文学作品を通じた複数言語世界の追体験

掲載日: 2012年08月01日English

外国の文学を研究する上で、その作家が何語で書いたのかは言うまでもなく、その作家の周囲で何語が語られていたのかということも重要になります。私が研究しているブルーノ・シュルツのような、ユダヤ系ポーランド語作家の場合、特にそうです。

シュルツは1892年にドロホーブィチという街に生まれました。ドロホーブィチは、18世紀末に隣接する列強諸国によってポーランドが分割統治された際、オーストリア・ハプスブルク帝国が併合したガリツィアと呼ばれる地域(現在のウクライナ西部)に位置し、ポーランド人とウクライナ人が住民の大多数を占め、その上にオーストリアが君臨するという複数文化地域でした。シュルツ家は社会の上層部に位置した、ポーランドに同化したユダヤ人一家でした。

シュルツが小説を書き始めるのは第一次世界大戦後のことで、ハプスブルク帝国が解体し、街がポーランド領に再統合されてからです。1930年代に『肉桂色の店』と『砂時計サナトリウム』というタイトルを持つ二冊の短編集をポーランド語で発表しました。やがて第二次世界大戦が勃発すると、ドロホーブィチはナチス統治下に置かれ、1942年にシュルツはゲットーの路上で射殺され、その短い生涯を閉じます。

シュルツはもっぱらポーランド語で小説を書きましたが、もともとオーストリア市民であった彼は、学校でドイツ語の教育を受け、トーマス・マンやリルケを敬愛し、常にドイツ語文壇への進出を画策していました。彼の作品に、主人公の父親がゴキブリに変身するー短編小説がありますが、ここには明らかにカフカからの影響が読みとれます。シュルツはカフカの愛読者であっただけでなく、『審判』のポーランド語訳(1936年)の刊行にも携わっています。

当時の東欧では、シュルツと同様に多くの作家がバイリンガル、あるいはマルチリンガルでした。このような複数言語使用は、20世紀初頭の東欧で多くの民族が独立を獲得し、ポーランド語やチェコ語が国語として昇格するなかで、母国語を持つことのなかったユダヤ人やウクライナ人のような周縁のマイノリティー作家に広く見られました。彼らにとって複数言語使用は、必ずしも自由な発話主体として選び取られたものではなく、ともすればそれは母国語話者に比べて言語的未熟さの証しにもなりました。単一言語使用に不自由することのない日本にいて、私たちは、つい複数言語使用者を羨ましく思いがちですが、バイリンガル状況の不自由さに、もっと注意する必要があるでしょう。

けれども複数言語が混在した東欧の状況を、豊かな表現の可能性に満ちたものとして肯定的に捉えなおした作家が存在しました。例えば、カフカは弱小国家の言語でしかなかったチェコ語や、国語ですらなかったイディッシュ語のような、いわばマイナー言語に、逆にドイツ語やフランス語のようなメジャー言語にはできない、より自由な表現の可能性を見ていたことが知られています。カフカはあくまでドイツ語で書きましたが、カフカの周囲に遍在していた複数言語の木霊を、彼の作品に読みとる必要があるでしょう。

同様のことは、シュルツと親交があったユダヤ系ポーランド語詩人ユリアン・トゥーヴィムや、シュルツの恋人であったユダヤ系詩人デボラ・フォーゲルにも言えます。トゥーヴィムはエスペラント語に強い関心を示し、エスペラント語やロシア語、ロマ語など、周囲の複数言語をポーランド語の中に貪欲に取り込みながら、普遍言語の可能性を模索する実験的な詩を数多く書きました。フォーゲルは、離散ユダヤ人の言語としてのイディッシュ語を現代の英語が体現しているようなグローバルな文学言語として積極的に利用し、イディッシュ語とポーランド語の二言語で詩を書きながら、普遍性に開かれた新たなユダヤ文学の可能性を追求しました。

しばしば小説は芸術作品であって、歴史ではないと言われます。しかし、作品がある歴史的条件のもとで生まれているということも事実です。シュルツの小説を歴史的に読むということは、カフカやトゥーヴィム、フォーゲルと同時代の東欧の複数言語状況に作品を置きなおすことを意味します。シュルツは今でこそポーランドを代表する作家とみなされていますが、それを改めて批判的に問い直す必要があるのです。

「小鳥たちの紛らわしいお喋り、その尖った副詞や前置詞を、そのおずおずした再帰代名詞を取り除かなければならない、そうすることで徐々に健全な意味の種が形成されてゆく。切手帳は、この点で私には、とっておきの道しるべとなるのだ」

主人公ユーゼフ少年が友人の切手帳を目にすることから繰り広げられる政治革命劇を描いた長編小説『春』の一節ですが、ここではシュルツはある種の「普遍言語」の夢を語っていると読むことができます。

シュルツは小説家であると同時に、ギムナジウムの美術教師でもあり、1920年に『偶像賛美の書』という版画集を自費出版していたアマチュアの画家でもありました。シュルツが新たなエクリチュールの可能性を、ホンジュラスやニカラグアなど世界各国の国旗がカラフルにひしめく切手帳に見出したのは、画家でもあったがゆえの、彼の独自性だと言えるでしょう。シュルツは自分の小説に自ら挿絵をつけ、絶えず作品の視覚性を重視していました。

(写真1、2)「春」の挿絵より。

(写真3)「春の祝祭」(『偶像賛美の書』所収)。

ただし、言葉の垣根を越えて直接的に訴えかけることのできる絵画と違って、言語芸術における普遍性の追求は、気の遠くなるほどの努力が必要です。『春』は最終的に、主人公が不遜な夢を見た廉で憲兵に逮捕されて幕を閉じます。彼が切手帳に見出した「普遍言語」は、結局のところ実現不可能な夢物語に過ぎなかったということでしょうか。ホロコースト以後の歴史を知っている私たちは、ありえたかもしれない別の歴史を想像するための材料として、シュルツの小説を反省的に読みなおす必要があります。その際、間違っても彼の作品を単一のナショナリティやエスニシティに回収するような読み方をしてはならないでしょう。

カフカやトゥーヴィムやフォーゲルといったポーランド内外の作家たちを周囲に配し、比較することで、シュルツがその創作活動を通じて、何をどこまで成し得たのかを明らかにすることが私の研究です。いわゆるグローバル化が複数言語へのアクセスをより容易にすると同時に、しかし言語ナショナリズムの台頭を招いている昨今の諸問題を考える上で、たとえ半世紀以上の過去であっても、同じく複数言語状況のままならなさを生きながら、自由な言語表現を目指した作家たちに、私たちは今でも学ぶことが多いのではないかと考えています。

田中壮泰

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