「ごく当たり前の生活」を求めて――精神医療の現場から歴史研究へ

掲載日: 2026年08月01日


写真1:2026年度日本精神保健福祉学会にて:研究の道へ進むきっかけをくださった青木聖久先生 (左側)とともに。左から青木聖久先生(日本福祉大学)、筆者、山口創生先生(国立精神・神経医療研究センター)、伊東秀幸先生(田園調布学園大学)

 日本の精神医療は、病院での入院治療から地域生活中心の方向へと、大きく転換しつつある。かつて日本では、病状が安定しても様々な事情により退院できない「社会的入院」が広がった。世界的には、障害のある人を地域での生活を支える脱施設化の流れにあったが、日本はその流れに逆行して精神科の病床は増え続けたことから、いまなお諸外国に比べて病床数が多く、入院期間も長い。

一方、法整備により精神障害のある人の雇用は年々拡大しているが、就職した人の約半数が1年以内に離職している。地域で暮らし、働き続けることは、この国ではまだ「当たり前」になっていない。私の研究者への道は、この「当たり前」を追いかける道のりだった。

 私は10代の頃から本を読むのが好きだった。ヘミングウェイ、太宰治、芥川龍之介。好きになった作家の多くが、精神の病とともに生きた人たちだった。「普通ではない」ことが、当時の私には少しも悪いことに思えなかった。

 精神保健福祉士(通称:PSW)という心の病や精神的な悩みを抱える人の相談に乗り、日常生活を支える専門職のことを知った。この人たちと向き合う仕事がしたいと思った。母は「そんな人を相手にする仕事なんか」と強く反対した。いつもは子の意思を尊重してくれた親の中にも、偏見は生きていた。そのことにショックを受けたが、それでも自分の人生には自分で責任を持つと決め、勤めていた病院を辞して精神保健福祉士になるために学び直した。

 精神保健福祉士の資格取得後、PSWとして約9年、精神科の急性期病棟、訪問看護、デイケアで働いた。働くなかで驚いたのは、病状が安定しているのに退院できない人の多さである。家族に「帰ってこないでほしい」と言われた人や、身寄りのない人もいた。入院歴を理由にアパートへの入居を断られ、一緒に不動産屋を何軒も回ったこともある。問題は「病気」ではなく、むしろ「社会の側」にある――そう痛感した。転機となったのは、退院が決まったある患者さんの「退院してからも、あなたに来てほしい」という一言だった。病院が体制を整えてくれたことで、私は訪問看護としてその人の退院後の暮らしに寄り添うことになった。当事者の方たちと間近で過ごしてみると、世間で言われるような「怖い」人などではなく、ごく「普通」の人たちだった。世間のイメージと実際に生活している人の姿とのギャップから、疑問が、年々積み上がっていった。

 現場で出会った日本福祉大学の青木聖久先生に、なぜ研究の道へ進んだのかを尋ねたことがある。青木先生は「偏見を払拭しようにも、同じ現場レベルの言葉は届かない。だから研究の道に進んだ」と話してくれた。その言葉を聞いたとき、私は、そういう守り方があるのか、と青天の霹靂だった。この言葉が、私を大学院へと向かわせた。

 大学院進学後はまず、精神障害者の就労支援について研究した。当事者へのインタビューからみえてきたのは、職場で障害を開示すれば、周囲から距離を置かれるかもしれないという不安があり、しかし、障害を隠して働けば、誰にも相談できないことへの不安が生まれることになる。どちらを選んでも不安が残ることから、個人の選択では解きようのないジレンマが見えてきた。

欧米で生まれた就労支援モデルであるIPSの調査では、様々な実践を調べていく中で、医療と福祉が分かれた日本ならではの困難と、それを乗り越えようとする現場の工夫にも出会った。やがて、いま就労支援が抱える課題は何十年も前から変わっていないのではないかと考えるようになった。後藤基行先生(立命館大学)との出会いをきっかけに、私の関心は歴史へと向かっていった。1960〜80年代の精神科病院の「院外作業」を調べ、そしていまは、1970年代に始まった民間支援団体「やどかりの里」が研究の中心となった。公的な支援制度がほとんどなかった時代に、やどかりの里は精神障害のある人が地域で暮らすための住まいを確保し、印刷や出版といった仕事を生み出し、仲間と支え合う場を築いてきた団体である。

 私は科研費の研究プロジェクトの一員として、この団体が残した『所報やどかり』『精神障害と社会復帰』『爽風』という三つの雑誌のデジタル化に携わっている。一冊ずつ画像に収めながら年代順に読み進め、創設期を知る職員や利用者の方々に話をうかがい、その両方をつき合わせていく。三誌に残されているのは、支援者の理念だけではない。当事者が日々をどう過ごしていたか、全国各地でどんな試みがあったか、制度が不足していたために何ができなかったか、そして財政難のなかで運営をめぐってどんな迷いや衝突があったかまでもが書き留められている。

 『精神障害と社会復帰』創刊号で、谷中輝雄は社会復帰に必要なものを「住まい・職・仲間」と表現していた。私はこの言葉を手がかりに、働くことが住まいや通院、休息、報酬、仲間との関係とどう結びつけられ、あるいは切り離されてきたのかをたどっている。もちろん、うまくいった話ばかりを拾うつもりはない。行き詰まった試みもあれば、支援がいつのまにか管理に近づいてしまう危うさがあることも、資料と証言の両方に残っている。そういった様々な取り組みと向き合ったうえで、実践がどう形づくられ、問い直され、組み替えられてきたのかを明らかにしたい。そしてその歴史から、精神障害のある人が地域で働き、働き続けるために、いまの就労支援に何が足りないのかを考えたいと思っている。谷中が掲げた「ごく当たり前の生活」という言葉は、臨床の現場で抱いた私の問いへの、半世紀前からの応答のように思える。

 研究の世界は、想像の何倍も厳しい。丸腰のまま獣道に踏み入り、武器を拾い、自分でも作りながら進むようなものだ。それでも、論文が掲載された時の喜びは筆舌に尽くしがたく、ともに悩む院生や指導教員の存在に支えられている。何より、現場を離れても当事者との関係が切れるわけではない。制度なき時代において柔軟な実践を掘り起こし、制度が整った現代の、ときに硬直しがちな支援の現場へと届ける「翻訳者」でありたい。誰もが地域で、ごく当たり前に暮らし、働ける社会へ――それが、私が研究者への道を歩む理由である。

写真2:筆者の書棚。精神医療史とアーカイブズ関連の文献が並ぶ

原田武彦(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

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