性と生の在り方を巡って――イヴァン・イリイチの思想と加藤有希子『クラウドジャーニー』について

掲載日: 2022年02月01日

写真1:『クラウドジャーニー』書影

私は、イヴァン・イリイチの思想を研究している。イリイチは、教育、ジェンダー、身体、産業など様々な観点やアプローチから社会について分析、批判した。今回は、イリイチの研究観点から、加藤有希子の小説『クラウドジャーニー』をどのように捉え、読むか、述べたいと思う。

身体の一部を切除して生きるということ――。『クラウドジャーニー』の主人公である真希は、有期雇用ではあるが埼玉の大学に准教授として勤めており、大学院時代の同級生の成斗(こちらも有期雇用の大学教員)と結婚し、新築マンションを購入して新生活を始めたばかりだ。2020年初頭から春にかけて新型コロナウイルスが迫りくるなか、42歳を目前にして真希は、医者から乳がんを宣告され、右乳房を切除しなくてはならなくなる。

本作は、美術史を専門とし、近年ではスピリチュアル文化と消費社会との関係を分析してきた著者によるリアリズム小説であり、よきリアリズム小説にえてして起こりうる、読者と語り手である真希とが同期するような感覚を体験することができる。

真希は、あらゆることに決断が早く、若い頃から恋愛をキャリアの妨げになるとして行ってこなかった。傍からみれば、真希のような女性を強い女性というのだろう。実際、真希は自らを「鉄の女」として強くあることを志してきた。成斗を結婚相手に選んだ理由も、恋愛感情や性的な魅力で選んだのではなく、やさしくて居心地がいいからと語っている。

そのような真希の意志や努力の甲斐あって、昨今の研究者の就職事情からみて決して順風満帆とはいえないものの、とはいえ悪くはない立場である真希と成斗が、新居記念にと二人が数年前に出会い、親交を深めてきた若手芸術家の土門響から購入した芸術作品が表題作≪クラウドジャーニー≫だ。ライトアートといわれる、大きなテレビのブラウン管のような表面にLED電球が張り巡らされて、それがプログラミングによって様々な色に明滅し、ときに青白い雷にもなり真っ暗な暗闇にもなる。人工的な光によって一瞬ごとに変化する様は、雲を構成する無数の微小な水滴または氷晶がランダムに衝突し続けるようであり、そしてそれは雲の形象のごとく光の形象として立ち現れる。≪クラウドジャーニー≫によって雲の成分と形象は、どちらも雲にとって不可欠なものであることがわかる。

写真2:京都の雲と鴨川(著者撮影)

さきほど私は、真希のことを強い女性であると書いたが、一方で、迷いのない強さとは遠い真希の内面が、語りによって露わになっていく。実のところ真希は、乳がんの宣告を受ける前から、他人の所作や発言、出来事、就寝時の夢による不安や恐怖などといった様々なことに感情が揺さぶられていた。そして、≪クラウドジャーニー≫の変化する光に感応されてか、彼女の語りが乳がんの診断後から手術に至るころにはいっそう顕著となり、彼女の振舞いや言動にも影響を及ぼすようになる。私は、研究対象である哲学者イヴァン・イリイチの思想を通じて、真希という女性の性と生について考えてみた。

イリイチには『ジェンダー』という著書がある。イリイチのいうジェンダーを一言でいうと、男女の根本的な非対称性を前提としており、生活を互いに補完する形(相補性)で独自の文化的な価値を有している性差のことを指している。イリイチはこれをヴァナキュラージェンダーと呼んだ。そして、イリイチはヴァナキュラージェンダーについて、男女間における独自の価値の手前にある身体的な性も同時に含んでいると述べている。あくまでイリイチは、身体的な性差や、男らしさや女らしさといった価値観を肯定しているのではない。イリイチがいわんとしていることを本作に置き換えると次のことがいえる。真希による語りが真希の性そのものであり、同時に真希の身体的な性を形作っているのだと。まさに雲のように、である。

真希はステージ1の乳がんであることから、医師からは切除すれば助かるといわれ、周囲の医療従事者や成斗からも生存できることを喜ばれる。もちろん真希も生き延びることが何より重要であることに異論はない。しかし、真希にとっては、真希の語りと姿かたちはどちらも同じ真希の性なのだ。真希の乳房を切除するということは、彼女の語り、すなわち内面を変容させ、以前とは異なる性(生)を生きることを迫られる。だからこそ真希は、乳房よりも生存のことを優先した成斗に憤るのである。

そして術後による身体的な変化によって、徐々に彼女のなかにあった戸惑いは語られなくなる。手術前は「鉄の女」としてキャリアを志向していた真希が、術後は成斗と穏やかに生きることを望むようになる。真希にとって乳房の切除とは、性の在り方(性存)にかかわるのであり、そしてそれは生の在り方(生存)へと連綿と続いているのだ。

もしイリイチが『クラウドジャーニー』を読んでいたら、本書でジェンダーがわかると快哉の声を上げていたに違いない。

安田智博
(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

文献

加藤有希子『クラウドジャーニー』,2021年,水声社.

関連リンク

吉岡洋・加藤有希子 対談「クラウドジャーニーの誕生の背景」
https://www.youtube.com/watch?v=CXXKJ77BbjE

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