1960年代の医薬品がおかれた状況を事例から明らかにする
私は、1950年代から1970年代を中心に、国内の医薬品をめぐる社会的状況および議論について研究しています。私が研究対象とする時代は、高度経済成長期に当たります。同時代に、急速な経済成長による工業化などによって環境破壊が進行し、水俣病などの公害が生じました。さらに、医薬品による健康被害である薬害も、複数顕在化しました。サリドマイド事故やスモンなどです。サリドマイド事故とは、妊娠初期の妊婦が鎮静催眠効果のあるサリドマイド製剤を服用したことによって、胎児に健康被害が生じた薬禍です。サリドマイド製剤に催奇形性があったためでした。スモンとは、整腸剤として服用したキノホルム製剤により、激しい腹痛や下肢の麻痺といった神経症状が引きおこされた薬害です。当時は、医薬品を承認するさいの安全性の検証が、現在と比較して不十分だったのです。この点をはじめ、当時の医薬品がおかれた状況は現在とは異なるものでした。どのように異なっていたのかを事例から検証し、拙著『一九六〇年代のくすり――保健薬、アンプル剤・ドリンク剤、トランキライザー』にまとめました。2018年に、立命館大学大学院先端総合学術研究科に提出した博士学位請求論文をもとにしています。
本書では、さきに述べた点にくわえ、旧厚生省によって医薬品が承認されるさいに、効果などにかんして現在ほど厳密な科学的根拠がもとめられていなかったことや、安全性を軽視し商品化がなされていたことなどを、保健薬、アンプル剤・ドリンク剤、トランキライザーの事例から明らかにしています。保健薬とは、滋養強壮や疲労回復を目的に服用する、医薬品のビタミン剤などを指します。アンプル剤は、現在販売されていませんが、注射液を充填するアンプルにビタミン剤やかぜ薬を入れた内服液でした。ドリンク剤も、滋養強壮や疲労回復に効果がある医薬品として現在も販売されていますが、もとはアンプル剤から派生したものです。トランキライザーとは、市販されていた向精神薬の一種です。これらの医薬品は、高度経済成長期に、製薬企業によって大々的に宣伝されていました。社会の中で広範に普及し、その様はブームになっていると形容された医薬品です。たとえば、向精神薬は現在市販されていませんが、トランキライザーは抗不安薬の一種で、当時は市販もされていました。「ノイローゼ」や不眠などの疾病の治療に使用するのみならず、新聞広告では「不安や心の緊張をとりのぞいて心身を平静にする、バランスを保つ薬」などと宣伝されていました。製薬企業によって、精神の疲労を回復する手段の一つとしても提示されていたのです。身体の疲労回復効果をもつ保健薬がブームとなっていたのとおなじ時期に、トランキライザーは精神のビタミン剤のように、製薬企業によって位置づけられていました。トランキライザーの市販がいかなる経緯で規制されていったのかについても、拙著では検証しています。さらに、保健薬、アンプル剤・ドリンク剤といったほかの事例についても、現在とは異なる効能効果が宣伝されていたことや食品のように商品化されていたことなどについて、新聞・雑誌の記事や広告から検証しています。
現在も薬害は生じています。けれども、現在の薬害と1960年代70年代に顕在化した薬害とでは、医薬品がおかれた状況は異なるのです。現在も当時の医薬品による健康被害に苦しんでいる方がいます。薬害被害者や支援者などによって、被害を伝える薬害教育などの活動もなされています。薬害が発生した背景を理解するために、当時の医薬品がおかれた状況を知ることは必須です。さらに、過去の医薬品にかんする問題についての考察は、現在の医薬品をめぐる問題を検証するさいに、参照できる知見になります。今後の私の研究課題は、引きつづき、1960年代70年代に展開された薬害批判言説および薬害批判運動を検証することです。過去になされた批判や議論の検証も、現在の問題を考えるうえでの知見となるからです。
松枝亜希子
(立命館大学生存学研究所客員協力研究員)