成年後見制度/意思決定支援の論点 第9回「成年後見制度/意思決定支援の論点」

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成年後見制度/意思決定支援の論点

第9回「成年後見制度/意思決定支援の論点」

立岩真也・桐原尚之


立岩:意思決定支援、成年後見制度というお話なんですけど、2人名前があって、私立岩と大学院生の桐原さんで、主には桐原さんにしゃべってもらうと思います。皆さんに今配られているメモ(参考資料参照)というのは、まさにメモです。ここでお話しすることは2つです。
1つは、今年になって成年後見を促進する法律というのが提案されて、通っちゃったんです。世の中こんなもんだとその時思いました。わりあいここら近辺の少数の人たちが、それはおかしいですとかいうことを言ったんだけれども、多勢に無勢ということもありまして。ただ、そのわりにはわりと短期間の間にいろいろ文句を言えたかなという両方の感想を持ったんですけれども、そういうことが今年の3月と4月ありました。その時の出来事については、メモの上のところにあります。これはただの紙でして、うち帰って、あるいは今コンピューター持っていてネットにつながっている人はクリックしてくれればいいんですが、生存学研究センターというセンターのフェイスブックに僕は2日に1回ぐらい短い文章を書いていて、といいますか転載していて、そこに3月の末と4月の頭にその当時僕がツイッターで、これは私個人のツイッターなんだけれども、そういう関係のことをいろいろ知らせたんです。3月の頭ぐらいからそれを集めて掲載したものを、2つセンターのフェイスブックに個人のツイッターとは別にセンターのフェイスブック掲載していますので、2月、3月どんなことが起こったのかということについては、ここからたどっていただくとだいたいのことがおわかりだと思います。
ということで、成年後見制度いろいろまずいところあるということはある程度知られてもいるけれども、じゃあよくしましょうという流れになっていて、そういう話じゃないよねということを、私も含めていくらかの人たちが言ってきたんですが、どうもそういう情勢ではない。だけども、そこをなんとかしなきゃいけないというのは、言っているんです。どういうふうによろしくないのかという話は、また後で必要あれば補足します。
それからもう一つは、長瀬さんが紹介してくれた大阪でやる障害学国際セミナーの今年のテーマが意思決定支援なんです。このテーマが大切だということはおそらくみんなわかっていると思うんです。ただ、それを3か国、4か国集まってやるという時に、どういう話にもっていったらよいのか、主催者の側も悩んでおります。韓国とか中国の人にそういう制度あるのかって聞いても、ないとか言うんです。ないはずはないんじゃないかと思って、この間検索してみたんですが、法律としてはあるにはあるんです。成年後見制度に関わる法律が、あることはある。ただ、知らないっていうぐらいだから、そんなに知られてないか、あまり機能していないか、そういう状況なんでしょう。例えば中国において、どういう平面で議論というかをしたらいいのかということが悩ましく思われて、それについての僕はまだ方針が立っていないんですけれども、そんなこと言っている間に7月になっちゃいましたし、9月に本番があるので考えたいと思っています。そういうことを考えなきゃいけないところがおもしろくもあり、また難しいところでもあるんです。
実際、去年僕ら北京に行ってセミナーをやったんですけれども、長瀬さんがおっしゃっていたように、中国って今権利とか言うとちょっと怖いかなみたいな雰囲気もあって、あるいは、呼んでくれた中国の団体に迷惑かかるかもみたいなところもあったりして、去年中国でセミナーをやる時どうしようかなという時に、社会サービスだったらという言い方は失礼な感じがしますけれども、これだったらいいかみたいな時も正直あったんです。中国、これからというか、もう既にというか、高齢化社会になっているわけで、中国がいかなる政権になろうともどういう政治的なスタンスをとろうとも、障害を持つ高齢者がこれから増えていくというのは、これは明らかなことですから、それだったら中国でやってもいいかなという政治的判断みたいなのがあって、去年それでやったんです。
ですけれども、今回このテーマでやるということになって、これは数年前韓国でセミナーをやった時に韓国側の人からもこのテーマについてそれいいですねという話をして、そういう流れもあったりします。ただ、どういう方向で論じていくのかというのを、頭を絞って考えなきゃいけないのかなということを今思っています。
以上、一つは、日本で今年になってから法律を作る動きがあって、実際できちゃったわけですけれども、その前後の出来事については、紹介してなかったのでここ(生存学ウェブサイト、フェイスブック)を見てくださいというお話です。それからもう一つ、そういうことも引き継ぎつつ、同じ東アジアという単位でこの議論をしていると、どういうふうにしていこうかということに関しては、思いあぐねているということです。この二つだけ申し上げて、しばらく桐原さんにお話していただきたいと思います。では桐原さん、よろしくお願いします。

桐原:全国「精神病」者集団の運営委員であり、立命館大学大学院先端総合学術研究科博士後期課程の桐原です。お手元にある「第9回 成年後見制度/意思決定支援の論点―障害者権利条約と成年後見制度」という表題のレジュメに従って発表していきたいと思います。まず、最近になって成年後見制度は、障害者権利条約の第12条に抵触するということが新聞記事をはじめとするいろいろなところで指摘されるようになりました。
成年後見制度は、禁治産制度の改正と任意後見契約に関する法律の制定によって1999年に設置されたものですが、これまで法務省等によって判断能力が低下した人の財産を守る権利擁護の制度であると伝えられてきました。そのため、障害者等の権利を擁護するための制度が障害者の人権のための条約に抵触することが、「信じられない」とか「驚きを隠せない」とか、そのような反応を度々耳にしてきました。それだけ成年後見制度は、ある種の信頼が置かれてきた部分もあるわけです。しかし、成年後見制度に信頼をおいて成年後見制度を推進してきた社会福祉士会などが、この制度の運用実態をどれぐらい知っているかというと、どうも十分に運用実態を把握していないのではないかと思う節も多々あります。世の中一般に運用実態が知られていない要因としては、制度に内在する問題によって実態が顕在化しにくいことがあげられます。すなわち、成年被後見人の主張が法律上の有効性をもたないため救済手続きにのりにくいこと、そして成年後見人が成年被後見人に関わる一切の決定をすることができてしまうことの2点によって、結果として成年被後見人がなんらかの不利益を訴えたとして、それが外に出て知られていくということはほとんどありえなくなってしまうということです。なので、これまで成年後見制度に関する問題は、当事者によって表出されることや、顕在化することもあまりなかったわけです。

成年後見制度の法理について簡単に説明します。成年後見制度の立法事実には「意思能力のないものの法律行為は無効である」という法理があります。意思能力とは、有効に意思表示する能力と言われており、専ら、正常な判断ができるかどうかを関心としたものです。「意思表示」というのが多少ややこしいのですが、「動機」があって、「効果意思」が生じ、「表示意思」が生起されることで「表示行為」に至る、という一連の過程として把握されるものです。具体的には、消費者として売買の契約をするときに、商品を見て「ほしい」と思うわけですが、例えばパソコン買おうとした時に「インターネットをしたいから」というものがあったとしたら、それは動機にあたります。「インターネットしたいから」が動機ですので、「パソコンを買おうと思う」というのが効果意思にあたります。これは法律の効果を確定させる過程であるといわれています。そしてお店に行って「買います」と言おうとするところまでを表示意思とよび、そして買いますと直接いうことを表示行為といいます。意思無能力とは、表示行為が表出するまでの過程である効果意思、つまりパソコンがほしいと思うこと、この部分が何らかの理由で存在しないとか、おかしくなった状態のことを指します。こうした場合には、意思がなかったということで、結果として法律行為、つまりパソコン買ったという契約が無効になるわけです。法律が想定する人間とは、ある程度自分で自分のことを合理的に選択できる存在と仮定しているわけです。なので、こういう合理的でない場合の行為は、とりあえず無効にしましょうといった具合に考えるわけです。しかし、あまりにも高度に産業化された社会では、取引はある程度ちゃんと守られてないと企業に与える打撃が大きいことが問題とされます。例えば、パソコンを売っている方の会社は、その人が買いますと言ったから売ったわけです。だけども、後になって「さっきの私の内心の意思は無能力状態だったので無効になるんです、お金返してください」といわれても、企業側としては困ってしまうわけです。何よりも、その内心の意思というものを企業側は確認することができません。こういった問題のことを、「取引の安全が損なわれる」というのですが、この「取引の安全」というもののためにどうしたらいいかというと「意思能力のない人に関してはもうあらかじめ画一的にそういった契約だとかできないようにしてしまおう」と画一的に法律行為を制限する、法律行為とは契約など法的効力を生じさせるための行為のことですが、法律行為の効果を一律に制限してしまって、成年被後見人と名付けて外側から見ても判断できるよう、ということで成年後見制度というものが成立したわけです。
ところで、成年後見制度のできるまでの過程というのには、障害の社会モデルの観点から2つの批判すべきポイントがあると思います。1つは意思の支配に関するものです。人間の意思表示のスキルというのは、人それぞればらばらでまったくちがうのですが、それを評価するための視点は、情報をどれくらいもっているとか、個人の頭の回転がどんなものかとかも、個人の属性に関することと、人とのつながりがあるとか、教えてくれる人がいるとか、相談できる人がいるとか、個人がもっている社会関係に関することの2つがあり、そのどちらもが不可欠であると思います。にもかかわらず、成年後見制度や民法の枠組みだと、意思表示のスキルは人間にあらかじめ備わっている能力のように考えられてしまっています。このような考え方の根幹には、合理的に選択できて妥当な契約ができる人を法律が想定する人間像として、人間のデフォルトにおいてしまっていることがあります。合理的に選択できない人が、この社会に存在していて契約行為をするであろうということを忘却してしまっているわけです。だから、一般的な手続きとは別に特別な手続きを用意する必要に迫られることになり、成年後見制度なんてものができるわけです。これを僕は「意思の支配からの疎外」とカッコを付けて書いたのですけれども、人間が自分で自分の意思というものに拘束される、合理的に選択した意思によって決定したことに人が拘束されるという、こういう考え方の前提とする人間像から疎外されたのが障害者ではないのか、ということです。
もう一つは、取引社会に関するものです。取引社会は、人間を豊かにしていくためにあったもののはずなのですが、それが取引社会の方が人間よりも優先されてしまって、取引社会を守るために人間の保護というのが後回しにされてしまっている状態があります。先ほど説明した「取り引きの安全」なんて概念は、まさに取引よりも人間を後回しにしたがゆえのものだと思います。こういうのは、障害者の存在が円滑な取引社会を乱すものとして、取引社会から疎外されてしまっているということで「取引社会からの疎外」というふうに書いたんですけれども、要するに、こうした問題というのはこの社会の成員たる人間像の中に障害者が含み込まれていないことに端を発するものであって、社会モデルの観点から考え直さなければならないのではないかと思います。
先ほどから何回か出ている障害者権利条約第12条ですが、第12条第2項というものがどういった法理であって、具体的に成年後見制度がなぜそれに違反するのかということを説明したいと思います。障害者権利条約第12条の政府公定訳を読み上げますと、「締約国は、障害者が生活のあらゆる側面において他の者との平等を基礎として法的能力を享有することを認める」と、こういう条文です。これだけだと法律に精通してないとなんのことかよくわからないと思うので、簡単にまとめると、障害を理由にすることプラス法的能力プラス不平等イコール第12条違反であるという、こういう説明の仕方です。問題は、この法的能力とは何かということになるわけですが、障害者権利条約では法的能力として2つのパターンを想定しています。1つ目は、法律の中に定められている権利を有している、権利をもっているという地位に関する法的能力と、もう一つは法律に定められた権利を行使するための法的能力、この2つを想定します。言い換えれば、法律に定められた権利を有しているという地位を持たない場合や、法律に定められた権利を行使できないように制限されている場合というものが、障害者権利条約の第12条違反に該当するということになります。成年後見制度の場合は、行為能力といって、法律行為を制限するわけです。画一的に、しかも障害を理由にして法律行為という契約をしたり、相続したりだとか、あるいは所有したりだとか、そういったことを制限するわけですから、結果としてその法律行為が障害のない者と不平等になります。よってこれは、障害者権利条約第12条に違反するということになります。
はなしが少し原理原則的で、成年後見制度が条約に抵触するということの説明をしたんですけれども、もう一つ、ではどういうサポートが必要かという観点が出てくるわけです。それは障害者権利条約第12条第3項のところになるわけですが、ここでは「法的能力の行使に当たって必要とする支援」という言葉が出てきます。従来の場合、判断能力がないとされる状態の人が自分自身のことを決定すべき場面、例えば何か介護サービスとかが必要な人が介護サービスの利用をしなければならない場面といったときに―契約という制度を前提としなくてもいいんじゃないか、と。それはそうなんだけれども、今は一応契約制度が前提になっているので―そういうときには契約をしなければならないし、自己決定しなければいけないわけです。そこで成年後見制度は、本人のことを決定する人というものをあらかじめ決定しておくことによって、本人の代わりに決定して契約を成立させるわけです。これは、本人のことを決定する人を決めておくための枠組みなので、「代理決定の枠組み」というふうなかたちで表現されているわけです。しかし、障害者権利条約の第12条第3項では、決定する人を決めておく枠組みというものはまず否定されていて、本人の意思決定を法的に有効とみなした上でどのような支援ができるのか、結果として契約だったり取引社会の中で生きていくことの結果面をどのようにしたら平等にできるのか、と考える「支援された意思決定という枠組み」を採用しています。

ここで、国際連合の障害者権利委員会の中で言われていることなんですけれども、障害者だけではなく、全ての人は、意思表示のスキルというものは、基本的に能力差というか、個人差・個体差がある。みんな違う。だけれども、違うんだけれども、一定以上低い場合は、低いことを理由に制限されてしまう。法律によって制限されてしまう。この個人の能力が違うという部分は、条約でも一応認めている。けれども、だからといって制限していいという部分は認めないと、こういう構成になっています。では、個人の違いというもので、低下している人をどうするかといった時には、それを是正するための支援、法的能力の行使に当たって必要とする支援というものはしなさいというふうに書いています。
ここ最近、「意思決定支援」という言葉が流行っていますけれども、なんというのか、2005年ぐらいからこの支援された意思決定という訳語も含めて一番最初に日本に紹介していたのは、全国「精神病」者集団の関口明彦さんと山本眞理さんの2人です。僕も2006年頃には、頻繁にいろんなところでいうようになりました。これがおととしぐらいから変な受容のされ方をしてしまって、精神障害者の運動側の言葉と全く違う言葉で広がってしまっているわけです。この意思決定支援というものは、代理決定のパラダイムの廃止を伴わないようなものがほとんどです。あたかも意思決定支援と成年後見制度が共存可能であるかのように謳ったものが散見されます。また、意思決定支援として紹介されたグッド・プラクティスの多くは、誰が代わりに決定する人なのかとか、誰が意思決定支援者にふさわしいのかとか、あるいはどういう人が意思決定支援者としてふさわしいのかといった、先ほど代理決定パラダイムだというふうに言いましたけれども、「決定する人を決めておく」というような議論がほとんどを占めます。「決定する人を決めておく」という必要はなく、「決定する内容を決めておく」とか、あるいは「制限をしないまま共同で決定していく」ということなど、支援の可能性はかなり開かれているはずなので、そういった議論の道を開くための諸原理というのを示していく必要があると思います。
ちょっとはなしが少しそれるんですけれども、それるというのは今の成年後見制度は条約に抵触する、つまり法律行為を制限することは条約に抵触するというはなしだったんですけど、その前提である意思能力、つまり個人の判断が異なるという部分です。これを理由にして、そもそも法律行為の有効/無効を判断する枠組みが妥当であるかどうかということが障害者団体内部で議論されていて、これは非常に難しい問題なんですけれども、私自身は、あまりにも難題なので、意思無能力自体をそのまま削除すればいいというふうには考えていないわけです。つまり、先ほど示した動機、効果意思、表示意思、表示行為というこの4つの段階を経て意思表示するというローマ法に始まる考え方なんですけれども、この考え方のそれぞれの部分に応じて無効にするための手続き、取り消しにするための手続きが民法で定められています。例えば、詐欺や脅迫による意思表示は取り消せるとか、動機に錯誤がある場合に導かれた意思表示は無効であるとか、そういったことは一つずつ定められているわけです。効果意思がないにもかかわらず、障害の場合のみ表示行為をもって有効とみなすというのは、やはり障害者権利条約の理念と照らしあわせても道理が立ちづらいのではないかと思います。なので、この問題を取り扱おうとしたときには、この民法のパラダイムそれ自体を解体しなければ解決しないのではないかというふうに考えます。
ところで最近よきパートナーというか一緒に活動している日本自閉症協会の柴田洋弥さんという方がいらっしゃいますけれども、この方は「意思決定支援と法定代理制度の考察―障害者権利委員会一般意見書に適合する成年後見制度改革試論」というものを2015年11月の2日に発表されています(http://www.arsvi.com/2010/20151102sh.pdf)。ここではさっき言った動機、効果意思、表示意思、表示行為この4つにそれぞれに対応するかたちで、つまり動機の場合は動機に障害者の動機に関わる意思を支援者が一緒に考えて、障害者の動機に関心を与えていくという、そういう方向づけをしていく支援だとか、効果意思に関しては障害者の自己決定というものに向けてその決定の内容に関わる意思を支援者が一緒にまとめていくための支援だとか、あるいは表示意思に関しては障害者の内心の意思を表示するべき時に表出する後押しをする支援だとか、表示行為に関してはもうほとんどコミュ二ケーション支援なんだけれども、障害者が意思を表出するにあたって第三者の理解が可能なように通訳したり、障害者に表出方法の変更を求めていく、そういう支援を想定しています。こういうやり方というのが、どうしても現実の支援ではこうやっていくしかないというのはわかるんですけれども、現行民法の体制にのっとって意思決定支援というやり方を主張している限りだと、やはり障害者が法的な人間像の中から排除されているという当初の問題に対して何もいえないやり方になってしまうんではないかというように考えています。そういう意味では、意思無能力を削除せよという議論でもなく、あるいは意思表示・意思無能力の議論にのっとったかたちで意思決定支援というものを論じるわけでもなく、あくまでローマ法を基礎とした民法論の解体というものが考えられなければならないのではないかというふうに考えます。そういう意味では、障害者権利条約の第12条第1項に障害者が全ての場所において法律の前に人として認められる権利を有することを再確認するという条文があるんですけれども、これは単なる抽象的な飾りの条文というわけではなくて、あくまで実体的な締約国を拘束する条文なわけです。この条文が意思能力のような法律の法理や、障害者は法的な人間として想定していないといった法理に対して切り込めうる核心的な条文なのではないかと考えます。
最後になりますが、法律のはなしを長々といったのですけれども、結局再び支援の現場に戻った時にどうなるのかという話は残されることになります。つまり、成年後見制度は廃止してそれと同時に法的能力の行使に当たって必要とする支援というものの諸原理というのを定めたとして―諸原理というのは、先ほどいった代理決定の否定、つまり支援者は誰がふさわしいかとか、誰がその人のことを代わりに決めるべきなのかとか、そういう議論ではないことと、法的な能力、法律行為をすること自体は有効とみなして制限をしないこと、こういった原理なんですけれども―これを貫いたからといって、じゃあこの先には何をしていいんだというと、途方もないこと、難しい問題というのが待ち受けています。
例えば躁状態でテンションがマックス上がっちゃって車3台ぐらい買っちゃうみたいな人がいたとして、車を3台買ったその行為自体を本人が、自分が望んだわけでもない躁転した状態でしてしまった決定に、その後も拘束され続けるというのは、どうなんだろうか。やっぱり、それはちょっとあんまりよろしくないだろうと。例えば、自分がしてしまった法律上の表示意思に拘束されるための権利だけではなくて、拘束から解放される権利も当然必要なわけで、どういうふうにしてそこから解放されるべきかとか、あるいはあらかじめそういう行為をしないようにべったり支援者が張り付くというやり方の方がかえっていいのかとか、そういったこと、いろいろなことを検証しなければならないわけです。なので、できるだけ具体的な場面というものを取り上げていろいろ試した結果、どうだったか、どれぐらいのことを射程として、どれぐらいのところに限界があって、あらゆる方途の限界の中に、全ての方途の限界に該当してしまうような人間が存在するのかとか、もっと丁寧に話しあっていかなければならないのではないかと思っています。駆け足でしたが、僕の報告は終わります。ご清聴ありがとうございました。

立岩:ありがとうございました。ちょっと言葉を補うというか。さっき桐原さんが言った、要するに成年後見というのは、これもちょっと誤解している人いるんだけど、基本的には経済行為に関する後見であって、例えば実際は今回促進法という時に医療行為に関しても後見をオーケーにしようという議論はあったんですけど、それは基本的には今回の法律には盛り込まれなかったです。それは、それに対する懸念を表明した人たちもいたということも関係するんですけれども。要するに、契約というものを社会が守ろうとするというか、枠組みを保持するための枠組みだというのは、僕はそのとおりだと思っています。そのことは、私のメモの注の2というのがありますけれども、そこに軽く引用して書いてあります。
それはそのとおりなんです。ただ、じゃあそれを全部ひっくり返してあらゆる契約と称するものを事後的に無効にしてもよいという、そういう社会というか、そういう仕組みというのがあり得るだろうかと考えると、これはなんか難しそうに思える。僕もなんかまずったなと思って、全部なしにしたいんだけれども、と思ったとして、全部本当になしにできたらそれはそれでなかなか難しかろうなと思うわけです。じゃあどうするかというと、やっぱりそういう契約を保護するとか、あるいは有効にするということ自体を全廃するという話だと難しそうだということになるんだと思うんです。じゃあどうするかというふうに話を進めていく。
後見制度というのはそれに対する一つの、ある意味すっきりした解決法なわけです。つまり、ある人の決定の有効性というのを認めず、その代わりの人の決定というものに委ねる。大まかに言うとそういうことです。これは非常にある意味すっきりしているわけです。だけれども、それがもたらす害悪というか、不便さとかというものは、ここで説明するまでもないかなと私は思います。必要であればいたしますけれども。とすると、じゃあそういう枠組みでない代わりのものってなんなのかという話になってくるわけです。
それが言えないとまずいということになるかもしれない。ただここで間違えちゃいけないのは、なんか非常にすっきりしたあらゆる場合に使えるような解というものを探して、それがない、だから駄目、だから後見制度でいくしかないという、そういう思考回路というのはそもそも間違っていると私は考えます。これはどう考えたって、これが唯一の解という解が出ることはないです。論理的に。ですから、こういう場合にこうするとか、ここをもう少し強くするとか、そういうことを積み重ねてやれるところまでやって、それでも問題が残るだろうというぐらいのところでいいということは僕は言えると思います。ちなみに皆さんの手元にあるかな、昨年池原毅和さんにこちらに来てもらってしゃべってもらって、その時のものが報告書になっています。同じようなことを僕は池原さんに聞いていて、池原さんそれどうしたらいいんでしょうねみたいなことを言っている。僕のメモの注の1、注の方が長いですけれども、そこにもちょっと書いています。そうすると池原さん、弁護士らしからぬというか、法律家らしからぬ、なんだかしどもどした、法律じゃあね、みたいな話を実際しているわけです。でもこれは正直な答えだと思います。後見人をつけて終わりという話じゃない。でも代わりの、唯一の、正しいというか決定的な案はない。ないのが当たり前で、その上で何をしていくかなんです。ということは一つきっちり押えておかなきゃいけないと思います。
けれどもなかなかそこからもやっかいで、じゃあこれ全員が契約をいったんやめることができるようにするというのは、さっき難しいって言いました。そうすると、普通に考えることは、この人が言っていることはあんまりすぐに飲み込まない方がいいという、括り出すというやり方でしょう。この人の決定はちょっとそのまま受け取るとやばいと。誰にとってやばいという話はありますけれども、例えば本人にとってということにしましょう。本人にとってもやばいから、そういう人たちのはちょっと別の枠にして考えようという話は、ある意味合理的に出てくるんです。だけどそれは、知的障害なのか、精神障害といったらいいのかわからないけれども、そういう人に対する特別扱いそのものということも、たしかなんです。そうすると、それは仕方がないと思う部分と、やっぱりあんまりやりたくないなという部分と両方出てくるわけです。じゃあこの可能性はどこかでとっておきながら、他になにかやりようがあるかなというふうに次に考えてみる。
そうすると、騙されやすい人間をくくりだして保護するというやり方はあるんだけれども、一つ、やっぱり騙すやつは悪いでしょうというのはとりあえず言えるんです。騙すやつが悪い、その悪いやつを取り締まる詐欺罪か、あるいはクーリング・オフとか、そういうのがいろいろある。それをもうちょっと強くして、騙しにくくするというやり方をもう少し強くすると、騙されるやつはいなくなりはしないけれども、減るだろうということは言える。それでかなりの部分はフォローできるというふうに考えたら、100パーセントはいかないけれども、ある程度はいくということは言えるというふうにこの問題考えるしかないと僕は思っている。
でも、それでも、さっき桐原さんが出した躁転して車3台買っちゃった人というのは、まだ残る。つまり、その車を売った側は多分3台まとめて売ったらちょっとまずいかなというか、そんな気もしますけれども、今日はトヨタ行って明日日産行って次ボルボとか行って3日で3台買っちゃったという時に、トヨタのディーラーというかその販売店の人とかに、お前そんなことしちゃいけなかったんだとはなかなか言い難いものがある。そういう意味でいうと、売り手の方に悪意というか、そういうものを認めるというのはここでは使えないという意味で言うと、騙して契約するというのをもっとそれに対する制裁とか予防とかそういうものを強くするというのは、かなり有効だと思うけれども、でも全部はいかない。ただ繰り返しますが、全部いかないから、この人から決定の能力を全部奪って代わりに誰かということしかないと考えることは大間違いに間違っているということが一つ言えるんだろうということです。それが一つ補足というか、今思っていることです。
それからもう一つは、さっき言った車3台のことと本当は関係あるんだけれども、契約の問題だってそのぐらいややこしい話が残るというか、いつまでも残ると僕は言いましたが、今回、今のスキームの中の成年後見の中に含まれていない、例えば医療行為に関する代諾とか、代理決定とか、意思決定のお話になってくると、これもまたややこしいわけです。
今それを家族に代わりにさせるということのデメリットは明らかです。家族の利害というものと本人の利害というのは違うなかで、家族に任せたら、本人は生きたいけれども、家族は死なせたいから家族が死なせたら終わりっていう話に簡単になるというわけです。じゃあこれは弁護士だったらそれで解決するのか。そんなこともないということになります。
じゃあその時にどう考えるのかというお話はやっぱりあって、これは今日のメモにも書きましたけれども、私はなんだかんだ言ってそういうことを10年ぐらい考えてきている。つまり安楽死だとか尊厳死だとか、そういうことをどう考えるのかということを考えてきたつもりの人間ではあります。その時にこの人は決められないんだから、あるいはこの人は決めたことをそのままに従えないんだから、代わりの人を決めるというやり方もあるけれども、こういう時には医療者はこういうことをしちゃいけない、あるいはこういうことをすべきであるというようなそういうルールを対応させるというやり方もあるんです。僕の本を読めば基本的にそういうスキームになっている。つまり、本人の言うとおりのことをそのまま認めることはしない、むしろ医師、医療サイドはこういうことをしちゃいけないから、こうすべきである、そういうスタイルになっていると思います。ですから、これも一つのこれで決まりというわけじゃなくて、そういう事態に対してどういう対処法を社会が持つのかといった時に、代わりの人を決めると言うスキーム以外に、そういう時にはこういうことをしちゃいけないとか、こういうことをすべきであるとか、そういう対処法があるということです。
でも、それを意思決定支援という、そのある人の意思というものがあってそれを決定、それをサポートするという仕組みなのかどうかということは、ここは考えていくしかない。つまり、その意思決定支援というスキーム自体が本当に100パーセントそれでいけるのかどうかという話も関係してくるということです。私の立場は、本人が今自殺したいとか、安楽死したいとか言っている時に、その意思を尊重していないわけです。そうすると、そういったものも含めた意思決定支援というのは、もし意思というものがあらかじめあってそれをサポートするということであれば、言葉の不当なというか、拡張かもしれない。とすると、それも本人の別の最善の利益というものを代理するという考えは一つあるんだけれども、それも意思決定支援だと言ってしまえば、提言してしまえばそこの中に含まれるかもしれないけれども、ただそこのところをどう考えるのか、あるいはどういうふうな対処をしていくのかということは、考えどころというか、でもただ考えどころというだけだとむなしく空虚なわけで、少なくともいくつかの道筋があって、その代わりの人を決めるというのはそもそもあんまり上手じゃない選択肢の一つであるということ、それはしっかりわからなきゃいけない。
同時に、じゃあ代わりに唯一のこれで決まりという代替案あるかというと、これは論理的にない。論理的にない中で、いろいろな方途をどこまで組み合わせていくのか。組み合わせて、足していくのか、ででくる種々の問題をどうするのかというふうなけっこう地味な面倒くさい仕事をこれから我々はやっていかないといけないんじゃないかということを申し上げます。今日はばくっとしたことを言いましたけれども、どういうふうにこれとこれを足してどこまでいけるのかというところを、今回9月には間に合わないかもしれないけれども、1年かそこらかけて詰められるところまで詰めていこうかなということは考えています。この9月にいろんな国のいろんな状況が違う法律が違う人たちが集まった中で何話したらいいのかという悩みはまだ解決されていないわけで、でもなんとかと思っています。ということで私からの補足はこんなところです。ありがとうございました。

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