招聘講演 差異とアイデンティティのための闘争の先に見えてくるもの —タゴールの反ナショナリズム論とイリイチの「ヴァナキュラーな価値」を手がかりに

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西川 長夫(立命館大学)

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多文化主義はmulticulturalismという用語の誕生(1965年)から数えてまだ40年と少ししか経っていないのですが、すでにポスト多文化主義という名称が与えられるほどに急激に変化し、その存立の根拠が問われるに至っています。例えばジェラード・デランティはその著『コミュニティ』2003年(邦訳『コミュニティ—グローバル化と社会理論の変容』2006年)(1)の多文化主義の10の類型を示し、その最初の三つを伝統的多文化主義、次の四つを近代的多文化主義、最後の三つをポスト多文化主義に大別しています。その10類型を列挙すると以下の通りです。1.伝統的多文化主義—(1)単文化主義(日本、ドイツ)、(2)共和主義的多文化主義(フランス共和国)、(3)柱状化(Pillarization)(オランダのプロテスタントとカトリックによる教育、今日では存在しない)、(4)リベラル多文化主義(アメリカの憲法、「メルティングポット」モデル)。2.近代的多文化主義—(5)コミュニタリアン多文化主義(カナダ、ベルギー、インド—チャールズ・ティラー)、(6)リベラル・コミュニタリアン多文化主義(イギリス—「サラダボウル」モデル、アラン・トゥレーヌ、ハーバマス、キムリッカ)、(7)インターカルチュラリズム。3.ポスト多文化主義—(8)ラジカル多文化主義(今日のアメリカ、「アファーマティヴ・アクション」、一種の人種主義)、(9)批判的多文化主義(エスニック集団内の差異の強調、女性の権利、障害者、・・・アイリス・ヤング)、(10)トランスナショナル多文化主義(グローバル化、二重国籍・・・・・・)。
ポストモダン、ポスト構造主義、ポストコロニアルに続いてポスト多文化主義というのはいささか気が早すぎるような気もしますし、またこのような類型化の当否についても大いに議論のあるところでしょう。だが多文化主義がグローバル化と呼ばれる、当初の予想をはるかに越える大きな歴史的変化に直面し、同時にその理論的な矛盾や限界が露になってきているという現実は認めなければならないと思います。
グローバル化の時代における多文化主義の変質について、ここで改めて具体例を挙げる必要はないと思います。昨日と今日のシンポジウムの諸報告をこの観点から読むことができるし、また今回に限らず、過去の3回のシンポジウムについても同様です。因みにそのテーマを列挙すると、第1回「アジアにおける多文化主義とナショナリズム」(2005年)、第2回「多文化主義、そのヴァラエティ」(2006年)、第3回「社会正義と多文化主義」(2007年)。そして私自身の報告のタイトルは、第1回「多文化主義と<新>植民地主義」、第2回「グローバリゼーションと多文化主義」、第3回「多文化主義の不正義」でありました。私たちは「多文化主義」の名においてつねに現在の緊急の問題を考えてきたと思います。
ただここで一つ脱線をさせていただきますと、「ポスト多文化主義」という多文化主義の終焉を告げるかのような言葉を目にしたときの私の衝撃と感慨は、ここに集っておられる若い研究者や聴衆の方々とはかなり異なっているかもしれません。私は「多文化主義」という新語に出会い、カナダやオーストラリアにおける多文化主義の政策や理念を知ったときの感動をいまもはっきり覚えています。「多文化主義」は、単一民族神話が支配的な息苦しい日本社会のなかで、あるいは当時私が研究の対象としていた「単一不可分の共和国」をスローガンとしているフランスと比べても、何と輝かしく魅力的な言葉であったことか。(だが悲しいことにその後の40年、私はむしろ多文化主義のオーラを消すことに、つまり多文化主義の脱イデオロギー化に専念することになるのですが。)
多文化主義が大英帝国の広大な旧植民地における移民国家の諸民族間あるいは諸エスニック集団間の対立(コンフリクト)を端初にした、国民再統合の試みであり、したがって移民管理の意図を秘めた政策とイデオロギーであることは否定できません。しかし同時に多文化主義は、対立の克服と正義の実現をめざし現状改革的であることを自らに課した、その意味では「闘う概念」(2)(ヴェルナー・ハーマッハ)でもありました。逆に言えば闘うことを止めたとき、多文化主義は終る。多文化主義が限界に達したとは、同時に越えるべき対象(困難)を見出したということを意味するのではないでしょうか。(同様な両義性を備えた「闘う概念」として「人権」を上げることができると思う。少数の特権者の権利の擁護をめざした「人権」は、その範囲を無限に拡大しなければならない運命を与えられている。)
多文化主義の矛盾と限界は、現実と理論の双方から指摘されています。グローバル化の急激な進展は、初め多文化主義が想定した移民と移動の規模と速度をはるかに越え、もはや国境内の民族=文化問題として処理することはできません。移民の流動性が増加する一方で、同じ地域の移民集団における個人や世代間の文化的多様性(文化の多元化、個人化、複数化、集団的アイデンティティの崩壊)も進行しています。他方で文化的多様性の主張は今ではマイノリティの権利の問題を越えて、市場主義と多国籍企業のイデオロギーとして流布しています。一国内の民族間の地域格差や不平等の問題は世界的な格差や不平等との関連において考えることが求められています、等々。
私たちは移民の概念と同時に文化の概念を変えなければなりません。当初多文化主義が前提とした、純粋で均質的で自己完結的な民族文化という文化の概念がナショナルな幻想にすぎないということを証明したのは、グローバル化という歴史的現実ですが、それは多文化主義の理論的追究の一つの結果でもありました。私たちはむしろ、一つの文化は(仮にそういうものがあるとして)、他の文化との関係によって成立する相互的、複数的なものであり、対立と受容、交流と変容と移動をくりかえす現象であることを強調すべきだと思います。そしてそのことは、差異やアイデンティティ概念の変更を意味するでしょう。
多文化主義の未来は、グローバル化の先に何を見出すかにかかっていると思います。多文化主義的思考の限界をなしているのは、究極的には国家と資本、そして文明の概念ではないでしょうか。彼らの多くは少数民族の権利は主張しても少数民族を生みだしている国民国家のシステム自体は不問に付している。彼らの多くは民族的な格差と不平等を問題にしても資本主義という搾取のシステムを容認する。さらに問題なのは彼らの多くは多文化主義言説が究極的には西欧文明の擁護となっていることの自覚がないということです。(この点にかんしてはすでに前年度の報告「多文化主義の不正義」で述べました。)
私は以下、タゴールとイリイチという時代も地域も異なる、一見無縁に思われる二人の思想家の言葉を手がかりに、差異とアイデンティティをめぐる多文化主義の闘いの先にあるものを考えたいと思います。タゴールはナショナリズムが全盛であった第一次世界大戦時に、日本やアメリカをはじめ世界を回ってナショナリズム反対を唱え、植民地支配の元凶としての「ネイション」を批判し続けました。タゴールの発言は帝国主義時代の最大の植民地インドからの応答(レスポンス)ですが、そこには厳しい日本批判も含まれています。イリイチはグローバル化が顕著になりはじめた時代に開発主義に反対し、国語や学校や病院といった近代国家の諸制度を根底から批判し続けました。イリイチの発言は西欧文明のただ中からの自己批判的応答(レスポンス)ですが、ここではこの二人の思想的親近性と、とりわけ二人を結びつけている「ヴァナキュラーな価値」に注目したいと思います。

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ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore、1861−1941)のような巨大な存在の全貌に迫るなどということは私には不可能です。それに正直なところ、私は長い間タゴールを敬して遠ざけてきました。おそらくその強烈な精神主義のせいだと思います。私がタゴールに接近できたのは彼のナショナリズム論を通してです。もう一つ告白させていただきますと、今日ここにタゴールのナショナリズム論を持ちだすについては、第一回の多文化主義シンポジウムのテーマが「アジアにおける多文化主義とナショナリズム」であったにもかかわらず、タゴールの『ナショナリズム』や孫文の『三民主義』を持ちだすことができなかったことを反省し、恥ずかしいことだと思っているという事情があります。タゴールの『ナショナリズム』と孫文の『三民主義』はアジアの植民地化を目指した列強の帝国主義に対するアジアの側からの最も強烈で理論的にもレベルの高い反響であったにもかかわらず、欧米一辺倒の日本の研究者はそうしたアジアからの応答(他にも多くの応答があったはずです)を無視してナショナリズムを論じることができると考えてしまうのです。
だがそれにしてもタゴールの『ナショナリズム』は大方の予想に反した意表をつく応答でした。植民地支配に対する反応であれば民族独立を唱えるナショナリストとなるのが一般的傾向ですが、タゴールの場合は逆にナショナリズムの全否定であったからです。タゴールの『ナショナリズム』(Nationalism、Macmillan、1917)には、1916年の9月から翌17年の1月にかけて、日本とアメリカの滞在中に行われた講演にもとづいて書かれ、「日本におけるナショナリズム」「西洋におけるナショナリズム」「インドにおけるナショナリズム」という3部構成になっています。
タゴールの最初の日本滞在は3ヶ月余に及び、その間各地を訪れて、アジア的停滞を打破して東洋で初めて近代化に成功した日本人の、簡素で規律正しい生活と、直感と共感にもとづく自然との調和的な態度に感銘をうけると同時に、他方で急激に展開している「国民」化とナショナリズムに強い危機感を抱いています。東京帝国大学(「日本へ寄せるインドのメッセージ」)、慶応義塾大学(「日本の精神」)の他に日本女子大学でも講演が行われたようですが、その内容はこうした危機感の表明であり、目前にくりひろげられている日本の軍国主義や国家主義に対する率直な警告でした。だがこれらの発言は第一次大戦の参戦と勝利に湧く日本の聴衆の期待を大いに裏切り、東洋初のノーベル文学賞受賞者にたいする熱狂は急速に萎み、おまけにこれらの講演をまとめた『ナショナリズム』は日本では発売禁止になりました。
アメリカではシアトルから始めて、シカゴ、ボストン、ニューヨーク、ビッツバーク、クリーヴランド、等々各地を回り二十数か所で精力的に講演をしていますが、やはり反応は日本と同様で、後に出版された『ナショナリズム』は激しい非難をあびました。母国のインドでも批判が相次いだようで、『ナショナリズム』はまさに反時代的な書物ですが、世界的に類似の状況が再現している90年後の今日でも、同じような反応が予想されるのではないでしょうか(3)。
タゴールのナショナリズム論の最大の特色(私は優れた独創性と言いたい)は、それが徹底した「国民」(Nation)批判であるということです。インドやその他の東方の諸国を、侵略し植民地化しているのは、西欧列強の軍人や官僚や商人である以前に、より本質的には列強の「国民」である、あるいは第一次大戦のような悲惨な戦争と殺戮を引き起こしている元凶は「国民」である、というのがタゴールの一貫した主張でした。タゴールは政治的と言うよりは宗教的、精神的であった国民のいない(no nations)インド5千年の歴史を振り返って次のように言う。

「このようなみどり見のような態度と、古老の智慧をもち合わせた人間の住む、この辺鄙の地域に対して西洋の「国民」が襲いかかった」(320頁、p.50)(4)

したがってわれわれは「われわれの言う「国民」なるものが、人類にとって何であるのか」(321頁、p.50)を証言するために、呼びだされている、というのが本書におけるタゴールの立場です。インドは長い歴史のなかでこれまでも幾度となく王候や他人種の支配を受けたが、「国民」による支配は初めてです。では「国民」とは何か。タゴールがくりかえす「国民」の定義の幾つかを次に引用します。

「「国民」とは、人民の政治的ならびに経済的な結合であるという意味において、一つの住民全体が一つの機械的目的(a mechanical purpose)」のために組織化された場合に現われ姿である。」(321頁、p.51)(「社会」)
「こうした非人間化の過程は、商業や政治の分野で進行中である。そして機械動力が長い陣痛の後、西洋において「国民」という洗礼名をつけられた、素晴らしい能力と驚くべき食欲をもつ、発育し切った装置を生み出したのだった。」(340頁、p.70)
「特定の国民にわたしは反対しているのではない。すべての国民に当てはまる通念に反対しているのである。「国民」とはなにか。一国の全人民が力として組織されるときの様相である。この組織は住民が強力かつ効率的になることを主張してやまないのである。しかしこうした強さと効率を追い求める不断の努力は、自己犠牲的で創造的な人の高尚な本性からエネルギーを奪ってしまう。なぜならこれによって人の献身の力は道徳的な彼の究極的目的から機械的なこの組織維持のほうにふりむけられるからである。・・・・・・」(387頁、p.86)

以上でタゴールの「国民」観についてはほぼ輪郭をつかんでいただけたと思いますが、さらにナショナリズムにかんする引用を2、3続けさせていただきます。

「真実は、西洋のナショナリズムの原点、しかもその中心に紛争と征服の精神がひそんでいるということである。」(330頁、p.59)
「全世界中に、恐怖・強欲・猜疑の種子、恥知らずの外交の嘘、そして平和、善意、全世界的兄弟愛の「人間」宣言のまことしやかな嘘をばらまくナショナリズムの精神に、われわれは屈従すべきであろうか。」(371頁、p.40)
「ナショナリズムは一大脅威である。それは多年インドの諸紛争の底辺に存在する独特の事物である。ましてわれわれは完全に政治的な態度の国民に統治され支配されているのだから、それだけわれわれは過去の遺産にもかかわらず、やがてくるわれわれの政治的運命に対する信仰をわれわれ内部に育てるべく努力してきたのである。」(388頁、p.87)

ナショナリズムはインドのような植民地においても「一大脅威」ですが、「国民」形成に成功した日本においてはどうでしょうか。タゴールは「ナショナリズム崇拝」(the fetish of nationalism, the cult of Nationalismはタゴールのアメリカにおける中心テーマで、シアトル、ロスアンゼルス、ボストン、ピッツバーグ、ニューヨーク、フィラデルフィア等における講演のタイトルになっています)の非人間的な弊害について述べた後で、日本の現状について次のように語っていますが、これはファシズムの形成を予告する実に鋭い的確な指摘でした。

「わたしは日本において、政治による民心の手入れや自由の刈り込みに、全人民が進んで従っているのをみたのである。各種の教育機関を通じて政府は、全人民の思想を規制し、彼らの感情をつくりあげ、彼らが精神的なものに心を寄せる徴候がみえると、政府は疑い深く警戒的になり、彼らを真実なものに向かってではなく、政府御手盛りの処方箋に従った一つの型に溶かしこむのに必要なものの方向に向かって、狭い通路に誘導していくのをみた(5)。人民はこうしたゆきわたっている奴隷心理を、欣然と誇りすらもって受容しているのである。というのも彼らが「国民」と呼ばれる力の機械にわが身を投げ込み、俗物の集まりのなかで他の力の機械と競い合おうとするからである。」(333−334頁、p.62−63)
「日本にとって危険なことは何か、と言えばそれは西洋の外面的特徴を模倣することではない、西洋のナショナリズムの原動力を自己の原動力として受容することである。」(367頁、p.36)
「わたしは日本訪問を終えてきたばかりだが、彼処ではこの若々しい国に向かってわたしは、人類の高い諸理想に自分の立場をおき、けっして西洋にみならってナショナリズムの組織された利己主義を、己れの宗教に受け容れないように、近隣の弱味につけ込まないように、弱者に対する振る舞いに無法なことのないように、弱者は、自国に一撃を加える力をもつものに対して、感嘆の頬ずりをするために、人間性の輝く自分の右の頬を差し出すと同時に、見事に、平然とへり下ってみせることができるのである。」(342頁、p.71)

日本人の多くはタゴールの忠告を無視し、またタゴールが語る弱者の抵抗を理解しなかったと思います。もう少しタゴールの日本に対する期待と忠告を聞きましょう。

「日本は西洋から己れの食物を輸入した。しかし生命力は輸入しなかった。(・・・・・・)
この偉大な東洋の国が、現代の手から受容した機会と責任をもって、今後いかなることを行なう積りなのかを、全世界は見守っている。もし西洋のたんなる再生産であるならば、日本にかけられた大きな期待は満たされずに終わることになる。というのは西洋文明が世界の前に提出しながら、いまだにその答えが完全に出されていない、重大な諸問題が多々あるからである。個人と国家、労働と資本、男性と女性などの間の葛藤、物質的利益を求める強欲と人間の精神的生命、諸国民の組織された利己主義と人類の高尚な理想との葛藤、<商業や国家の巨大組織と切り離し難い、あらゆる醜悪な複雑さと、簡素、美、十分な閑暇を求める人の自然的な本能との葛藤>—これらのすべてをいまだ想像もしなかった様式によって、一つの調和にもっていかなくてはならないのである。」(352頁、p.21−22)

タゴールが90年前に提起し呼びかけた困難と課題は、おそらくより大きな危機的な状況のなかで依然として現在の私たちの目前に置かれています。だがタゴールの言うようにその解決は「国民」によっては為しとげられないとすれば、私たちは一体どうすればよいのでしょうか。タゴールは文中でNationに対してNo Nation、あるいはno nationsという言葉をくりかえしており、それは「国民」に対して「無・国民」と訳されています。それは訳注(6)にもあるように国民化される以前の地域の住民、したがって植民地やいわゆる第三世界の人民と考えてよいでしょう。しかし私はこのNoという言葉は、単なる無や国民以前を指すだけではなく、他方で否定あるいは拒否の強い意志を表すと考えるべきだと思います。つまり「国民」化されることを拒む国や地域の住民です。そして私はそこにむしろタゴールが未来にかけた希望を読み取りたいと思います。
タゴールにおける「No Nation」の理想を私たちは「国民」に侵略される以前の、あるいは「国民」に侵略されても依然として片隅で生き続けている、インドや日本やインドを含む東アジアの歴史にかんするタゴールの記述の中に読みとることができると思います。

「インドの初期の歴史における闘争、陰謀そしてだまし合いのすべてから、インドは超然としていた。というのは家庭、田畑、礼拝堂、学校—そこでは教師と生徒が、簡素、献身および研学の雰囲気のなかで、集団生活を営んでいた—簡略な法律と平和な役所をもつ村落自治、これらすべてをインドは本当に自分のものにしていたからである。インドの王位はインド人の関心事ではなかった。王位は時には豪奢な紫色を、時には雷を落とす恐れのある黒色を加味した雲のように、インド人の頭上を流れ過ぎていった。それらはしばしば荒廃をもたらして去っていったが、自然災害のように、その跡はまもなく忘れ去られた。(しかし今回は違った。・・・・・・)」(320頁、p.50)
「インドの問題は世界の縮図であった。インドはその地域が広大に過ぎ、多過ぎる人種に分かれている。インドは多数の国が詰めこまれた一つの地理的容器である。ヨーロッパは真実何であるか。それはすなわち、一つの国から多数の国が生まれたものである。インドはその反対である。こうしてヨーロッパはその文化と発達において、多数の強さと同時に一つであることの強さをもつ利点をもっていた。その反対にインドは、本来は多数であるのに、たまたま一つになっている。そのためつねに多様性からきたルーズ性と、単一性の弱さに悩まされてきた。(・・・・・・)この多様性は、インドの名誉のために言っておきたいが、インドの創造したものではなかった。<インドは歴史の初めから、それを既成事実として受け容れなければならなかったのである。>アメリカやオーストラリアにおいて、ヨーロッパは原住民のほとんどを絶滅し、自分の問題を単純なものにした。現代になってもこの絶滅の精神は、彼らがいま占領している土地において、もとはよそものであった彼らが冷酷な外国人排斥を行なっているということに明示されている。だがしかしインドは人種の違いに対して最初から寛容だった。またその寛容の精神はインドの歴史全体を通して活動しているのである。インドのカースト制度はその寛容の結果である。(・・・・・・)
人種の多様性はその欠点がどのようなものであろうとも、あらねばならぬものであるし、またあるべきものである、とインドは感じた。いつか諸君は高い代価を払わずには、自然を諸君の狭い便宜主義の領域のなかに押しこめてはおけなくなるのである。この点インドは正しかった。しかしインドの理解できなかったことが何かと言えば、それは人間における相違というものは、山岳地帯の物理的境界線のように、永久に固定されたものではないということであった。—それらは生活の流れとともに流動し、通路、形態、量を変えるものである。」(390−391頁、p.88−89)

私たちは上の文章の中に、タゴールの多分にヒンドゥーイスム的な理想社会のイメージと、西洋的理念とは異なる多文化主義のありうるコンテクストと可能性を読みとることができると思います。
タゴールにかんしては多くのことを言い落としていると思いますが、この節の最後に、「国民」は「国民」によっては越えられず、ナショナリズムに対してナショナリズムで応じてはならないというタゴールのメッセージをもう一度思い起こしたいと思います。日本の現状や戦後に民族独立を果した新興諸国の現在を考えるとき、このメッセージは一層の切実さをもって私たちの胸にせまりはしないでしょうか。

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イバン・イリイチ(Ivan Illich、1926−2002)は、タゴールと同様、通常の人間の規格をはるかに越えた巨大で複雑な存在であり、私はイリイチを十分に理解しているとはとても言えません(6)。ここではイリイチの提示した「ヴァナキュラーな価値」に焦点をしぼって話を進めさせていただきます。「ヴァナキュラーな価値」は私にとってイリイチの世界に入る最も近い道であると同時に、タゴールとイリイチを深いところでつなぐ魅力的な道でもあります。『シャドウ・ワーク』に収められた「ヴァナキュラーな価値」や「人間生活の自立と自存にしかけられた戦争」、その他の論考を読みながら私がつねに連想していたのは、タゴールが描いた、そして現在も続けられているインドの民衆の生活であったのですが、これは決して間違った読み方ではないと思います。
それにしても「ヴァナキュラーな価値」(Vernacular Values)は意表をつく面白い論考です。そこで述べられているのは、「ヴァナキュラーな価値」それ自体ではなくて、コロンブスと同時代のスペインの文法学者エリオ・アントニオ・デ・ネブリハ(Elio Antonio de Nebrija [Lebrija]、本名Antonio Martinez de Cala、1444−1522)のことであり、イリイチはそのネブリハの『カスティリア語文法』(Gramatica de la lengua Castellana、1492)に寄せられたイザベラ女王への「献辞」に対する、ほとんど各センテンス毎の解説です。このネブリハの『カスティリア語文法』の出版は、コロンプスがジパングをめざして、つまり新大陸「発見」をめざして出帆した(1492年8月3日)ちょうど15日後のことでした。そしてこのコロンブスの航海よりもネブリハの出版の方が近代の歴史にとってより重要な事件であったというのがイリイチの意見です。
コロンブスの冒険への援助を一度は拒否した女王イザベラが、最終的にそれを受け入れるに至った理由をイリイチは次のような独特の用語法を用いて書いています。
「イスラム教徒をヨーロッパから駆逐していた彼女は、大洋をこえてキリスト教の信仰を植えつけることを望んだ提督の願いを拒否することができなかった。後にみるように、植民のための海外征服をきめたこの決定は本国における新しい戦争の布告を意味していた。すなわち彼女に従う国民の<ヴァナキュラーな領域>の侵害、ヴァナキュラーな生存にたいする五世紀におよぶ戦争の開始を意味していた。いまわれわれは、その破壊の深度を測りはじめているのだ。」(89頁、p.33)(7)

ではネブリハの『文法』の意味は何か。

「コロンブスがポルトガルの見慣れた海域や諸港を巡航しているあいだに、スペインでは新しい社会の根本的な建設案が女王に提示された。コロンブスが身近なもの—黄金、臣民、ナイチンゲール—をもとめて海外の地にむけて航海しているあいだに、スペインではネブリハが女王の臣民をまったく新しいタイプの従属へと移すことを主張していた。彼は文法という新しい武器を女王に贈ったのである。それは新手の傭兵、知識人(letrado)の手で用いられるものだった。」(90頁、p.33)

さらにイリイチは、「献辞」の解読を進めるにあたって次のように指摘しています。

「グラナダの征服者は一つの請願をうけとったのだ。(・・・・・・)コロンブスとは異なって、ネブリハの要求は、女王に国内の新たな領域への侵入をうながしているものであった。彼はイザベラに、彼女の臣民たちが話す言語を植民地化する道具を提供した。つまり彼は、民衆の話しことばのかわりに女王のことば(lengua)、彼女のことばづかいを強制することを要求した。」(91頁、p.34)

イリイチの解説を頼りにネブリハの「献辞」を読んでいくと、それがいかに恐るべき文書であるかが分ってきます。ネブリハの提案以前には、言語はヴァナキュラーな領域に属し、王権が住民(臣民)の言語に介入するなどということは思いもよらないことでした。ネブリハは住民の一言語から人口的な言語(国語)を作り、女王の支配下にある国内と国外の全住民にそれを強制すべきだとと言う。それ以後、言語は教えられるべきもの、国家によって管理されるべきものになる。1492年の日付のあるこの文書を読んで改めて驚くことは、そこに現在私たちが無意識のうちに抱いている「国語」の観念がすでに明確な言葉で記されているということです。イリイチは「臣民によって話される言葉の植民地化」について述べていますが(He offers Isabella a tool to colonize the language spoken by her own subjects.)、国語はその初めから植民地主義的欲望を内包しています。ネブリハはまた帝国の住民たちが、俗語によって書かれた低俗な小説や物語に無駄な時間を費やさないためにも国語の必要を論じていますが、国語は当初から禁書と言論統制の意欲を秘めているのです。
ここではネブリハの文章(8)をたどる時間的余裕がないので、次にイリイチの分析の結論の部分だけを引用します。

「ネブリハは自分のやりたいことを率直に述べ、信じがたいような計画の大要を示している。彼は帝国の伴侶を慎重にその奴隷へと変えた。ここで最初の近代言語の専門家は、民衆の話しことばと生活から、国家とその追求目標にふさわしい道具をつくる方法を女王に進言している。ネブリハの文法は、彼自身によって国民国家(the nation state)の柱石と考えられている。その結果として国家は、当初から攻撃的なまでに生産的な代理機関[組織(体)](an aggressively productive agency)とみなされている。新しい国家は人々の生存を基礎づけることばを人々から取り上げ、それを規格化された言語へと変えた。(・・・・・・)ヴァナキュラーな言語から公的に教えられる母国[母国語]への根源的な変化は、とりも直さずつぎのような転換を予示するものであった。すわなち、母乳から哺乳ビンへ、人間生活の自立から福祉へ、使用のための生産から市場のための生産へ、(・・・・・・)近代国家の市民と国家の提供する言語との両者がはじめてこの世に生まれた。この二つは歴史上どこにも前例のなかったものである。」(109−110頁、p.43−44)

ここには近代世界と西欧文明に対するイリイチの考え方がはっきりと示されています。スペイン再征服を終えたばかりの女王イザベラに差しだされたネブリハの小さな文法書は、前近代と近代の境界を示すだけでなく来るべき近代の本質を前もって照しだす。ネブリハの「献辞」とイリイチの分析を読むと、大航海時代以後の500年は一続きの時代であったことを痛感させられます。大航海時代は第一のグローバル化の時代といってよいのですが、コロンブスとネブリハ以後の500年は、ヴァナキュラーな領域とヴァナキュラーな価値に戦争が仕掛けられそれらが破壊されていった時代、国民国家形成と植民地支配の時代、支配と搾取と開発の時代でした。西洋文明に対するこのようなイリイチの認識とタゴールの「国民」批判、西洋文明批判は、タゴールは西洋文明に支配されようとしている植民地の側から、イリイチは植民地を支配する西洋文明のただ中からそれを見ているという違いを別とすれば、驚くほど見事に一致しています。
ではイリイチが拠り所にし、タゴールもおそらくは同じことを別の言葉で考えていた「ヴァナキュラーな価値」とは何でしょうか。「ヴァナキュラーな価値」と題された論考では、それは侵害され破壊されるものとして描かれていて具体的ポジティヴな記述はありません。この問いに答えているのは、むしろその次に置かれている第4章の「人間の自立と自存にしかけられた戦争(9)」で、イリイチはそこでヴァナキュラーという語の語源(インド‐ゲルマン語系の「根づいていること」と「居住」の意味)から始めて、ラテン語のvernaculum(家で育て、家で紡いだ、自宅産、自家製のもの、等々)から英語、フランス語に入る過程をたどった後で次のように述べています。
「私はいまここで、この語の古い息づかいをいくぶん復活させたい。われわれが必要としているのは、交換という考えに動機づけられていない場合の人間的活動を示す簡単で卒直なことばである。それは人々が日常の必要を満足させるような自立的で非市場的な行為を意味することばなのだ。その性質上、官僚的な管理からまぬがれているその行為は、それによってその都度独自の形をとる日常の必要を満足させるのである。」(129頁、p.57)

「私はヴァナキュラーな言語とその再生の可能性を語ることによって、望ましい未来社会の生活のあらゆる場でもう一度ひろがるかもしれない存在(あること)、行動(すること)、制作(つくること)のヴァナキュラーな様式がありうることに気づかせ、その議論をひきおこそうとつとめているのだ。」(130頁、p.58)

イリイチがヴァナキュラーという言葉にかけている期待と意図は上の引用で明らかだと思います。ヴァナキュラーな世界は、その本来的な意味において多言語・多文化的な世界でした(コロンブスやネブリハ自身の生涯と生活もそのようなものであったことをイリイチは強調しています。)だが現在、私たちが直面している、西洋文明と国民国家の矛盾から生みだされた多言語・多文化主義はこのヴァナキュラーな価値の再生につながるものでしょうか、あるいは対立するものでしょうか。これは私たちが直面している、あるいは私自身にとっての切実な問題であります。
私の話は、私の意図にもかかわらず、皆さまに否定的でペシミスティックな印象を与えたかもしれません。最後に多文化主義にかんして最近私が読んで強い感銘を受けた書物のなかからもう少し元気な言葉を引用しておきたいと思います。それは最初に述べた「闘う概念」としての多文化主義にかかわるものです。

「(・・・・・・)そして多文化主義が現実の政治的チャンスを持ちうるとすれば、それはただ、この多文化主義がそうした別の民主主義の全権を委任された者として働くときだけであり、したがってそれだけでなくまた、この多文化主義が第一世界や第二世界のうちにある、考えられ得るかぎりの、そして思いもよらないあらゆる第三世界の緩やかな革命としても働くときだけである」(10)。

御清聴、ありがとうございました。


(1)ジェラード・デランティ、山之内靖+伊藤茂訳『コミュニティ—グローバル化と社会理論の変容』NTT出版、2006年(Gerard Delanty, Community, Routledge, 2003)
(2)ヴェルナー・ハーマッハ、増田靖彦訳『他自律—多文化主義批判のために』月曜社、2007年、56頁(Werner Hamacher, Heterautonomien−One 2 Many Multiculturalism, Berlin, 2003)
(3)タゴールの反ナショナリズム論に対するこのような当惑と反撥、そして無理解は『ナショナリズム』が収められている『タゴール著作集』第八巻(第三文明社、1981年)の解説者市井三郎にまで及んでいる。二十数年前の文章をここに改めて引きだすのは気がひけるが、この文章は日本のリベラルな知識人がナショナリズムの問題に直面したときの虐弱さを示している。解説者はタゴールのナショナリズム論を全く理解しようとしていない。これと対照的な、私の知る限り、タゴールのナショナリズム論を最も深く理解した文章として、孫歌氏の「理想家の黄昏」を挙げておきたい。『アジアを語ることのジレンマ』(岩波書店、2001年)に収められた論文というよりはエッセーに属するこの文章のなかで、孫歌氏はタゴールのナショナリズム論のなかに現在の最も切実な問題を見出し、歴史の未来の可能性につなげている。私たちは、そこに日中のナショナリズムのはざまで長年苦労し鍛えられた孫歌氏に独自のナショナリズムに対する視座を読みとることができるのであるが、ヴァ—ジニア・ウルフの『自分だけの部屋』への言及は同時に氏のフェミニズムに対する位置の取りかたをも示して興味深い。
(4)以下『ナショナリズム』からの引用は、上記『著作集』第八巻のページ数と英語版(Rupa paperback, 1994)のページ数を併記する。
(5)『ナショナリズム』の訳者、蝋山芳郎氏はこの部分に以下のような注を付している。「1904−5年の日露戦争以後、日本の政府は青年団の育成に乗りだし、義務教育を卒えた青年に対し、軍隊入営のための準備教育を施し、国家主義の思想を注ぎこもうとした。そのために、青年団の幹部には、郡長、視学、小学校長などが坐っていた。さらに第一次世界大戦勃発してから二年後の1916年には、予備将校制度という新制度ができ、青年を毎年三ヵ月ずつ、二年間入営させて訓練することになった。また1916年には、工業資本家の全国的結成のため、日本工業倶楽部が設立され、商業会議所が主として、中小企業者の利益を代表していたのに対し、大資本系統の利益を代表した。このように、明治から大正の両年代にかけて、日本では急速に、政府によっても、民間によっても人民の国家的組織化が進められた。」(521頁、注(7))
(6)イリイチの生涯に関しては、最近翻訳出版されたディヴィッド・ケイリ—編、白井隆一郎訳『生きる希望—イバン・イリイチの遺書』藤原書店、2006年(The Rivers North of the Future, The Testament of Ivan Illich, edited by David Cayley, 2005)を参照下さい。
(7)イリイチの引用は以下の版による。I. イリイチ、玉野井芳郎・栗原彬訳『シャドゥ・ワーク』岩波現代文庫、2006年(Ivan Illich, Shadow Work, Marion Boyars, 1981)
(8)この献辞も含めて『カスティリヤ文法』は大阪外国語大学学術研究双書14(1996年)に中岡雀治氏による翻訳が出ている。またネブリハの「献辞」と「国語」の問題に関しては拙論「ヴァナキュラーな言語(vernacular language)と教育言語(国語)—グローバル化のなかの言語とアイデンティティ」(「応用外語国際研討会」における基調報告、2007年12月7日、台湾国立高雄第一科技大学)を参照されたい。
(9)このタイトルの英語の原題は<The War Against Subsistence>で、仏訳Le travail fantome(seuil, 1980)では<La repression du domaine vernaculaire>となっている。日本語訳の「人間生活の自立と自存」はこの書物に幾度もくりかえされる表現で、ほとんどヴァナキュラーの定義とみなされるものである。なお仏訳には多くの追加や変更があり、イリイチ自身は英語版よりもむしろ仏訳に信頼を寄せていたようである。
(10)ヴェルナー・ハーマッハ『自他律』p. 150。 前出、注(2)を見よ。

生存学研究センター報告

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