視覚に障がいのある女性たちの妊娠・出産・子育て―母になった日、母になっていく日々
視覚に障がいのある妊産婦へのケアとは、何を意味し、いかなる実践が求められるのか―。
この問いは、ある全盲の夫婦と出産の場で出会ったことを契機に、私の内に深く芽生えました。
以来、私はこの問いに正面から向き合うべく、インタビュー調査を重ね、その成果を立命館大学大学院先端総合学術研究科に博士論文として提出しました。そして、それをもとに、2025年2月、生活書院より『視覚に障がいのある女性たちの妊娠・出産・子育て――母になった日、母になっていく日々』を上梓いたしました。本書は全6章で構成されており、その核をなすのが第1章から第4章です。その内容をご紹介します。
「第1章:医療現場での経験」では、視覚に障がいのある妊産婦たちが医療現場で経験した事象に焦点をあてました。
とりわけ、親になるという極めて感受性の高まる時期において、医療者からの無理解や差別的な態度、育児能力への疑念が投げかけられ、結果として育児の機会そのものを奪われたという声が多く聞かれました。その語りはしばしば痛切で、私は、ただ「ごめんね」と謝ることしかできませんでした。しかし同時に、彼女たちはそのような状況の中でも、表層的には医療者の厚意を受け入れながらも、自らのペースと方法で育児を実践していく―そのしたたかさと主体性をも垣間見ることができました。こうした両義的な姿の記述こそが、本書の大きな意義の一つであると考えています。
「第2章:子どもを「みる」経験」では、「みる」ことの再定義に挑んでおり、本書の「推し」の章です。
肉眼による視覚的な「見る」とは異なる方法で、視覚に障がいのある母親たちは子どもを「みて」います。例えば、音、声の調子、身体の重みやぬくもり、匂いなど、感覚の複数性を用いて子どもと関わる経験は、まさに「みる」ことの本質を問うものでした。彼女たちの語りは、「視覚の不在」が「育児の不完全」を意味するわけでは決してないという事実を、豊かな内的経験を通して教えてくれています。
妊産婦にとって、実母はしばしば支援者として期待される存在です。「第3章:実母との協働」では、視覚に障がいのある妊産婦本人の語りに加え、実母自身の視点からもその関係性を記述することで、「協働」とは何か、その力動を立体的に描き出しました。ここでは、支援と依存のはざまで揺れる両者の感情、そして世代間のケアが交差しています。
「第4章:母子を取り巻く人々との協働」では、夫、ママ友、ヘルパーといった第三者との関係性に注目しました。
これらの存在は、育児を支える重要な要素となり得る一方で、障がいへの無理解や偏見が、母親の自尊感情を脅かす契機ともなり得ます。
障がいをもつ女性たちは、かつて優生保護政策のもとで「産むこと」を禁じられてきました。その歴史は重く、決して忘れてはならないものです。
本書が描くのは、過去の悲劇ではなく、今を主体的に生きる女性たちのリアルな姿です。視覚に障がいがあるからといって、彼女たちは決して同情や哀れみの対象ではありません。子を持ち、育てる主体として、しなやかに人生を切り開いている。――この事実を、私は何より強く伝えられたのではないかと思っています。
本書の「はじめに」と「おわりに」は、私が何の制約も設けず、まさに自由に、思うままに綴った部分です。このパートは、意外にも多くの方々から「おもしろかった!」とご好評をいただきました。
特に、日頃の私をご存知の方々からは、「まるで平田さんがそのまま目の前で話しているみたいだった」との声も寄せられました。そこには、研究者としての顔ではなく、仮面を外した一人の人間、娘として嫁として、妻として母親として、助産師としての私が確かに存在していたのかもしれません。
本書の中心をなす第1章から第4章においては、視覚に障がいのある女性たちの妊娠・出産・子育ての実際を、誠実に描きました。けれども、それらを読む前に、あるいは読み終えたあとに、「はじめに」と「おわりに」を通じて、私がどんな思いでこの研究と向き合ってきたのか、向き合う私がどういう人間であるのかに触れていただければ、本書の世界をより深く感じ取っていただけるのではないかと思っています。
平田恭子(神戸市看護大学 ウィメンズヘルス看護・助産学分野)