質疑応答

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日本(座長:季錫九)

質疑応答


(李) お二人の発表者の方は取りあえず終わりました。それでは、立岩先生、コメントをお願いします。
(立岩) 時間的には余裕を持って二人の報告が終わりましたので、少しだけ短く補足をさせてください。
昨日、各国の報告では、成年後見制度が導入される際に抵抗があった、それは何だったのだろうということに非常に興味を持ったということを私は先ほど申し上げました。日本では、2000年に始まったときにはさほどのことは起きませんでしたが、先ほど報告のあった2016年、つまり今年ですが、成年後見制度の利用を促進する法案が出され、それが通り、法律になりました。成年後見制度が始まって15年たってようやく、やはりこの制度はそんなに単純に拡大、促進していくべきものではなくて、考え直すべきであるということを日本社会の中でも提起なされるようになりました。
それは、私たちのような研究者サイドからも若干の提起はありましたが、主には精神障害の人たち、それから、重い身体障害を持っている人たちによって提起されたということを皆さんにお知らせしておきます。日本の後見制度の中では、基本的に医療に関わる決定について後見するということは認められていませんが、今回の促進法の中でもそういう方向に進めていこうという動きがありました。それは言うまでもなく、精神障害者の人にとってみれば、強制医療がそれによって肯定される余地をもっと広げてしまうということでもありました。また、コミュニケーションが困難な、そういう意味での重度の障害を持っている人たちにとっても、意思を他の人が代理してしまうということによるリスクというか、問題があったからです。それにもかかわらず法案は通りましたが、短い期間でしたが、そういうところからの提起があることによって、実は、この制度にも問題があるかもしれないということをようやくといいますか、例えば新聞社や報道機関が認識する、それが社説にもなるということが今年の前半にありました。これは日本語だけになってしまいますが、そういう報道や動きというものはわれわれのウェブサイトに掲載されていますので、ご覧になることができます。
言えるときにということで言ってしまいますが、今、それに懸念を示し、批判し、問題にした人で、日本ALS協会会長の岡部さんが会場に来てくださっていますが、彼は日本の国会の法律案を審議する委員会でそういう問題提起をなさった人でもあります。彼からのメッセージを今朝もらっていますので、ごく短いものですので代読させていただきます。
「こんにちは、日本ALS会長の岡部宏生です。昨日よりご参加の皆さまの報告を伺っていると、障害当事者としての本当に根本的な障害者の人生に関わる議論や提示があって、大変感謝の気持ちでいっぱいです。私は呼吸器を付けて、体も全身、顔の一部以外はほとんど動きません。だから、後見制度は、私にとっては私の意思をくんで守ってくれるような制度ですから、ありがたい制度のはずです。でも、私はこの制度に危惧を抱いています。
その理由は、私はこうして自分の意思を発信するために、こうして特殊な口文字というコミュニケーション方法が取れる介護者を通して、または特殊なパソコンによる意思伝達装置を使ってしかできません。つまり、そういう人がいないと、全く意思を発信できません。なので、この制度の利用は大変危ないと思っています。誰も私の意思をくまないで、後見人が大事なことを決めることが発生してしまうかもしれないからです。
現実に、私たちALS患者の中には、私のような症状で、全く、もしくはほとんど意思をくみ取ってもらえない患者は結構いるのです。それは、介護者がこのようにコミュニケーションを取れるようになるには、相当の訓練が必要だからです。
そういう症状ですので、その制度は本人の意思をくみ取れずに他人の決定になる危険があるということになります。優れた介護者がいても、コミュニケーションは言語によっては無理になる場合もあるのです。難しい課題もあります。ポスターに記載してありますが、私の気持ちを最後にお伝えします。他人でもなく、過去の自分でもなく、現在の私の意思をくんでほしいです。このたびは本当にありがとうございました。また、お会いしたいです」というメッセージです。
これは岡部さんからのメッセージでした。最後に、もう一言。先ほどの第2報告にも関係して、その医療行為の決定は命に関わるので難しい問題を含んでいます。今後の課題の一つであると思いますが、これは成年後見の現場に関わっている医師が言っていることでもありますが、今、大体二つのタイプがあります。家族が代理、後見するというタイプと、あるいはお金をもらって専門家が後見するというタイプがあります。それが、その人に対する医療、つまり、その人が生きさせるための処置をするかどうかということになった場合、家族は、この人が生きていると費用が掛かり続けるということがあります。そのために、「もういいです」というように行為を止める、あるいはしないとなる傾向が現にあるのだそうです。
他方で、それによって収入を得ているサイドというのは、その人が生きていることによって毎月に何がしかのお金が得られることになりますから、その人が生きているようにするという傾向があるのだそうです。何か悲しい話ではありますが、現実にそういうことが起こっていて、そのような利害によって人の命の長さ、あるいは短さが決まってしまうということがあるという問題も、現に後見制度は含んでいるということは補足してお伝えしたいと思います。
では、どうするかというときに、これはその問題を指摘している医師自身が述べていることでもありますが、基本的にその人が話せない状態であっても、その人が生きるための措置は基本的に行うということが医師の務めであり、医療というものであるからには、本人に意思がないので他人の利害によって人の生き死にが左右されるという状態を是認するのではなく、意思が表出できようができまいが、なされるべき医療というものはきちんとなされるようにするということの方が大切なのに、今は誰かが代理する人がいないがために、人を生きさせるための措置というものが、そういう意思を表明できない人に対しては十分に行われないという現状があるということを指摘するわけです。そのような問題もこの代理決定、後見人の制度は現にはらんでいるということは、皆さんにお知らせしたいと思います。
多分、これを入れても時間的には大丈夫だったと思うので、補足させていただきました。以上です。
(李) お二人の発言、ありがとうございます。私も申し上げたいことはたくさんあるのですが、先日、韓国で人と人工知能の囲碁の試合がありました。今、新しい経済成長の動力として、AIが注目されています。車も自律して自分で走る車が出てきました。コンピューターが自分で判断する主体として、今、人間に迫ってきています。自律運転の車において、歩行者をいかすのか、それとも運転者をいかすのかをAIが判断するという時代が来ています。障害者たちはいまだに、自分の自由な意思決定を尊重されていないということが現状なのではないかと思います。
お二人がその時間をしっかり守ってくださったので、十分時間が余りましたが、質問の時間をたくさん取ることができます。質問もいいですが、皆さんがお聞きになって、ご自分のお考えや何か悩みもここでシェアしていただければと思います。さまざまな多様な観点、視点をみんなで共有することもこの場の一つの活用方法ではないかと思っています。
それでは、皆さんからご質問やコメントなどがありましたらお伺いしたいと思います。
(フロア) 先端研でお世話になっております。立岩先生の話からです。「成年後見制度に代わるもの」というテーマですが、そもそもで申し訳ないですが、誰のどのような目的というか、どんなメリットのために代わるものを考えるのかというところが少し気になっています。根拠は、障害者の権利に関する条約の第2条の定義のところの「合理的配慮とは」というところです。僕は日本語しか見ていないので単数・複数は分からないのですが、「障害者が他の者の平等を基礎として」と書いてあるのですが、この障害者のためにあるのはいいとして、これは単数なのか、複数なのか、かたまりなのか個なのかということがきっと先ほどのいろいろな方法があるということはこの辺につながってくるのかなと思います。
一人の私という障害者と考えたら、ここにいるみんなが他の者になるということで、その中には、「私のウエルフェア」を目的としたら、周りのみんなが他の者と読めるのか読めないのかなど。そこの障害者というものを誰とするのか、マスと見るのかによっても、相当議論が変わってくるのではないかと。だから、見直すといったときに、誰の、どのようなというときの対象が変わってくるのかなとふと思ってみたのですが、その辺はどんな感じかなという。
いつも、訳の分からない質問をするので、申し訳ありません。それだけです。
(李) コメントについて、まずは発表者の方からお話を伺ってから次の質問を受けたいと思います。
(立岩) 基本は一人一人のその人、本人のためということで、それに尽きると思います。以上で回答は終わりなのですが、ただ、それはその人の周りにいる関係者、家族やいろいろな人の利害などを無視してもいいということでは決してなくて、その人たちもきちんと生きていけるようにということはもちろん考えなければいけません。その人と周りの人たちを両立できるようにするということは、可能なはずです。論理的にも、現実的にも可能なはずで、それをどういう形で現実を組み上げていくかということだと思います。
例えば、先ほど私が申し上げましたが、常に親が子どもに対して敵対的であるはずはありません。それは間違いなくそうだと思います。ただ、そういう可能性があってしまう、出てきてしまう、そういう現実が生じてしまうような構造の制度というものをできるだけ少なくする。例えば障害者に対する年金というのは、自動的に本人に渡る。であれば、家族はそれに手を付けることができないようにしてしまえば、家族はそこから利益を得ることもできませんし、それに対する経済的な利害うんぬんから何かするということもしなくて済みます。
本人の所得という意味で、当座に困ることがあるかもしれないけれども、全体的に考えれば、その方がいいわけです。という意味で、まずは、一人一人の本人のための制度なのですが、それが周りの人にとっても不利益にならないような制度の組み立てを、あらかじめ一人一人の代理人がどう言っているかは関係なくつくることは十分に可能だと思いますし、そういった道を目指すべきだろうということが、私の話の趣旨でした。
それから、僕も政府があまり好きではなく、市民などと言いたくなってしまう人間ではあるのですが、政府の代わりに市民がというところには落とし穴もあります。市民が監視役になってしまうという可能性をおっしゃいましたが、そういう可能性は現にあると思います。ですから、政府ではなくて市民でいい、政府ではなくてみんなが決めればいいという話にあらかじめ全面的に乗るのではなくて、これは誰の仕事なのか、誰の義務なのか、誰の職務なのかということを一つ一つ丁寧に見ていく必要があるだろうということも申し上げたかったことです。繰り返しになりますが、以上です。
(李) 最後にいらっしゃる方が先に手を挙げられたので、後ろの方からお話しください。
(フロア) 簡単な問題が二つあります。まず、桐原先生に。資料10ページ目です。それから、グッドプラクティスの例が挙がっています。既に重度訪問介護の話が出ています。24時間の介護があり、障害者が自分で選ぶことができると書いています。これは非常に重大な選択になると思います。実際に、障害者がどのような方法で選択するのでしょうか。どのような手続きを取って選択するのでしょうか。例えば、障害者の人たちは友人が少ないという現実があります。どのようにしてそうした中で選択をするのでしょうか。そして、後見人を通じて選択するときに、それが本当に的確であるのでしょうか。
それから、現在、決定は、支持団体と一緒に決めた場合、責任や効果があったときに何かが生じた場合は、その本人が責任を持つということなのですが、これは問題があると私も同意します。ですので、この責任の分担において、何か具体的なお考えがありますか。なぜお聞きしたかと言いますと、もし、支持団体等が本人と分担した場合、何か支持団体がそれによって支持しなくなる、尻込みするようなリスクがあるのでしょうか。
以上、二つのご質問でした。よろしくお願いいたします。
(桐原) ありがとうございます。2点とも、僕たちが常日頃研究する上でも、運動する上でも考えていることです。
一つ目に関しては、24時間介護を障害者自身がどうやって支援者を選ぶのかということについてです。これは、日本国内でも介助者の選び方をめぐる問題について、幾つかのバリエーションがあります。こういうやり方であるとは言えないのですが、幾つか紹介したいと思います。
一つ目は、われわれは確かに友人が少ないのですが、例えば、いきなり大学などに入っていって「俺を助けろ」「SOS」と紙に書いておくと介助者になってくれる、たまにそういう選択に踏み込んでしまう人が何人かいます。そういう人が何年もそうやって障害者と付き合うはめになってここに至っているという人がこの会場の中にも何人かいらっしゃいます。そうやって獲得するやり方と、障害者が事業所をつくって、その障害者がつくった事業所の中に介助者を何人か育てて集めて、それを派遣します。派遣された人たちが気に入らなかったら、場合によっては来ないでくれ、あるいはこの人は気に入ったから来てくれと選ぶ場合もあります。それから、もともとの知人を介助者に付ける場合もあります。
二つ目の責任の分散に関する問題ですが、これは非常に難しい課題で、私も明示的にこうした方がいいのではないかというものは持ち得ていませんので、課題だけ突き付けて今回は終わる感じになってしまいます。そういう責任の分散について、いろいろな交流というか、話し合いができればうれしいと思います。
(フロア)成年後見制度は使わない方がいい制度であるということは、間違いがないことです。なぜかというと、本人が決めることを阻害するからです。後見人によっては本人に決めてもらうようにする人もいますが、大体は後見人が全てを決めます。特に日本では、後見の審判を受けると、後見人は全面代理代行します。本人の意思は全く無視される傾向があります。
本人が決めることができるのに、本人に決めさせないのが後見制度です。だから、後見制度は使うべきではありません。そして、後見制度に代わるものははっきりしています。審判を受けないことです。被後見人にならなければ、その人は普通の人です。当たり前の市民です。全ての人が当たり前の市民であるべきなのです。
障害者の問題は、当たり前の市民から外されることが一番の問題です。当たり前の市民になっていくことが、障害者問題を解決していくことで、これが一番重要なことだと思います。これは今まで、手話の普及、ガイドヘルパーの制度がある、あるいは、車いすが十分に行き届く、あるいは、トーキングエイドが支給されるなどによって、ハンディがある人の意思を伝える、あるいは、行動が広くなることがかなりできるようになりました。そして、もっと重い人も意思があります。意思がない人なんかいませんから。その人の意思をくみ取って、その人が決めたことを実現できるように支援していくならば、成年後見制度などは要りません。だから、成年後見制度を使わず、どの人でも一人の市民として持っている権利を行使するというようにしていけば、問題は解決すると思います。以上です。
(フロア)すみません。昨日もお話しさせていただきました。私自身が心神喪失の精神障害者として母子分離をされている母親になります。私は精神障害者で意思疎通が難しいという点で、「統合失調症」の病名から「スティグマ」に障害がなり、その状態で親権を行使できないという形で行政に介入されている状態にある母親です。10歳以下なので、子どもも意思の決定権がないという状況です。
行政に関わられてから法律などを調べさせていただいたのですが、日本の民法の中で「父母の同意」というものがあります。民法の817条です。817条で、子の監護が著しく困難または不適当だと、障害を理由に排斥をされると、不適当であることを理由にした子どもの利益のための親権の剥奪ということが行政において既にできる状況になっています。それをもとに、その状況が進んでいく中で、障害を理由に意思疎通をする、サポートをする人たちが、サポートとしての理解がほとんど進んでいないがために、剥奪されてしまうと、剥奪された親権の代わりに行政側が未成年後見人を付けるということが、もう既に制度としては、児童相談所では施行されているのが日本の現状だと思っています。
その状況で、親に対して、その子どもに対して、誰がその後見ができるのかということも踏まえて、その意思決定というものがどこにあるのかということを、意思決定の形でお話を聞いたので、ご意見を頂ければと思い、お話しさせていただきました。ありがとうございます。
(李)最後の方の質問をお聞きしたいのですが、お願いします。
(フロア)生存学研究センターの運営委員です。最初のコメントをお聞きして、二つのことを思い出したので紹介と関連するコメントを発題者からもらえればと思いました。
一つ目は、僕自身は大学5年目のときに障害者の転校運動に関わって、いわば押し掛ける形で介護者になった人間です。無資格のまま、いわゆる資格は全く関係ないまま、4年前までは泊まりの介護に週1回のペースで入っていました。生計は別の形で持っています。関わった相手は、当時、金沢から東京へ来た脳性麻痺の方で、先ほどの桐原君が言った、この大学の中で「誰か来るのか」というので、行きました。そうやってそのときからのつながりの人間が、僕の周りだと10人ぐらいはいます。さまざまな形で、それで生計を立てるわけではないですが、ずっと介助に入っている人間というのは、僕は結構知っています。
そういう目線で見たときに、二つのことを思い出しました。一つ目は、僕は転校運動に関わったので、やはり主役はお母さんでした。お母さんが受け入れているところでは運動ができます。そうではなくて、それを契機に、自分の子どもに介護に入ってほしいと思う人もいました。ちょうど同じ年で、当時24歳ぐらいの脳性麻痺の人がいました。そういうところに、来てほしいと思ったお母さんが招くわけです。来てもいいよという態度を取ります。そして、来た人間のことをとやかく詮索しません。でも、お母さんと合わない人もいます。本人以上にお母さんと合わない人は、やはり居場所がなくて行けなくなります。本人となじむのはその後なのです。そういうことがあったことも思い出しました。
そういう意味では、家庭というか、直接、特に親子の場合は障害者の生活の基本のところにお母さんの存在はとても大きいので、お母さんがどういう態度を取られるかでいろいろな変わり方があるということを、ここであらためて強く言いたいです。僕のような訳の分からない人間が入っても大丈夫なところだと、取りあえずやっていけるところもあるらしいという、これが一つ目です。
もう一つは、去年ですが、この5年ぐらい付き合いのあるとある人から相談がありました。貯金通帳です。まさに貯金通帳をお姉さんに押さえられていて、障害年金が自分の手元に入らないという相談です。それを聞きまして、それは本人に行くお金なのだから、自分で通帳を作って、市役所の窓口に行って「私本人です」と出せば、それに入ると伝えたのです。自分で手続きへ行きました。それで、障害年金が入るようになって多少、自分のお金が出来ました。年金の分は自分のお金です。
もう40歳になる人です。参ったなというのが正直なところです。40歳になる人が、そうやって家族、お姉さんに貯金通帳を押さえられてしまう。幸いに、ご本人が窓口に行けたので利用可能になりました。その窓口へ行くことを誰がサポートするのかということが、今日の話のどこかの根っこにあるようなことだと思います。その人は本人が自分で動けて自分で通帳を作って、自分ではんこを用意して行けたからいいです。
それが、在宅障害者の場合、あるいは岡部さんのようにその場でサポートがいなければ意思疎通が難しい人の場合、それが困難です。昨日、今日と僕が感じたのは、一つは、いわば訳の分からない人間です。先ほどの桐原さんの話の中に、いろいろな人が関わって決定をすればいいのではないか。そのいろいろな人という広がりということは、実物を見ないとぴんとこないのではないか。今日はああやって岡部さんが、3人の介助の人と来ています。そのサポートの人たちは、多分、一定の報酬は受けているのでお仕事だと思いますが、どんな契機で今の仕事に関わったのかなどという体験などを話していただくのは、最初の中国の方の質問に答える意味でも重要かなと思いました。その点について、司会者と発言者とで考えてもらって、可能だったらそうしていただければと思います。
(李) ありがとうございます。大体の時間になりましたので、お二人に、最後のお答えと最後のコメントについてお返事を発言していただけますでしょうか。
(桐原) たくさんの意見をありがとうございます。いろいろな意見が出ていて、個別にお答えすると時間が超過するので、総括的な感じで感想を述べたいと思います。
やはり、自分のことを自分で決めていくというスローガンはとても大事なのですが、誰が支えていくのかということ、支えていく人たちの顔が具体的に見えるということは非常に大事だと思いました。その人のことを支えてくれる人たちがきちんといて、支えられながら地域で生活していけるということが非常に大事です。ですが、支える人が、例えば後見人、ソーシャルワーカーのような感じでポジションを持ってしまうということは、逆に支援という関係を非常に難しくさせていく可能性があるのだろうとも思いました。
また、意思決定支援といった場合には、本人の決定を有効にしていくという形での議論がされがちだと思います。例えば、有効な決定という拘束からの負担をどう分散するのかということに関しても、自己決定したことの効力に拘束されることを必ずしもよいことのようにだけは捉えておらず、よくない場合にどうするのか、ということも踏まえた話しであったと思います。なので、決定の有効性だけではなく、決定による効力からの解放に関する議論も必要不可欠です。現在は、効力からの解放をもっと簡単にできるようにしていくことによって、なんとか平等が図れないだろうかといろいろ考えているところではあります。
まだまだ課題は多いと思いますが、実際に障害者と関わりながら私たち自身の実体験からいろいろなことを提案できると思いますので、障害学でもそのように議論を深めていければいいと思います。
(立岩) 私は繰り返しといえば繰り返しなのですが、1点だけです。最後の方がおっしゃったことですが、身体的な障害がすごく重くてなかなか移動できなくても、知的障害がすごく重くて字が分からなくても、お金が本人のところへ行くという仕掛けをつくることはそんなに難しくなく、きっと可能なはずです。まず、そのように物事を考えるということが大切だということを今日は申し上げました。
本人はそういう枠組みでこういうことになっているということに対して、文句がなければ文句を言わないでそのまま毎日暮らしています。でも、時々文句があるというときに、きちんと自分は文句が言えるという関係といいますか。文句を言う本人のサポートをする、さらに弁護人がいるという仕掛けでどこまで行けるのか。それだけでは確かにできないこともあるかもしれないけれど、そうやって考えていくと、かなり代わりの人を立てるという仕組みが必要な場面がどんどん減っていくはずなのです。そういう試みを続けていく。それは、理論的にも実践的にも行っていくことはできるでしょう。
繰り返しになりましたが、以上を申し上げて終わらせていただきたいと思います。
(李)ありがとうございます。時間が少し過ぎましたので、まとめに入りたいと思います。素晴らしいご発表をありがとうございます。そして、コメントと質問をくださった皆さま、ありがとうございます。以上でお二人にまず拍手をお送りくださいまして、このセッションは終わりたいと思います。ありがとうございました。

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