ただの〈延命〉ですが、それが何か?

掲載日: 2023年04月01日

写真1 筆者の提出した博士論文。2023年からはデータでの提出となったため、紙媒体で提出した最後の世代となった。

私は、「終末期」の医療・看護と制度などについて研究をしており、2022年10月に『〈延命〉の倫理――医療と看護における』という題の博士論文を提出しました。以下では、どのような論文なのかイメージしていただけるよう、いくつかの論点を示したいと思います。

第一に、〈延命〉という言葉の意味にかかわることです。現代の〈延命〉という言葉には、暗に否定的な意味が込められているように思われます。たとえば、「意識がないのに延命されている」、あるいは「コミュニケーションができないのに延命措置がとられる」、または「寝たきりなのにむやみに延命されている」という風な言い方がされることがあります。つまり、生きるうえで重要だと思われている価値(たとえば、よい「生命の質」や「人格」「尊厳」とみなされるもの)が失われた状態で生きることを「ただ生きているだけ」とみなすような思想や考え方によって、〈延命〉という言葉に否定的な意味が込められるようになっているのです。

これをふまえて第二の論点としてあげたいのは、医療をめぐる意思決定に関することです。現代では、医療はそれを受ける本人の同意や選択によってはじめて正当化されるという考えが主流になっています。その考えは、医療を受ける権利にかんする歴史のなかで生じてきました。一方で、その考えが権威を得て制度化され、そうするものだと広く受け止められていくようになると、たとえ生きるための医療としての〈延命〉であっても、必ずしも「正しいとはいえない場合」があるのではないか、それは問題だ、と言う人たちが出てきます。その際には、本人の意思に反して〈延命〉されることは問題だ、と言っていたはずなのに、いつのまにかその「正しいとはいえない場合」に限定されることなく広く別の問題も共有されていくことがあります。たとえば、「終末期」の医療処置の効果や予後は、本来、医学的な問題なので、患者の同意や選択とは別の問題であるはずです。しかし、医療の無益性が本人の同意や選択の問題であるかのように語られることもあります。そうして、意思を表明するためのコミュニケーションができないとみなされる人は、その人が過去に同意や選択が可能であったならそれを採用できるようにすれば本人の意思に反して「無益な」〈延命〉をされることはないはずだ、という理屈で、元気なうちに周囲の人と話し合っておきましょう、などと推奨されるわけです(厚生労働省が提唱するいわゆる「人生会議」「ACP(Advance Care Planning)」がこれにあたります)。加えて、あとにもさきにも同意という言葉の意味すらわからない、あるいはわからないとされる人についても、「最善の利益」という考えを用いることで、本人の意思に反して〈延命〉されることを防げるだろう、とみなされます。本人の意思がわからないにもかかわらずです。いずれも、生きるための医療ではなく、本人の意思に反して〈延命〉されることを防ぐという名目で、考えられた方策です。医療は、わたしたちが生き延びるために必要なものであったはずなのに、それを止めるための方法がさかんに議論される状況は、あらためて考えると異様なことです。それは次に述べるように、医学(科学)に対する批判が影響しているとみることができます。

第三に、医学に対する批判と、応答としての看護という考え方についてです。もし〈延命〉が良くないことだとすると、〈延命〉をもたらす医療は悪い医療なのでしょうか。実際、そのように考える人もいるようです。また、〈延命〉をもたらす悪い医療は、「生物医学」によって行われるものとみなされます。ここでいう「生物医学」とは、病気について生物学の概念と理論を用いて説明しようとする近代医学が批判的に名指されるときの呼び名です。つまり、〈延命〉が無益なだけでなく有害だとみなされるときには、それをもたらす医学が科学主義(科学万能主義)・要素還元主義(複雑な現象を過度に単純に説明する傾向)的だと批判されます。このような医学を〈延命〉をもたらす悪玉とみなせば、死を肯定的な結果とみなす(いわゆる「尊厳死」をすすめる)立場が善いものとして浮かび上がってくるのではないでしょうか。科学に支配されないことが「自然」や「尊厳」だとみなされ、「死」ということが一面的に善きものとして強調されるわけです。すると、「生物医学」に対抗するものとして、病に苦しむ人の「価値観」や人生の「物語」に「寄り添う」看護という職種は天使だとみなされるかもしれません。このような理屈で、看護は悪玉「生物医学」に対抗し、生きるうえで重要だと思われている価値を悪しき〈延命〉から守ることができる善玉になれると、近年、多くの看護師たちが信じているようにみえます。もしこの傾向が広く受け入れられるならば、〈延命〉を行う医療に対して、患者に寄り添い「死」を尊重する、もっと言えば結果的に「死」を勧める役割を看護が担うことすら「倫理的」であるとされるのかもしれません。これは不穏な事態だと思います。

写真2 学内演習で「導尿」のデモンストレーションをする筆者。

私は普段、看護学部の基礎看護学という領域で仕事をしています。主に学部1年生の講義や学内演習、実習をすることが多いです。白衣の天使を夢見て入学してきた学生たちのほとんどは、泣けるほど無垢です。はじめての病院実習では、知識の面でも技術の面でもあまりに未熟なので、実際に患者の役に立つことは何一つできません。しかし、学生たちは無理矢理にでも患者のそばに行き、すこしでも患者の助けになれることを必死で探します。そして、たどたどしく患者の熱を測ったり、脈をとったり、足を洗ったりします。そうするように看護教育が仕向けているという面もありますが、それを差し引いても、私は、学生たちのそのような必死さを尊敬しています。必死になるということは、自分の無力を知っているからで、そのような謙虚さがあってはじめて身体への程よい接近が可能になる気がするからです。

患者に「寄り添う」とはどのようなことなのでしょうか。「生物医学」への批判は、患者を科学的にとらえることの限界を指摘し、より広く全体をとらえて「寄り添う」ための議論であったと理解することができます。しかし、いつの間にかその価値観が当たり前になり、そのなかで「死」が善きものとして強調されると、むしろ今生きている患者に対しての見方が限定的になってしまうように思います。今まさに生きている人の身体に「寄り添う」ところから始める必要があると思っています。

柏﨑郁子(立命館大学大学院先端総合学術研究科修了生/東京女子医科大学看護学部助教)

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