第Ⅱ部 思考 ーフェミニズムをめぐる論考 ■読解/倫理 8.性差別の構造について ー江原由美子の性支配論をめぐって

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読解/倫理

性差別の構造について
―江原由美子の性支配論をめぐって―

堀田義太郎


1 はじめに

「性差別(sexism)」とは、もっぱら「女性差別」を典型とする、性的な少数者に対する差別であるという認識は、多くの人に共有されていると思われる。
とはいえ、たとえば「女性専用車両」や映画館やレストラン等の「女性半額キャンペーン」などについて「男性差別だ」と主張する人は依然として存在するし、また雇用の際の「女性応募者の優遇」についても同様である。「性差別とは女性差別である」という観点からすれば、「男性差別」という言葉自体がナンセンスだとして斥けられるはずである。しかし、ではそれはなぜだろうか。「性」という属性(または特徴)に基づく不利益または劣等処遇でも、「男性」がそれを被る場合には「男性差別」とは言えないとして、それはなぜか。
また、大学等でのいわゆる「ミスコン」や、女性を「褒める」ような表現(たとえば「女性らしく整頓されている」といった言動)などが女性差別的であるという批判について、その意味を理解できない人も―男女を問わず―存在する。なぜ、当人たちも望んで参加しているイベントや、または相手を褒めるような言動でさえもが性差別的だとされるのか、と。
こうした論点は、フェミニズムを学ぶ人にとってはあらためて説明するまでもないだろうし、以下の議論も、結論的には多くの読者にとっていわば自明のことだと思われる。以下では、その自明の結論に辿り着くための理路をあらためて辿ってみたい。
たとえば、「ジェンダーや性差別やフェミニズム」(加藤 2006: 11)の入門書として定評のある著書で、加藤秀一は「男も差別されている」という言い方や、女性は「細やかな気配りができる」「手先が器用」といった発言に即して、次のように指摘している。
まず、「男も差別されている」という言い方については、たしかに90年代後半以降、中高年男性の自殺の増加など「日本の男性たちが直面している生きにくさがクローズアップ」されてきている。しかし加藤によれば、「性差別の全体を考えるなら、男性も(女性と同じように)差別されているというのは言葉として不正確であり、差別という言葉の濫用」である。なぜなら、差別には「集団ごとの序列化があり、差別する側と差別される側がある」からであり、「男性が優位で女性が劣位というのが私たちの生きる社会の現実」だからである(加藤 2006: 106)。つまり、ある個別の場面を取り上げて「女性が有利なこともある」からといって「女性全体が男性全体に比べて優位である」とは言えない。「構造的な男性優位社会における女性差別」があるからである(加藤 2006: 107)。具体的には、たとえば「男性100に対して女性65という平均賃金の格差」、「男子学生が企業に資料請求するとたくさん返事が返ってくるのに、同じ大学の女子学生が二百通送ってもたった数通しか返事がこない」という事例、あるいは「女性であるがゆえになかなか住宅ローンを借りられない」という例、「父子家庭の平均年収は四百万円台なのに、母子家庭は二百万円台」などといった諸事実である(加藤 2006: 107)。
また、「細やかな気配りができる」「手先が器用」(加藤 2006: 114)といった「女性像」について、それはたしかに、女性をある意味では「持ち上げ」て「ほめている」と言える。しかし加藤によれば、この種のプラスの評価も「手放しで肯定できるわけでは」ない。というのも、こうしたイメージの裏には、女性をある種の職種に限定し、その昇進を困難にするような状況が存在するからである。つまり、「ある面で持ち上げることが、全体としての差別の構造をむしろ維持するために機能することは少なくない」からである(加藤 2006: 115)。
この加藤の議論は、提示されている実例や統計も重要であり、また結論も妥当であるだろう。加藤の議論にある通り、鍵になるのは「性差別の全体」や「女性全体」といった言葉であり、「構造的」または「差別の構造」といった言葉である。この加藤の議論は、ある行為が差別か否かは「構造的」に、それに関連する諸行為「全体」のなかで評価されるということを指摘している点で適切である。では、「構造的」とはなにか。また、「全体」とはどのような範囲を指しているのだろうか。
ここで「構造」と呼ばれているものは、女性差別はもちろん、「差別」一般にとっても重要な意味をもつ。たとえば、差別を批判する人に貼り付けられる典型的なイメージに、「細かいことに拘る面倒な人」というものがある。ある言動に対する「差別的」だという批判が、「そんな細かいことに目くじらを立てなくても」といった形で(冷笑を伴って)無効化される、という構図はつねに繰り返されている。そして批判が「細かいこと」とされて「無効化」されるという事例は、差別に一般的に伴う性質を反映している。
以下では、この点を江原由美子の一連の仕事を概観することで再確認したいと思う。江原の議論は、80年代の性差別の仕組みに関する検討を踏まえて、90年代以降、主にマルクス主義フェミニズムとの論争を経て「ラディカル・フェミニズム」における「性支配論」の再評価とそのメカニズムを解明する「ジェンダー秩序」へ、という流れで展開されている。
よく知られているように、そこに一貫しているのは、いわばミクロな相互行為の中で、言動の解釈を左右する力として性差別または性支配を捉えるという問題意識である。ところで、江原の「ジェンダー秩序論」については、山根純佳(山根 2010)による、性別分業の「変革可能性」という観点からの詳細な批判的検討がある。性差別にとって「性別分業」は―その原因なのか結果なのかについては多くの議論があるが―中心的な要素であり、性別分業体制を再生産するメカニズムの解明とその打開方法の探求は重要である。ただ、以下では性別分業よりもむしろ、上で述べたような事例に関心がある。そこでは、いわゆるミクロな相互行為の場面で性差別がどのように働くのか、という点が重要になる。様々な領域での言動の意味が、ある属性をもつ側にとって体系的に不利になる方向に解釈される力についての江原の分析は、ミクロな相互行為と全体的な「構造」との連関性を示している。

2 江原の議論

2-1 性差別の論理
江原は、日本語圏の差別論にとって古典的な論文(江原 1985)において、性差別と男女の「差異」をめぐる言説との関係について重要な指摘をした。

被差別者は「差異」の存在の有無について「答えねばならぬ」ように問題を立てられてしまっている……だが実際、「差異」があるか否かという問いは二重拘束的な問いである。女性に対して、「女性は男と同じであるか、男とちがうか」という問いの二者択一をせまることは、どちらを答えても「不利益」を予想せざるをえないがゆえに本質的に不当な問いなのである。(江原 1985: 85)

「性差別」はもちろん、「差別」一般に関しても、この江原の指摘は依然として重要であり続けている。この指摘のポイントは、差別は、本来は―告発者または理論家の観点からは―正当化できない不利益または劣等処遇であるが、それはつねに、被差別者側の「差異」を根拠として正当であるかのようにして行われる、という点である。ただ、被差別者と差別者の間に「差異があるか否か」という問いが、なぜ「本質的に不当な問い」だと言えるのか、その「不当性」の根拠に対する江原の議論は、少なくともこの議論が提起された論文ではそれほど明快であるとは言えない。
江原の議論は次のようにまとめることができる。第一に、差異は差別の根拠ではなく、それ以前に、ある人々の社会集団からの「『根拠づけ』を欠く」(江原 1985: 90)ような仕方での「排除」がある。第二に、その「根拠」を欠く「排除」を正当化するために、排除された側に共有されている表面的な特徴(江原の語では「表徴」)が、排除する側とされる側の「差異」として被差別者側に帰属される。

「差別」は「差異」などに根拠をもっていない……「差別」をあたかも「正当なもののごとく」に産出する「差別の論理」の最も重要な論点は、被差別者の特殊性、固有性を主張することである。(江原 1985: 88)

「差別」は本来特定の人々を「排除」する論理である。……ここでの論理は明快であって(同義反復)、Aが¬Aでないのは、¬AでないのがAであるからである。
ところがこの(a)は「根拠づけ」を欠くゆえに意識化されない。そして¬Aとカテゴリー化された集合(異民族とかよそ者とか)がBという属性(野蛮、劣等)をもつことだけが強く主張され(¬A=B)、それこそがあたかも『排除化』の根拠であるように意識されるのである。(江原 1985: 90 ※否定辞の表記法のみ変更した)

江原によれば、まず無根拠な「排除」がある。それが後に―実際に時間的に前後関係にあるというより論理的な前後関係として―、排除される側と排除する側との「差異」によって正当化されることになる。この議論の前提は、「差別」は無根拠である、という見方である。
しかし、ではなぜ差異が差別の根拠であるかのように考えられているのだろうか。それは、個々人にあるはずの違いを超えて、ある特定の属性だけに人を当てはめて判断することにある。これを江原は「オーヴァー・カテゴライゼーション」と呼ぶ(それは一般的に「ステレオタイプ」とされるものの一種である)。

「差別」が「排除」であることから、被差別者に対するオーヴァー・カテゴライゼーションが説明される。すなわち、「排除」するために必要な他者の認知は最小でよい。「排除」すべきカテゴリーに属するか否かを知れば良いのであり、それ以上認知する必要はない。被差別者は特定の指標でもって簡単に「排除」され、それ以上の認知は行われないのである。……それゆえ、「差別」が実在的な「差異」やその評価づけゆえに生じると考えるのは基本的に誤りである。(江原 1985: 84-5)
たしかに、ステレオタイプが個々人の間にある差異を無視して、個人に押し付けられ、劣等処遇の理由にされること自体に問題はあると言える。とはいえ、この段階での江原の議論には問題も残る。それは、一般的に言えば、すべてのステレオタイプが「差別」とは呼ばれず、ある特定のものについて差別とされるのはなぜか、という問いである。江原の議論に即すとすれば、差異と差別は、たとえば性差別においてどのように関係しているのか、という問いになる。つまり、実際に「差異」が不利益処遇・排除を正当化する根拠であるかのように用いられるとして、その正当化の力は何に由来するのか。
この論文では、この問いに対応する江原の答えは、「組織論的必要性」というものである。しかし、それでは不十分だろう。ある組織にとって何が「必要」かは、それがいかなる役割や機能、または組織化の原理をもつ組織であるかに依存するし、またその役割や機能や原理自体の望ましさも評価の対象になるはずだからである。少なくともこの時点での江原の議論では、「組織論的必要性」の内実は明らかではない。
この問いに対して実質的な解答が与えられるのが、『フェミニズムと権力作用』(江原 1988)である。この著作では新たに「権力作用」という語が導入される。それは、発言の意味を、話者の属性や社会的な位置などによってある方向に「歪め」るような力を指す。典型的な例は、やはり「男と女は差異があるか?」(江原 1988: 15)という問いである。問題は、先と同じく、これが「男性標準」を前提とした問いである限り、「差異がある」と答えても「ない」と答えても女性にとって不利な状況を招くことにある。

個人の自由、表現の自由という現代社会の根源的規範と、女性の自由を目的とした女性運動がなぜか対立させられてしまうような言説構造が存在するのである。私は、この対立を産出する言説構造自体が、女性運動を支配している権力作用の一端であると考えている。(江原 1988: 29-30)

支配的な社会規範が「問題」のたてかたを決定する。「問題」はそれに対する答え方をも決定する。女性を含めた社会成員は支配的な規範の内部に位置づけられているので、その「問」に対する感受性を発達させている。(江原 1988: 30-31)

重要なことは、個人の「自由」を尊重するはずの領域が「男性標準」として形成されていることが、公/私区分によって正当化されているという点である。これが差別の「告発」を困難にしているからである。江原によれば、このように差別告発を困難にさせている「構造」(江原 1988: 108)を分析することこそが重要である1。
では、その構造とは何か。それは、公的領域で普遍的な原理だとされている「業績主義」が、公・私の分離と私的領域における性別分業を前提とした「男性標準」を基盤としている、という構造である。

われわれの生きている近代社会システムは、そもそもの成立において公・私の分離という制度を採用し、公的領域における普遍主義と業績主義を正当化イデオロギーとして確立したが、同時にそれは、社会生活において事実上作動している諸規範を、公的領域から切り離すことで、個人の主観性の名の下に存続させることでもあった。(江原 1988: 114)

「排除としての差別」論では、差異は差別の根拠ではないとされていたが、ある種の差異が差別の根拠であるかのように用いられ、批判を封じ込める力がどこに由来するのかという問いについては、十分に論じられてはいなかった。女性と男性に差異があるかないか、という問いに対してどう答えても、女性にとって不利な状況が正当化される状況があるという指摘は、いまでも重要である。しかし、それはなぜか、という問いが残されていた。
この問いに対して、ここでは明確に答えが与えられている。つまり、まず「公的領域」とりわけ職場が男性標準で形成されており、その―「ケアレス」な男性の―働き方は私的領域における性別分業によって可能になっている。そしてそれにも拘らず、そのことが、「公私」の区分を前提にして、普遍主義的な規範が作用する範囲を公的領域に限定するという近代社会のルールによっていわば覆い隠されている。そして、差別を告発する側は、「私生活領域」(江原 1988: 116)での行為を対象にしなければならなくなる。だがそれは近代社会の規範に反する告発として、各人の内面に対する「強引」な批判として映ることになり、告発者の方がむしろ「差別者」のステレオタイプに拘り、(いわば)藁人形叩きをする人として見なされることになる(江原 1988: 117)。
この指摘それ自体については、現代の私たちの観点からすれば半ば常識的な認識であるだろうし、たとえば職場のあり方等の「標準」を、ケア提供者(従来の「女性」)のライフスタイルとライフコースつまり従来の「女性標準」にする「普遍的ケア提供者モデル」を採用するなどの方法で解決するのではないかと思えるかもしれない。ただ、その上で、江原の議論の意義は「性別分業」には限定されないところにある。江原の議論の力点は、性差別および性別分業が、様々な日常的なやり取りのなかで維持・正当化されている点にあるからである。実際、「男と女に違いはあるか」という問いは、非常に多くの場面で女性に突き付けられる問いである。江原の分析の意義は、この問いの検討を通して、性差別の中核にある性別分業が、広範囲での性差にかんする言動による正当化を伴って成り立っていることを解明している点にある。
同書の「性別カテゴリーと平等要求」(江原 1988: 118-43)でも同じ論点が、「関連性」という概念によって考察される。ここでも問題は、男女の間には違いがあるかどうか(男女の異質性)という論点が、「男女の平等」を目指す運動や議論にもたらす、ある種の混乱である。
人々の間に何らかの差異があるのは当然なので、男女の間に何らかの差異があるのも当然である。しかし、性差が不平等の根拠とされる状況では、性差を承認すると、男女の差別(不平等)も承認してしまうのではないかという危惧が生ずる。本来、男女の異質性の承認と平等は矛盾しないという立場が妥当だと思われる。しかし、「男女はもともと違うのだから別の役割をもって当然である」といった主張が力をもってしまうような状況では、これに反論するように「追い込まれ」る。そして、しばしば、平等のために性差を否定するような立場を(いわば)強いられることになる。この立場からは、異質性を承認する立場は不平等を承認する立場として映り、「非和解的」な対立が生じることになる(江原 1988: 120)。
こうした状況を、江原は「関連性」や「類型」というA・シュッツに由来する概念を用いて詳細に分析しているが、ごく概略的には次のようにまとめることができる。人々のあいだにある様々な「違い」は、しばしば不平等処遇を含めて処遇の違いの根拠になる。たとえば、受験の合否という不平等処遇は、試験の成績の「違い」を根拠にするが、肌の色や出身地の「違い」を根拠にすべきではないとされている。様々な領域で、人々を選別したり利益を配分するために、様々な「違い」が用いられるが、その前提には、それぞれの領域や場面、組織などにとって適切だとされる評価基準がある。
ところで、不平等や差別に対する批判は、既存の評価基準が、本来「違い」がないはずの人々を排除したり不利益を与えている、という主張になる。それはたとえば、既存の評価基準の間違った運用に向けられることもあれば、その評価基準が狭すぎることを批判する場合もある。または、そもそも既存の評価基準そのものを否定するような批判もありうる。いずれにしても、人々のあいだの何らかの「違い」を基準にした処遇に対して、何らかの形で「同質性」を主張する形になる。
では、あらためて、「男と女に違いがあるか」という問いをめぐる困難はなぜ生じるのか。それは、先に見たとおり、公・私の区分を前提にして、女性が男性標準の公的領域から排除される状況で、性差別批判が近代社会の普遍主義的な理念の適用範囲を越えざるを得ないところに起因する。性差別批判論は、私的領域での行動に介入する必要があるからである。しかしそれは、普遍主義的な平等理念を公的領域に限定するという建前からは、過剰だとされてしまう。これがある種の隘路を生じさせている。
以上の一連の議論で、江原は、性差別を告発する議論が陥る困難が、性差別を可能にしている状況と「論理」に由来すると的確に指摘した。このメカニズムを解明することで「私的領域」での男女平等要求は「正当」な主張である、という認識が得られる。

「私」的領域にまで「男女平等」要求を「拡大」させるべきではないと主張する者は、「公」的領域における「男女平等」要求が「私」的領域における女性の役割ゆえに否定されるような条件それ自体を否定すべきであろう。(江原 1988: 139)

そして、男性と女性の「平等」の要求は、性別カテゴリー自体を否定するものではなく、その「過剰な使用」を否定するものであると結論づけられる(江原 1988: 141)。

2-2 性差別論から性支配論へ
女性差別が、主に、①公私区分と私的領域での性別分業、②それに支えられた「男性標準」の公的領域の形成を前提として、③「平等」などの理念の公的領域への限定によって正当化されているという認識それ自体は、現在から見れば目新しいものではないとは言える。また、とくに職場や雇用の場面での女性の不利については、「性別カテゴリー」の「過剰な使用」を否定するだけではなく、逆に、現在の「女性」を標準とした働き方に変える方向で、たとえば「普遍的ケア提供者モデル」などの仕方で性別カテゴリーを積極的に使用するべきだという主張の方がより積極的であると思われる―その正当化根拠の問題は残るとしても。
とはいえ、「男と女に差異はあるか」という一見中立的な問いに対して、女性がどのように答えても女性の不利益が正当化されるという、性差別に特有の経験とその困難を、その要因も含めて解明した江原の議論には性別分業論を超えた射程がある。それが展開されるのが「性支配」論である。
「性支配」とは、私的領域も含めて、女性が「全体的抑圧状況」(江原 1995: 77)にあることを示す言葉である。この「性支配」論は、「男と女に差異はあるか」という問いがあらゆる領域で発せられうる問いであり、そのほぼすべての場面で、女性の不利益または劣位を正当化するように用いられるという認識、そして「男女」という「性別カテゴリー」が両者の不平等と非対称性を伴った仕方で、さまざまな領域を貫いて強固に働いているという認識に基づいている。

男と女という生物学的差異を根拠とした世界の二分割は……あらゆる社会生活の組織化において使用され利用される。身体における性に関連した差異は、性とは何の関連もない社会現象や社会関係を表現するために、引き合いに出される。(江原 2000: 63)

江原の「性支配」論は、主に上野千鶴子によるマルクス主義フェミニズムとの論争を通して形成されている。両者の違いは、まずは「性差別の根拠」をめぐる認識として論じられている(江原 1995: 8)。マルクス主義フェミニズムは、それを「性別役割分業」と「無償の家事労働」に求めるのに対して、江原が支持するラディカル・フェミニズムは「性別役割分業を再生産している性別秩序(ジェンダー)」に求める。「性別秩序」は後に「ジェンダー秩序」と呼ばれることになるが、それは、社会のあらゆる領域を貫いて女性を差別または抑圧するように働く性別に関する知識に基づく「社会的諸実践の規則」と各人に内面化されているある種の慣習や態勢(ハビトゥス)を指す(江原 2001)。
では、女性差別や女性の抑圧とは何か。江原によれば、それはもちろん財や物質的利益の不平等も含むが、それらには限定されない。女性の経験という観点からは、それは財などの不平等に加えて、女性が「判断主体・認識主体として認め」られず、また「女性自身の自己定義権」が「無化」されるという点が重視される(江原 1995: 86)。「性支配」とは、私的領域も含むほとんどの場面で、「女性の活動や行為についての自己認識や、それらに基づく社会認識を否定し無化する」ような力が働いていることを指している(江原 1995: 85)。

性支配を維持するメカニズムは、女性の参政権がなかったことで投票に委託された公的権力の行使が男性優位であったことや、男性がより多くお金をもっていることからより多くの資源を得ることができ、男性優位になっていることなどに限定されてはならない。女とは何か、男とは何か、性愛・愛とは何か、子どもとは何か、家族とは何かなど、様々な自己定義や定義そのものが、性支配を生み出しており、性支配を維持するメカニズムになっている。(江原 1991: 53)

「性支配」という言葉が用いられる背景には、このような「全面的な女性抑圧の社会構造」を記述するためには「性差別」という言葉では不十分だという認識がある(江原 1995: 86)。
この性支配論は、『ジェンダー秩序』において、女性抑圧の現実を解明するためのフェミニズム社会理論としてまとめられることになる。そして「性支配」も、経験的な記述を超えて、「文化的に利用可能な流布している諸言説」(江原 2001: 60)によって可能になる、女性と男性の権力(自身の目的を達成するために相手を利用することができる力)の非対称的な配分状態として定義されることになる。
この議論を江原自身の用語法を離れてルーズにまとめるならば、性差別または女性の抑圧は、たとえば家族内の性別分業によってのみ生じているのではなく、それも含めて男女の力関係を正当化するような言説として、社会の全域にわたって使用される「性別カテゴリー」の用法によって維持・生成されていると言えるだろう。男女の非対称性を内包した「性別」にかんする知識は、社会生活のあらゆる場面のなかで、各人の具体的な言動を通して(引用を通して)実現されるような、いわば「言説的な資源」として存在していると言ってもよい2。

3 性差別の構造

以上の江原の議論には、初期の差別論から性支配・ジェンダー秩序論まで一貫して、いわゆる「言説」による正当化という観点がある。差別がつねに差異にもとづく「正当化」の言説を伴っているという論点は、様々な場面で女性が被る抑圧や不利を、それらを生み出し維持する「言説」の秩序として記述する「ジェンダー秩序」論に受け継がれている。
では、以上の議論から、冒頭の問い、差別の「構造的」な側面や「全体」という点、そして冒頭の諸事例について何が言えるだろうか。「構造」という言葉にはさまざまな解釈の余地がある。こと江原のジェンダー秩序論でも「構造」概念は一つの鍵になっており、そこでは性差別や性支配を再生産し維持するもの―たとえば「性別分業」や「規則」―が「構造」とされているが、ここではその用法とは独立して「差別の構造」という意味を考えたい。以下では、「構造」という言葉で、差別を生み出したり維持する何かではなく、個々の場面でのミクロな言動を部分として、他の領域での同様な諸行為と支え合うことで組み立てられる差別諸行為の全体をイメージしている。
このような意味での「差別の構造」を考えるために、「構造」概念を素朴に考えてみたい。たとえば、「建物の構造」という言葉からイメージされるものを考えてみよう。建物の構造という言葉から、私たちは、壁で覆われた外観をもつ建造物がじつは、複雑な骨組みや材料、素材の組み合わせで建てられていることをイメージできるだろう。そしてまた、それぞれの材料(たとえば一本の柱)は、他のさまざまな要素(隣接する壁や柱、屋根やボルトその他)との組み合わせによって、その建物全体を支える要素になっている、ということも容易に理解できるはずである。たとえば、一本の斜めの棒はその周囲の垂直の柱や梁、壁や屋根などと組み合わされることで、建物の重さを支える「筋交いの柱」という要素になり、その機能を果たす。
「差別の構造」もこのイメージで捉えることができると思われる。「差別」とされる行為は、個々別々にそれだけを独立して取り出すと、その悪質さ(構造全体のなかでそれがもつ意味や効果)は分からないことが多い。たとえば、大学等でのいわゆる「ミスコン」や、女性を「褒める」ような表現は、それぞれの場面を切り離してみると、何が問題なのかが分かりにくいかもしれない。しかし、その背後に、この社会で女性が位置付けられている立場や地位、そしてそれを支持し正当化している諸言説を考えると、それらを批判する議論の意味が分かる。ある個別の行為が問題になるのは、その背後に、様々な場面を貫いて類似する諸行為の組み合わせとしての―いわば、社会空間全体を満たす不可視の建造物としての―差別構造があり、同時にその個別の行為は、翻ってその構造を支え強化する要素になるからである。
では、「ミスコン」の前提になっていると同時に、「ミスコン」によって支えられるような性差別構造とは何か。すでに見てきたように、たとえば、雇用の場面で女性(と見なされる人々)が全体として被る差別は、公的領域と私的領域という区別と、後者の領域のなかでの体系的な性別分業によって維持されている。そして、この異性愛家族の性別分業体制のなかでは、男性は自らの非性的な能力を公的に(少なくとも名目上は公明性と公開性が担保された基準で)評価されることで生活資源を得られるが、女性が生活資源を得るためには、個々の男性にその「私的」な基準で「性愛の対象」として(も)評価される必要があることが多い。それが、女性を、性的にいわば値踏みされる対象として性的に客体化するような言動や意識、諸表象の前提であり、また同時に、それらの言動や表象が性別分業を支えている。イメージとしては、家事労働の無償性といった財や物質的利益の配分の不平等は、中心的な柱ではあるがそれだけでは構造全体は支えられておらず、日常的な場面での言説実践の組み合わせを考える必要がある、ということになるだろう。
ところで、「ミスコン」は、未婚の女性の容姿を文字通り「値踏み」する点で、こうした性差別の構造を背景としつつ、それをいわば体現し強化するから批判されるのである(それは、たとえば「家事ロボット」を若い女性で表象することが、性差別的として批判される理由でもある)。女性を褒めるような表現についても加藤が指摘する通り、その種の言動によって、どのような処遇が正当化されてきたか、または正当化されうるかという仕方で、文脈の中で考察する必要がある。
では、「性」という属性(または特徴)に基づく不利益または劣等処遇でも、「男性」がそれを被る場合には「男性差別」とは言えないのはなぜか。それも以上の点から理解できる。男性は様々な領域で「男性である」ことを理由にして不利益を被ることはない。つまり、男性差別は社会全体を貫く構造として存在しない。それに対して、女性を優遇することは、女性が社会の広範な文脈で被る不利益や劣等処遇の是正措置としての意味をもつ。個別に見れば、それは「性」という特徴に基づいて女性に利益を、男性に不利益を与えていることになりうるが、それが、社会全体での女性差別構造を部分的に是正することであるとすれば、男性への不利益は女性差別と同等のものとして評価することはできない。
このことは、「男と女は差異があるか」という問いに対する江原の議論に即して、次のように考えることもできるだろう。江原の議論は、一見「中立的」な問題設定が、他の(諸)領域での社会的地位を前提として、一方にとって不利を与えることにしかならない問題設定になっている場合がある、という認識を与える。これは逆に、明らかに「性差」と性差にかかわる力の非対称性が重要な意味を持つような場面であるにも拘らず、つまり性差と性差別的な状況を考慮した評価検討が必要な場面であるのに、それを中立的な概念で考察することの問題性にも注意を喚起するからである。
具体的には、たとえば、人工妊娠中絶や生殖医療における女性の処遇をめぐる諸問題、セクシュアリティに関連する諸領域、たとえばポルノグラフィや性売買などである。人工妊娠中絶や生殖医療における女性の身体に対する多大な影響は、そして性行為における主導権に関わる非対称性はとくにそこでは性差を加味した考察が必要であることを示している。また、現在の社会においてセクシュアリティに関連する商品化についても、男性が行為主体で女性は行為の客体とされるような、それ自体が性差別構造の一部を構成する認識を前提にして成立している、という点を考慮に入れる必要がある(ポルノグラフィについては小宮友根(小宮 2011: ch. 7)の議論を参照)。
男性という性が不利益の原因になる場面と、女性という性が不利益の原因になる場面を等しく中立的に位置づけて考察することは、さまざまな領域での社会的地位やそれを支える言説資源や物質的資源の非対称性を考慮しない点で問題がある。
最後に、ある言動に対する「差別的」だという批判が、「そんな細かいことに目くじらを立てなくても」といった形で(冷笑を伴って)無効化される、という構図について。批判が「細かいこと」とされて「無効化」されるという事例は、差別に一般的に伴う性質を反映している。
それもまた、差別の構造という観点から、次のように説明することができるだろう。差別の構造は、社会全体でさまざまな場面を貫いて働く言説資源の組み合わせとしてイメージすることができる。仮に建造物に喩えるとすると、それぞれの場面で活用可能な言説資源は、個別に見れば細い柱にすぎないが、それらは他の場面(場所)に潜在的に張り巡らされた柱と結合されており、それらが総体として社会空間全体を満たす不可視の建造物として性差別を構成していることになる―もちろん社会空間には、いわば他の設計図で描かれた建造物も潜在的に存在しており、そのどちらを採用(引用)するかは各人の選択に委ねられている。差別を構成する具体的な行為は、たとえそれ自体は些細なものであるとしても、批判者は個別の場面での行為が一つの要素として他の場面での行為に結び付くことで強化される差別構造総体を問題にする。だが差別が構造的なものであるということを認識できていない立場からは、批判者は、「細かいこと」を「過度」に問題にする特殊な感覚の持ち主として映りうる。そして、個別の場面をその背後にあるさまざまな領域での類似の行為と切り離して評価し、批判を無効化することは、それ自体として、総体としての差別の構造を支えることになる。

4 おわりに

ある特徴や属性を基準にした不利益または劣等処遇が、「差別」と呼ばれるためには、その特徴や属性を基準にした同様の処遇が他の社会的相互行為の文脈で広く、体系的な形で行われていることが必要だ、ということは、近年の差別論では共通認識になっている。
江原の性差別・性支配論もまた、男女という性別カテゴリーが非常に広範な、というよりもほぼすべての社会的相互行為文脈で、女性に体系的に不利益または劣等処遇を与えているという点を指摘しており、差別論としても適切であると言えるだろう。江原の議論の意義はさらに、差別には何らかの差異にもとづいてそれを正当化する言説が伴うこと、またその正当化論は、とくに性差別においては私的領域内での性別分業を背景にして隠ぺいされる点を指摘したところにある。
差別には何らかの正当化が伴うという点は、他の人種差別や民族差別にも共通すると言えるように思われる。ただし、公私の区分と私的領域での性別分業が差別の不当性を隠ぺいするという点は、他の差別と「性差別」との相違点であると言える。他の差別の場合には、家族内での性別分業に対応し得るようなものは存在しないからである。たとえば人種差別や民族差別などの場合、雇用などの公的領域での差別処遇が、家族内での人種間・民族間の分業によって維持されているということはありえない。社会全体として体系的に、家族の多くが人種間・民族間で形成され、それが性別カテゴリーをも横断して、一方に不利益を与える形で分業がなされていたことはないし、今後もありえないだろうからである―奴隷制はこれに類似していると思われるかもしれないが、奴隷制はそれ自体が「近代社会」の規範によって否定されるのに対して、性差別で問題になる家族内の性分業は、各人の自由な領域とされている点で決定的に異なる。
そしてこの性差別に特異な点は、たしかに性差別の全面性と強固さの基盤となっており、江原が「差別」ではなく「支配」という語を用いる理由にもなっている。
他方で、江原の議論は、性別分業と家事労働の無償性を差別の「根拠」とする議論とは異なり、財や利益の配分問題とは独立して、性差別または性支配による女性の抑圧に伴う経験を重視する論点もある。それは、女性が「判断主体・認識主体として認め」られず、また「女性自身の自己定義権」が「無化」されるという経験である。じっさい、「女性の活動や行為についての自己認識や、それらに基づく社会認識を否定し無化する」ような力が、まさに「女性である」という理由で働いているという指摘は、残念ながら妥当だろう。また、たとえ財や物質的利益の水準において、男性と女性の格差が完全になくなったとして、しかし、女性が自己決定と自己定義権をもつ主体として尊重されていなければ、そこには差別は存在すると言える。そしてたしかに、差別には「劣った存在」としての価値付けが伴う。この論点は近年の差別論では、差別の悪質さの根拠として「不利益」の大きさに定位するか、または差別が社会的に広範な文脈を背景として被差別者を貶めるという特質に定位するかの対立にも関わっており、さらに検討する余地がある。


[付記]
 本研究はJSPS科研費26770011(若手研究(B)、研究課題「差別の規範理論―差別の悪の根拠に関する倫理学的研究」)および、25511018(基盤研究(C)、研究課題「文化・社会運動研究における『アイデンティティの政治』の再文脈化」)による研究成果の一部である。

[注]
1 ここで参照している「差別問題の構造」は前半では差別一般を対象とした議論が展開されており、後半では性差別に限定した議論が展開されているが、前半と後半の議論は必ずしも整合的であるとは言えないため、後半部の性差別に関する論点のみを取り上げる。
2 ただし山根(2010)も指摘するように、江原の『ジェンダー秩序』での議論は、言説の「構造」が社会成員の実践(言動)を一義的に決定するという議論として解釈できる余地がある。ただ、江原自身の議論からは逸脱するとしても、性別カテゴリーに基づく言動(社会的実践)の規則は、しばしば人々に慣習や態勢として内面化されており、広範に流布した堅固なものではあるが、唯一ではない「言説資源」として―フェミニズムの「言説資源」などと並立するものとして―考えることもできると思われる。

[文献]
江原由美子,1985,『女性解放という思想』勁草書房.
―,1988,『フェミニズムと権力作用』勁草書房.
―,1991,『ラディカル・フェミニズム再興』勁草書房.
―,1995,『装置としての性支配』勁草書房.
―,2000,『フェミニズムのパラドックス―定着による拡散』勁草書房.
―,2001,『ジェンダー秩序』勁草書房.
加藤秀一,2006,『知らないと恥ずかしい ジェンダー入門』朝日新聞出版.
小宮友根,2011,『実践のなかのジェンダー―法システムの社会学的記述』新曜社.
山根純佳,2010,『なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて』勁草書房.

生存学研究センター報告

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