死刑執行を思考する

掲載日: 2011年05月27日English

「殺したくないし、殺されたくないし、殺させられたくない」と考えている私にとって、殺せと命令され、それを拒否することができないような現実があることは驚きでした。しかし、それが、死刑執行人の現実なのです。一体なぜこのような現実があるのか。日本では刑務官が死刑執行を担いますが、なぜ法務大臣や裁判官や検察官ではなく刑務官なのか。死刑執行を担う者を決定する社会的条件とはなにか。このような問いから研究をはじめ、その成果をまとめたものとして、『死刑執行人の日本史──歴史社会学からの接近』(青弓社)を2011年1月に刊行しました。

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私の研究が、障老病異について研究する「生存学」とどのような関係にあるのか、疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、「生きて在るを学ぶ」を掲げる「生存学」にとって、生きて在ることを許さない死刑は、その前提を揺さぶる刑罰です。そのことに鑑みれば、私の研究も「生存学」に貢献すると考えています。

拙著では、刑務官が死刑執行を担うとなっているのは偶然の歴史的産物であること、死刑執行人の苦悩にたいして、殺すのがいやならば辞めればよいといった反論がなされますが、死刑執行は刑務官の職務ではないため、そう単純な話ではないこと、死刑執行人の苦悩とは人を殺すことについての真っ当な反応であること、などを明らかにしました。そして、死刑をめぐる議論のなかで、この真っ当な反応についての考察がなされていないことを指摘しました。

拙著はまだまだ未熟な部分が多く、出版直前まで、世に出すべきかどうか迷いましたが、今は出版してよかったと思っています。というのも同じ問題意識をもつ多くの方と巡り合えたからです。その一例を以下にあげます。2011年3月9日〜15日に、「死刑執行人――山田浅右衛門とサンソン」(以下、「死刑執行人」)という演劇が、劇団「世の中と演劇するオフィスプロジェクトM」によって上演されました。「死刑執行人」は、山田浅右衛門とサンソン、そして隠された存在としての刑務官の三者に焦点を当てることで、時間、空間を問わず、死刑執行は、死刑執行される側だけでなく、死刑執行する側をも蝕むのだということを、圧倒的な迫力で描きだした力作です。そのなかで、拙著を引用していただけました。同劇は、拙著とはまったく無関係に制作されていたので――脚本の方の話によれば、脚本の〆切間近に、拙著の原型である博士予備論文(修士論文相当)を発見されたそうです。それは拙著刊行前日のことでした――、同じ時期に、同じような問題を考え、そのことを違う形で世に問うたのは、シンクロニシティという他ありません。私は大学の学部生の頃、演劇団体に所属していたこともあったので、このような素晴らしい演劇に自分の本がわずかながらでも貢献できたことに、感動しました。それと同時に、改めて、死刑執行を思考すること、ならびに研究の発信が重要であることを痛感しました。「死刑執行人」の戯曲は、総合演劇雑誌『テアトロ』(2011年4月号)に掲載されていますので、是非手にとっていただければと思います。

今後は、博士論文執筆にむけて、「犯罪とはされない殺人」=〈殺人〉について、より広範な視点から歴史社会学的に考察していきたいと考えています。

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