精神障害の法的能力の衝撃と反響 ―台湾からの報告

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台湾(座長:宋颂)

精神障害の法的能力の衝撃と反響
―台湾からの報告

陳文珊(博士、玉山神学院助教)


私は法律の専門家ではないのですが、カトリックの学校で教鞭を執っています。そういうわけで、まず私がどうしてこの精神障害といった問題に関心を寄せているかということからお話ししたいと思います。2010年以降、台湾では死刑を再開しました。私はこの死刑と精神障害者との関連について、まず考えたわけです。
2010年から精神障害者の問題について関心を寄せたのは、死刑の問題が持ち上がったからです。死刑の問題と精神障害者の問題をどのように関連付けるのかということを考えました。2014年にマイケル・パーリン教授を台湾に招きました。そして障害者と司法改革というシンポジウムにお招きして討論を行いました。このシンポジウム開催前の5月21日に無差別殺人が地下鉄で起こりました。これは台北の地下鉄で発生した、非常に悲惨な事件でした。この問題が発生したときに、この犯人が精神障害者ではないかという疑問が持ち上がりました。
もし、お金が絡んだり、復讐といったような問題でないのであれば、どうしてこのような無駄な殺人をするのか、精神障害者に違いないということになったわけです。けれども、台湾大学病院で精神鑑定を行った結果、彼は精神障害者ではなかったという鑑定結果が出たのです。非常に若い犯人でした。
台湾は政権交代をしましたが、国民党政権の最後の死刑の判決の名簿の中にこの犯人も含められ、死刑が執行されました。この事件に絡んで、19歳の名字が黄という学生が、あるとき留置場を訪れたのです。この事件の犯人に会おうとしたのです。そして、留置場で非常に詳細にこの事件に関して聞きました。そしてどのようにこれを処理するかといったようなことを話すわけです。そこで対応した人が、「これはどうもおかしい」「もしかしたら精神的に障害があるのではないか」ということで警察に通報しました。
警察が来て、この19歳の男を拘留して分かったことは、彼自身は障害者手帳を持っていたということです。彼は高校卒業後に一人暮らしをしていました。つまり家族に捨てられた人だったのです。家族は強制的に病院に入れて治療しようとしたのですが、それを拒んだために家族は彼を捨てて一人暮らしをさせたという経緯があったわけです。
この間に彼の治療はストップしてしまいました。通常、精神障害者を持つ家庭は、精神障害者の子どもが治療を受けたがらないときに、経済的な支援をやめることで強制的に病院に入れようとする傾向があります。なぜなら誰も彼の面倒を見なければ病状が悪化することになるからです。彼の場合もそうでした。そして他人に危害を加えることにもなりかねません。ですので、彼の場合は再び両親によって病院に入れられ、治療を受けることになりました。
このときに台湾人権促進会というところが再審法に基づいて審理を要求しました。そして病院から彼を退院させるようにと申し立てたのです。その後、彼は精神病を患っているために仕事ができないということを理由として自分の両親を訴えました。そして22歳までは毎月彼に対して養育費を払うようにと訴えたのです。これは2015年、昨年の9月に起こった出来事です。
この無差別殺人、そしてそれに絡むこの19歳の男性の話は、私がお招きしたマイケル・パーリン教授が台湾に来てシンポジウムに参加する前に起こった事件でした。台湾社会に大きな議論を巻き起こしました。このようなシンポジウムを開くと、裁判官や警察、精神障害者の家族など、さまざまな方が聴衆の中に交ざっておられます。そして私がお招きしたパーリン教授は、権利条約に関する関連の条約について詳細に説明しました。そして台湾の文化と結び付けてお話しをされました。
ただ、そのときに台湾の特殊な状況については理解しておられませんでした。これをきっかけに台湾では、精神障害者の問題について、彼らは本当に裁判ができるのか、両親を本当に訴えることができるのか、強制的に治療を受けさせられるのかといったような問題が盛んに議論されるようになりました。そして成年後見制度についても議論されることになったのです。
これは以前は非常にわずかな、一部の人たちの問題であったのですが、それが社会全体の問題として認識されるようになりました。障害者、精神障害者の法的能力に関して、それを規範をつくる際に、またそれに絡んで政策を制定する際には、われわれはどのような社会に住んでいるのか、そしてどのような義務があるのかということを絡めて考えなくてはなりません。つまり、精神障害者の権利、その家族の権利のどちらを重視するのか、そして法律はその中において一体誰を守ればいいのか、社会を守るのか、誰を守るのか、どの機関によって守るのか。そして家族が、その人たちを病院に送ったり、コミュニティで面倒を見たり、そういうことが必要なのかという議論が起こりました。
そして先ほどから言っているシンポジウムでは、こうした問題が議論されました。その中で、強制的な治療は二つの面があるということが議論されました。まず社会の安全を守る。そうした面があるということは否めません。しかし同時に、精神障害者が自傷行為をしたり、他人に危害を加えたりすることがある。そういう中において、こうした処置が正しくない場合もあります。強制的な治療は保護的な色彩が強いものです。そして、ある台湾で非常に有名な法律学者が言うには、彼らにはそういった強制的な治療を拒絶する権利があるということです。そういった関連の機関をあるコミュニティにつくろうとすると、そのコミュニティの人たちから反対を受ける、拒絶されるといったようなこともあります。ですので、精神障害者をそういった機関に置くのか、施設に置くのかといったことにおいては、コミュニティとの連携も不可欠となります。
以前は精神障害者の意向は無視するような状況にありました。それで台湾の政府は12条に照らして、精神障害者の意向を反映するような改良をするようになりました。ただ、その障害者権利委員会は、台湾の後見制度を認めないというようなことを言いました。つまり、条約の12条に違反していると言うのです。違法ではないのですが、抵触している。そして、後見される人に対しては行為能力があるのかどうか、後見人については行為を代行する権利があるということになります。
ただし、後見人は必ず被後見人の意思を尊重しなければなりません。後見人は同意権を行使することができます。そして同意権の乱用は、監督制度によって規制することができます。こうした方法が台湾では取られることになってきました。もし宣告を受けて支援が必要、あるいは後見人が必要とされた場合に、12条に照らし合わせて、その権利の平等ということに関して見ると、精神障害者(被後見人)は健常者と同じような法的な権利を持っているはずなのです。そして14条に照らして言うならば、その人たちの安全なども剥奪されてはなりません。つまり、台湾の現行のやり方は、12条に抵触しています。自己決定能力を行使させなければならないのです。
そして、精神障害者は、リスクを受け持つ自由、誤りを冒す自由があるというのです。では、このリスクを冒す、あるいは誤りを冒す自由とは何なのか。それをどうやって保障していくのか。まず、知的能力に関して医者が判断して、彼の法的能力を剥奪してしまうということがあります。
これは過去の台湾の状況です。つまり、法律をあまりにも神格化してしまっているという状況がありました。精神的に疾患を負っている人たちにも法的能力はあるはずだということで、過去にはその能力があるのかどうかを医者に頼って判断していました。しかし今、台湾ではそのようには考えなくなりました。よりルール化された制度をつくろうとしています。社会にとって、特に精神障害者にとって、より理想的な支援、補佐、そういう制度をつくろうとしています。
この法的能力に関しては先ほどの発表の中にも出ました。法的能力があるかどうかの認定に関しては、法律も必要であると思います。例えば、記憶喪失ということがあります。この記憶喪失の場合はどのようにしてその法的能力を判断するのかといった問題もあります。欧米の多くの国は、12条を既に批准しています。しかし、この枠組みを使って完全に後見制度を廃止した国はどこにもありません。意思を表す力がない人は必ずいるからです。
つまり、こうした問題にわれわれはこれからも注目していかねばなりません。過去のこうしたやり方について、われわれははっきりと認識しなければなりません。知的障害者でも法的な能力はある。そしてより積極的な措置を講じて、自己決定能力をより発揮させるように向けなければなりません。つまり、法律の神格化というものは避けなくてはなりません。個人が自立して生きていく。有名な法律学者がこのように述べています。つまり、完全に法律が神格化されたような構造は受け入れられないのです。そして、新たな方式に転換されたときに、その利益を一体誰に持たせるのか。誰のための方式転換なのか。これはわれわれが注目しなければならない問題です。
台湾は決して個人自由主義の社会ではありません。家族を中心とした社会です。日本の発表にもあったかと思います。韓国の発表にもありました。中国の発表にもありました。われわれの社会は、家族を価値観の一つとして非常に重視しています。そして政府が関連する医療、社会福祉、そうしたものも家族を単位にして設計されています。ですから、自主的に設計していくことは非常に難しいのです。完全に家族と切り離して考えることは難しい社会です。
台湾でもこの問題に関して多くの討論がなされています。自主性、主体性をどのようにして支援していくのか。どのようにして自由を保障していくのか。これが問題です。精神障害者に、「では、自分でその決定に責任を持てますか」と聞く人がいます。もし民法にこのような規定を設けてしまえば、精神障害者の本人、家族は、「ええ、大丈夫ですよ。私たちは法的能力があるので責任を持ちます」と言うでしょう。つまり、精神障害者の行為能力を保証していかなくてはなりません。私は日本に来る前にあるお医者さまとお話しをしました。われわれが民事的な行為において、強制的に治療したり過度に保護したりすることが正しいのか。台湾の法律では、自分で認識ができない、行為ができないような人たちは精神障害者であると規定されるとしています。これは保護である、また、何か義務を免責されるという問題も一部にはあります。つまり、法的責任を負えるかどうかという問題も一方であるのです。
私が思うに、台湾の精神障害者は12条の規定に基づけば、ある一定の位置にはあると思います。そして自主、自立を支援していくような方向に持っていかねばなりません。そして責任の帰属をどこに持っていくのか、それに関してもしっかりと考えなければなりません。保護の精神で全てを解決することはできません。
では、次にこれを見ていただきましょう。先ほどからよく話に出ていますが、精神障害者を強制的に入院させない、治療を受けさせない、また、婚姻、妊娠できるのか、子どもを産むことができるのか、そうした問題がよく議論されます。そして財産を売買する、契約を結ぶといった中で、その人たちの能力をどのように測っていくのかという問題があります。簡単に、私が専門としている生命倫理の面からお話ししておきましょう。
この知的能力と法律能力というのは全く別個のものであるというのは皆さま分かっておられると思います。知的能力の欠如において、法的能力が剥奪されることがあってはならないのです。ですから、ここは合理的に両者の関係を調整していかねばなりません。こうした問題は、実際に一般の人たちでも出合うことがあるのです。私は知的能力はあると思います。しかし、ある訴訟に出なくてはいけないことになった、あるいは年を取って高齢者になった、そうした状況にあっても法的能力をずっと持ち続けられるかどうかというとそれは分かりません。そうした場合には、私も支援が必要となるでしょう。ですので、知的能力があるからといって法的能力が備わっているとは限らないのです。知的能力のあるなしをどのようにして判定するのか、そして法的能力との関係をどのように判定するのか。法的能力があるということは、必ず一定の知的能力があるということなのでしょうか。
支援、自主、主体性ということについて議論してきていますが、これは合理的に調整していかなければなりません。車いすの両輪のようなものです。法律をどのようにデザインしていくのか、どのようにバリアフリーにしていくのか、差別的な扱いを受けることは受け入れられることではありません。どのようにして主体性を支援していくのか。その決定を支援していくのか。例外があってはなりません。そして、支援の制度を後見制度に変えていかなければなりません。こうした支援による決定、こうした体制を整えていかなければならないのですが、これはメカニズム的な措置になっていくでしょう。積極的な措置となっていくでしょう。
私は香港でこの条約に関するシンポジウムに参加しました。そのときにもこうした問題について非常に議論が活発に行われました。どのようにして合理的にこのような問題を調整していくのか、どのようにして積極的に措置を講じていくのか、おのおのの理解が異なっています。ですから、法的能力の1と多(複数)、この点に関して、法的能力と言いましてもたくさんあります。12条の規定によると、どのような面においても、全ての面において、精神的に耗弱している、何か欠損があるからといって、その法的能力を剥奪してはならないというふうに規定されているのです。
では、法を行使するに当たってどのようにこの調整を取っていくのでしょうか。私が感じていることですが、この議論に関して、台湾では、それに反対している団体もあります。微妙な問題です。こうした問題に直面していかなければ、向き合っていかなければなりません。
次は自律と他律の問題です。条約の12条を考える際に、この自律と他律の問題ということにもよく触れられます。しかし、実際には私たちはこうした過程の中で必ず西洋の文化の影響を受けているのです。政治大学の教授もこのように言っています。台湾はドイツと日本の法律の影響を非常に大きく受けている。つまり自由の概念を考えるときに、自律といった問題も考えなければならないのです。しかし、このような考え方は多くの人たちに批判されます。自律、他律、フェミニストはこれらを批判的に見ています。ですから、どのようにしてこれを協調させていくのかというのも大きな問題です。より実務的な実際的な選択をしていくのかというのが問題です。
例えば、ある家庭において、家庭での権利の問題をどのように分担するのか、どのようにバランスを取っていくのかということもあります。また、先住民の部落において、どのように個人の権利を守っていくのかという問題もあります。
それから、責任の問題もあります。私が思うのは、まずスタート点から出発します。どの人も同じだと思うのです。そして、何か行為能力を制限されている人に関しては、この責任の能力を行使できないのであれば、犯罪を犯した際に裁判を受けねばならないのですが、もしその能力がないのであれば、この責任はシフトされます。つまり、精神障害者であるからこの責任能力はないと判断されることが多いと思います。これは大きな問題です。台湾政府はこの問題に関しては法律を整備していかねばなりません。精神障害者の刑を受ける能力、裁判を受ける能力とは一体何なのか。そしてどのようにしてそれを証明していくのか。こうした責任能力を持っていないことを証明するにはどうしたらいいのか。あることを証明するにはどうしたらいいのか。これには大きな社会運動もあります。計画もあります。多くの弁護士がこの問題に関与しています。
私からの提案です。非常に長い道のりが必要とされるでしょう。まずは適切な手順を踏まなければなりません。二つ目は、台湾の文化に合うように支援と自主のバランスを取っていくことです。三つ目が、新たな法律を制定することです。以上になります。

精神障害の法的能力の衝撃と反響:台湾からの報告

報告者/陳文珊
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