尿管で結ばれた産科婦人科の歴史:川添正道と彼の台湾時代
私たちが当たり前のように口にする「産婦人科」という診療科は、いかにして自らを一つの専門分野として確立したのでしょうか。出産を扱う「産科」と、女性特有の疾患を診る「婦人科」。今でこそ両者は一体として認識されていますが、その歴史は、既存の枠組みを組み替え、新たな領域への道筋を開拓してきた闘争の軌跡そのものでした。
とりわけ「婦人科」は、長い間、独立した領域として扱われていませんでした。明治初期の日本において、婦人科の手術は外科の領域に属するものとされていたのです。この外科という既存の秩序から、いかにして婦人科は自らの専門性を打ち立て、そして産科と結びついていったのか。この学問形成のダイナミズムは、日本本土という中心からだけでは見えてきません。むしろその鍵は、海を越えた植民地・台湾という、中心から距離を置いた「臨床の現場」にありました。私の研究では、この近代日本の産科婦人科学の黎明期に、台湾で活躍した一人の医師、川添正道(1871-1957)の軌跡を追います。それは、知られざる学問的「組み替え」の運動を描き出す試みでもあります。
川添正道は、長崎で医学を学びましたが、彼のキャリアは産科婦人科から始まったわけではありません。当初は病理学や外科を専門とし、沖縄での風土病調査に従事する熱帯医学の専門家でした。この既存のキャリアから転じる形で、彼は1896年、日本の統治下に入ったばかりの台湾・台北医院に赴任します。
当時の台湾は、衛生環境の整備が急務であり、熱帯病や感染症対策が最重要課題でした。しかし、まさにこの場所で、川添は自身の専門性をラディカルに組み替える運動へと導かれます。赴任当初、台北医院に独立した「婦人科」はなく、外科の一部門に過ぎませんでした。しかし1898年、医療体制が整備される中で婦人科は外科から独立し、川添はその初代主任に任命されます。彼は、ゼロから台湾の産科婦人科医療を立ち上げると同時に、自らも専門医へと作り変えていきました。
この変貌のきっかけは、二度のドイツ留学で得た最新の医学知と、そして何よりも、植民地・台湾における圧倒的な臨床経験でした。当時の台湾は、本土の権威から距離を置くことで、多様な症例が集積する「臨床知の生産拠点」として機能していたのです。川添の研究は、単に子宮や卵巣の病気を治療するだけでは終わりません。彼は、産科婦人科が専門分野として自立する上で避けられない、ある重大な問題に直面します。それは「合併症」でした。
女性の骨盤内では、生殖器と泌尿器が解剖学的に近接しています。子宮癌などの大規模な手術を行う際、尿管を損傷すれば、尿が腹腔内に漏れ出し、命に関わる腹膜炎を引きおこしかねません。産科婦人科が「外科」から真に独立するためには、この泌尿器系の問題を、他科(外科)に委ねるのではなく、自ら取り組む必要がありました。専門性とは、まさにこの隣接領域との境界線上でこそ試されるのです。川添はドイツ留学中、当時最先端の分野であった「婦人泌泌尿器科(ウロギネコロジー)」を学び、この難題に取り組みます。彼は動物実験を重ね、尿管損傷時に腎臓を温存しつつ安全に尿管を閉鎖する、独自の手術法「川添式尿管閉塞法」を開発しました。
これは、従来の術式とは一線を画す、画期的なものでした。従来法が尿管を「糸」という外部の異物で縛っていたのに対し、川添の方法は、糸を使わず「尿管自体で」結び目(結節)を作って縛る。これにより、尿が溜まる内圧がむしろ結び目を強固にし、安全な閉鎖を可能にする。外部の異物に頼る方法を離れ、自己の組織だけで完結させるという、新たな治癒の論理でした。産科婦人科の発展は尿管や膀胱を含む泌尿器という異質な領域との出会いと格闘、その運動性においてこそ、自らを問い直すことを迫られたのです。
川添は、台湾での臨床知に基づくこの新しい術式を、日本の学会ではなく、まずドイツの医学雑誌に発表します。彼は、本土の権威のヒエラルキーをいわば「迂回」し、当時、世界最高水準にあったドイツ医学界という国際的なネットワークに直接参画したのです。これは、日本本土の医学が植民地へ一方的に「移植」された、というモデルを棄却します。むしろ、外地で生成された臨床知が、ドイツという国際的ネットワークを経由し、日本の医学界の組み替えを促すという、ダイナミックな「知の往還」を描き出しているのです。
1914年に日本へ帰国した川添正道は、長崎医学専門学校の教授を経て、慶應義塾大学医学部の初代産科婦人科教授に就任します。その後、日本婦人科学会の会長を務めるなど、彼は日本の産科婦人科学の発展を牽引する存在となりました。彼の生涯は、台湾という植民地の臨床、ドイツという国際的な知のネットワーク、そして泌尿器科という隣接領域との緊張関係といった諸要素が交錯する中で、一つの学問分野がいかにして形成されていくか、そのダイナミズム自体を体現していると言えるでしょう。
上側が、川添式尿管閉塞法
出典:Zeitschrift für gynäkologische Urologie 3(3)
下側が、川添が台湾に赴任した時の履歴書
出典:「川添正道外二名醫務囑託ヲ命スル件(元臺北縣)」(1896-09-01),〈明治二十八年臺灣總督府公文類纂元臺北縣進退永久保存第五卷秘書〉,《臺灣總督府檔案.舊縣公文類纂》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00009260024. 参照 2024-11-04: https://onlinearchives.th.gov.tw/index.php?act=Display/image/14196636y=7RAE#FT685
曲 虹霖(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)













