生/死をめぐる意思決定の倫理を考え直す
わたしは医学部で生命・医療倫理や研究倫理に関する教育・マネジメントに携わりながら、生と死をめぐる意思決定に関する倫理について研究しています。いわゆる「人生の最終段階」の医療・ケアに関する意思決定については、アドバンス・ケア・プランニング(Advance Care Planning; ACP)の普及のために厚生労働省により「人生会議」の「愛称」がつけられたこと*1を目や耳にされたことがある方もいるのではないでしょうか。これに関連していうならば、なぜACPの普及が目指され、医療・ケアの現場に積極的に導入されることとなったのか、あるいはその理論的・倫理的な議論がどのようなものであるのか、このような疑問をひとつずつ検討していくということに取り組んでいます。
生と死をめぐる意思決定については、これまでにも病名告知の問題、インフォームド・コンセント(Informed Consent; IC)の法的・倫理的な議論、共同意思決定(Shared Decision Making; SDM)の議論など様々な側面から論じられてきました。こうした議論の出発点としては、パターナリズム的な医療からの脱却、患者自身の自律や価値観を尊重する仕組みへの転換などがあげられています。おおまかな流れとしては、自律や自己決定権に基づくICが登場し、ICの理論的あるいは実践的な限界を補うかたちでアドバンス・ディレクティブやリビング・ウィルなどの事前指示書の類が取り入れられ、さらに患者の意思や希望を家族や医療者が共有することの重要性への注目からSDMやACPが展開されてきた、と整理できるでしょう。
この流れのなかで、わたしがとくに注目しているのが「家族」の存在やその役割です。というのも、先に示したような意思決定に関する議論の流れのなかでは、まず患者の自律や自己決定によって意思決定がなされることが前提されてきました。しかし、これだけではどうもうまくいかない、補完・代替手段が必要だということでSDMやACPが登場してきたわけです。そこでは、患者も医療者もそして社会も、家族に一定の役割を期待し、家族の意向抜きには決定できない場面が少なからず存在するということが見えてきます。そうであるならば、生と死をめぐる意思決定の議論において家族はつねに背景であり要素であり続けてきたはずなのですが、患者の自律や自己決定に焦点を合わせる議論では、なぜ家族が患者の自律を補い得るのか、あるいは代行し得るのかについて整合的に説明できずにきました。そのこと、つまり、患者の自律や自己決定を中心に展開してきた告知、IC や SDM の議論、そしてそれを踏まえた政策や実践において家族はいったいどのように位置し、機能してきたのかを明らかにしなければならないと考えています。
冒頭でも言及したとおり、「人生の最終段階」の議論においては SDM やACPが注目を集め、近年急速に普及しつつあります。しかし、SDM の議論は 1972 年のHastings Center Reportに登場しており、IC の議論と同時期から存在していたことになりますし、精神科医療や障害者の権利擁護の議論では目新しいものではありません。そうであるならば、自律・自己決定の限界だけがSDMやACPが注目された理由だというわけではないのではないか、と仮定することができるでしょう。あるいは、自律から共同(協同)や関係性へという、理念的、社会的な転換をせまる「なにか」が潜在的に影響を与えているのかもしれません。これらを考えるためにわたしが手掛かりにしているのは、ケア倫理やフェミニズムの立場の議論です。ケア倫理やフェミニズムの議論では、関係性や家族はつねに中心的論点とされてきました。そして、それらの立場からの自律概念や家族概念の見直しは生命・医療倫理の議論や動向にも影響を与えてきましたし、現在もそうだと言うことができるでしょう。SDMやACPが共同(協働)して意思決定することや関係性を重視して意思決定をめざすことに目を向けるならば、ケア倫理やフェミニズムの議論と親和的だと言うことができるかもしれません。しかし、ケア倫理やフェミニズムが「人生の最終段階」の意思決定と SDM や ACPとを結びつけて推進してきたかというと、これを完全に首肯することはまだできません。たしかに、ケア倫理やフェミニズムの視座からは、家族の関与が自律的な主体性を侵害せず維持につながるということ、またこれによって相互関係における家族の幸福への配慮の重要性が際立つと理解することも可能です。しかし、そうなると逆説的に、良好な・理想的な関係にない家族ではケアも SDM も ACP も成立し得ないということになるはずです。したがって、ケア倫理やフェミニズムの議論はいかにして意思決定のかたちに、そして生命・医療倫理の議論の趨勢とつながっているのか、ということをより精緻に分析していくことが求められるわけです。
これまでの研究を通じて、これまでの生と死をめぐる意思決定の議論では、理想的な家族の存在が前提された私的領域に立ち返らねば成立し得ないものだ、とわたしは考えています。つまり、医療や生と死をめぐる極限状況においては家族の存在自体と、家族が患者の自律的な意思決定を支援・ケアすることが前提された「倫理」がそこにある、ということです。今後はこの構図を批判的に検討していくことで、生と死をめぐる意思決定の倫理をあらためて組み立て直すことを目指して研究を展開していこうと考えています。
秋葉峻介(山梨大学医学部総合医科学センター特任講師/立命館大学先端総合学術研究科院生)
*1 2018年、厚生労働省が「ACP」の「愛称」を全国的に募集し、応募のなかから「人生会議」に決定しました。2019年には「人生会議」普及のため、芸人を起用したPRポスターも作成されましたが、患者団体等から抗議・批判を受け、厚労省は全国自治体へのポスター発送を見合わせるに至りました。「人生会議」のポスターをきっかけとして、ポスターそのものだけでなく「人生会議」をめぐる様々な議論も巻き起こりました。