トランスジェンダーの暗がりを書く

掲載日: 2021年03月01日

人生には戦いが付き物ですが、トランスジェンダーである私の研究にもまた、多くの戦いがついてまわりました。ひとつは、性別移行に伴う手術が失敗したことによる大阪医科大学病院との裁判闘争(参考: http://sukudomo.g2.xrea.com)。私はこの裁判をやり遂げるために先端総合学術研究科に編入し、トランスジェンダーにまつわる制度や医療を研究対象としました。もうひとつは立命館大学によるトランスジェンダー差別との戦い。研究会で主催した写真展を無断撤去する(参考: http://www.arsvi.com/ts/20090016.htm)、私の旧名を複数回アウティングするなど、幾度となく研究環境を損なわれてきました。

写真1: 吉野靫『誰かの理想を生きられはしない――とり残された者のためのトランスジェンダー史』(青土社、2020年)書影

2020年10月に上梓した『誰かの理想を生きられはしない――とり残された者のためのトランスジェンダー史』(青土社)は、そうした数多くの痛みや失望を隣に感じつつ書いたものです。2008年から2015年にかけて発表した論文を時系列で並べ、それぞれに補論を書き下ろし、ここ10数年のトランスジェンダーに関する状況をまとめています。

第1章では、戸籍上の性を変更するための「性同一性障害特例法」について扱っています。日本で行政上の性別を変更する場合には、未成年の子どもがいないこと、生殖腺を切除していること、逆の性の外性器に近似した性器を形成していることなどの5要件を満たす必要があります。しかし実際には性別移行のあり方、望む身体の状況は様々で、この法律は当事者のニーズに合致しているわけではありません。ジェンダー規範や性別二元論、戸籍制度などの圧が、当事者に二元的な身体を選ばせていることを述べました。このような「圧」が、単なる診断名である「性同一性障害(Gender Identity Disorder=GID)」に必要以上の意味を持たせていることを指摘したのが第2章です。「本当の性同一性障害ならば手術したいはずだ」、「女/男として通用したいはずだ」などの考え方を「GID規範」と名付け、それが「逆の性への同一化」を診断する医療の現場で強化されている可能性に言及しています。第3章では、1998年にスタートした日本の「GID正規医療」の内実について、専門外来を受診した当事者への聞き取りを行っています。「普通」の男女になることがトランスジェンダーの望みだと考えがちな医師の認識や不適切な発言、そもそもGID正規医療に追跡調査や独自のQOL指標がないこと、稀少医療ゆえに医師との関係性を重視せざるを得ず、それゆえ医療側が患者の本音に触れる機会が少ないことを問うています。第4章では「LGBT」という語の流行を批判的に捉え、トランスジェンダーを取り巻く医療状況を確認し、「非典型的」な性別移行の実例を紹介しました。

本の副題に「とり残された者」とあるのは、時代の流れに沿わなかったために、主流派でなかったゆえに、あるいは口を噤むことしかできなかったために、様々な場所で「とり残された」トランスジェンダー当事者への強い思いからです。性別変更の特例法が制定される過程で削ぎ落とされてしまった意見、医療への異議申し立てができないまま不満足な身体で生きているひとの声、「周囲の理解のもと、手術してゴール」という物語に乗れない人生の選択を、少しでもすくい上げることを心がけました。

写真2: 刊行記念イベント(2020年11月3日、カライモブックス)で、生存学研究所所長である立岩真也教授との対談

近年は「LGBT」の語を伴って、性的少数者の暮らしにスポットが当たることもあります。しかしそこに現われるのは比較的裕福な、人間関係に恵まれたひとたちです。トランスジェンダーの生活はそう簡単ではありません。パス(望む性別として通用)できない、性別移行のための金銭的負担が大きい、外見を貶められるなど、常に特有の困難を抱えながら生きています。インターネット上の激しい差別も続き、孤立から死を選ぶ当事者もいる中、多数派を脅かさない穏やかな語りだけを取り上げるわけにはいきません。憤怒、呪い、怨嗟といった感情をふるいにかけることなく、これからも「とり残された」トランスジェンダー当事者が生きる姿を明らかにしていきたいと思います。

吉野 靫
(立命館大学プロジェクト研究員)

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