第Ⅰ部 軌跡 ー公開研究会の記録 1.境界を揺るがす ー映画『トークバック』上映会・坂上香監督を迎えて

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公開研究会の記録

公開研究会
境界を揺るがす
―映画『トークバック』上映会・坂上香監督を迎えて―


2014年10月20日(月)16:00〜20:00
於:立命館大学衣笠キャンパス創思館1階カンファレンスルーム

[山口真紀(司会)]
本日は映画『トークバック』上映会とトークセッションに来てくださいましてありがとうございます。本日の上映会は、生存学研究センター若手研究者研究強化型プロジェクトの助成を受け、フェミニズム研究会第4回公開研究会として企画しました。
フェミニズム研究会のメンバーはそれぞれに、普段はみな自身のフィールドで研究をしています。犯罪被害者、差別論と倫理学、障害学、クィア神学、京都の花街や在日朝鮮人研究をしているひともいます。私たちは異なる分野で研究していますけれども、フェミニズムの理論や実践の中に、刺激的で、また普遍的な知見があるように思われて、月に一回文献講読を行ったり、ゲストを呼んだ研究会を開いてきました。
本日の企画のタイトルは「境界を揺るがす」としました。これは映画から教えられた言葉ですし、メンバーの大谷通高さんが考えてくださったタイトルです。この映画では、人種や差別、貧困などの構造的問題のなかにいる8人の女性たちが、自身を見つめ、互いに勇気付け、声を出してひとつの舞台を作り上げていきます。彼女たちの実践は、私たちの社会や個人のうちにある、他者への無関心や無理解といった壁を破らんとする力を持っているように思います。そして観ている私たちまで励まされるような映画です。映画を起点として、個人的な体験を他者や社会に「開いていく」フェミニズムの可能性を考えてみたいと思っています(⇒「開催趣旨」は43頁を参照)。
監督の坂上香さんは、映画上映後に必ず観客のみなさんと応答する時間をもたれています。また、「トークバック」とは、ひとびとが「声をあげ」、互いに「呼応し合うこと」という意味がこめられているそうです。今日のこれからの時間は、「トークバック・セッション」として、登壇者のみなさん、それからフロアの皆さんとが互いに声をかけあうような時間になればと思っています。
はじめに、壇上に上がっていただいている金滿里さん、池内靖子さんをご紹介します。金さんは今年、30周年を迎えられる劇団態変の主催者でありパフォーマーでいらっしゃいます。池内靖子さんは芸術、とりわけ演劇と女性というテーマについて深い知見を有しておられる研究者です。まずお二人に「トークバック」のご感想やお考えについて、坂上香さんへのご質問を含めたコメントをいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

[金滿里さん]
「トークバック」の映画の予告編を大阪十三にある第七藝術劇場で観ました。さきほどご紹介いただいたように、私は劇団態変を1983年に旗揚げし今年31年目です。31年間、態変が芸術という路線を引くことについては、本当に闘い抜きではあり得ないと考えてきました。どういう闘いかというと、この世の中にある健常という規範に塗り固められてある、身体の捉え方です。「身体障害者が舞台の上で身体表現をする」というと、そこにはもう矛盾を含んでいるわけです。一つの言葉にギュッと矛盾を凝縮したような表現です。身体障害って、障害がある、でしょ。身体に障害があるから「身障者」っていうふうに思われますよね。その障害者が身体表現っていうことになると、要は言葉の概念の矛盾がその中に含まれてるんですね。
一般のひとがその矛盾に気がついていれば、身障者の身体での表現とは、動けることを問題にするこれまでのダンスと一緒のことをすることではないのだろう、という発想が出てくるでしょうが、そうは思われない。だから「健常者に近づくような身体表現をやりたいのですね」と。だから健常者に憧れて身体障害者が一生懸命表現をするんじゃないか、というふうに思われがちなんですよね。逆にいうと、それをやっていると思えば健常者のひとたちは安心なんです。自分たちの身体が完全で、五体満足という言葉があるように、「五体満足であってこそ表現できるんだ」ていう考えがあるんだと思うんですけれども、そういう概念から抜け出ないところが、身体表現という言葉にはあるんです。それ自体をぶち破っていく、ということを旗揚げ当初から意識的にやったきたわけです。障害者問題とか、障害者の自分探しであるとか、そういうところは全く否定してやってたんです。なんでかっていうと、私はその前に障害者運動をやってましたから、障害者の解放運動ということでけっこうきつい闘争をやってたんですね。そこを出て芸術というところに行きついたので、もう障害者の身体自体は、すごい芸術的なんやという前提で舞台表現をやりだしました。
だから、「トークバック」の中でも出てくるような、床の上をごろごろして、っていうの、それが前提で表現をつくってるんです。すごく芸術としての見せ方とか、芸術感そのものを問い壊すというところも問題にやってきましたので、はじめに「トークバック」の予告編を見たときに、正直いうて、「興味あるんですけども、観たくない」ていうか。なんでかっていうと、やっぱり自分探しだろうと思ったんです、当初ね、予告編を観たとき。それで障害者が表現をやる劇団態変として、ここで呼ばれてしまったんで、もしかしてそういうところに与するように勘違いされるんじゃないだろうかということで、はじめお断りしようかどうしようかかなり迷いました。だけど、この映画自体の評判自体は聞いてましたんで、やっぱり避けずに観ないといけないよなっていう感じがあって、今日初めて観させていただいたんです。

◇ 観る・観せる・揺るがす ◇

[金]
途中まで、「んー、なんていうんだろう私。これに対してどうコメントとか…。劇団態変の活動をどういうふうにいえばいいんだろう」というのをかなり迷っていたんですけれども、中盤、かなり後半のほうから、ああやっぱりこれって、いい映画を観させてもらったなという感じを素直に思えたんです、実は。やっぱりなんていうんですかね、私が芸術という路線でひとつ突っ張ってやってきたぞっていうのんと、芯のところで一番問題にしたいのは、魂。魂の表現ということを身体障害の身体からこそ、魂がたちあらわれないと動いてくれないっていう表現を追求していたんですね。健常者であったら、こういうかたちでありたいとかこういうふうになりたいというのが、まず模倣としてお手本があるわけなんですよね。かたちとして。それをしぶとくやっていくというかたちで、身体表現をしようと思ったときに、やっていくっていう回路があるわけですが、全然そういう回路でやっているわけじゃない。
だから逆概念でやっていく表現ということを思っていたんです。一般的な身体表現と態変の場合はですよ。だから魂というものがそこにたちあらわれるということは、ものすごく芸術的な内容になっていくんで、これはちょっと難しいんで話は置いておきますけども、なんで「トークバック」を観ながら、それを感じたんかっていうと、やっぱり対・対に向き合っていく、ということを私はうちのパフォーマーに対して、けっこう揺さぶりをかけたり、もっと掘り起こせとか、きつい内容を迫るんですね。そこをやらないと、やはり形だけになってしまう。31年もやっているとやはり形になってしまうっていう矛盾をいま抱えています。ですから、俳優へのアプローチの仕方に同じものを見付けられたわけです。
また、ちょっと話が飛ぶようなんですが、フェミニズムの女のひとということを考えたときに、フェミニズムの集団でものをつくるということは、「純粋に自分たちの」ということができるんです。男を排除するという。女だけで、抑圧してきた男の目線というもの、視点というものをなしに、いったんやったところでつくっていく、構築するというところは、実は凄く大事な部分なんですね。私自身、身体障害者として、障害者だけで運動をやってたとき、そういうのがすごく活性化していった。自分が今までおさえつけてた発想やものの見方があるということを、育てるプロセスがいるんですよね。それには、会議をやるときなんかは、絶対に健常者を入れず、自分たち障害者の問題はどんなに時間がかかろうとも、自分たちで一つ一つ議案を討論し考え答えを出して行く。そういう積み重ねで気付きがあってものの見方が変わってくる、という力がそなわってくることが自信になり自由になれることなんですよね。
だからそういう意味で、運動団体としてはわかるところがあるんです。でも、いま芸術となった時に、絶対に健常者を巻き込んでいかないといけない。健常者との視点とかそういうちょっとした言動であるとか、そういうものの中から、しのぎあいながら、ですよね。私の視点ていうのはなんだろうなんだろうと常に考える。そういうところで、障害者だけの純粋な集団だけでものをつくるということ、ではなくて、絶対うちでは黒子という健常者のサポーターが必要なんですけれども、健常者の黒子という、裏を支えるバックステージを使いながら、より普遍的な魂っていう問題を舞台表現やっていこうというところのせめぎあいというかな、そういうのはものすごくあるなあと。違いとして、いま、映画を観てて。
魂が解放されるというときの、向き合う瞬間は、違う立場を感じ自己の立ち位置への逡巡がある。その両者の行きつ戻りつ自体が、ものを生み出すときのキーワードなんだ、と、私自身がぶち当たっているものへのヒントを今日この映画を観てもらえたように思います。

[池内靖子さん]
演劇論を担当しています池内です。長いこと演劇論をやってるんですが、そうですね、学生さんに二つの課題を出すことにしています。演劇論を受講するなら、一度は実際の舞台を観に行ってほしい。フィールドワークとして、劇場探検をしなさいという課題。もうひとつは、最終的にこの演劇論を受講して、関心をもったことを、もうちょっと掘り下げて調べてみて、自分の問題意識からテーマを設定して論じなさいという課題です。なにについてでもいい。たとえば、宝塚は男役・娘役に分けられていますが、なぜ男役が人気があり、魅力的なのか、といったテーマでもいい。結構ね、宝塚はうけるんですよ。演劇論の話をしてると、やっぱり関西に住んでるし、一度は観に行きたいという声が必ず出る。それと、これまでの観劇体験を聞いたら、劇団四季の「ライオンキング」などが多い。まあけっこう大きなメジャーな商業演劇の観劇体験はあるようです。親に連れて行ってもらって実際に観ている。
実は、私自身の興味は、60・70年代の小劇場のアングラと言われた世代の演劇表現ですが、アングラを紹介すると、学生は「うーん」、「えー、こんなのがあったんですか」って、これまで観たことのない演劇表現に衝撃を受ける。でもたとえば寺山修司とか、唐十郎とか、ビデオでちょっと資料を見せるんですが、そういうのを観ると「ぎょっ」としながらも面白い、という感じが出てくるんですね。
私の演劇論では、この数年、金滿里さんにゲストスピーカーに来ていただいています。事前に、金滿里さんが劇団態変でこれまでにやってきたことをビデオで見せて、滿里さんの自伝とか、劇団態変の機関誌『イマージュ』を基にした私自身の金滿里論を紹介しておきます。そして、その後の講義で金滿里さんに実際に来ていただいて話をしてもらう。そうすると、学生たちは緊張しながらすごく真剣に聞き入ってる。自分たちがこれまでもっていた演劇表現の枠組みや身体表現の捉え方が揺さぶられることになるからです。感想についても、やっぱり金さんがおっしゃってた魂までいくわけですよね。障害っていうのをどうとらえるかというところからはじまって、金さんからすごくきちんとしたレクチャーをしていただけるので、私にとっても目からうろこっていうか、「あ、そういうふうにとらえたらいいのか」って、毎回、滿里さんの話から学ぶことができる。非常に得難い時間を学生と共有しながら過ごすことができるということで、演劇論やってよかったなと思っているんですけれども。
今日も、「このトークには滿里さんのお話だけでいいじゃないか」と思っています。パフォーマーとして身体表現について語ることができる方ですから。いろいろ演劇や身体表現についての理論を読んでも、ちょっと腑に落ちないところがあるんですけれども、滿里さんの言葉はすごく具体的でもあるし、理論的でもあり、ほんとうによく理解できます。
私自身は演劇論をやりながら、自分の位置としてはどういうところにあるのかというと、やっぱり、一観客なんですね。今日の「トークバック」、観たのは二度目なんですけれども、一回目はほんとうに圧倒されてしまいました。それで、映像でなく、実際にライブであのパフォーマンスを観たら、どうだっただろうって。逆に、自分自身が、彼女たちの壮絶な生活体験を聞きながら、映像化するとしたら、ちょっとそのパワーに圧倒されて打ちのめされたような気持ちを味わうかもしれないと思ったんですね。つまり、私には映像化するということ自体がすごく難しいと思えました。
今日二度目に、ちょっとじっくり観るなかで、観客と、そのやってる演者のあいだの距離をもうすこしとって観られるようになりました。距離をとるっていうことは悪いことではなくて、やっぱり、一人ひとりとの間を意識することなんですね。いま劇団態変としてどういうことを掘り下げていくか、ということを金滿里さんも言われたんですけれども、観客も、やっぱり掘り下げて、対・対、その個々人が、今まで生きてきたことでなにを隠したがっていたか、なにを出せなかったか、記憶としてもとどめていないものをもっているんですよね。過去の一部を自分として受け止めて統合できたみたいなところの話があったわけですけど、二回目にそういう過程をじっくり見ることができて、だからこれは何回も観ていいんじゃないかというふうに思いました。
坂上さんの他の映画作品「Lifersライファーズ〜終身刑を超えて」(2004年)とか、いわゆるNHKで紹介された仕事を見ながら、本も読ませていただきました。『癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち』(岩波書店、1999年)を読みましたが、これもずしんと、ほんとうに心に刺さるものでした。刑務所の受刑者と演劇というのが一般的な演劇論のなかでは結びつかなかったということがあります。
ただね、演劇の歴史とかいろいろ調べていくと、サンフランシスコのサン・クエンティン刑務所で、不条理劇といわれる有名な、「ゴドーを待ちながら」が1954年に上演されているんですね。受刑者1400名を前に、あの退屈な永遠と待ち続けるという劇の上演を、受刑者がどういう気持ちで観劇したのか…。1400人の受刑者が、切実な問題として待ち続けるしかないという刑務所の現実で受け止めた演劇公演って、どんなものだったんだろうなっていうふうに想像するしかありません。
とにかく、刑務所で演劇が上演されるということがありえるということに衝撃を受けました。また、「ライファーズ」を観ながら、日本の刑務所は隔離された所というイメージがあるので、ちょっと考えられないことで、アメリカ合衆国では、外部との交流がオープンであることにほんとうにびっくりしました。
もうひとつは、やはり坂上さんのほうから紹介されているアミティとかですね。映画に出てくる「メデア」というのは一つの劇団ですね。アマチュア劇団で、刑務所の囚人たちと一緒に取り組んでいます。合衆国では、けっこういろんな、いわゆる治療の一環としてみたいな感じで、演劇がとりくまれている。演劇が、やっぱり治療とのかかわりで、要するに受刑者なり、あるいは「トークバック」ではHIVポジティブの人たちですけれども、そのひとたちとのコミュニティ、つまり、共同体的なものをつくっていく。そして、自分たちで言葉を書いて、シナリオを書いて、そして身体のリズムが合わさっていく。いろんなビジュアルを合わせもつ総合的な芸術ですよね、演劇の。ということで、その機能をしっかりつかみながら経由しながらやっていってるのがみてとれる。
つまり、私にとって演劇というのは、観客と演じるひと(パフォーマー)が、その場を共有し一体になること。これが一つの演劇の醍醐味でもあるわけで、これがね、やはりつくれないと失敗だと思うんですね。今日の「トークバック」は、見事に一体化する。とくに舞台の後の、会場とのトークセッションで、観客の反応にすごく表れていたと思うんですが、ある種のコミュニティを新しくつくっていくのが、すごくいいなあと思います。これは演劇の本来ある一つの重要な機能じゃないかなと思いました。
ここに来る前に、ドラマセラピーとか、ドラマとセラピーの融合性について勉強してこようと思って読みました。自分たちの人生を語りあい、それを役としてまた演じなおす。観客ともレスポンスして、非常に深くとらえられて返ってくる、そういうことが、「あ、ありうるんだな」と思いました。
もう一つだけ言っておきたいのですが、今日のはエイズ、HIVポジティブの患者たちが主体となっているわけですけれども、日本の演劇の中では、ダムタイプ(Dumb Type)の「S/N」という作品がありますね。これは60・70年代のアングラシーンが終わって、そして80年代後半から90年代、なにもないようなところで、いわば娯楽作品とかいろんなものが消費されていってるなかで、なんか突然出てきた、そして演劇シーンを変えたみたいなことがいわれる作品です。で、古橋悌二さんというひとが、ゲイとして、あるいは、HIVポジティブとしてカムアウトしながら、ワークショップしてつくっていった。そういう作品です。非常に明確なテーマをもっています。いわゆるゲイとかエイズとかにかんする言説、差別的な言説を問題化するといった非常に明確な問題意識をもって闘うためにつくられたんですね。
そのなかに聾者も出てきますし、セックスワーカーのブブ・ド・ラ・マドレーヌさん、それからHIVポジティブの古橋さんたちがディスカッションしながら、フリースタイルで、ドラァグ・クィーンのリップ・シンキング(口パク)のパフォーマンスをしたりする。演劇の枠組みを越えていくスタイルの表現にやっぱり打たれたということがあります。ダムタイプの人たちは、古橋さんのカムアウトする表現を受け入れながら、自分たちもそれに返していくようなやりとり、そういう過程がとても大事だったと思うのと、もうひとつ1993年ぐらいにセミナー・ショー、エイズ国際会議があった時にそれと連動して社会運動として、さっき明確な問題意識をもったと言いましたが、そういう運動と連動して自分たちも闘っていくそういうところから生まれた演劇、その迫力、ひとびとと一緒にトークをしながらつくっていくという過程の面白さを思い出しました。
そうした過程を重視し、問題を掘り下げていくそういった「トークバック」をまた同じような問題を共有しながら深めていけるような手法として受けとめました。とりあえず。

[坂上香さん]
まずは金滿里さんに、あの、断らないで来てくださって、ありがとうございます。
なんかわかる気がするんですよ、断りたくなる気持ちが。自分探し的な方向性みたいなことは完全には否定しないし、その部分も多分にあるかもしれません。まあ自分探しをどう定義するかだと思うんですけど。私はほんとうに恥ずかしながらまだ劇団態変のパフォーマンスを観たことがなくって、ただいろんなところで聞いていて、友達とかから早く観ろと言われていて、一度は行こうとしてスケジュールが合わなくって流れてしまって……残念。観てはいないのでなんともまだ言えないんですけど、私が想像すると、非常にラディカルな側面をもった活動をされている方にとって、この演劇のスタイルとかプロジェクトのパフォーマンスが甘っちょろく映るのはすごくわかる気がするので、「まあ行ってみようかな」と思ってくれたことに対してすごく、ありがとうございますと、言いたいです。
いま、とてもいい素敵な言葉がいっぱいだったのでちょっとメモったりしてたんですけど、「魂の表現」、「魂が表出する点・もの」とか、「相互関係を見出していくこと」。あと、「せめぎあい」。まあ「トークバック」っていうのは映画のタイトルですけど、メデア・プロジェクトっていう団体自体を私が非常に面白いなと思ったのは、いろんな要素がそこに介在しているからなんですよね。このプロジェクトは、そもそも女性刑務所で始まったわけですけど、合衆国の刑事政策は70年代から非常に厳罰化されていて、ただサンフランシスコとかいくつかの都市は、ちょっとそういう傾向を回避してたんですね。サンフランシスコは特にいろんな意味でリベラルな都市なので、2000年ぐらいまではなんとか特別区みたいなかたちでやっていた。ところが厳罰化の波に覆いかぶされてしまって、もうほんとうに練習するスペースさえなくなるくらいで。
例えば今まで練習していた部屋に二段ベッドが入って、物理的に練習スペースがなくなってしまって、事実上追い出されちゃったんですね。私がかかわりはじめたのは2006年ですけど、その時点で刑務官が練習場を監視するとか、現場も厳罰化が進んでいました。刑務官はそこにいても何もしないんですよ、なんかSF小説とかもってきて見てるだけで。
別になにも言わないんだけど、でも時々、彼女らが激しい社会批判をするので、それに対して刑務官が「ちょっと」みたいなことを言うときがありました。それに対してローデッサが「馬鹿言ってんじゃないわよ」みたいな、そこでぶちぎれたりしないんだけど、言っていたことがあります。練習が終わってからみんなで、「今までの自分たちの活動では考えられない。こんな刑務官・看守が口を出してくるみたいなことがはじまったのはここ数年だ。こんなふうに介入されてきたらもうやってられない。自分たちがやろうとしてきたラディカルな視線というのが壊れてしまうから、意味がないんじゃないか」みたいなことを言ってて。そういうのはしょっちゅう聞いていたんですね。
だけど日本の刑務所を考えたら、まず、劇団がそこで練習できる、存在できる。しかも私はアメリカ人じゃなくて日本人なのにカメラもって入ってくわけですよね。それで撮影してたんですね、もう1年ぐらい前から。カメラをもって入れる、とか、外国人なのにパスポート見せるだけで、一応手続きは取ってますけど、そんな難しいことなくて入れるとか、それに対して彼女たちはわーっと文句を言うんだけど。「だけどね、日本と比べたら雲泥の差だよ、天国と地獄みたいだよ」と私は言ったんです。でもやっぱり彼女たちにとって、自由とか、いろんなものを束縛され制約されるということが2000年代に起こっていて、で、まあ練習スペースから追い出されてしまうという事態だったわけですよね。
そういうなかで、彼女たちは刑務所の中でやれるところまでは非常に闘ったと思うんです。でも外に出ざるを得なくなった。そもそも刑務所にいるときからいろんなひとたちが入ってたんですね。びっくりするのは小学校の国語の先生とか、高校の図工の先生とか、セミプロのダンサーだったりとか、いろんなひとたちがそこに来ていました。そのひとたちと一緒に演劇をつくっていくというプロセスが面白くって、私はたった1ヶ月半しかいられなかったんですけど。8月と9月にちょっといて、11月にもう上演になりました。
しかも刑務所でなくて外で演劇をやる。サンフランシスコのシアター街にロレイン・ハンズベリー・シアター(Lorraine Hansberry Theatre)って、ロレイン・ハンズベリーっていうアフリカ系アメリカ人女性で有名な脚本家で監督さんがいて、彼女の死後に名前をとった劇場があります。古くて老舗の劇場なんですけど、そこでの上演でした。みんなオレンジ色のタンクスーツ着て、手錠して足枷してチェーンでつながれて、看守に連れられてバスで来て、シアターの前で降りて、楽屋に入ったら鍵を全部外す。そして着替えてメイクして舞台に女優として立つ。それを二週間繰り返すんですね。で、終わるとまた鍵をして手錠をして足枷をしてつれられていくという。
そのような上演活動の中でも、いろんな交流が、いろんなひととのかかわりがありました。刑務所を出たあとの、みなさんに観ていただいたメインのものは、さらにHIVポジティブの女性たちや、刑務所時代から手伝っているセミプロのダンサー、セミプロの女性作家。でもみんなそれで食ってるわけでもないんですよね。みんないろんな仕事をしながら、週に何回か夜に集まってきて練習する。人種も非常に多様だし、もっている背景とか職業も多様だし、そういう多様ななかでつくっていく。それはまさに、「せめぎあい」です。先ほど健常者と障害者の「せめぎあい」だと仰っていたのと近いところだと思います。今回の映画ではメインではなかったので含まなかったんですけれど、最初のほうでけっこう体のでかいねえちゃんが、「私が食べた食器を誰も使わないのよっ」とかっていうシーンがありましたよね。彼女も元受刑者だったんですけど、彼女は外に出てからもときどきメデア・プロジェクトをやっていますが、当初はHIVに対してすごい差別・偏見をもってたんですよ。それがにじみ出ていたの。
次回、「トークバック」を観るときに注目していただきたいのは、マルレネっていうオーストリアの子が「私、感染二年目記念日なの」というシーンです。咄嗟に誰かが「え、なに?」って聞き返したときに、「だから、二年前の今日、私、感染したの」って言ってる、その斜め後ろの女性を見てほしいんです。彼女、リーヴァっていうんだけど、すごい「ええええ」みたいな表情してるんですよ。あのシーンは上演の二か月前ぐらいに撮ったのかな。ずいぶん練習が重なったあとだったんだけど、それでも、「ええええ」みたいな顔をする。その彼女が当日、トーク・バックのセッションで、「いろいろトラブルなかったの」という質問に対して手を挙げて、「自分は実はすごく差別意識をもっていた」と。「正直つい最近までもっていて、みんなに嫌な思いをさせてきたと思う」と。「でもこうやって一生懸命HIVのひとたちとつくる中で自分のその差別観にも気づかされたし、今は違う見方ができるようになった」というシーンが実はありました。それはとてもいいシーンだと思ったんだけど、メインではなかったので映画の中では使わなかったんです。けれど、そういうふうにポジティブと非ポジティブのひとの間のいろんなせめぎあいがありました。
デボラという女性は、後に認知症になるっていう話がありましたね。ああいうところでも、いろいろあったあとに話し合って和解していくことみたいなこともあり、とても難しいんだけど、時間をかけてそうやっていくことの大切さ、寛容さみたいなものをあの劇団がもっているということが、私はすごく面白かったし、劇団態変のやってることもどこか共通するところがあるのかなと思ったりもしました。
もうひとつ、トークバック・セッションについて。今回の映画の中では非常に和やかに行われたんですけど、刑務所で行われたときに、それは撮影できてないんですけど、さっきお話ししたロレイン・ハンズベリー・シアターでやったときにすごい衝撃的なトークバックがありました。トークバックのセッションのなかで、白人の裕福そうな女性が「すばらしかったわ」と褒めておいて、「だけどあなたたち、違法行為を起こしているのよね。犯罪者なのよね」みたいなことを言う。「そこんとこをどう考えてんの?」と聞いたんです。こちらは「あれー?」みたいな、「そ、そこ?」みたいに思ったんだけど、会場はフリーズしました受刑者のひとだったかな、それを言われたほうのひとが、「じゃあさ、あたしが3歳のときにレイプされて、どっか外に裸で放ったらかされてんの、あんた助けてくれた?」と返す。20〜30ドル払ってきているそのお客さんにむかってすごく辛らつに答えていました。ローデッサがその受刑者をバックアップしてくれて、お客さんに向かって「いまこの社会は、あなたが仰ったような目で私たちのことも受刑者のことも見ているわけだけど、いま彼女が言ったみたいに、放っておかれて誰も知らないなかで暴力を受けて被害者だった過去があるわけで、そのことをみんなで共有して考えようと言ってるんじゃないの」と。なんというか、和やかとは反対の雰囲気になって騒然となることがあった。
今日の「境界を揺るがす」というテーマ、とてもいいタイトルだと思うんです。この場で起こったことがまさに「境界を揺るがす」ということだと思うんですね。私がやりたかったということは、和やかに和解しましょうとか、分かり合いましょうっていうことではない。受刑者のひとがどんなふうに生きてきたのかということを私たちは知らないわけですよね。だからそのことを知って衝撃を受けて立ち尽くしてしまうかもしれないけど、まずそういう場を当事者とのあいだでつくりましょうっていう。そういう場をつくるということはこの社会にはないので。それを実はやりたかったわけです。
今回のトークバックでは、あまりそういうあからさまな境界の揺るがし方というのは起こらなかった。違うかたちで、例えばこの映画の中でだと、18歳のときにHIVポジティブになって自分は子どもなんて産めないと思ったという、ソニアの話をきいて「神の恵みがありますように」という、そういうちょっと刑務所でみた衝撃的な「これどうしたらいいの」と思うような揺らぎかたとは違うかたちでの揺らぎが見えたのかなと思ったんです。

◇ 自己表現の治療的可能性 ◇

池内さんのお話のなかで、セラピーとしての演劇という話がありましたが、すごく難しいところです。私は「ライファーズ」という映画を撮りましたが、ライファーズはセラピー的コミュニティといって、日本では「治療共同体」と言われているものです。最近は治療じゃなくて「回復共同体」というふうに呼んでるひとたちもいるんですけど、ライファーズの「治療(回復)共同体」っていう活動自体は、私はいまもすごく意味があると思っています。対話によって回復していくということを、すごく有効な手立てだと思っているからです。
実は「ライファーズ」をつくりながらすごく気になっていたことがありました。自分の中で。大切だけれどもそれが足かせになるんではないかという思いがあるときもあったんですね。というのは、アミティは治療共同体のなかでもユニークな活動をしているし、独自の視点をもっている。一般に「治療共同体」とはなにか定義しようと言われても、あまりうまく定義できるものではないけど、その他大勢のものとアミティはイコールではない、と思うんです。でもやっぱり、人間って更生とか治療とかっていう以外に成長したり、そもそも備わっている力があると思うから、セラピーというのが一番前に出てしまうと、なにか制約がかかってしまうのではないかと感じていました。実は「セラピーではない表現」を探したんです。その結果、メデア・プロジェクトに行きついたとも言えるんです。
でも、彼女たちがセラピーを否定しているかと言ったら、否定しているわけではない。この映画のキャッチフレーズでもある「セラピーか、革命か、芸術か」という問いについて、ローデッサはこの全部だと言います。どれも否定はしない。“All inclusive”という言い方をする。でもセラピーを前面には置いていないんですよね。それはすごく私は大切なことだと思っています。結果的にものごとがうまくいくと、セラピーの効果というものはあるんだと思うんです。でもそれを前面に押し出していくことの問題性というのは、答えは出ていないんですけれども、私は感じています。
映画を撮る前にオーストラリアでSomebody’s Daughters Theater、誰かの娘さんの劇場というタイトルの、同じような女性刑務所のなかで演劇をやってる集団を訪問しました。そのリーダーはレズビアンのカップルで非常にラディカルなお二人です。彼女たちは「セラピーじゃない!私たちは、いまは非常にドラマセラピーとか、演劇をセラピー化する動きが世界中で広まってるけど、私たちはいやだ! 違うんだ! 私たちがやっていることと一緒じゃない!」と言っていました。彼女たちがやっていることと、メデアとはまたちょっと違うけれども、でも結果的になにが起こっているか、といったら、やっぱり、魂が回復されているんだと思う。そのなかでなにかを獲得していったひとっていうのは、たぶんセラピー的な治療効果があるんだと思う。なにか引っかかっていたものが回復していく、傷ついていたものが癒されていくということは、結果的にはセラピーと似ているかもしれない。だけど、それだけではないというところに私は注目したかったわけです。

[池内]
実は、私も、セラピーというのを敬遠しています。今回、「トークバック」を考えるうえで、ドラマ・セラピーっていう方法の本を読みました。セラピーってそういうものかと思って読んできたんです。癒しとか簡単には言えないし、いま仰ったとおり、「セラピーでもあるし、革命でもあるし、芸術でもある」ということなんだと思います。セラピー文化というか、違うかたちだと思うのですけども、合衆国の精神分析で、語ることをきいて分析しながらそれを越えていくみたいなところがありますね、ああいう文化は日本にはないと思うんです。その前にいわゆるセラピーだけが目的となるようなそういうものというのは、私自身もいいと思っているわけではない。坂上さんが言われたように。むしろ、劇というのは劇・遊びといって、小さいころからするものです。プレイっていうのが劇であり、遊びでしょ。それが癒しになるという言い方は、エリクソンなんかが概念を考えるなかで出してきた。あんまり治療効果とかそういうことと結びつけて考えることはないというのが私の考えです。
もう一つだけ、共同性をどうつくっていくかということは、そういうものから発生しているというふうに思います。共同体と言ってしまうとちょっとしんどい感じはあるんですけれども。

[坂上]
心理劇(サイコドラマ)ってあるじゃないですか。日本国内で数年前にある種の失敗例を見たことがあって、私はそれを見てすごい傷ついちゃったんですよね。それをやってるひともすごく傷ついているんですよね。「やめて、もうやらないで」って私は言ったんだけど、でも、まあやり続けられて200人とか300人の前でやっていました。すごい嫌な体験をしたことがあって、難しいと思っています。もちろん本人は合意してたぶん演技してるんだけど、生々しくって傷がいきなりパカッと開いてしまう。そんな短い時間で無理矢理見せつけられちゃって、みんな、ショック状態だったと思います。

[池内]
安全な場所じゃないとね。

[坂上]
安全じゃなかったんですよね。そういう意味でも、なんというか、演劇だからって自分をさらけ出してもいいというものでもない。

[池内]
逆に制限があるんですよね。演劇には。

[坂上]
なんかすごく難しいなって思いました。

[金]
そうですね、いろいろ面白いことをひらめいてたんですけど。「あー、そっかあ」という感じで。
三つあって、ひとつは魂の表現ということを芸術的にやっているというのは、魂の癒しとはまたちょっと違うんですね。深く魂を掘り下げていくというのは、自分の魂じゃなくて、違うひとの魂も降りてくるというか。まあ神がかりな話じゃないんですけど。要するに、表現というのは憑依されなだめなんですよね。だから憑依されるべき存在として、私はやっぱ身体障害というのが、知的障害にしてもそうですけど、感覚的に非常に鋭いものがあると思っています。自分が傷ついたというところでは全然思っていないんですよね、障害者はむしろ。もう絶対存在ですから、自分の身体は“ある”もんなんでね。他者から言われて、「ああそうだなあ」と。「そういうふうな見られ方もあるんか」と、その程度なんですよ。
ある意味、健常でも障害でも男でも女でも関係なく、舞台上でその役をやるっていうことと、際限なく自分の深いところを掘り下げていくということとの、せめぎあいていう言葉をさっき言いましたけど、際限なくそこを近づけていくということで、完全に違うひとの魂というものもわかる。それがまあ表現的な魂やと思うんですね。
私が唯一表現としていいと思っているのが、大野一雄さんなんですね。大野一雄さんは魂が先にあって、形が後についてくるという考え方で。魂として教えはるんです。形を言いはらへんのですよね。心のありようというか、なにか表出したいもの、宇宙とかいろんな宇宙人語を使って表現しはるんですけれども。自分の深いところの原体験ということでなにか響くものがあって、だけどそれを問題とするんですよっていうとこじゃなくて、それを投影するもっと深いもの、なにがそういう状況をつくり出しているんかっていうことの背景っていうのかな、そういうことを考えとった全部がつながってくる。そういうことにつながる魂というものを表現として私はわりと求めるんですね。
だから私は、魂というのと、セラピーとは、関係あるような言葉で使ってはいない。癒しとかそういう部分での魂じゃなくって、もっともっと深いところでたちあらわれてくるものってなんなんかなーということを見られるような観客の目とか、そういうものでいきたいなーって感じがするんですね。
それともうひとつ、「受刑者でしょ」、「犯罪者でしょ」っていう言葉があったっていう、白人の裕福なひとの。その言葉でハッとしたんやけど、やっぱり括っている。はじめから「障害者の劇団です」って言われるのは絶対やらない、否定してるんですよね。冠としての障害者劇団ということはつけないとか。「エイズ患者」であるとか、「受刑者」であるという括りをはじめにやってしまうと、そういうカテゴリーというかな、そういう色付けでしか見ない前提があるやんかと。それを承知の上でやってしまってるんで、やっぱりそういう見られ方というのはついて回るよねって思うのと。態変に関してね、まだそういう言い方、実はよく漏れ聞こえているっていうのかな。一般のひとが、身体障害者の表現やというだけで、ステージに足を運べばまた全然違うもんやって分かるんですが。まずそれだけで「行きたくない」「見たくない」「そんなもん見せられるんか」って感じがするっていうのと、ああちょっとこういう見方なのかあ、ということを思いました。そこを払拭していくっていうこと自体態変の闘いとしてやっているところで、まずトークバックの描き方に違和感を感じたかな。裕福な白人の発言を肯定はしないけど、そのことでまた違う方向からの見え方というものに気づき、ちょっとハッとしました。
三つ目は、せめぎ合いの侵食されようとするものとの闘い、と違いですね。
介護であっても黒子であっても、自己という障害者からの世界の見え方を実現しようとした時に、健常者の介護を受けるといういわば障害の存在を否定してくるペースを使わないといけないというように、健常のペースの異物を取り込むことでの起こる闘いがある。それは、一瞬一瞬を芸術性として本当にそうなのか、を他者の身体を使いながら侵食されようとする身体性への疑いへの闘い、とでもいうか…。

◇ “All Inclusive” と魂の表現 ◇

[池内]
現代演劇は、やはり、消費的な文化のなかで花開いているというのがあると思うんですよね。それを捨象するのは、私であったり、誰かであったり、それはそれぞれの選択で見るしかない。たとえば、宝塚に関しても「批評」としてはどういう歴史性をもっているのか、あるいは現在性とのそれこそせめぎあいが、表現がありますので、そこに対するクリティカルな発見・批評というのはあってほしいなと思って、私は研究のなかで紹介しています。
それと、「魂の表出」という劇団態変や今日の「トークバック」のひとたちの表現にしても、それが私自身は非常に重要だと思っていて、そしてどう言ったらいいんだろう、そうですね、「魂」というものがすごく説明しにくくて、言葉にしにくいんですよね。魂ということで「深さ」、そして表現の「掘り下げ」ということに結び付いて受け止められるんですけれども。意外と英語に直したら「スピリチュアル」しか言えなくて、「魂の」という表現は、日本だけではなくて、たとえば学会のなかで、アカデミーの言葉としても、いわゆるなにかちょっと「飛んで」しまっている感じでとらえられている。
私自身は、スペクタクルではない、見世物ではない芸術的な表現、あるいは共同性を求める表現ということで、パフォーマンス・アーティストたちと親しいんですね。そういうひとたちの作品をやはり紹介していきたいというのがあるので、バランスではないんだけど、これもあるしあれもあるよという感じになってしまいますけれども、私としては、スペクタクルではない芸術表現の可能性をやはり見るとことを演劇論の中でできたらと思っています。
答えになっていないんですが、魂とかスピリチュアルについて、「日本の研究者はさっきからスピリチュアルと言っているよ」と言われたんです。見世物ではない金滿里さんの魂の表現ということについて演劇学会で発表したときに、他のいわゆる「西洋」のフェミニストたちから見たときに「ちょっとわけがわからないことを言っているな」という感じでとらえられてしまったということがあります。これは私自身の狭い経験ですが、もう少しよい表現の仕方がないかな、ということも頭にあります。

[金]
こういう言い方をするのは卑怯かもしれませんけれども、態変と「トークバック」は違う、と思います。劇団態変の場合は、分かりやすく、なんと言ったらいいんですかね、最近、たくさんの観客に見て欲しいと思うように変化しているんです。ちょっと前までは、分かるひとだけ見たらいいんじゃないかというところがあったんです。ある意味、「尖がって」、「辺境でもいいやん」、と。ほんとうのものを掘り下げようと思ったら、そんなに一般の「大衆」に、ぎょうさんに受けるようなことをやってはいけない、というような感覚はあるんで。だから、分かるひとに伝わればいいんだという感じでやってたんですけども、やっぱり「観てもらわないと意味がないよね」と思うようになったんです、最近。
そうすると、たくさんのひとになるべく観てもらって、たくさんのひとに伝わるようにしたい。こういうことが大きな変化かなと。そこが、「宝塚的なもの」と「アート」というか「芸術なんだ」というふうに言っているところの違いかもしれません。劇団態変としては、たくさんのひとに伝えるようにやろうと思えばできることももっているので、両方使い分けながらやればいいんじゃないかな、というふうには思っています。

[坂上]
私は映画をつくっているので、パフォーマンスを映画にしたというところがまたちょっと違うところがあるかと思うんですが。
さきほど、なかなか日本では「違う」ものが揺るがすような場がないから、そういう場をつくりたいと言ったんです。映画「トークバック」も、結構いろいろなところで観せる機会があるので、数百単位の方に観せることもあるし、数名単位のところもあっていろいろあればいいなと思う。その場その場で変わっていって、そこに来たひととの関係をこの映画でつくっていって、観たひとが「良かったね」とかのレベルじゃなくて、すぐに動いてくれなくてもいいんだけど、なにか気になったりとか、日本での受刑者への見方とか薬物依存のひとたちへの見方・接し方が変わっていったらいいなと思っているわけですね。
だから、私はいろいろなところで、いろんなかたちのものが多様にある方が大切だと思うので、もちろんクリティカルに見ていくひとは一方であるんだろうけれど、私の立場としては多様なものがあっていいんじゃないのというところはあります。

[司会]
ありがとうございました。もう時間になってしまいましたけれども、これだけは言っておきたいというふうに思われる方はおられますか。よろしいですか。
私自身は金さんの言葉にハッとした、虚を突かれたところがありました。「自分を語る」「表現する」という行為には、「トークバック」の中でもそうでしたが「自分を掘り下げる」という過程が不可欠にあるということです。自分を「外に出す」ためにはまずもって自分を掘り下げなくてはいけない。このとき、「掘り下げる」行為は他者との「せめぎあい」のなかで行われる、あるいは自分のなかの他者性と出会いなおすことでもあってしまう。自己と他者とは円環構造のようにあるんだな、ということを思いました。
映画と一緒に移動してお忙しいなか来てくださいました坂上香さん、企画の段階から相談に乗ってくださいました池内靖子さん、そして昨日の千秋楽を終えて来てくださいました金滿里さんに厚くお礼を申し上げます。また、この時間まで残ってくださいましたみなさん、生存学研究センターのみなさんに感謝をお伝えします。ありがとうございました。

(拍手)

生存学研究センター報告

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