第3部 書評・資料読解 2 【書評】『われらは差別に賛成します―怪物になった20代の自画像』

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書評・資料読解

【書評】オ・チャンホ(오찬호)著
われらは差別に賛成します
―怪物になった20代の自画像
(우리는 차별에 찬성합니다
―괴물이 된 이십 대의 자화상)
(2013年、蓋馬髙原)

安 孝淑


韓国では21世紀に入ってから、スペック(스펙, Specificationの略語)という言葉が就活中の若者を中心に流行している。2004年に韓国国立国語院はそれを新語―「就活者の間で学歴、GPA、TOEIC点数などを合わせて指す言葉」―として登録した。メディア報道によると、最近では学歴、GPA、TOEIC、資格証、語学研修、公募(での受賞経歴)、インターン経歴、ボランティア、(美容)整形の9つがスペックに含まれるようになったという。就活者は激しい競争のため、以前とは異なり充実した学生生活を送るだけでは就職(とくに正規雇用)できず TOEIC点数なども準備しなければならない状況に置かれている。スペックという言葉は、そうした大学生たちが置かれた状況を象徴している。
著者は上記のような競争的状況に置かれている20代の若者を怪物と呼び、差別を積極的に正当化している人びととみなしている。競争的状況に置かれた若者たちがなぜ差別を正当化しするのか。その差別とは具体的にどんなものなのか。差別を実践する20代の若者たちのことをなぜ怪物と呼べるのか。本稿ではこれらの点を確認すべく、本書を取り上げ、韓国の現代社会において若者世代が正当化している差別の内実を把握する。


1.著者について

著者であるオ・チャンホは西江(ソガン)大学大学院で社会学博士の学位を取得し、学位論文を改稿した本書を2013年12月に韓国で出版した。現在は西江大学社会科学研究所の研究員で、今まで多数の大学で非常勤講師を勤めていた。彼は本書をつうじて気鋭の若手社会学者として名を馳せ、最近では「進撃の大学」なる書籍も出版している。
本書における著者の問題意識はある一つのエピソードから始まる。2008年に某大学での「人権と平和」の講義で、著者は非正規雇用の問題を扱った。そこで彼は、正社員での雇用を約束されたゆえに入社したと主張するKTX(日本の新幹線に相当)女性乗務員とその事実を否認する鉄道公社との争い(訴訟では、乗務員が4回中3回勝訴)に言及した。著者はこの問題をつうじて学生たちが会社側のどこが間違っているのかを確認してほしいと考えていた。しかし、一人の学生が何の躊躇もなく「〔その乗務員のように〕苦労もせずに正社員になろうとしたら駄目でしょ」と述べ、さらにほかの受講生たちのあいだにも彼に同調する雰囲気が広がった。この出来事に衝撃を受け、著者は若者たちのそうした主張の根拠と原因を分析するために研究を開始する。問題意識は正規雇用と非正規雇用にかかわる問題からスタートしているが、本書で主に分析の俎上に載せているのは自己啓発と差別との関連性についてである。

2. 用語説明

上記の事例からもわかるように、韓国の20代の若者たちが積極的に受け入れている「差別」は、現在の日本で注目を集めているそれとは若干異なる。日本での差別およびそれをめぐる議論は、主として外国籍の人びと対象にしたものが中心であるが、本書で言われている、韓国の若者たちが積極的に正当化している差別とは、正規雇用と非正規雇用、または解雇者と就業者の間で起きる差別を指す1。本書で検討されている差別をイメージしやすい事例を以下で紹介したい。たとえば、本書では、2009年日本にも報道された韓国の「ミネルバ」事件2を例に挙げて20代の若者たちに意見をたずねた部分がある。著者(を含め、一部のメディア)はこの事件を表現の自由の侵害とみなしていたが、20代の若者たちはこの問題は学歴と専門性に関係する問題と考えていた。

正直言って、専門学校出身でしょう。だったら彼が言ったことが専門的でないことは事実上証明されたようなもんでしょ。表現の自由が何を指すかわよくわかりませんけど、民主主義社会でとても重要であることは確かじゃないの。でも非専門家が専門家のふりをするような表現の自由が認められるとは思いませんね。なんで最初から自分の学歴を堂々と明らかにできなかったんでしょうかね。今は多くの若者たちが“堂々になる”のにこんなに苦労しているのに。

著者はこう答えた彼に、専門学校出身ならば表現の自由が制約されてもいいのかと聞き返すことをつうじて“堂々になる”ために学歴を重視する20代の若者たち差別感覚を明確にしていく。
また本書で主たる分析の対象となっている「自己啓発」についても説明する必要があるだろう。著者はまず、若者たちが正規雇用と非正規雇用とのあいだの差別を容認する原因を探すために、20代に最も人気のある自己啓発書に注目した。著者によると自己啓発という用語は80年代に職場で職員の業務能力向上を指すものとして使われはじめ、90年代からはそれにかんする書籍がしばしばベストセラーになったという。さらに、誰もが頑張れば社会はある程度の生活保証を必ず与えてくれた時代が過ぎ去り、現在の20代の若者たちは人間ならば誰でも受けるべき基本的な幸福が、誰もが持つことのできない幸福になった奇妙な社会に生きている。そうした状況のもとで、自己啓発が基本的な幸福を得るための手段になっていると著者は見ている。そのため、著者が見た20代の自己啓発は選択科目などではなく必修であり、就職やキャリアのための活動全般が自己啓発と化している、と指摘する。
韓国では自己啓発にかんする研究自体は以前からあったが、効果的な自己啓発方法の研究(とくに軍隊と企業において行われる)が大部分であった。それにたいして、本書は自己啓発自体への疑問を提起し、自己啓発が差別に繋がっている現状を明らかにしている点が特徴的である。

3. 本書の構成と内容

本書は4章構成である。まず問題を定義し、その原因とされる自己啓発の正体を明らかにしていく。その後で、自己啓発が万能とされる社会状況が20代の若者たちどのような影響を与え、どのように差別とつながるのかを具体的に提示する。最後に提示した現状に疑問を投げかけながら、自己啓発のかかえる問題を浮き彫りにしていく。
1章では、20代の大学生の考え方の本質に自己啓発があることを明らかにしている。著者はこの研究に取り組む以前、大学生も非正規雇用者のように、生活費の上昇、就職難、卒業者の非正規雇用の増加などを経験しているため、就労環境の改善に賛同し、そういった活動を応援するはずだと思っていたが、そうではなかった。その背景には「言い訳せずに、自らを啓発しろ」という既成社会の要求に若者たちが唯々諾々と従っている現状があると見ている。かつて経営という言葉は、企業関連の専門書のなかの用語にすぎなかったが、今では人間の生涯全般に適応する自己啓発の形を取って彼ら彼女らの生に滲透しているという。しかもそうした書籍がベストセラーとなっている。著者はそうした自己開発の問題点を成功というものの軽薄化と見た。なぜならば、その自己啓発の議論の核はもちろん(個人の)「肯定と努力」であり、低い成功の可能性が表面化すると、目標達成にいたらなかった数多くの事例は「努力不足」で簡単に片付けられてしまうからである。そのなかで著者は、20代の若者たちにとっての自己啓発はまさに就職準備であるため、自己啓発に対する疑いは暗黙のうちに禁止され、その過程で、彼ら彼女らは「自分は何かのために大事な時間を過ごしている」という思いを体感するという。
第2章では自己啓発書の目線から世の中を見るとどのように見えるのかを明らかにすべく、自己啓発書の考え方に慣れている20代の若者たちの語りを提示した。その語りから著者は、20代の若者たちにおける自己啓発の特徴を3つ挙げている。それは就職という目的を達成するための手段としてのみ意味を持つこと、結果が何一つ保障されなくともほかの対案を顧慮せず“継続”的にそれを進めていくこと、そして自己啓発に熱心でない「怠け者」と自分を比較することで現在に対する慰安と満足を得ていることである。この特徴から著者は「20代は“自ら”という意味が込められた自己啓発を頑張れば頑張るほど“他人”を評価する基準が厳しくなる皮肉な状況に落ちていく」と指摘している。そのために、彼ら彼女らは、“辛い状況にあること”自体が何かの要求に繋がってはいけないとして、再びそこには努力という基準が現れ、もっと努力したほうが、人より効率的に時間を管理できるし、努力した人が社会的に優遇されるべきだと主張する。つまり、努力しなかった・時間管理できなかった人が差別されるのは当たり前だと信じていたのだ。それ故に“怠け者”に比べて頑張っている自分の人生への肯定は人を評価する執着に変質されると著者は見た。
第3章では、自己啓発の時代が20代の行動をどう変化させたのかを提示している。まず、その20代の特徴3つを挙げている。1.他人の苦しみに鈍感になること(共感能力の喪失)。2.偏見の拡大再生産(固定観念への依存)。3.与えられた既存の道だけを盲目的に追うことである。その特徴をもつ20代の若者から顕著にうかがえる状況を、著者は学歴位階主義の内在化と述べる。大学の名前が自己啓発の結果物であるため、人より自分の良さをアピールするための他人との区別基準になる。さらに同じ大学の中でも、学科によって、入試方法によって序列化される。このように微細かつ厳格な序列のなかで、自己啓発で得た大学の名前を学歴以外の要素で傷つけられることは(たとえハラスメントのように外に知られて改善されるほうが正義にかなっていることであっても)あってはならないことである。それゆえ被害者が沈黙する構造がつくりあげられていくという。では、なぜ昨今の20代の若者たちは自己啓発に走ってしまったのか。著者は3つの理由を挙げている。原因の1つ目はIMFショックの経験、2つ目はその後の経営学科の新・増設や他学科からの改組、3はBefore/Afterの罠だという。IMFショックの経験を受け、若者たちは競争に打ち勝つために自己啓発に夢中となった。また、大学側はそれに共鳴する形で、就職向けの学科(経営学科)を集中的に作り出した。そのような企業向けの人材、つまり、自己啓発的な思考を持つ学生が増え、自己啓発が提示する就職というBefore/Afterを無批判的に受け入れてしまうようになったのだという。
第4章で著者は今までの現状を整理しながら、自己啓発がそうであるようにすべての問題を個人化することは人々を不安に陥れるだけでなく、自分が辛いから他人も辛くなるべきという苦しみの平準化というロジックまで作り出すと警告する。そのため、改めねばならないのは自己啓発そのものだという。それらが言うところの能力主義は、実際のところ個人の努力でなく、所詮は親のおかげであるから、機会平等・競争の公正さ・結果の差等的分配が正義にかなったかたちで行われるべきだと主張する。

4. 本書の示唆する点

著者は20代の若者たちの誰もが悩んでいる就職問題を取り上げ、安定した生活ができる就職という、かつては極めて当たり前であったことが特別なものになっていくなかで、自ら差別を正当化することで自分のアイデンティティを形成しようとしている現状を明らかにした。その差別を煽り立てるうえで決定的な役割を果たしたのが自己啓発書だという。そうした書籍の中心概念として著者は、努力と時間管理、そして結果にもとづいた処遇は受け入れるべきであることを挙げた。つまり20代の若者たちは就職という課題を解決していく過程のなかで自己啓発を受け入れ、その結果として差別を正当化するようになると整理できる。数多い先行研究では肯定的なものとしてのみとらえられてきた自己啓発が差別を生み出すこと、だからこそ実際に疑うべきことは自己啓発それ自体だと明確に指摘した点のはこの本の鋭敏さを示している。
ところで著者は、自己啓発がもたらす個人に対する差別を新しい現象とみているが、それは以前からも存在したかもしれない。アメリカの心理学者 Melvin Lernerは以下のように「公正世界信念(Belief in a Just World)」3について述べたことがある。

公正世界信念の強い人がより積極的に救いの手をさしのべるかどうか〔中略〕こういった人びとは不公正の現実的な再現の潜在的な可能性や、その予防にかんして非常に敏感だ〔中略〕不公正の完全な抹消が不可能/ありえないようなときであったり、正義があるという十分な確信がもてないときには、犠牲者に救いの手を伸ばすことはまずないだろうし、それどころか犠牲者の悲運を否定するとか、犠牲者は苦しみを蒙るに値する、もしくは〔何か大切なものを〕奪われても当然の人物なのだと解釈するような「防衛的」反応に走ったりしがちである(Lerner 1980:143; [ ]内引用者加筆)。

そのため、本書で言及されている差別とは Lernerが指摘したような事態の先鋭化と見てよいのかもしれない。どうしようもない現実ゆえに「それはあなた(もしくは自分)が努力しなかったせいである」と考え、個人に努力する責任を担わせているのではないかとも読める。その努力が何ら報われなくともせめて自分より低いレベルにいると思われる人を差別することはできる、というわけだ。
しかしそのなかで、自己啓発が差別の背景要因だという図式はまだ説明が不十分であり、疑問も残る。なぜなら差別の原因はむしろ就職難であって、自己啓発はあくまでそこで就職するための手段にすぎない、との考え方もありうるからである。つまり、就職難ゆえに、自分の努力を認めてもらうべく差別を正当化するのではないか。それを証明できそうな議論が、現在の韓国で言うところの7放(ポ)世代(칠포세대)やスプーン(수저)の話である。自己啓発書にあるとおりに努力し続けてきた若い人たちが、努力しても無駄、もう努力するためのお金もないと主張しはじめたのが7放世代(韓国語で諦めを「ポギ」と発音するため、ポは諦めの意味)であり、恋愛、結婚、出産、家、人間関係、夢、希望の7つを、最近の20〜30代は収入に比べて生活の費用が過剰であるために諦めていることを意味している(最近はN放世代まで登場した)。
その後、登場したのが社会での成功は努力ではなくスプーンの色(親の経済力)によって決定される議論である4。このように若者たちは自己啓発に疲弊し尽くしているため、自己啓発は次第に強調されなくなりつつあるが、差別が同時に弱っているとは言いがたい。
本書は今までの20代の若者たちが、自己啓発をつうじて努力を当然視してきたにもかかわらず就職を手に入れなかったため差別を正当化したことまでは明らかにしたが、最近就職に関連して主張されるようになってきた努力は無駄という言説までは説明できていない。
結局、根本的な問題は正規雇用者と非正規雇用者、そして仕事がないものたちとのあいだの生活格差であり、それを是正しない限り、雇用状態による待遇の差もさらに増加する可能性が高い。生活格差や待遇が低い水準の場合、人権そのものも毀損されるかもしれない。そのなかで、差別はより人間らしく生きるための生活水準、待遇を得ることを主張するうえでの手段となっているため、そのギャップを減らす必要があるのではないか。それは、個人的な努力で変えられるものではない。今までその差別を傍観してきた(もしくは煽り立てた)かもしれない社会、政治、経済側が変革する役割を担うべきだろう。
本書の主人公たちである20代の若者たちにも、果たすべき役割もある。自分の努力以外の要素から評価され就職に成功した人をどう見るか、慎重に考える必要がある。著者が指摘しているように、就職などで満足できる結果を得にくい現実によって、20代の若者たちが自分と他者を区別し、自分をアピールし、誰かを踏みつけることに慣れてしまったのであれば、その他者が弱者になってはいけないだろう。ゆえに、弱者をさらに差別してしまう状態には警戒する必要がある。そうでなければ、差別はさらに弱者に集中する形(社会保障の縮小を主張するなど)で展開される可能性が高い。


1 もちろん韓国でも外国人に対する差別や難民、出身地域に関する差別も存在する。
2 この事件の詳しい経緯については以下の記事を確認してほしい。
http://news.mynavi.jp/articles/2009/01/20/minerva/ 2015年12月19日取得
3 「公正世界信念(公平世界仮説)」については、「心理学ワールド」内の以下の記事を参照。
http://psychmuseum.jp/just_world/ 2015年12月19日取得
4 具体的な説明については以下の情報を確認してほしい。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45410 2015年12月20日取得

<参考文献>
Melvin J. Lerner. The Belief in a Just World: A Fundamental Delusion, New York: Plenum Press, 1980.

生存学研究センター報告

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