故郷喪失者たち——新明正道の「研究の現場」とは
大衆/知識人という対立図式は現在にいたるまで幾度となく反復されてきました。「万人の代表として人びとの声ならざる声に耳を傾け、その声をすくいあげるのが知識人の役割である」などということばは、現代においてはどこか空しく響かざるをえません。そのうちにあっては、大衆と知識人を隔てる「/」が消失してゆきます。すなわち、知識人が特権的な地位を保ち続けることが不可能になり、他方では、大衆が知識人と同じ目線で物事を語れるようになったということです。これは喜ぶべきことなのかもしれません。あらゆる物事が研究の対象となり、知識人も大衆も共に、各々の「現場」――フィールド……職場、人生、書物、実験、したがって文系的な知に限定されるものではありません――をもち、その地点からことばを交わすことができるからです。しかしながら他方で、そこは方向づけを欠いた何かのっぺりとした空間のようにもみえます。
われわれが「現場」で行っている研究というのは、何なのでしょうか。また、「現場」とはどこなのでしょうか。そうした疑問を抱えつつ、わたしが研究の対象としたのは、知識人(社会学者)として戦前・戦中・戦後を通過してきた新明正道という人物です。主に1930年代から時評というかたちで新明は自身の思想を紡いでいきました。
「今日の知識人は(……)驚くべきほど無力化せられ、懐疑的になっている。我が知識人は神話を失った人間のように茫然自失している」と新明は嘆いています(注1)。ここで知識人たちは「故郷喪失者」といわれます。つまり、自らの根拠が掘り崩され、その来し方行く末もわからないままにさまよい続けるような、いわば根無し草として放り出されているような人たちです。1930年代とは、知識人たちがそのような状況に否応なく身をさらされることとなった時代といえましょう。歴史を眺めてみるならば、その後、「故郷喪失者」たちが二つの方向へ向かったことがわかります。
第一の方向は、自らを「大衆」のうちに埋没させ生きていくことです。しかし、そのためにはマルクス主義を――〈革命〉への展望を手放す必要がありました。総てが戦争へと動員されていく渦中にあって、その流れを「進歩」として自らもそこに身を投じていきます。「故郷喪失者」たちは〈革命〉という神話から醒め、改めて自らの拠って立つ足場(=故郷)を取り戻そうとしました。そこで、彼らの足場となったのが「日本人である」ということです。これが「転向」とよばれる事態です。第二の方向は、マルクス主義者として〈革命〉を手放さず、そこを自らの足場として堅持したまま生きていくということです。いや、「生きていく」というのは正確ではありません。なぜなら、当時は治安維持法下であり、〈革命〉などということばを口にすることは、そのまま獄中死を意味するような状況だったからです。「非転向」とはそういうことです。
そのような状況にあって新明正道は、いずれの道も採りませんでした。彼は〈革命〉への展望を見据えつつも、「知識人」であることを降りなかったのです。こうした新明のスタイルは戦後に至って、転向者であるという誹りを受けることになります。思想の科学研究会による『共同研究 転向 下巻』では新明が、1940 年前後に「社会主義から国家主義への、綜合社会学乃至行動社会学を触媒とした集団型転向」者と位置づけられています(注2)。しかし、わたしには、転向者と批判するのみではとりこぼされてしまうものがあまりにも多いように思えます。現に新明は戦時中にも「政治〈革命〉」――政治を政治たらしめるとともに、政治を絶えず超えてゆく新たな政治を創ることを叫び続けました(注3)。社会学者とも、時評家とも、転向者ともよばれる新明とは何者なのか。わたしは、未だぼやけたままの新明像にひとつの輪郭を与えようとしています。
新明の「現場」でなされる「研究」とは、「故郷喪失者」として投げ出されながらもその極限のところで〈革命〉を考える、そうした不可能な地点にありました。「故郷喪失者」として投げ出されつつ、自らの足場を日本人に限定することを回避しながらも、なんとか仮構する。それによって新たな政治を起動することこそが新明の提示する〈革命〉のヴィジョンです。そうした「現場」を追体験すること、これがわれわれに求められている感性なのではないでしょうか。
(注1)新明正道,1938,『文化の課題』河出書房.
(注2)思想の科学研究会編,1962.『共同研究 転向 下巻』平凡社,472-473.
(注3)新明正道,1941,『政治の理論』慶應書房.