第3部 書評・資料読解 3 我々の道徳的ポテンシャルの可能性と限界 ―来たるべき倫理のために

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書評・資料読解

我々の道徳的ポテンシャルの可能性と限界
―来たるべき倫理のために
(【書評】 J・グリーン著『モラル・トライブズ―共存の道徳哲学へ』、
竹田円訳、2015年、岩波書店)

安部 彰


はじめに

「道徳」はかつてもいまも倫理学の中心的な研究テーマでありつづけているが、現在それへのアプローチは多彩である。通時的そして共時的な道徳実践・思想を跡づける「記述倫理学」。道徳的判断・行為の理由と論理の体系構築を追究する「規範倫理学」。道徳語(概念)の意味や用法の分析をとおして道徳的思考・行為の特性を探究する「メタ倫理学」。医療・環境といった特定の領域における倫理問題の解決をめざす「応用倫理学」。
これらはそれぞれ独立したアプローチであり、固有の意義をもつが、やはりその中心には規範倫理学があるといえるだろう。なぜなら我々が過去や現在においていかなる道徳的世界を生きてきた(いる)のかについて知ることも、我々の道徳的言明(道徳語の使用)における混乱や誤用をただしつつその正確な理解を深めることも、つまるところ「いかに生きるべきか(なすべきか・あるべきか)」といった我々の誰もが例外なくいだいている関心(問い)へと連なっているからである。つまり我々は、生きていく以上は避けることができない他者とのかかわりにおいて、信頼して依拠することができる規範の範型をもとめているのだが、それについての理論が精緻で堅牢なものであればあるほど、その「応用」の範囲のさらなる拡張や有用性の向上も期待できるはずである。
また近年では、テクノロジーの進展にもドライブされ高度に複雑化しつつある人間間関係や生活環境のもと、上述のような我々の関心・ニーズはさらに高まっている。そしてそれに応じるかのように、倫理学においてもあらたなアプローチが登場し、注目を集めている。それは「実証科学としての倫理学」(金井 2013)、あるいは、心理学・認知神経(脳)科学・進化理論の観点からのポスト記述倫理学の試みである。
本書評の対象である『モラル・トライブズ』の著者グリーン(Joshua Greene)は、かかる分野を牽引する気鋭の研究者として知られる。だが彼の研究の射程は、類似の研究とは一線を画す。すなわちグリーンは、みずからもその成果産出に貢献している実証科学としての倫理学の知見を活用しつつ規範倫理学の「準-基礎づけ」にも挑戦しているのだ。ここで「準-基礎づけ」と呼ぶものは―グリーンがこの用語をもちいているわけではないが―、普遍的に妥当する道徳的真理の解明ではなく、「道徳を科学的に理解することによって、私たちの道徳的思考を客観的に改善」(250、強調原文)することをめざすアプローチのことである。つまりグリーンの方法は、最新の科学的エビデンスによってあらたに明らかとなった人間の「できること」にもとづいて、現代を生きる我々の「なすべきこと」(規範)をあらためて導こうとするものだ。そこに彼の研究上の壮大な野心と独自性があり、かかる進取的な試みの行程と帰趨への関心が本稿で同書をとりあげる所以をなしている。
『モラル・トライブズ』は、全五部から成る大部の著作である。そこで以下、基本的には著述の流れにそくして同書の内容紹介に努める1。そのうえで評者の本書についての評価とあわせて幾許かの考察をしめすこととする。

ふたつの道徳問題

我々は各々、個人としてある。とともに、さまざまな「部族(共同体、集団)」にも属している。では我々を各部族へと配分するメルクマールはなにか。グリーンが注目するのは、それぞれの部族において分有されている常識的信念としての道徳である。すなわち部族は、ある道徳を「共有するメンバー」であるか「共有しないメンバー」であるかによって、「我々」と「彼ら」として分節される。またそれにおうじて、道徳問題もふたつのタイプに区分される。すなわち「私」と「我々」とのコンフリクトという構成をもつ「コモンズの悲劇(the tragedy of commons)」と、「我々」と「彼ら」とのコンフリクトという構成をもつ「常識的道徳の悲劇(the tragedy of commonsense morality)」とに、である。グリーンによれば、後者こそ、「現代社会の大きな悲劇、人類を引き裂く道徳問題の背後にある根の深い悲劇」(5)にほかならない。したがってその解決策を導くことが、彼がみずからに課す課題となる。だが前者の問題についてはどうなのか。

コモンズの悲劇と道徳マシン

グリーンが「コモンズの悲劇」と名づける問題と同名の論考を環境学者ハーディン(Garrett Hardin)が発表したのは1968年のことだが、それが我々に突きつけたのは、「「私」たちはいかに協力すべきか」という、ふるくてあたらしい問題であった。この協力問題は「私」と「我々」とのあいだで最善の利益が一致している―協力が容易である―とき、もしくは「我々」の利益が存在せず個々の「私」の利益しか存在しない―協力が不可能である―ときには、存在しない。そうではなく、それは、「個人の利益と集団の利益が、完全に一致するのでも、完全に衝突するのでもないとき」(26)、解決すべき―よって解決可能な―問題として現出する。じっさいこうしたケースこそ我々の経験する常態でもあり、個人の利益と集団の利益は部分的にしか一致しない。それゆえ「私」の観点と「我々」の観点とのコンフリクトとその解決が、協力(コモンズの悲劇)における原理的問題となる。
ではその解決策はいかなるものか。答えそれじたいは決まっている。すなわち我々の各々が「私」より「我々」を優先し、互いに協力すればよい。それゆえ問題はむしろ、その解決策をいかに導くかにある。だがグリーンによれば、我々はじつはその解決策もすでに手にしている。すなわち我々の脳に組みこまれている「道徳マシン(moral machinery)」こそ、それにほかならない。
道徳マシンとは、「連携して協力的行動を促し安定させる、一組の心理的な能力と傾向」(37)のことである。人間には相互に無関係にみえる心理的特性―共感、家族愛、怒り、社会的嫌悪、友情、最低限の良識(暴力行為の忌避)、感謝、復讐心、恋愛、名誉心、羞恥心、罪悪感、忠誠心、謙遜、畏怖、手厳しさ、ゴシップ好き、自意識、狼狽、部族主義(集団レベルでの利己主義)、義憤―が備わっているが、グリーンによれば、これらは「本来なら利己的な個人間の協力を促すために完璧に設計されている」(82)。すなわち道徳マシンは生物学的・文化的進化の産物にほかならず、「自然」な情動的反応や直観として現出し、人間の利己的衝動を抑制し、協力的行動や思考を駆動している。その様相をグリーンはさまざまに例証しながら「コモンズの悲劇」が原理的には道徳マシンによって解決可能な問題であることをしめす。だがじつはそれは、道徳マシンの限界もまた同時に照らしだす。すなわち我々が「自然」に協力できる相手は、「私」がなんらかの帰属意識を有する「我々」の範囲にとどまるというのである2。

常識的道徳の悲劇へのアプローチとその糸口

人類史を遡り現代という地点をみかえすなら、その道徳的進歩にはめざましいものがある。だが「我々」と「彼ら」のあいだのコンフリクト、部族間の諍いは、いまなお絶えない。グローバルなレベルでは貧困問題や環境問題といった、ドメスティックなレベルでは医療問題や福祉問題といった共通の課題に「我々」と「彼ら」は直面しているにもかかわらず。
でも何故なのか。グリーンによれば、かかる諍いは無道徳や不道徳に起因するのではない。むしろそれは、各部族がいわば道徳的にすぎる―それぞれの道徳観に固執しすぎる―からなのだ。そうして生じる「我々」と「彼ら」のあいだの道徳観の対立が「コモンズの悲劇」に準え「常識的道徳の悲劇」と呼ばれるのだが、グリーンによれば、その解決には道徳マシンは役に立たない。それどころか、そのすくなくない部分は、当の道徳マシンによってつくりだされたものでさえある。たとえば部族主義的傾向は、身内びいき―「彼ら」の利益にたいする「我々」の利益の優先―を促進する。またその傾向は、部族ごとに固有の道徳観とも結びきつつ、事実にたいする歪んだ認知や評価をうみだす。とくに、「バイアスのかかった公正(biased fairness)」が「常識的道徳の悲劇」におよぼす影響は深刻だ。すなわち我々はみな公正でありたいと願い、ときに公正であることをもって任ずるのであるが、じっさいにはその公正についての考え―そこには協力の適切な条件についての考えも含まれる―を自己都合にかなうよう―それも無自覚に―解釈する傾向にあるというのだ。
では「常識的道徳の悲劇」を解決するには、「我々」と「彼ら」との道徳観を架橋するメタ道徳を実現するには、どうすればいいのか。道徳マシンにかわる道徳装置の探究が必要となるだろう。その糸口をグリーンは、ある道徳的ディレンマケースの分析をとおして、さらに探っていく。
ディレンマとは、いわゆる板挟み状況のことである。一般的にそれは、おなじくらいよい(わるい)とおもわれる選択肢からどれかひとつを選択しなければならない状況をさす。我々はディレンマに直面することで、心理的葛藤や苦悩にみまわれる。道徳的ディレンマは、そうしたディレンマの一形態である。それは、道徳的判断がせまられる場面で生じるディレンマのことである。一般に道徳的判断は、事実にたいする認識のみから導かれるわけではなく、各人の価値観にも依存する。したがって人々における認識や価値観のズレが道徳的ディレンマの温床をなす。またそれらのディレンマにはバリエーションがあるが、その分析と解決が倫理学の課題としてあらためて認識される契機となったのは、トムソン(Judith Jarvis Thomson)が1985年に発表した論考「トロッコ問題(The trolley problem)」である。
トロッコ問題は、典型的には二種類の思考実験をもちいた道徳的ディレンマとして描出される。まず「歩道橋ディレンマ」と呼ばれるそれは、つぎのようなケースである―制御不能になったトロッコが線路を突進している。その先には五人の鉄道作業員がいる。トロッコがそのまま進めば、五人の轢死は必至だ。さてあなたは線路にかかる歩道橋のうえにいる。歩道橋は向かってくるトロッコと誤認のちょうど中間地点にある。あなたの隣には大きなリュックサックを背負った鉄道作業員がいる。五人を救うにはどうすればいいか。この男を線路めがけて突き落とすしかない。男とリュックサックの重量でトロッコが五人のところに到達するのをくいとめることができる。もちろん男は死ぬ。さてこの行為は道徳的に容認できるだろうか。
他方で、「スイッチディレンマ」と呼ばれる、もうひとつのケースはつぎのようなものである―制御不能になったトロッコが線路を突進している。その先には五人の鉄道作業員がいる。トロッコがそのまま進めば、五人の轢死は必至だ。さてあなたは線路の転轍機の側にいる。転轍機のスイッチを押しポイントを切り替えれば、トロッコを待避線に誘導することができる。しかしあいにく待避線にはひとりの鉄道作業員がいる。五人を救うにはどうすればいいか。スイッチを押すしかない。もちろんその男は死ぬ。さてこの行為は道徳的に容認できるだろうか。
実験結果より、「歩道橋ディレンマ」の問いにはほとんどのひとが「ノー」と、「スイッチディレンマ」の問いにはほとんどのひとが「イエス」と応じることが知られている。すると問題は、こうなる。いずれにせよ五人が助かりひとりが死ぬ―いっけん両者のケースはよく似ているようにおもわれる。にもかかわらず、それぞれの判断は著しいコントラストをなしている。これはいったい、いかなる消息によるのか。
ここで問われている道徳問題は、形式化していえば、「(本物の、もしくは名目上の)個人の権利と、(本物の、もしくは名目上の)より大きな善の対立の問題」(152)である。すなわち歩道橋ディレンマでは、五人の救命という、より大きな善のため、ひとりの(無実の)人間の生きる権利が侵害されるのは不正であるとの判断がしめされているようにみえる。それにたいしスイッチディレンマでは、ひとりの命と五人の命をひきかえにすることは正当化されるとの判断がしめされているようにみえる。
グリーンによれば、かかる判断の相違は「道徳判断の二重過程理論(dual-process theory of moral judgement)」により説明できる。そのことをさまざまな実証研究の結果がしめしている。すなわちその理論によれば、まず人間の脳はデュアルモードのカメラに類比的な構造―オートモードとマニュアルモード―を備えている。オートモードとは情動反応のことであり、それが生じるとき、人間の脳のVMPFC(前頭前野背外側部)と扁桃体と呼ばれる部位が活性化する。またこの反応によって我々は直観的に―推論を経ずに―迅速かつ効率的に意思決定を下すことができるのだが、その拠り所をなしているのは過去の遺伝的・文化的・個人的経験から蓄積された教訓である。これにたいしマニュアルモードは、意識的・明示的・現実的な論理的な思考を司る汎用能力である。このモードが起動しているときには、人間の脳のDLPCF(前頭前野腹内側部)と呼ばれる部位が活性化する。それは推論過程であるため効率性には欠けるが、硬直的ではない柔軟な意思決定に役立つ。
さて実験結果がしめすところによれば、それぞれ歩道橋ディレンマではオートモードが、スイッチディレンマではマニュアルモードがそれぞれ優勢となる。すなわち前者では、情動反応がアラームの役目を果たし、件の男を突き落とすという我々の決断を押しとどめる。それにたいし後者では、より多くの人間が助かるという論理的な思考が転轍機のスイッチを押すという我々の決断をうながす。そしてグリーンによれば、この発見にこそ、「常識的道徳の悲劇」の解決に役立つ大いなるヒントが隠されている。すなわちグリーンによれば、オートモードが体現しているのは、「「我々」と協力する」という道徳的機能である。それは、先述の道徳的マシンに対応する。しかるに先述のとおり、それは「共有地の悲劇」の解決には有用でも「常識的道徳の悲劇」の解決には役立たない。だが「マニュアルモード」のほうは有望である。なぜならマニュアルモードに立つことで、人々は「我々」を依怙贔屓することや、「我々」の道徳観に固執することがなくなるからである。そうして、幸福(利益)という、すべての人間を通約する価値を基準とした公平な道徳―各部族の道徳を架橋するメタ道徳―が可能となるからである。グリーンによれば、その道徳はこれまで「功利主義」と呼ばれてきた。そして功利主義には、さまざまな批判が向けられ、そうしてそれはながらく不評を買ってきた。しかしグリーンによれば、そうした批判の多くは誤解にもとづいたものである。そこで彼はこの本で、功利主義の汚名返上を期し、あらためてそれを「深遠な実用主義(deep pragmatism)」として、装いもあらたに再定式化することを試みる。ではそのプロセスはいかなるものして、なのか。いや、そもそも何故、功利主義なのか。

共通通貨としての幸福とメタ道徳としての功利主義

「常識的道徳の悲劇」は容易には解決できない。道徳観の差異や対立は厳然として存在する。それは事実だ。だがそのことから、相対主義者よろしく、異なる道徳観を通約する道徳的真理は存在しないと結論するのは誤りである―もしかしたらそれは真理かもしれないが、真偽が不明であることがらについて断じるのであれば誤りとなる―、というよりも問題の回避である。それは不誠実な態度である。というのも「我々」と「彼ら」のあいだのコンフリクトが現に存在していること、そしてときに看過できない道徳問題を構成していることは、相対主義者だって認めている。すると相対主義の回答は、実践的にはたんなる問題放棄へのコミットメントの表明でしかないからである。
では問題とその解決へのコミットメントは、いかなるアプローチをとればいいのか。グリーンの提案は、「何であれもっともうまくいくこと(whatever works best)をするべき」(194)というものだ。「我々」も「彼ら」も最善の結果を追求すべきだ、というわけだ。しかしこれには、どの部族も、そんなことはいわれなくてもわかっているし実践してもいると、きり返すことだろう。でも本当か。いかなる方法が最善の結果を導くかを判断するにはそれぞれを比較検証してみるほかない。だが各部族は、そうしたメタ視点に立ったことがあるのか。現実には、部族を問わず習わしとなっているのは、「我々」の方法こそがよい―「彼ら」の方法ではダメだ―という、たんなる決めつけなのではないか。
いや、問題の核心はそこではないのかもしれない。そもそも善とはなにか、その構想が部族間で異なるのかもしれない。現に我々の世界には価値があるとされるものが複数存在している。だがなかには、そうした価値あるとされるものを包含するという点で特別なステータスを有する価値が存在する。「幸福(happiness)」である。すなわち幸福は、家族・友人・愛情・真実・芸術・自由・正義といった、価値があるとされるあらゆるものがその目的としているような価値である。だがグリーンによれば、そのことは、幸福だけが唯一の真正なる価値であるということを意味しない。そうではなく幸福という価値が特別なのは、人間のさまざまな価値観―したがってさまざまな部族間―を架橋する「共通通貨(common currency)」として機能するからである。そしてまさにその幸福を基軸とする道徳についての構想こそ、功利主義なのである。
グリーンによれば、功利主義のエッセンスは「幸福を公平に最大化する」(269、強調原文)というテーゼのかたちでしめすことができる。「最大化」の部分は、本質的に脳のマニュアルモードに由来し、それゆえすべての健康な人間に共通の観点である。「幸福」の部分は、熟慮によって導かれる。幸福は、我々が内在的価値をもつとかんがえる唯一のものではないかもしれないが、そのなかでも優越する価値のひとつであることは間違いない。また幸福は、誰もがよくかんがえれば、あらゆる日常的な目的の背後にある究極の目的であることがわかるという点で、万人に共通の観点である。「公平」の部分は、確言はできないが、ある種の知的認識に由来し、マニュアルモードに起因する現象とかんがえられる。それは、「公平な解決策は手堅い結果をうむ」という経験則にもとづいているのかもしれない。また公平は、そもそもは他人への共感というオートモードにその根をもつ知的な洞察にもとづいているのかもしれない。だがいずれにしても黄金律―「等しき者は等しく扱え」―を理解できない者はいないという点で、これもまた万人に共通の観点である。かくして、グリーンによれば、このように功利主義は「万人に理解可能な道徳的価値である幸福と公平性」を兼備している。そして「この組み合わせが、すべての部族の成員に理解できる完璧な道徳システムを生み出す」(270)。つまり功利主義こそ、「我々」の道徳と「彼ら」の道徳の対立を調停するメタ道徳にほかならない。

功利主義を擁護する

だがそうはいっても、功利主義には、なお残る問題・批判がある。第一に、「歩道橋ディレンマ」のような「最良の結果をもたらす行為が、ときに、あきらかに間違っている〔他者の権利を侵害する〕と思われる場合がある」(271、補足は引用者)。第二に、「功利主義が、私たち自身の権利を踏みにじり、道徳的に多くを求めすぎるように思える場合もある」(273)。第三に、「功利主義は十分に平等主義的ではなく、虐げられた人々の利益を尊重しない、もしくは、尊重しないことがある」(368)。そこでグリーンはこれらの問題・批判の検討にさらにとり組むことになる。
第一の問題・批判にたいしグリーンは、トロッコ・ディレンマのさらに踏みこんだ分析をつうじて応答していくことになるのだが、ここでは紙幅の都合もあり、その詳細を紹介することはできない。そこでポイントだけを述べると、歩道橋ディレンマにおける我々の意思決定はあくまでオートモードによってひきおこされたものであるという点に留意すべきなのだ。すなわちこのディレンマにおいて我々の決定を駆動しているのは、情動反応であり、直観であり、それも反功利主義的な直観なのである。だが我々の直観は、欠点を抱えている。それは、冷静に熟慮してみれば―つまりマニュアルモードに立てば―、「道徳とは無関係と思われるものに過敏に反応することがある」(282)3。すなわちトロッコ・ディレンマについていえば、まず「突き落すこと」と「スイッチを押すこと」との違いは、道徳的には無差別である。というのも両者は同じ危害をあたえるという点では等価だからだ。にもかかわらず、「手段として人を殺すのは、副次的影響として〔つまり「巻き添え」という仕方で〕殺すより悪いという考えは古くからあり、広く尊重されてきた」(296、補足は引用者)。これは、哲学者のあいだでは「二重結果の原則(the doctrine of double effect)」として、つとに知られてきた考えかたである。だがグリーンによれば、その原則は「直観の一部によって、(中途半端に)支持されるという事実以外に正当化する理由はない」(296)4。
では第二の問題・批判についてはどうか。それは、功利主義は我々に過剰な規範を要請する場合があるのではないか―その点で不合理である―というものであった。この懐疑は、典型的にはシンガー(Peter Singer)が提唱した貧困への救済義務に向けられる当のものでもあるが、これにたいしてグリーンは、自己を極限まで犠牲にして他者へ幸福を供給し続ける完璧な功利主義者になろうとするのはむしろ不合理極まりないことであると、きり返す。すなわち功利主義は、あくまで「実際的な哲学(practical philosophy)」なのであって、「自由な人間に対し、不合理に思われること、もっとも基本的な意欲に反することを行なうことを命じる以上に実際的でないことはない」(344)。
さいごに第三の問題についてであるが、グリーンによれば、これこそ功利主義にたいするもっとも根強い批判である。その代表はロールズ(John Rawls)によるものであるが、ここにも功利主義についての大きな誤解が認められるとグリーンはいう。すなわちロールズによれば、功利主義は、幸福の最大化のために多数が少数を奴隷にする社会を肯定するというのだが、この主張は「効用」を「富」ととり違える誤解にもとづいている。そうではないのだ。功利主義において最大化されるべき効用はあくまで「幸福」なのである。そして奴隷制度が現実世界で―富を増加させるとはしても―幸福を最大化するわけがないことは、いうまでもないことである(368-381)。

深遠な実用主義あるいはマニュアルモードの道徳に向けて

かくして功利主義にたいする誤解は解けた。いまや真正なる功利主義、すなわち深遠な実用主義の核心に迫るときだ。だがこれについてはグリーンじしんがその要諦をまとめてくれているので、少々ながくなるが、以下にその引用をもってかえよう。

「独立した道徳的権威(神や理性や科学が「生きる権利は選ぶ権利にまさる」といっている)に訴えるのではなく、競合する価値を天秤にかける共通通貨の確立を目指す……これが功利主義の真髄だ。……人間はみな、自分のものであれ他人のものであれ、経験を重視する。みな幸福でありたいと願う。苦しみたいと願う者はいない。そして、幸福と苦痛への気づかいは、私たちが価値を置くほぼすべてのものの背後ある。ただしそれを理解するには少々内省が必要だ。この個人にとっての価値の核心は、公平に評価することで、すなわち、「あなたの幸福と苦しみは、他人の幸福と苦しみより重くも軽くもない」という黄金律の本質を注入することによって、道徳的価値に変えられる。最終的に、この道徳的価値は、人間の前頭前野という結果最適化装置で実行することで道徳システムに変えることができる。ここから、……すべての部族の成員が話せるようになる道徳の第二言語が生まれる。各部族には、異なる道徳的直観、異なるオートモード〔「我々」の最適化戦略〕が備わっていて、そのために争いが生じる。しかし、幸いにも、すべての人間には柔軟性に富むマニュアルモードが備わっている。……「心」の調停不能な違いにもかかわらず、私たちはマニュアルモード思考を使って「頭」で合意に達することができる。」(387-388、強調原文、補足は引用者)

だがまだ残る疑問があるだろう。すなわち我々はいつマニュアルモードに切り替えればいいのか。むろん直面している道徳問題が「常識的道徳の悲劇」である場合だ。しかしそれをどうやって判断すればいいのか。その手がかりとなるのは「論争」だ。論争があるとき、そこには部族間の意見の対立がある。そうしたときには、ほぼ例外なく、オートモードが異なる道徳的方位を指ししめしているとみてよい。よって、そんなときこそ、マニュアルモードに移行しよう。だがそのさい我々は合理化の罠に陥らないように注意しよう。というのも我々には、「道徳問題について何かを感じると、その感情について、合理的に感じられる正当化理由をつくりあげる」(400)傾向が備わっているからだ。こうした合理化は、道徳的進歩の、深遠な実用主義の大敵である。というのも「道徳部族の成員たちが、異なる直感をもつがために争うのであれば、自分たちの感覚を合理化するためにマニュアルモードを使っても埒が明かないだろう」(402)からだ。つまり我々は合理化という名の自己欺瞞にくれぐれも注意しつつマニュアルモードの正しい使用を心がける必要がある。

モラル・トライブズとその未来

以上が『モラル・トライブズ』の内容紹介である。もとより十全な紹介とはいえないが、すくなくともその議論の骨子はたどることができたのではないか。そこで以下では、同書の評価と若干の考察をしめしてみたい。
まずタイトルにもなっている「モラル・トライブズ」について。我々人間は、いかなる意味で「モラル・トライブズ」なのか。それは第一に、「我々」という部族内で相互に協力する心理的能力(オートモード)を有する点において。また第二に、常識的信念としての道徳を部族ごとに分有している点において。しかし第三に、そうした部族的境界を超越する利益を認識し、公平に評価する合理的推論能力を備えている点において。
これらのうち、グリーンがすぐれて現代的な道徳的課題と位置づける「常識的道徳の悲劇」の解決に向け期待を寄せるのは、第三の側面である。それは、来たるべき倫理に不可欠の要素であり、その可能性の条件でもある。グリーンがこの本をつうじて我々に期待し、もとめていること、それは一言でいうなら、合理的・批判的に思考することである。すなわち我々は道徳的真理に到達することはのぞめないかもしれない。しかし直面している道徳的問題については熟慮を経ることで、よりよい決断を下すことはできる。またそのさい助けとなる、我々が留意すべきことがら―我々のもっているさまざまな「クセ」、直観の活用範囲とその限界など―についても、この本はじつに多くのことを教えてくれる。これらのメッセージや知見は、倫理学研究においても、倫理(学)教育においても、きわめて重要な示唆に富むと評者はかんがえる。現に評者は、かつて自著において合理主義的な倫理学にたいする批判的なスタンスから共感という我々の道徳的能力の実践的可能性を探究したことがあるが(安部 2011)、当時のみずからの認識を今回あらためた部分もけっしてすくなくはない。
また、かかる合理的・批判的に思考は我々ひとりひとりの課題であるとする点にも、この本の特徴がある。功利主義者のなかには、マニュアルモードに立つのは―行為功利主義的であるべきなのは―統治者や政策決定者といった特定の人間だけでよいとする考えかたも散見される。だがグリーンは違う。すなわち彼はマニュアルモードにもとづく道徳実践を、その生きかたにかかわる個人倫理として我々に要請する。功利主義は帰結主義であり、行為がもたらす影響をなによりも重んじる。だがその行為を他ならぬ「私」がなすことの意義もまたグリーンは重視しているようにみえる。そしてじっさい、功利主義の思考は、我々の生きかたを大きく変えるポテンシャルを秘めている。たとえば評者は、シンガーの動物倫理をめぐる一連の著作に触れてから、肉食という行為は不正であるとかんがえるようになった。だが、にもかかわらず、いまだに肉を食べつづけているのは、意思が弱いからである。もしこれが、評者に固有の問題でなく、よりひろがりをもった一般的な問題でもあるとするなら、アクラシアという現代の倫理学ではあまり顧みられることのないテーマが再び脚光を浴びることになるかもしれない。グリーンの今後の研究もまた、そうした方向に向かっていくかもしれない。
だがこの世界には、グリーンがなかば理想として描出する深遠な実用主義をまさにその生きかたの規範としている人々がすでに存在する。「効果的な利他主義者(effective altruist)」と呼ばれる人々である。彼らが信奉しているのは、「科学的根拠と理性を使って、もっとも効果的に世界をよりよい場所にするような哲学」(Singer 2015=2015: 15)である。たとえば、そのひとりである人物は、不動産業で稼いだ4500万ドルの財産のほぼすべてをチャリティに寄附し、その家族は年間約6万ドルで生活をしていた。またそれにとどまらず、彼は赤の他人に腎臓を提供する手配までしていたのだが、その言によれば、腎臓提供による死亡リスクは4000分の1であるとの研究にもとづけば腎臓を提供しないことはじぶんの命に他人の4000倍の価値があると認めることになり、それは到底正当化できないということになる。これは効果的な利他主義のなかでも極端な事例に属すのかもしれない。しかし彼らはけっして痩せ我慢しているわけでも自己を犠牲にしているわけでもない。むしろ彼らは幸福である。近年の心理学研究でも、主観的幸福度には他者への貢献が大きくかかわっていることが明らかにされている。むろんこのような人の数はまだまだ少ないけれども、将来的にはもっと増えるであろう。また深遠な実用主義にもとづいて計画された人生はインテグリティのある生でもあるから、かつてウィリアムズ(Bernard Williams)が功利主義に向けた批判も空しくさせることだろう。とはいえ不徳を自認する評者には、やはりそうした人々は現代あるいは未来の道徳的聖者(moral saints)にみえて仕方ないのであるが。

■注
1 とはいえ評者には、グリーンが自説の論証のために同書で援用する多数の実証実験の妥当性を評価する能力はない。そこでその点については慈善の原則(principle of charity)を適用し、あくまで議論の骨格をとりだすことに専心する。
2 「道徳は協力を可能にするために進化した。……生物学的にいって、人間は協力するよう設計された。ただし、ある人びととだけ。私たちの道徳脳は、集団内で、おそらく個人的な人間関係の文脈の中でだけ協力するように進化した。私たちの道徳脳は、集団間で(少なくともすべての集団が)協力するようには進化しなかった。……それは、普遍的協力が、自然選択によって進化を支配している原理と相いれないからだ」(30-31、強調原文)。では、その「原理」とはなにか。「協力が進化するのは、協力的傾向のある個人が、協力的傾向のない(あるいはそれほど協力的でない)個人を打ち負かす場合だけだ。このように、道徳が協力のための一連の適応であるのなら、私たちが現在道徳的存在であるのは、道徳意識の高い私たちの祖先が、道徳意識がそれほど高くない隣人たちを打ち負かしたからにほかならない。よって、生物学的適応である以上、道徳は《私たち》を《私》より優先させる装置としてだけでなく、《私たち》を《彼ら》より優先させる装置として進化した。」(32、強調原文)
3 さらに我々の直観は「道徳に関係していると思われるものに対して鈍感である」(282、強調原文)ともグリーンは指摘している。
4 グリーンによれば、「作為と容認(不作為)」の道徳的区別という、これまたよく知られた考えかたもオートモードによってひきおこされる錯誤にほかならない。

■文献
安部彰,2011,『連帯の挨拶―ローティと希望の思想』生活書院.
金井良太,2013,『脳に刻まれたモラルの起源―人はなぜ善を求めるのか』岩波書店.
Joshua D. Green, 2013, Moral Tribes: Emotion, Reason, and Gap between Us and Them, Penguin Press.(=2015,武田円訳『モラル・トライブズ―共存の道徳哲学へ』岩波書店.)
Singer, Peter, 2015, The Most Good You Can Do: How Effective Altruism Is Changing Ideas About Living Ethically, Yale University Press.(=2015,関美和訳『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと―〈効果的な利他主義〉のすすめ』NHK出版.)

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