日本人がアルゼンチン人になるまで
〈日系人〉カテゴリーの生成と動態に関する人類学的研究──それが私の研究テーマです。障老病異について研究する「生存学」でいうと異(ことなり)にあたります。今回はアルゼンチンにおける日系人社会に焦点をあててお話したいと思います。
2011年3月18日、東日本大震災からわずか1週間後、アルゼンチンの日系社会の有志が首都ブエノスアイレスの中心にある共和国広場に集まり、震災、津波、原発事故に見舞われた日本にエールを送るためのメッセージビデオを制作しました。呼びかけ人によれば、募金や救援物資はすぐには届かない、先に気持ちだけでも送って励ましたい、と思い立ったそうです(後に他の日系団体もこのような活動をしており、募金も集められています)。
アルゼンチンはヨーロッパからの移民によって作られていった国で、今でも白人が人口の大多数を占めています。そのアルゼンチンにも日本人移民とその子孫=日系人が数万人暮らしているということは、日本ではそれほど知られていないでしょう。一方アルゼンチン社会でも、一部の地域を除いて、日系人はマイノリティのなかで存在感があるとは言えません。ブラジルの日系人のように数が多いわけでもなく(人口比にするとアルゼンチン全体の0.1%未満)、ペルーのように大統領が出たわけでもないので、当然かもしれません。
とはいえこの状況は少しずつ変わりつつあります。その背景にあるのは、まず、現地社会(とくにブエノスアイレス)のなかで日本や日本的なものが以前より身近なものになっているということです。剣道、柔道、生け花、書道、茶道、太鼓など、80年代ごろから注目され始めたいわゆる日本の伝統文化が根強く関心を集め、「日本のもの」として次第に定着してきたのみならず、アニメ、テレビドラマ、J-popなどの人気も高まり続けていることです。
もう一つの要因は日系社会そのものの変化です。20世紀初頭から今日までアルゼンチンの日本人は、日本人会や県人会などをつくって活動してきましたが、多くは日本人のための互助を目的としたもので、そこには日本人しかおらず、日本語のみを使用するのが普通でした。アルゼンチン社会のなかにもう一つ別に日本人社会があるようなものだったでしょう。しかし戦後しばらくして、日本語を使えない人が増えていくに従って、日本とアルゼンチンという二つの世界の両立に無理を感じ、その狭間で悩む世代が現れます。日本人社会がアルゼンチン社会に溶け込みつつあった最初の兆候ではないでしょうか。「ニッケイnikkei」という自称が定着するのは、この世代が中心になった1960年代から80年代ごろにあたります。
こういった状況の変化の影響を受けて、かつて日本人のためでしかなかった日系社会の行事も、最近では一般のアルゼンチン人向けに開かれるようになっており、「日系社会」を取り囲む壁が低くなっているように思います。10月の祭り(Matsuri)や、1月の盆踊り(Bon-Odori)といった日本的な年中行事、各地の日本人会が毎年開くバザーは、地域によってはヨーロッパ系アルゼンチン人(現地の日系人は「ガイジン」と呼びます)のあいだでも有名になっており、日本的なものに触れる機会を求めるガイジンの来場者のほうが多いくらいです。
はじめに紹介した、震災後の日本を応援する動きも、実際には日系人だけのものではありませんでした。その映像に映された広場に集まった人々の様子は、私が持っていた「日系人のイベント」のイメージと違っていたのです。日本語を学ぶ生徒や日系人の親戚、友人がいる人、そしておそらくそういった関係のない人も含めてふつうのアルゼンチン人も巻き込んだ集まりだったのだろう、日系人とそうでない人の区別はそこではほとんど意味がなかったのだろう、そう思わせるものでした。こうした現在の日系社会は、これまでのどんな人々の経験の上に成り立っているのか。そう問うたとき、「二つの世界」に悩んだ一世代前の人たちの時代が日系社会の歴史のひとつの段階として大きな意味があるのではないかと私は考えています。