Ⅲ 論文「ケアと倫理」養育関係内における多文化主義──子どもの文化選択をめぐる規範理論への予備的考察

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片山知哉
(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程)

 0 問題提起——こどもの文化選択をめぐる規範理論の深化へ

 いま、我々の眼前に存在する、具体的なこのこどもにとって、継承が必要な文化とはなんだろう。この、こどもの文化選択を巡る規範論的問いかけが、本論文における出発点である。
 この問いに取り組むのは、勿論我々が初めてではない。むしろ非常に論争的な主題として、現在も活発に議論が積み重ねられているといえるだろう。たとえば宗教の世代間伝承を巡って、民族伝統文化の伝承を巡って、多言語状況における言語選択を巡って、こどもの側からみた場合にいったい何が必要な文化継承と言えるのかという問いが議論の俎上に上げられてきた。
 いくつか例示してみたい。宗教の世代間伝承を巡っては、義務教育の一部免除を求めたアーミッシュの主張の是非が問われたウィスコンシン州対ヨーダー判決(Kymlicka 1995=1998: 241)や、宗教的理由に基づく自分のこどもに対する輸血拒否事例(『宗教的輸血拒否に関するガイドライン』および、それについての武藤の二世信者についての言及)があるだろう。伝統文化の伝承を巡る問いとしては、女性性器切除を巡るフェミニズム・多文化主義論争(岡 2000: 90-139)が挙げられよう。多言語状況における言語選択を巡る問いとしては、少数言語話者の家庭に生まれたこどもの言語権(Skutnabb-Kangas 2000; Kymlicka and Patten 2003)が議論されてきた。
 元々こうした問題圏に含まれる論点は膨大であるが、議論の深化に伴い更に新たな事例が発見され、論争は拡大の一途を辿っている。そこでは、伝承される文化内容とこどもの権利との間の論点、複数の文化集団を包摂しうる教育・シティズンシップ政策という論点、先住民・民族的マイノリティ・移民集団への言語権政策という論点、文化集団間の格差問題という論点などが存在する。だが概ね共通しているのは、養育者とこどもとをひとまず同じ文化集団に所属するものとして、文化集団間の異なりについて議論を展開しているという点である。
 我々が本論文において取り組む課題は、これらとは異なっている。養育者とこどもとが、同じ文化集団に所属している、するだろう、あるいはすべきであるとは自明視できないような事態を、俎上に上げようと試みる。こうした事態としては、養子や、以下に述べる「身体的マイノリティphysical minorities」がある。
 本論文の構成は以下のとおりである。第一節においては、我々が導入する身体的マイノリティという概念を説明した上で、我々が取り組む「養育関係“内”多文化状況」と、宗教・伝統文化・言語など従来議論されてきた「養育関係“間”多文化状況」との比較の見取り図を描いてみる。第二節においては、身体的マイノリティにおける文化の合致・非合致という事態を検討し、続く第三節においては身体的マイノリティのこどもが自身の身体に非適合的な文化しか与えられなかった場合の困難について検討する。第四節では、こうした事態を巡る養育者の困難を、養育のプライバタイゼーションに求めつつ、それがマーサ・ファインマンの議論と異なることを述べる。第五節ではこうした困難を緩和するための暫定的な提言を行いたい。

 1 身体的マイノリティ、養育関係内多文化状況と養育関係間多文化状況

 本節においては、我々が「身体的マイノリティ」概念を導入することで、本論文においていかなる事態を検討したいと考えているかを描きだしてみたい。そのためはじめに、身体的マイノリティ概念について説明しよう。
 人間同士の異なりを説明する属性概念は多数存在する。ただ通常そこで語られるのは、人種・民族・言語・宗教など、養育者・こども間で一致することが多いと推測されるものが多い。しかし考えてみれば、養子の場合には養育者とこどもとの間で人種・民族・言語・宗教が異なることもありうるし、養育者とこどもとの間で身体的な特徴・状態・属性(=「身体状況」)が異なることもありうる。ここで後者が「身体的マイノリティ」という概念で我々が名付けている事態である(尚、本論文では身体的マイノリティのこどもを事例に検討し、身体的マイノリティの成人と身体的マジョリティのこどもの場合や、養子の場合は検討しない)。
 身体的マイノリティに該当するものとして、具体的には「障害」や「性的指向」などが例として挙げられるだろう。身体的マイノリティの場合には、養育者によって与えられた文化が自分の身体状況に適合せず、困難を抱え込んでしまうことがありうる(第二節・第三節で具体的に検討する)。我々が本論文で検討したい事態とは、そのようなものであり、養育者・こども間での身体状況の異なりがそこでは焦点化される。これを「養育関係“内”多文化状況」と呼ぶこととし、従来宗教・伝統文化・言語などを巡って検討されてきた事態を「養育関係“間”多文化状況」と呼ぶことにしよう。
 養育関係間における多文化状況と、養育関係内における多文化状況との相違を、より直感的に理解しやすくするため以下に図示した(図は省略)。ここで、大文字で示されているのは個々の文化であり、小文字で示されているのは個々の身体状況である。文化と身体状況とが適合している場合に、同じアルファベットで示すことにする。たとえば“A/a”と示されていれば、Aという文化とaという身体状況を持っており、かつその両者はマッチしている、という意味である。そして白抜きの矢印は、養育関係における文化伝承を示し、その文字は伝承される文化が何であるかを示している。したがって、A/a—(A)→A/aと示されていればそれは、養育者からこどもへ文化Aが伝承され、文化Aは養育者・こども共に自身の身体状況とマッチしている、という意味である。
 この図から理解されるように、養育関係間多文化状況において問題となっているのは文化それ自体、あるいは文化の異なり自体であるが、養育関係内多文化状況において問題となるのは養育者とこどもとの身体状況の異なりと、身体状況と文化との適合・非適合である(注1)。第二節・第三節では、この身体状況と文化との非適合という事態についてもう少し踏み込んで検討する。

 2 メディアとしての文化、身体との適合性という問題圏

 ここで、身体状況と文化との適合・非適合を論じる前に、本論文の議論に関係する範囲で文化の性質について触れておくことにしたい。文化の性質を網羅的に説明することは無論のこと不可能であるが、重要な特性のひとつとして文化がアクセスの手段として、つまりメディアとしての有益性を持つという点は明記しておくべきだろう。それは、文化の中でも中核的と思われる「言語」を考えれば、理解できるだろう。
 言語はひとにとって、外的アクセス・内的アクセスの双方において不可欠なメディアとして機能する。外的アクセスとはここでは、自分以外の人間に対する活動場面を指すのだが、具体的には行政、警察、裁判所、議会、法律、教育、労働、医療、家族、友人など、ほぼすべての領域にわたって言語は必要になる。つまり、集団所属において言語は不可欠である。内的アクセスとはここでは、自分自身に対する活動場面を指すのだが、思考も記憶も、自我すなわち自己統治も、言語があってはじめて可能になる。つまり、人格的存在としての人間は、言語抜きにはあり得ない(Kymlicka 1995=1998, Kymlicka and Patten 2003)。
 ここでは言語を例に挙げたが、類似の性質は文化一般に(あるいは少なくとも部分的に)読み取ることが出来る。ところで文化は複数存在し、それぞれが異なる文化集団へのメディアとなっている。換言すればそうした集団への所属は、当該個人が当該文化を習得することを前提条件としているのであり、たとえば文化集団Aへの所属には文化Aの習得が、文化集団Bへの所属には文化Bの習得が求められる。これが、メディアとしての文化という性質である(注2)。
 文化のもうひとつの重要な性質として、身体状況との適合性という問題が生じる場合があるということがある。この問題は身体的マイノリティの場合に顕在化し、身体的マイノリティは自身の置かれた文化集団の文化と自身の身体状況との間の不適合を抱えるリスクが高い。ここでいう不適合とは二種類あり、第一には充分にその文化を習得できないという場合が、第二には習得した場合に害が発生する場合がある。そしてこの両者は混在しうる。
 習得した場合に害が発生するというのは、さらに二つの場合が考えられる。ひとつは直接的に、文化習得が習得した個人にとって害になる場合、もうひとつは習得した文化に対する愛着が形成されるために本来必要な文化集団への移行が妨げられる場合である。ここで前者についてまず説明したい。
 上述した通り、文化は外的アクセス・内的アクセスの双方に不可欠なメディアである。アクセス先において、あるいはアクセスの過程において、そうでなかった場合と比較して不利益が生じればそれは文化習得による害とみなすことができる。外的アクセスの場合を考えるなら、本来文化習得を通じ集団所属によって関係性による快や、文化の継承や、生活に必要な財を受け取ることができると考えられる。だが逆に、当該集団への所属によって他構成員から攻撃や侮蔑を受けるとすれば、それは害であり、文化習得による害とみなしうる。内的アクセスの場合を考えるなら、習得によって却って自分自身に対してネガティブな価値づけを行い、自己否定的に思考するなら、それは文化習得による害とみなしうる。
 後者についても検討してみよう。立岩は次のように述べる。

ここにある困難の一つは、人が既に社会で過ごす時間が長く、その時間がその人に堆積していて、変更が間に合わないことがあるということである。その社会の中にあれば、そのひとはその中に生きてきて、自らの価値を形成・整形して生きてきている。そのことにおいてその価値は拭い難いものとしてあり、その人に大切なものであるかもしれない。しかし、それはその人の存在にとって否定的なものであることがある。その間にあってどうしたらよいか。現実にあるのはそういう問題だ。(立岩 2004: 264)

 本来的に自身の身体状況に適合しない文化であったとしても、それへの愛着は形成されうる。それはそのひとにとって大切で、離し難いものとして、あるいは離れるには負担の大きいものとして感受されているかもしれない。この場合に、あとから自分の身体状況に適合的な文化へ移動しようとしても、この愛着が阻害する。ここでさらに、上述した習得した文化が直接的に害になる事態が絡まり、自身の身体状況への否定的観念が拡大され自身に適合的な文化への否定的観念も形成されていれば、尚のことこの移動は困難になる。

 3 身体的マイノリティのこどもが抱える困難

 身体的マイノリティのこどもが直面する困難とは何か。それは前節で述べたように、与えられた文化と自身の身体状況との間で不適合が生じた場合に、当該文化を充分に習得できなかったり、習得した場合に害が発生したりすることによって、不利益を被るというものである。
 しかしこの解決は容易ではない。理論上は、自身の身体状況に不適合な文化ではなく、適合的な文化を習得できればよい、と言い得る。だが第一に、文化を未習得の段階のこどもが自分で文化を選べるとは想定しえない。第二に、周囲の大人がこどもの身体状況を、つまりは適切な文化とは何かを知り得るとも限らない。そして第三に、仮にそれが分かったとしても、こどもの周囲の大人だけで適切な文化伝承を為し得るとも限らない。
 ここで、たとえ自身の身体状況と不適合な文化であったとしても、いったんそれを習得した上で成長して自分で情報を収集し、判断し、行動できるようになった段階で新たに身体状況に適合的な文化を選びなおせばよい、という反論は可能だろうか。それが可能な場合があることを否定はしないが、常に可能とは限らないし、たとえ可能であったとしても困難であるかもしれない。前節で、身体状況に不適合な文化を与えられた場合に発生する困難として、第一に充分習得することが出来ない場合、第二に習得した場合に害が発生する場合を挙げた。本節では、身体的マイノリティが直面する具体的な困難を、ふたつの例を挙げて説明していこう。
 ひとつめに、聞こえないという身体状況について検討してみよう。聞こえないという身体状況を持って生まれたこどもは、自然言語として習得可能なのは視覚言語である手話言語であり、音性言語の習得には限界があることが知られている。ところで、聞こえないこどもの多くは音声言語を第一言語とする聞こえる大人のもとに生まれるし、その家庭の周囲も手話言語話者は多くの場合不在である。この事態を所与としてしまえば、聞こえないこどもは手話言語に触れる機会を持ちえず、音声言語環境で育つしか出来ないことになろう。
 ここで生じる問題は、次の二つである。第一に、本来もっとも自由に使用することが可能な手話言語を、言語習得臨界期までに習得することが出来ないリスクが高く、その場合生涯に渡って手話言語を充分に使えるようにならないかもしれない。第二に、かといって音声言語を充分習得することができるわけでもないので、結果的にどの言語も充分使用に耐えうるレベルには習得が出来ず、セミリンガル化するリスクもある。この場合、言語習得が低水準であることは、思考・人格発達を阻害するとともに、第二言語習得もまた困難にすることが知られているので、成人後に例えば手話言語を獲得する困難がより一層強まるのである。
 このことは、上述した「充分習得することが出来ない」ことによる困難である。さらに「習得した場合に害が発生する」ことも併せて現れる。聞こえないという身体状況や、手話言語・ろう文化への否定的観念の内在化とともに、場合によっては音声言語環境や人間関係への愛着が、ろう集団への移行を直接的・間接的に阻害するのだ(Bauman 2008; 金澤 2001; 片山 2008; Kymlicka 1998; Lane 1992=2007; Ladd 2003=2007; 上農 2003; 全国ろう児を持つ親の会 2004, 2008)。
 もうひとつ、別の具体例も検討してみよう。ここで検討するのはゲイの場合である。ゲイという身体状況は、選択によるものではなく非自発的な状況であり(LeVay 1996=2002; Ritter and Terndrup 2002)、生得的で生涯一貫したものであると考えられている(注3)(ただし、レズビアンの場合はゲイとは異なり、その性的指向の一貫性は緩やかと考えられている。従ってここではゲイの場合のみを検討する)。
 イヴ・セジウィックは、ゲイのクローゼットにおける抑圧の複雑な困難さを分析する中で、それが他の抑圧にはあり得ない特徴を持つことを指摘する。人種、ジェンダー、年齢、体格、障害など目に見えるスティグマに基づく抑圧と異なり、たとえば反ユダヤ主義のような民族的・文化的・宗教的抑圧は一見するとホモフォビアに類似している。しかし、

(たとえば)ユダヤ人やジプシーのアイデンティティは、またすなわちユダヤ人やジプシーの秘密またはクローゼットは、明確な祖先からのつながりと応答可能性とにおいて、そして個々の(最小限でも)家族という原文化を通して得られる、文化的アイデンティティのルーツ(いかに歪曲し両面価値的であろうとも)において、ゲイ独特のヴァージョンとは異なっている。(Sedgwick 1990=1999: 106-107)

 つまり、ゲイのクローゼットは孤独である。彼はホモフォビアによる抑圧を外部から受け続けているのだが、それを共有できる人間は文字通り誰もいない。物理的に不在であるというだけではなく、情報論的に見ても不在なのである。これが、ゲイのこどもが置かれた状況なのである。
 もう少し分析的に見てみよう。この社会は、ヘテロセクシュアルが多数派であり、そこで流通する文化はホモフォビアを強く抱えている。そうした中、ゲイのこどもの多くは、やはりヘテロセクシュアルの両親のもとに生まれる。さらにゲイという特性は、外から見て分からないだけでなく、本人にさえ思春期以前には意識的には気付かれないことが多い。するとそのこどもの周囲の大人は、無意識的あるいは意識的に、そのこどもをヘテロセクシュアルであるとして、つまりゲイではないものとして育てることになるだろう。
 この場合、そのこどもは社会のホモフォビアによる抑圧を受けるだけでなく、その抑圧を共有し、その抑圧への抵抗を共に遂行する相手も物理的近傍にはいないことになる。更に、そのこどもがゲイであるという想定がなければ、周囲の大人は無意識的あるいは意識的に、そのこどもにはゲイについての情報を伝えないだろう。あるいは否定的な情報さえ伝えるかもしれない。そうであれば、そのこどもは物理的近傍の外部にホモフォビアによる抑圧を共有する相手を見つけることもまた、事実上出来ないであろう。
 さらにこのような条件下で、そのこどもは育っていくとしよう。ホモフォビアに基づく情報は与えられるが、ホモフォビアに抵抗する情報は与えられない。漠然とした周囲への違和は感じ続けているが、まだこどもであり思考力も具体的な情報も不足しているため、その理由を特定することができない。ようやく思春期に達し、自分自身のセクシュアルな感情に気付き始めても、それまでの期間に自分の中に既に堆積しているホモフォビアが、自分がゲイであるという気付きや、ゲイについての情報や他のゲイに対するアクセスを、心理的に阻害する。更に、周囲からゲイと気付かれて、関係を断たれることやバッシングを恐れ、あるいは自分が誰かに心理的に惹かれること自体を自分から抑圧し、人間関係それ自体が困難になっていく。将来に対して肯定的なイメージを持つことができず、抑うつ的となり、場合によっては希死念慮を抱え続けることもあるかもしれない(多数の文献があるが例えば、Ritter and Terndrup 2002; 日高 2009)。
 もちろん、よく耳にするこうしたストーリーも、決定論的に読まれるべきではないだろう。こうした徹底した抑圧の下でも、ゲイの少なくない部分は生き抜き、ゲイについての情報にある時点でときには単なる偶然から、多くの場合は断片をつなぎ合わせながらたどり着き、それを通じて他のゲイたちに出会い、その関わりの中で揺れ動く自己認識と世界観を経由しながら、徐々にこれまで自分が獲得してきたゲイに否定的な文化を書き換えていくことによって、新たな生を始めていく。彼らの持っているそうした潜在的な力能を少しでも低く見積もることは、不当なスティグマに堕する。しかしながら、これが困難な過程であり、また常に成功するとも限らない行程であることもまた、否定しえないことだ。
 だが、それだけではない。

ゲイのほとんどはヘテロセクシュアルの両親の下に生まれる。[……]また、ゲイはたいてい、ゲイコミュニティに20-30代になってから参入するので、それまでに既に社会化が為されてしまっている。[……]ゲイの場合、ゲイコミュニティで為されるのは「二次社会化」であり、家庭内で行われるような「一次社会化」と異なって、充分な構造化が成し得ない。ゲイコミュニティに参入するときには、彼は既に民族、人種、階級、ジェンダー、宗教、職業など様々なアイデンティティを所有しているのであり、それが二次社会化過程を阻害するのだ。(Kymlicka 1998: 98)

 ゲイは、ゲイコミュニティにたどり着くまでの間にたくさんのものを身につけてしまっており、それらをすべて切り捨てることは事実上困難である。生まれた土地の民族文化や友人関係、出生家族との間に愛着が形成されているかもしれない。既に職業を持っているかもしれない。ここでゲイコミュニティが、こうした愛着や、労働・教育機会の代替物を用意できるとは考えられない以上、ゲイが進んでコミュニティ内部に移住し留まることも期待できない。ここから、ゲイ分離主義は現状から考えれば実現不可能である(Kymlicka 1998: 99)、と考えたくなるのも(その規範論的妥当性は別にして)理解できる。
 以上のようなゲイの置かれた事態は、身体状況に非適合的な文化を「習得した場合に害が発生する」事例と考えることが出来るだろう。ではこうした事態を解決することは可能だろうか。

 4 養育者の困難と、養育のプライバタイゼーションへの批判

 前節までで示したような身体的マイノリティのこどもの場合を含め、生まれてくるこどもの身体状況の多様性に向き合う責任を、養育者のみに求めるとすれば、養育者の側もまたきわめて大きな困難を抱え込むことになるだろう。養育関係のプライバタイゼーションにより、この責任を養育者のみに求め、社会の側は担わないとすれば、この困難は事実上解決不可能のように思える。
 ところで、養育のプライバタイゼーションを批判する論者に、マーサ・ファインマンがいる(Fineman 1995=2003, 2004=2009)。ファインマンはその著作で、「避けられない依存」と「二次的な依存」という概念を導入する。以下、ファインマンの議論をたどってみたい。
 現在、政治や政策の中では自律神話が奉じられており、依存は激しい非難の対象となっているが、それはおかしなことである。依存は人類のありかたの自然なプロセスなのであり、我々はみなこどものときは誰かに依存しているし、年をとり、病気になり、障害を持てばまた依存的になる。これらは「避けられない依存」であり、歴史的に見て支援を受けて当然と見なされてきた。一方、避けられない依存の世話をすることが、介護者自身の依存を作り出す。これを「二次的な依存」と呼び、やむを得ず誰かに依存しなくてはならない人たちのケアの責任を果たすときに起こる。
 ところで、ケアの担い手はなぜ依存しなければならないのか。依存者のケアとは過酷な仕事であり、金銭的・物質的資源が必要であり、その他に制度的な支援や対応、ケアの仕事をしやすくする構造的仕組みも必要とする。にもかかわらず第一に、避けられない依存のケアの責任が国家でも市場でもなく家族のみに課せられていることによって、第二に市場での労働がケアの責任を担う必要のない人間像を前提に形成されていることにより労働とケアとが両立不可能な状況が生じていることによって、ケアを担う人間は他者に依存せざるを得ないのだ。だが、この事態は不公正ではないか。

誰もが避けられない依存を経験するからこそ、社会的、すなわち集団的責任を問う主張が成り立つのである。このタイプの依存が人類の条件にもともと備わっているという自覚があってこそ、避けられない依存をケアする者の立場に立ち、ケアの便宜のための社会的資源の必要性を訴える概念的土台を作りだせるのだ。(Fineman 2004=2009: 31-32)

社会的な正義は、より広い意味でのケアの義務を要請する。総体としてのケアがなければ、社会は存在していけない。社会を生産・再生産するのがケア労働だと言える。ケア労働が市民、労働者、有権者、消費者、学生を生み出し、また、その他の社会をかたちづくり、様々な機関で活動する人々を提供しているのである。[……]生物学的な依存が人類の条件に組み込まれているという事実は、とりもなおさずそれが集団的・社会的事柄であることを物語る。(Fineman 2004=2009: 42-43)

 ここからファインマンは、国家はあらゆる個人に対して基本的な社会的財を一生涯保障することに加え、ケアとその担い手を支えるための追加的扶助を提供すべきであると主張する(Fineman 2004=2009: 276-277)。国家はケア労働を支えるために、養育手当などの現金給付による直接的扶助とともに、ケア労働に対応した市場制度の再編の監督、促進することで何らかの依存の負担を市場に担わせるべきとする。このようにして、婚姻という性の絆を媒介とせずに、ケアの絆(Fineman 2004=2009: 60-61)それ自体を直接支えるのである。
 ファインマンのここまでの議論は、納得できるものである。しかしファインマンは続いて、「家族プライバシー」(Fineman 2004=2009: 283)という概念を提出する。社会がケアの担い手を援助し、支え、それに責任を負う義務があるとすると、それと引き換えに社会が再生産、家族構成、家族の機能などの依存に関する判断・影響力を生じさせる親密な関係を統制する相当の権利を持つべきだという「集団的統制」の主張が出てくるのではないか。これを退けるために使われるのが、プライバシーという概念である。
 ファインマンの「家族プライバシー」概念は、婚姻家族の周囲にではなく、ケアの担い手と依存者という単位の周りに引かれるものであり、その関係性を保護するものとして想定される。このケアの担い手と依存者との関係の自律は、社会的統制を逃れるために必要であると説明される。批判者が言うように、その関係に内在的不平等があることは否定できないし、ケアの担い手が判断を誤ることがないともひどい虐待が起こらないとも言えないのだが、「ケアの担い手は、依存者のニーズを考慮するのが普通」ではないだろうか、と(Fineman 2004=2009: 298)。
 ファインマンが述べる、「家族プライバシー」についてのここまでの議論は、仮に妥当だとしても更なる検討が必要なもののように思われる。ケアの担い手と依存者、たとえば養育者とこどもとの関係に相当程度の自律性が求められることは、認められてよいように思う。それはそのこどもに最も近い存在が養育者であり、それゆえにこどものニーズを最もよく知りうる立場にあるから、というだけではない。こどもの存在の他者性を最もよく感じ取り、それを尊重するだろうと期待されるからでもある。

このことにはその相手との距離の近さがあるのだが、しかし、その者との距離の近さがただ関わっているというより、近づくこと関わることによって、距離が脅かされてもしまう中に現れてしまうことにおいて、それが在ることが経験されてしまうことがある。ここで起こるのは、私の期待や願望が途絶し挫折すること、あるいはそんなたいそうなことは起こらないまでも、期待や願望と別のところに別の存在がいてしまうことを感じてしまうこと、そのことに伴って、そのものが存在し続けることに関わることを引き受けざるをえないと思う、そのような出来事である。(立岩 2004: 270)
 だがそうであるとしても、養育者はこどもをどのように育てていけばよいかについて、迷うものではないだろうか。まして、身体的マイノリティを含む、生まれてくるこどもの身体状況の多様性に向き合う時には迷い、情報を求め、同じ悩みをかつて抱いた人間に相談したいと思って当然ではないだろうか。ここで、養育のやり方について養育者の自律に任せるということは、この迷いに対して社会は責任を負わないということになりかねないのではないか。ひとつには、こうした懸念を感じる。
 そしてもうひとつには、養育のやり方を養育者に委ねるとした場合に、養育者の側の知識や技能の幅がこどもの側の身体状況に追いつかない可能性が懸念される。前節で述べたように、身体的マイノリティのこどもにとって、身体状況に合致する文化伝承を受けることは、生涯にわたる不利益を回避するうえで極めて重要である。しかし、すべての養育者がそうした文化伝承の能力があるとは考えにくい以上、養育者に委ねるというのはこどもの側からみればそうした文化伝承に与れるか否かを運に委ねるようなものである。その状況を不公正だと考えるなら、養育者のみに養育のやり方を委ねることはできない。

 5 養育関係内における多文化主義へ

 養育関係内の多文化状況がその射程に含まれていないため、養育のプライバタイゼーションに対するファインマンの批判は主として経済的な領野に留まらざるを得なかった。しかし養育者の側の困難とは養育それ自体の悩みにもあるのであり、身体的マイノリティのこどもの視点に立てば尚更のこと、養育者のみに養育のやり方を委ねることは妥当ではない。ファインマンが論じなかったこの後者の点について、我々の側で議論を続けることにしよう。
 養育関係内の多文化状況に対しては、そこにおける多文化主義の導入が必要であり、それは養育者とこどもを取り巻く社会における多文化主義政策が助けになると考える。具体的には、部分的には自律を保障するが、養育者自身がこどもの養育のやり方の幅を広げるために、身体的マイノリティについての情報を含む多様な文化伝承のありようについて知識を獲得し、具体的なやり方について相談できる場を保障すること、時には養育の場の複数化や移転も検討されてよいこと、が挙げられよう。図示すれば、次のようになる(図は省略)。ここで、“A+…”とあるのは、養育者自らが習得した文化A以外の要素も含みこむ形で、文化伝承を行うという意味である。
 養育者は、生まれてきたこどもに対して、次の二つのやり方でその身体状況の多様性に応えることができる。ひとつには、養育者自らがこどもの身体状況に適合的な文化を学び、それを伝えていくことである。そしてもうひとつは、養育者が自分だけでこどもの養育に向き合うことを止め、共同養育者を求めたり、養育の場を複数化したり、自ら養育することを止めて別の養育者に養育を預けたりすることである。どちらの方がより妥当であるかは、養育者側の状況と、こどもの身体状況およびそれと適合する文化の内容によって判断できるだろう。
 養育者が自分だけでこどもの養育に向き合うことを止めるという後者のやり方は、もしかすると突飛に感じられるかもしれないが、考えてみればそれほど不自然とは思われない。聞こえないこどものことを考えてみよう。こどもの身体状況に適合する文化は、手話言語とろう文化であるが、養育者自身は聞こえる人間でありそのいずれも充分な習得はできていないとする。この場合に、ろう者家族にこどもの養育を預けることや、ろう者家族と一緒になってこどもを育てる拡大家族というやり方、ごく早期の段階から聞こえないこどもに手話言語による教育を行う幼児教育機関を利用することなどは、現実に試みられている。国家の多文化主義政策は、聞こえる人間に対しても学校教育などを通じてろう者の文化を伝えることができるし、ろう者たちが聞こえる親に部分的に代わって聞こえないこどもを養育していくよう制度を作ることもできる。
 ゲイのこどもの場合は、聞こえないこどもの場合とは異なり、早期からの分離が事実上不可能であるという点と、彼らの身体状況に適合的な文化内容とマジョリティ文化との間の相違が音声言語と手話言語の間ほど大きくないという点を考慮すれば、養育者の側がゲイのありかたを知り、ゲイのこどもの育て方を相談する場を持ち、そうして伝承する文化内容をより包摂的なものに作り上げていくことの方が望ましいかもしれない。そして成長とともに、徐々にこどもはゲイコミュニティへと進むかもしれないが、養育者自身がゲイコミュニティのゲイたちと親しんでおけば、それは断絶というよりも緩やかな変化として受け入れていけるかもしれない。そのためにも国家の多文化主義政策は、ゲイを包摂しうる教育・社会制度を構築すると同時に、ゲイコミュニティへの支援も行う必要がある。

 以上で本論文の、養育関係内における多文化主義の議論を終える。もちろんこれで、養育関係内における多文化状況が提起する困難がすべて解決するわけではなく、むしろここから議論は始まるのだと言っても良い。考えられる今後の議論の方向性を、いくつか提示しておこう。
 ひとつは、これが養育関係内における多文化主義であり、政策的に展開される必要があるとするならば、他の人種・民族・言語・宗教の場合と同様に、複合的な政策展開が要求されるだろう。マジョリティとマイノリティとの間にある地位格差の問題、制度化された教育における多文化主義プログラムの具体的ありかたについて、養育者とこどもとの間の利害調整など、論争的主題が膨大に存在している。
 またひとつは、そしてこちらの方がより理論的には本質的だが、身体状況に適合的な文化が何であるか現在まだ分からないことの方が多いのだ。また、仮にそれが分かったとして、その文化が尊重されるべきか、身体状況自体の変更の規範論的検討も必要だろう。ろう文化やゲイカルチャーは、相対的に見えやすく議論しやすいものであったとも言える。
 だが、本論文で検討したように、少なくともろう文化やゲイカルチャーについては、一定程度以上の議論の蓄積があるのであり、そのことは他の身体状況を巡る問いについての可能性も示唆していよう。我々の眼前に広がる、身体状況を含めた多文化状況自体が、将来的にも消え去ることは考えられない以上、この多文化状況の中でいかに折り合いをつけていくべきかを考える必要は消えることはないし、一見したところこの途方もない問いを前に諦める必要もない。いま我々が考えるべきことの一つは、議論していくための仕掛けを散種することだ(注4)。そして、その際には本論文で提示した議論を無視することはできないはずである。

◆註
(1)生まれたばかりのこどもが、既に特定の文化集団に所属しているとは言えないかもしれない。しかし、あらゆる文化集団に所属しないことは現実的に不可能である以上、周囲の大人はそのこどもを、何らかの文化集団に所属するであろう、あるいはするべきものとして扱っているとは言えるだろう。本論文において問題としているのは、当の養育者が所属する文化集団へとそのまま所属するとしてよいのかどうか、という点になる。本文中では、それを文化に対する適合性の問題として論じている。
  養育関係間多文化状況と、養育関係内多文化状況との相違について、換言し説明するならば当該文化がもたらす効果(=本文中では「適合性」)が、養育者にもこどもにも同様なものが期待される場合とそうでない場合として発展的に分析することが可能かもしれない。本文中では養育者とこどもとに共に適合的か、こどもに対してのみ不適合かの二つの場合しか取り上げていないが、理論上は養育関係間多文化状況としては、
   A/a —(A)→ A/a :共に適合的
   B/a —(B)→ B/a :共に不適合
 の双方が考えられる。そしてこれが、かつてのリベラル・多文化主義論争の構図であった。例えば女性性器割礼を取り上げるならば、女性性器割礼が養育者にもこどもにも同様に有益であるか害であるかが議論されたのであって、養育者には害だがこどもには有益とか、あるいはその逆とかが論じられたわけではない。ところが、まさにこうした養育者とこどもとで、文化による効果の異なる場合こそが養育関係内多文化状況であり、身体的マイノリティの場合に顕在化するのである。
 尚、養子の場合や、外部文化の影響については本論文では扱わないが、たとえば宗教の世代間伝承を巡っても養育関係内多文化状況が生じうるからこそ問題となっているのだ、とも言い得る。身体状況aには文化AもA’も適合的だとしよう。ここで伝承される宗教をA、世俗的文化をA’とする。ここで、
   A/a —(A)→ A/a
 であるところに、周囲から世俗的文化A’が流入することによって、
   A/a —× (A’)→A’/a
 となり、養育関係内の多文化状況(A対A’)が生じる。
(2)そして本論文では、アクセスの手段というメディアとしての性質に注目して論を進める。換言すれば、文化全般の問題化を意図せず、言語およびそれに類似の性質を想定しうる文化に限って議論の俎上に乗せるという限界設定をしているということである。以下でゲイ文化について取り上げているが、そこでもゲイたちが紡ぎ作り上げる文化全般は想定しておらず、ゲイ同士の関係性の構築や情報の経路といった、類言語的な領域のみを想定している。コンテンツではなくコンテクストのみに焦点化するこの用法は、キムリッカの「社会構成的文化societal culture」概念に由来する(Kymlicka 1995=1998)が、しかしゲイ文化を巡る扱いは、我々とキムリッカとでは異なる。
(3)生得的であるということと、同性を対象とする性的欲望の出現や自覚が思春期以後であることとは両立する。そして、性的欲望の出現や自覚の具体的な時期についての明言はしない(例えば小児期におけるセクシュアリティについて)。本論文においては、ゲイに対するサポート団体の多くが採用しているこの立場を採る。
  ただし、ゲイの生物学的本質主義に則ったこうした立場は、間違いなく多くの異論を呼び寄せるだろうし、少なくとも政治的・戦略的なものとみなされるだろう。またこの立場が、歴史的・政治的文脈と無関係に、一定程度以上のリアリティを持ちうるとも思われない。本論文の趣旨から外れるのでここではこれ以上展開しないが、これらの点については別稿にて展開したいと思う。
(4)散種のための試みの一つとして、片山(2008)がある。そこでは文化を「財」と捉え、それを習得した人間にもたらす効果に従って分配の境界線を求めればよい、と論じた。この議論の利点としては、人間が複数の属性を有するという現実を損ねないままに、それぞれの属性ごとに分配が必要な「財」を検討することが可能な点である。この議論の有効性は、例えばダブルマイノリティの場合に発揮される。
  ただし、これらの議論の前提を問うような問題設定もありうる。つまり、どこに境界線を引くべきであるのか、また、ある境界線をなぜ「文化」の相違として論じるのか、という問いである。それは、歴史的政治的コンテクスト抜きに判断できるものではないだろう。残念ながら、多文化主義論の根幹に関わるこうした問いに答えるだけの用意は筆者にはない。本論文はその意味で、多文化主義を問うものではなく、多文化主義論のフォーマットを援用して養育関係を論じるものであった。

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