとって最も望ましい立候補者を選ぶことも投票に際して必要とみなされるでしょう。法学、政治哲学、主権者教育など学問分野によって、「政治的判断能力」として想定している能力にも違いがあるようです。
僕たちの社会においては、能力がある・ない、できる人・できない人、すごい人・すごくない人という線引きを悪気もなく、あまり深い考えのないままやってしまいがちです。このたび出版した書籍では、投票できる人とできない人、投票にふさわしい人とふさわしくない人という線引きをしてしまうのはとても危険な発想ではないか、ということを言おうとしています。加えて、僕がもうひとつ強調したいのは、「あいつは難しいことを理解できないから、投票なんて無理だよ」と言われるような人たちが投票に参加することで、社会になにか大きくて深刻な問題を招き得るか、そして、社会が悪くなるか、いや、そんなことはないのではないかということです。僕たちの生きる社会は雑多であり、それを認めるのが民主主義の本来の姿です。狛江市の市役所幹部も聴き取りに対してそのように語り、重度知的障害者の投票参加を強く肯定しています。僕もそのような考え方を支持したいと思います。それに対して、「いやいや、投票ってそんなもんじゃないんだよ。政治参加ってもっと深いものなんだよ」という反論もあるかもしれません。そのような反論をどのように乗り越えられるか。そのあたりの検討をこれからじっくり深めていきたいと思っています。
堀川諭(立命館大学生存学研究所客員研究員/京都産業大学外国語学部准教授)