第3部 書評・資料読解 1 日本陸軍軍法会議とBC級戦争犯罪裁判の結節点 ―坂田良右衛門による「クラチエ」事件調査

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書評・資料読解

日本陸軍軍法会議とBC級戦争犯罪裁判の結節点
―坂田良右衛門による「クラチエ」事件調査

櫻井悟史


0. NHK取材班による坂田良右衛門『法務関係拙論集』の発見

2012年8月14日、「NHKスペシャル 戦場の軍法会議―処刑された日本兵」と題するドキュメンタリーが放映された。その内容は、翌年『戦場の軍法会議―日本兵はなぜ処刑されたのか』と題した一冊の本にまとめられた。同書はこれまでほとんど焦点があてられてこなかった、終戦直前の日本の軍法会議の実態の一部を明らかにし、当時の軍法会議の判決が戦後を生きる人々にいかなる傷跡をのこしたのかを丁寧に調査したものとなっている。
同書の特筆すべき点は二つある。第一に軍法会議や軍律法廷の研究に関する第一人者として知られる北博昭から提供された、軍法務官馬場東作と沖源三郎の肉声テープを詳細に分析することを通じて、当時の軍法会議において誤判があった可能性を実証的に示した点である。第二に北の記憶を頼りに、国立国会図書館憲政資料室で発見した坂田良右衛門『法務関係拙論集』内に収められた「城一俊曹長の刑死に関する法律的考察」1なる論考を手がかりに、城の遺族にまでたどり着き、最終的に遺族が城の名誉を回復できたと感じるまでに調査を尽くした点である。
国立国会図書館憲政資料室の段ボール箱から発見された『法務関係拙論集』には、旧厚生省援護局調査課事務官である坂田良右衛門が、1950年代から1970年代にかけて執筆した論考や報告書が収録されている。同資料は、2014年5月14日から一般にも公開された。筆者は憲政資料室を訪れ、『法務関係拙論集』、および同時に発見されたと思われる坂田良右衛門の『秘録 戦争犯罪裁判(上・下)』を全てマイクロフィルム撮影していただき、そのネガを憲政資料室に寄贈した。以来、原本自体をみることは困難となったが、マイクロフィルムであれば、申請すれば自由に閲覧できるようになった。この二つの資料は国立国会図書館のNDL-OPACでは検索できない。閲覧申請する場合は、「憲政資料室収集文書目録」中に「憲政資料室収集文書1429 法務関係拙論集(坂田良右衛門旧蔵文書)」、「憲政資料室収集文書1430 秘録 戦争犯罪裁判(上・下)(坂田良右衛門旧蔵)」とあるので、資料番号とタイトルを憲政資料室備え付けの請求書に記入し、同室のカウンターに提出する必要がある。
おそらく紙幅の都合上、または話の筋に鑑みて、NHK取材班はあえて最小限の紹介にとどめたのであろうが、『法務関係拙論集』と『秘録 戦争犯罪裁判』には、軍法会議や戦争犯罪裁判についての研究に資する、非常に有益な論考や資料が多くある。以下の表に列挙した収録タイトルからだけでも、そのことはわかる2。

表 坂田良右衛門『法務関係拙論集』タイトル一覧【省略】



本稿では、『法務関係拙論集』を読み解くことで、同資料が軍法会議研究や戦争犯罪裁判研究、そして戦後史研究にどのような新しい視座をもたらすものであるのか明らかにすることを目的とする。ただ、『法務関係拙論集』は膨大な分量の資料であるため、その全てを詳細に取り上げることは紙幅の都合上できない。そこで、ここでは研究史上注目に値する事例を一つだけ取り上げることとした3。
本稿の結論を先に述べておくなら、『法務関係拙論集』は当時の軍法会議の実態を明らかにする資料というよりは、むしろ消滅したはずの軍法会議の戦後日本社会への影響の一端を示唆する資料であること、軍法会議と戦争犯罪裁判は別個に研究が進められてきたが、それらを同時に考える必要性があることを示唆する資料であることが明らかとなる。
本稿の構成は以下の通りである。1節で坂田良右衛門の職務についての解説を中心に、資料成立の背景を述べる。2節では『法務関係拙論集』、および本稿で取り上げる論考の研究史上における資料的価値について確認する。3、4、5節ではBC級戦争犯罪裁判と日本陸軍軍法会議が交差する「クラチエ事件」を取り上げる。同事件によって、小貫金造元大尉は日本陸軍軍法会議で懲役13年、フランス主導の戦争犯罪裁判であるサイゴン裁判にて終身刑を言い渡された。しかし、小貫は復員後も自分は冤罪であったと主張していた。そのことについて調査した、未発表の坂田の報告書をここでは紹介したい。以上をふまえて今後の課題を述べ、本稿を終える。
なお、『法務関係拙論集』からの引用については、煩雑さを避けるため、表の資料番号のみを【】に入れて提示する。資料中の判読不明箇所は□で、段落の変更は/で示した。太字・ゴシックによる強調、[]内の補足は、断りのない場合、全て引用者である筆者によるものである。また、資料内では公開されている個人名については、一部マスキングを行なった。たとえば、坂田の論考の一部は国立公文書館にも保管されており、そこでは全ての個人名がマスキングされて公開されている。しかし、一方で憲政資料室の『法務関係拙論集』ではマスキングされずに公開されている。そうした場合、国立公文書館の基準を優先することとした。ただし、市場に流通している本などに同様の資料があり、そこで個人名が公開されている資料についてはマスキングを行なわないこととした。

1. 資料成立の社会的背景

『法務関係拙論集』の著者、坂田良右衛門とはいったい何者か。市場に流通する形の著書はなく4、学術雑誌や論壇誌、マスメディアへの露出もほとんどない5。そのため、坂田は一般的にはあまり知られていない人物であると思われる。坂田の略歴は自身の言葉によれば、以下のようなものであった。

昭和21年4月1日旧第一復員省法務局に第一復員属として就職、じ来東京裁判、BC級戦争犯罪裁判、これと合わせて昭和23年ごろ前任担当者が公職追放等によって逐次退職したので、その職すなわち、旧陸海軍軍法会議に関する事項、軍事警察関係、後にふ虜情報局の関係、つまり旧陸軍省の兵務局、法務局、ふ虜情報局、外国裁判(戦犯)等の業務を担当して今日[1971年10月5日]に及んでいる。但し業務中職務権限は全然ない(課長にある)。【34-②】

坂田は復員という戦後処理の枠組みのなかで、軍法会議、東京裁判、BC級戦争犯罪裁判に関する業務に同時に携わってきた6。近年になってようやく東京裁判とBC級戦争犯罪裁判を同時にみる視点の重要性が指摘されているが(林 2010など)、坂田は当時からこれら3つの裁判を同時にみてきた稀有な人物なのである。
坂田が所属していた援護局調査課7は、「旧陸軍の法務関係等旧陸軍省に係る一切の残務的業務」(【34-②】)を担っていた。そのうちの一つに軍人恩給に関する業務があった。具体的には、1953年8月1日法律第155号の恩給法等の一部を改正する法律の施行によって軍人恩給が復活、それに伴い、軍人恩給を受ける権利の有無を確認する業務が必要となった。軍人恩給受給権の有無と在職中に軍法会議によっていかなる刑罰を受けたかどうかは密接な関係にある。恩給法9条、51条では、在職中に禁錮以上の刑に処せられた場合、軍人恩給を受ける権利は消滅してしまうとされていたからである。
また、1962年5月10日法律第114号の附則43条8によって、これまでの恩給法では受給権が消滅するとされていた者のうち、3年以下の懲役もしくは禁錮(1947年5月2日以前、すなわち新憲法施行以前は2年以下)を言い渡された者、または刑の執行猶予の言い渡しを受けた者が、恩赦によって赦免されるか執行猶予期限が過ぎた場合は、恩給を受けられることとなった。つまり、軍人恩給復活当初は恩給を受ける権利がないとされた者も、条件を満たしていればその権利が回復する場合もあったのである。こうして、裁判が確定したのはいつなのか、それはどのような刑罰であったのかなどについての問い合わせが、当初から関係業務に携わっていたほぼ唯一の人物である坂田のもとに多く寄せられることとなった(坂田 1978: 22)。
坂田はこうした業務を「行政刑罰に関する事案」と呼んだ。「行政刑罰」とは、「事案そのものは明らかに行政法の範疇内に入るべきものでありながら、その内容はまったく刑罰に関する問題」【34-①】と定義される。つまり、坂田は厚生省で復員に関する業務を担う身でありながら、法務省などが担うはずの刑罰に関する事案を扱っていたのである。そして、それは必然的に終戦前後の軍法会議の実態調査へと坂田を誘うことになった。こうした背景のなかで成立したのが、『法務関係拙論集』である。

2. 『法務関係拙論集』の研究史上における資料的価値

『法務関係拙論集』には、主に軍法会議研究と戦争犯罪裁判研究に資する論考が含まれている。前者から確認すると、軍法会議の概略がいかなるものであったのか、あるいは明治期の軍法会議がいかに成立したのかについての研究には、すでに一定の蓄積がある。たとえば、前者は松本一郎(2011)や北(2013)で手際よくまとめられおり、後者については、遠藤芳信(1978; 2003)、霞信彦(1984)、山本政雄(2006)の研究などが挙げられる。しかし、1942年の武官制移行後の軍法会議についての研究は、資料の不足もあってほとんど進んでいないのが現状である。司法権に対する統帥権の作用がより一層強化された1942年以降の軍法会議について、北は「軍法務分野にとって、昭和戦争期でのいちばんのトピックスが、専門法官の武官制移行だったのはまちがいない」(北 2013: 272)と述べている。『法務関係拙論集』は、そのもっとも重要な時期の軍法会議についての調査資料なのである。
次に、戦争犯罪裁判について述べる。本稿で扱う「クラチエ事件」はフランス軍主導の戦争犯罪裁判=サイゴン裁判で裁かれた事件である。サイゴン裁判についての研究は資料上の制約9からほとんど進んでいない。国立公文書館には「佛国戦争犯罪裁判概見表」(資料番号7134)や、「BC級(フランス裁判関係)サイゴン裁判・綜合資料」(資料番号5366)などはある。しかし、難波ちづるの調査によれば、フランス側が独自にもっていると思われる裁判傍聴記録や弁護資料、検察資料などはフランスの陸軍資料館や国立公文書館でも確認できなかったという(難波 2008: 80)。こうした資料状況下で、本稿が扱う坂田の調査は、サイゴン裁判の一端を明らかにする貴重な資料であるといえよう。
他にも、日本とアメリカ合衆国の間で密約があったことが明らかとなっている(山本 2015)、戦後の米兵犯罪「ジラード事件」と戦争犯罪裁判の関係を示唆する資料など【9】10、これまでになかった角度から日本の戦後史における戦争犯罪裁判を照射する資料が、『法務関係拙論集』には含まれている。
前節、本節では、『法務関係拙論集』が成立した背景と、軍法会議研究、戦争犯罪裁判研究における同資料の重要性を示した。次節からは、同資料に収められている「クラチエ事件」について詳細に検討する。

3. 公文書にみるクラチエ事件の概要

本節以降では、『法務関係拙論集』に収録されている「無実といわれる犯罪による日本軍法会議および戦争裁判において刑を受けたため官・恩給資格等を失った小貫元大尉に係る事件の法律的考察」【11】と、「軍法会議の科刑に対する再審・非常上告の手段等について(報告)」【13】で扱われている、「クラチエ事件」について詳細にみていく。
1959年1月5日にまとめられた【11】には七つの資料が添付されている。坂田が【11】に付した目次によれば、①「無実といわれる犯罪による日本軍法会議および戦争裁判において刑を受けたため官・恩給資格等を失った小貫元大尉に係る事件の法律的考察」、②「日仏両軍事裁判の矛盾」に対する意見、③小貫元大尉の日本軍法会議の判決文(写)、④仏軍起訴状(写)、⑤クラチエ事件弁護資料(写)、⑥「日仏両軍事裁判の矛盾」(写)、⑦仏軍裁判判決書、以上七点である。このうち、坂田の執筆したものは①と②である。
坂田のまとめた事件の概要を引用する。
元、仏領印度支那(以下「仏印」という)信第一三〇三部隊第七中隊長陸軍大尉小貫金造(本籍当時■■■■)は、終戦時南部仏印「クラチエ」に駐留中、昭和二十年八月二十二日同人の部下根本清美軍曹が、同地の治安を確保する目的をもって、同駐留地南方三十キロの村落に居住していた仏人宣教師および一人の仏人囚徒を殺害した事件に対して、部下の責任は、すなわち上官の責任であると考え、また終戦後は、自分の部下を一兵も残さず内地に帰還させたい等の考えから、いわゆるこの種すねに傷をもつ部下の相次ぐ逃亡を防止するため、自らその刑事責任を負い、現地に開設された日本軍信部隊臨時軍法会議において「殺人罪」により懲役拾参年の確定判決を受け(同事失官)現地日本軍拘禁所に拘禁されていた。/終戦によって、同地に上陸した仏軍がこの事件の捜査を行つた結果、小貫金造は刑の執行を停止され仏軍側に引渡された。その後、仏国裁判サイゴン軍事法廷において、同一事件につき更に終身刑を科されたものである。【11-①】

ポイントは以下の点にある。第一に、「クラチエ」(Kratié)事件は1945年8月15日以降、すなわち日本の敗戦が決定的となった後に起こった事件であること。第二に、実行犯は根本軍曹であって、小貫は直接殺人を犯してはいないということ。第三に、小貫は部下の責任をかぶっただけで、それ以上の事件への関与は行なっていなかったらしいこと―少なくとも、【11-①】はそう読める。第四に、一度日本の陸軍軍法会議で「殺人罪」により懲役13年を言い渡され、日本陸軍によって刑が執行されている最中に、小貫の身柄がフランス軍に引渡されたこと。第五に、フランス主導の戦争犯罪裁判=サイゴン裁判では、陸軍軍法会議で裁かれたのと同一の事件によって、終身刑が科されることになったという五点である。
陸軍軍法会議の判決文【11-③】には事件の詳細が記されている。それによれば、クラチエ警備隊長の任にあった小貫は、あるフランス人宣教師を内偵監視していた。クラチエ南方約30キロのチョロン郡コンコー村居住のその宣教師が武器を隠し持っており、さらには日本軍に協力する者は米軍によって殺害されると触れ回る反日的活動をしているとの報告を受けたためである。1945年8月10日、情報勤務を担当する根本清美陸軍軍曹に命じ、宣教師の家を家宅捜索すると、小銃一梃と猟銃三梃を発見した。しかし、宣教師を警備隊に招致し、取り調べをするも要領をえないため、一旦帰宅させた。1945年8月16日「終戦トナリタルヲ知ルト共ニ所属上司ヨリ依然警備任務ヲ続行スベキ旨ノ命ヲ受ケ該任務ヲ継続」【11-③】していたが、要人襲撃などの不穏な噂を聞き、治安確保の必要ありと感じ、宣教師に出頭を命じたが、彼はやってこなかった。そうこうするうちに他の場所での警備の命令を受け、クラチエを離れなければならなくなった小貫は、新警備隊長に任務を引き渡す前に、宣教師をなんとかしておこうと考え、「遂ニ浅慮ニモ同地区ニ於ケル治安確保ノ為此ノ際寧口同人ヲ殺害シテ後煩ヲ除クニ如カスト決心スルニ至」【11-③】ったという。さらに、このときクラチエの監獄に氏名不詳のフランス人の囚人がいたが、その囚人がやはり反日宣伝をしているとの報告を受けたため、宣教師と同時にこの囚人も殺害してしまおうと考えた。

茲ニ於テ被告人ハ同月二十一日夜自己ノ宿舎ニ前記根本軍曹ヲ招致シタル上同人ニ対シ前記仏人両名ヲ殺害スベキ旨命令シ且ツ其ノ時期場所手段等ニ付詳細指示シタルニ平素被告人ヲ深ク信頼セル根本軍曹ハ戦局急変シ人心動揺セル非常ノ場合ソノ犯罪タル事ヲ推知セス隊長トシテノ正当ナル命令ナリト信シテ直チニ之ニ服従シ翌二十二日夜同地監獄裏ニ於テ拳銃依リ前記■■■■ノ後頭部ヲ一発射撃シ同人ヲ即死セシメ次イテ氏名不詳[【11-④】には名前あり]ノ前記仏人囚徒ノ後頭部ヲ射撃シ同人ヲ則死セシメ以テ右殺害ノ目的ヲ遂ケタルモノニシテ右所為ハ犯意継続ニ係ルモノトス【11-③】

なお、サイゴン裁判における西貢常設軍事裁判所政府委員陸軍法務大尉ガルドンによる起訴状【11-④】では、「小貫大尉ノ陳述ハ屡々変リタルモ特ニ戦犯局ニ於ケル同大尉ノ陳述ニ依レハ」と前置きしたうえで、おおむね上記引用の通りの事件の流れが確認されているが、殺害方法の箇所だけ異なっている。

斯クテ前記二名ノ仏国人ハ根本軍曹ニ依リ頭ノ後ヨリ無音拳銃ヲ発射セラレ相次イテ倒サレタリ(最初ハ神父ナリキ)被害者ハ二名共即死ニ至ラサリシヲ以テ鶴嘴ヲ以テ止メヲ刺サレ 体ハ現場ニ埋メラレタリ 其ノ後屍体ハ法定検視実施ノ為発掘セラレ次イテ火葬ニ附セラレタリ【11-④】

拳銃では死に至らしめることができなかったため、ツルハシで止めを刺したとある。これは、こちらの殺害方法の方が拳銃で即死させるよりも残酷であるというだけにとどまらない事実である。起訴状には宣教師と囚人は「略式処刑」【11-④】に処されたとある。だが、当時の日本軍の軍法会議や軍律法廷における死刑執行方法は銃殺のみと定められている11。そのため、ツルハシによる殺害は略式処刑ですらなく、単なる殺害行為になる。
以上が公文書における「クラチエ事件」の詳細である。なお、サイゴン裁判前に、小貫を陸軍軍法会議で裁いた背景には以下のような事情があったといわれている。

一説には、この事件が仏国側の捜査によつてわが方に犠牲者の出ることを予想した現地日本軍首脳部は、事件の関係者を仏側に引渡さないための手段として偽装の軍法会議を開設し、単に形式だけを整えて「一事不再理の原則」12を盾に当該刑事被告人を仏側に引渡さない手段を執つたが、戦勝国である仏側はこれを容れないで、日本軍法会議が敵国の被害者に対してさえ「法」により重刑を科しているのであるから、われわれ被害国としては当然加害者を処刑の対象としなければならないとして、自国の軍事裁判において「終身刑」を科したものであるといわれる。【11-①】

小貫自身の証言などから、これにはさらなる背景があったと推察されるが、それは後述する。ここでは、日本軍が小貫を仏軍に引渡さないために、あえて軍法会議で先に裁いておいたのだと主張する説が紹介されていることだけおさえておく。ただ、1946年7月23日、幸道貞治陸軍大佐がフランス人弁護士にあてた弁護資料によれば、この一事不再理の原則を中心とした弁護が実際に組み立てられていたことはみてとれる【11-⑤】。結局、戦争犯罪裁判における判決では、「多数票により被告小貫金造を有罪とする」【11-⑦】とされるも、「多数票により被告小貫金造を情状酌量の余地ありとする」【11-⑦】となったため、死刑ではなく終身刑として結審された。
では、軍法会議、戦争犯罪裁判によって有罪とされた小貫はその後どうなったのか。

その後、小貫金造は内地に移送され[1950年6月3日]、「スガモ・プリズン」(後巣鴨刑務所)に服役中二回の減刑によって拾年の刑となり、昭和二十八年六月五日満刑出所し、更に日本軍法会議による拾参年の刑は、三回の減刑によって五年五月二十四日の刑となり、昭和二十八年三月三日特赦され、その有罪の言渡の効力は、消滅したものである。【11-①】

小貫は戦争犯罪裁判の刑を務めあげ、1953年6月5日に出所、軍法会議の刑の言渡の効力も特赦によって消滅したものの、恩給法の対象外とされることとなった。
公文書を見る限りでは、「クラチエ事件」に不明な点は少ない。【11】には、在サイゴン領事(当時)である飯田正英によって訳されたサイゴン裁判の判決書しか付されていないが、国立公文書館に所蔵されている「BC級(フランス裁判関係)サイゴン裁判・第三号事件(七名)」(資料番号5367)と題したファイルには、フランス語版の判決書と、堀部博之なる人物が訳した、法務大臣官房司法法制調査部戦争犯罪資料課による「第三号 フランス戦争犯罪裁判判決書(訳文)―小貫金造ほか6名ケース」が、焼却・紛失されることなく残されてもいる。では、なぜ坂田は公務として「クラチエ」事件を調査することになったのか。坂田による事件の概要は以下のように締めくくられている。

これについて、小貫金造は、善意でしかも、終戦直後における現地日本軍将校として、職務上、最良の方法と信じ、止むを得ず違法行為者の身代わりとなったため、日本軍法会議において拾参年の重刑に処され、その結果いちじるしく名誉をき損し、陸軍大尉の身分と恩給資格とを失い、昭和二十年九月から同二十八年三月までの間に受けた精神的、肉体的苦痛およびこの日本軍法会議における科刑が原因となり、更に仏国裁判において受けた終身刑による昭和二十年九月から同二十八年六月までの間実質的に拘禁されたためこうむつた損害はばくだいなものである。これについて、本人が満足している場合は別として、事件以来十余年後の今日に至るまで科刑の不当を絶叫し、百方に救済を要求しているにもかかわらず、これに耳をかす者はない状態である。【11-①】

つまり、刑期が終わった後も、小貫はずっと軍法会議と戦争犯罪裁判の不当を訴え続けていたのであり、そのことについての調査を坂田が担当することになったのである。ただし、坂田は軍法会議や戦争犯罪裁判を批判しようとしていたわけではない。小貫が冤罪であった場合、小貫が軍人恩給資格を喪失することは不当なことだからであり、坂田の職務上の第一の関心はその点にあった。それでは、小貫は何を主張していたのだろうか。

4. 冤罪―小貫金造の主張

「日仏両軍事裁判の矛盾」【11-⑥】と題された、小貫金造自身による文章は、もともと1952年12月にガリ版印刷で200部のみ製本された『戦犯裁判の実相』という書籍に収録されていた(重松 1987: 191)。『戦犯裁判の実相』とは、スガモ・プリズンに収監されていた人々によって組織された、戦犯釈放運動促進を掲げる巣鴨法務委員会によって作成された書籍である(重松 1987: 190)。編集後記に「戦犯問題の検討に資するため戦犯裁判の実相、各地刑務所で受けし虐待事件、家族の生活状況等に関し纏まった資料を残すことにした。そのため全在所者に呼び掛けて資料の提出を願った」(巣鴨法務委員会 1952: 851)とあるとおり、同書はスガモ・プリズンに収監されていた戦犯たちの声を集めたものとなっている。しかし、『戦犯裁判の実相』は戦犯釈放運動の文脈ではほとんど言及されることはなかった(重松 1987: 191)。
『戦犯裁判の実相』が顧みられなかった理由としては、巣鴨法務委員会委員長の東邦彦13が、同書の序文において、各国による日本に対する戦争犯罪裁判を「勝者の裁き」と位置づけ、それがいかに不当だったかを訴えることを軸として、同書を編纂した点にあると考えられる。戦争犯罪裁判は、「勝者の裁き」か「文明の裁き」かといった観点から論じられることが多かった。日暮吉延の簡にして要を得た定義を参照するなら、「勝者の裁き」論とは、「戦争開始等について指導者個人を国際法で罰するのは事後法の適用であるし、連合国側の行為が問責されないのも不公平だから、勝者の『政治的報復』にすぎない」(日暮 2008: 30)とする論で、「文明の裁き」論とは、「日本の侵略と残虐行為の責任を『文明』的な裁判方式で追及したことをいわば『美徳』として評価する」(日暮 2008:29)論のことである。『戦犯裁判の実相』は、かなり早い段階で日本人によって書かれた「勝者の裁き」論の書といえる。
近年の研究では、そうした二元論的問いが持ち出されることはほとんどない。メルボルン大学法学部アジア太平洋軍事法研究センターと日本人専門家たちによる合作である『再論 東京裁判』で田中利幸が指摘しているように、たとえ「勝者の裁き」であったとしても、それが日本の犯罪性や責任がなかったことを意味するわけではないからである(田中 2013: 596)。『戦犯裁判の実相』に記録されている証言は重要であるものの、それを分析するための枠組みが「勝者の裁き」論以外にないと考えられたならば、1980年に復刻され、アクセスが以前に比べて容易になったにもかかわらず、『戦犯裁判の実相』を基にした研究が管見の限りほとんどないことの説明になるのではないだろうか。
岩川隆(1995)では、『戦犯裁判の実相』をもとに、わずかに小貫についての言及もある。しかし、そこでは「『実は自分は主犯ではなく、事件に関係してもいない。事件前にすでにクラチエを出発して連隊本部に帰っていた。日本軍の軍法会議では部下を庇護するために責を負うたのである』と主張したが、認められなかった」(岩川 1995: 416)と紹介されるにとどまっている。小貫の叫びは、「勝者の裁き」論のなかでかき消されてしまい、坂田を除き、誰の耳にも届くことはなかったのである。
「日仏両軍事裁判の矛盾」は、「勝者の裁き」論を軸とした戦争犯罪裁判批判の文章とはやや趣きを異にしている。「フランス裁判の判決は後述の如く前記略式処断事件に就ての責任を回避する為の一方的な言語道断な誤った臨時軍法会議の裁判の書類を基礎にして判断せられたものであつて、私は本来事件とは無関係の立場に在つたものであることを確信している。/故にこの際事件の真相について有りのままを開陳し、私の冤罪の事情を明らかにしたいと思う」【11-⑥】という書き出しから始まるとおり、それは日本陸軍軍法会議に対する批判を主としつつ、同時に日本陸軍軍法会議の判決を基礎としたサイゴン裁判に対する批判も展開するという構成をとった文章なのである。タイトルが「日仏両軍事裁判の矛盾」となっているのはそのためである。
この「日仏両軍事裁判の矛盾」を批判的に精査した唯一の人物が坂田であった。坂田は小貫の言葉を全て鵜呑みにしたわけではなかった。たとえば、小貫は日本軍の当時の命令は1946年8月28日付けのフランス大統領特別命令によって無効となったと主張しているが、これに対し坂田は「日本軍法会議は、終戦の後も存続し、内地は、昭和二十一年五月十八日勅令第二七八号によって廃止されたが外地に在った部隊の軍法会議は、なお、同令の附則によって存続していた」【11-①】と指摘し、自軍に対する日本の裁判権が消滅したわけではないとする幸道貞治の意見【11-⑤】を正しいとみなしていた。こうした明らかな事実の間違いを坂田は見逃さなかったが、小貫の言葉を全て否定したわけでもなかった。
【11-⑥】の詳細をみていきたい。【11-⑥】で、小貫は事件が起こった22日夜はクラチエにいなかった、そのため自分は事件とは無関係であると証言している。ただ、この点については小貫に不利な点もある。なぜなら、前節で確認したとおり、軍法会議判決文【11-③】では、殺害命令を出したのは21日夜となっているからである。そうであるならば、実行犯は根本軍曹であるため、22日夜にクラチエにいなかったとしても、殺害に関与した可能性があるといえてしまうことになる。しかし、小貫は同時に「私がクラチエを出発する時に於ては右神父は未だ分駐所に出頭しておらず同神父が出頭したのは同日の昼頃だったと言われている従って私が北村大尉に警備を申し送つた際に於ては何等の事件も発生していなかつたし同神父も出頭していなかつた」【11-⑥】とも述べている。この証言が事実であるなら、21日夜の殺害命令が本当にあったのかどうか疑わしいものとなる。なお、フランス軍戦争犯罪裁判の起訴状【11-④】には21日夜の命令についての言及はない。22日、北村大尉に事務を引き継ぎプノンペンに向かうも、事件に関する申し送りはしていなかったということだけが記されている【11-④】。以上に加えて、小貫は実行犯の根本軍曹は自分の監視監督の及ばない人物であり、「私が処断を命ずることなどは到底あり得ないことである」【11-⑥】とも断言している。
また、小貫は事件の真相について、自身は上官の原好三大佐から神父の保護を命ぜられていたため、神父の出頭命令に反対していたが、憲兵分駐所が譲らず、「終戦後の混沌たる客観状勢下に日頃根本軍曹と親しくしていたクラチエ憲兵分駐所の安南人密偵通訳が安南独立運動の機運に乗じて強気となり神父に接して憎悪を募らせた結果根本軍曹を煽動して処断を強要したものであつて処断は私の命令でもなければ指示でもない」【11-⑥】と、結論している。
それにもかかわらず、自分が命令したと小貫が証言したのは、自分が責任をとるといわなければ、裁判を恐れた部下が逃亡するおそれがあったからだという。部下が逃走すれば、いずれにせよ小貫の責任が問われることになる。そのうえ、逃走をゆるせば部下を日本に連れて帰ってやることもできなくなってしまう。そのため、小貫にとっては、自分が命令したと嘘の証言をすることが、最も理に適った行為のように思えたのだと推察される。ただし、実行犯の根本は結局逃亡し、その後行方知れずとなっている。

右の事実にも拘らず私が処断の命令を部下に与えたという推定の許に殺人共犯の名を冠せられたということは全く誤つた判断であり私の承認出来ないものである。それは如何なる意味においても不当のものであるが故にである。仏軍側の裁判においては私はその事実を有りのまま述べたので有罪とせられる証拠は何も見出されなかつたので弁護人(仏人にて官選)は私の無罪を主張し、裁判長も亦私の陳述を十分理解せられたので私は無罪か若くは日本に帰還した北村正一大尉が召還せられるまで私のケースは無期延期されると思つていたのでありますが、事件を一括した合同裁判でありましたためと私の師団長馬奈木中将が容疑者として収監せしめられていたにも拘らず事件の責任を回避する為に検察官側の証人となつて「本件は小貫大尉の命令したものである」とでたらめの証言を為し且虚構そのものであつた日本軍側裁判の書類を「天皇の名に於て行つた裁判書類である故誤りが無い」と強調し裁判妨碍を行つたため遂に私は馬奈木中将の奸策の具に供せられ無実の罪責を科せられ重刑に処せられるに至つた。【11-⑥、下線部原文ママ】

重要なのは、小貫が「元来戦犯裁判そのものが復讎的な本質を有する以上今更とや角言うべき問題ではないにしても」【11-⑥】と戦争犯罪裁判自体を位置づけつつも、フランスにおける戦争犯罪裁判自体は途中までむしろ公正な裁判を行なってくれていたとし、それを師団長の馬奈木が台無しにしたのだとしている点である。ただし、起訴状によれば、馬奈木が小貫の事件を、日本敗北の事実によって引き起こされた、日本軍の異常精神状態による事件の一つとして位置づけていたことはわかるものの、小貫が主張したように、「本件は小貫大尉の命令したものである」と証言したかどうかは不明である【11-④】。坂田は馬奈木批判を展開する小貫に対しては、以下のようにコメントしている。

本人は、事件後、師団長邸に呼ばれ、事件の説明を求められたとき、当然事件の責任は、軍司令部当局が負うものと考え、すでに承知していた部下や■■■■からえた情報を骨子として部下を助ける意図からではあったが「現地の事情を知らない師団長に見破られることはあるまいと思い、被害者も加害者も総て私の直接の監督下に在った如く装うて虚偽の答弁をした。」と述べている。師団長にしてみれば、陸軍大尉たる日本将校であり、中隊長であり、一地区の警備隊長である小貫金造が行なった事件の説明を信じたことに対して、後にこれを非難することは、いささか失当といわなければならない。【11-②】

小貫自身が見破れるはずはないと思った嘘の証言を、馬奈木が真に受けるのは仕方ないことであり、そのことを非難するのは間違いであろうと小貫を諌めている。ここで重要なのは、階級や地位によって証言の信憑性を担保するということが、一般的に行なわれていた可能性が示唆されている点である。小貫の証言にあったように、馬奈木が軍法会議に誤謬がないことを、エビデンスによってではなく、天皇の名によって担保していたのだとすれば、それもそのひとつの表れと考えられる。軍隊内の階級が上であればあるほど、証言の信憑性は高いとされていたのではないか。それが小貫元大尉による苛烈を極めた馬奈木元中将批判に誰も耳を貸さなかった理由のひとつだったように思われる。

馬奈木中将は表面では「小貫には責任がない連隊長の責任である。既に事件は日本軍の裁判によつて終結しているのだから之を仏軍側が再び裁判することは出来ない。公判に於ては弁護してやるから詳しいことを述べる必要はない、陳述の要領は斯々すべきである」と言つて私の陳述を牽制して置き乍ら実際公判廷では全く反対の証言を行い私を敵に売つたのみならずその階級と地位と終戦後四百名の部下の犠牲において連合軍に協力し賞せられた功績とを誇示してその証言を権威づける等あらゆる手段を講じて自己保身の為部下を犠牲に供した態度は人にして人に非ざる所為である彼の裁判前においては巧言を以て部下を籠絡し裁判場裡においては奸害と捏造とを以て検察官側を利して部下を陥れ為に多くの同胞がその犠牲になつた。【11-⑥】

小貫が馬奈木から聞かされたという話は、前節で確認した「一事不再理の原則」を柱とした弁護方針のことに他ならない。それゆえ、その話の信憑性は高いといえるが、馬奈木自身の証言はやはり公文書には残っていない。この公文書に残っていないということもまた、小貫の証言に誰も耳をかさなかった理由のひとつと考えられる。
こうして部下を救うため虚偽の証言をした小貫は陸軍軍法会議にかけられることとなる。裁判長は林秀澄憲兵大佐、裁判官は国富勇少佐と寺田治郎法務大尉、検察官は相沢登喜男法務少尉であった【11-⑥】。軍法会議によって科せられた刑が懲役13年であったことに対し、小貫は「拘置所職員からは『事件の責任は一中隊長の負うべきものではない若し罪に問われても二、三年で執行猶予になるだろう』と言われていた丈に殺人罪を以て而も十三年の懲役に処せられた事は私として到底承服出来ないものである」【11-⑥】と不服を申し立てているが、上訴・公開・弁護が認められない特設軍法会議においてはなすすべがなかった。
このとき、小貫は相沢検察官から「『此の際は我慢する様に、日本に帰ったら善後策が講ぜられるだろうから必ずしも十三年服役すると言う事は無いのだから』」【11-⑥】という慰めの言葉をもらったという。また、裁判官を務めた寺田法務大尉からも「『君の罪は一種の責任罪で日本軍の法規には君を罰すべき条項が無いので已むを得ず殺人罪としたが悪く思わない様に、日本に帰ったら善処する君の精神は却って将来賞賛されるだろう』」【11-⑥】と慰められたともいう。相沢、寺田の言葉を信じた小貫は、フランス軍に引渡されるまでは、多少の希望を持っていた。しかし、1946年3月4日、「六ヶ月の日本軍刑務所の言語に絶する不当な処遇に依り体重二〇キロも減り脚気の上に仏側へ引渡される前日の晩毒物を食わされて中毒に罹り心身共に疲労困憊其の極に達し」【11-⑥】た小貫は、日本軍への不信を募らせ、ついに「信実こそ自分を救う唯一の途である」【11-⑥】と確信し、これまでの証言を翻して真相を語りはじめた。すなわち、自身の冤罪を訴えたのである。
小貫の訴えに対する坂田の結論は、以下のようなものであった。

検察官相沢法務少尉は「この際は我慢するように、日本へ帰ったなら善後策が講ぜられるだろうから、」と言ったといわれるが、ここにおいて、小貫金造が受けた信集団臨時軍法会議は、いささか審理不尽、事実認定錯誤の疑があるように思われるが、要するに日本軍占領地の一地区警備隊長であり、陸軍大尉であり、中隊長であった被告人が部下を救わんとして、行政責任と刑事責任をとりちがえて発した不用意の言を、等しく名誉ある日本軍将校の言として憲兵隊も、検察官も裁判官もそのまま信じた結果十三年という重刑に処され、今となっては、救わんとして救うことのできない結果となったことは、まことにいかんの極みである。【11-②】

結論部から読み取れるのは、坂田が小貫の証言を半ば以上信じていたということである。そのため、坂田は小貫を救うために再審請求についても検討している。しかし、逃亡して行方不明となった根本による証言が得られなければ難しいだろうし、証言すると罪に問われるであろう根本が出てくる可能性も低い。小貫が不憫ではあるが打つ手がない。つまり、坂田の結論は残念ながら諦めるしかないというものであった。しかし、坂田はすぐに諦めたわけではなかった。1960年には関係者への聞き取り調査を行なうなどして、なんとか小貫を救う道はないかと奔走していた。その調査報告書が【13】である。

5. 閉ざされた再審への道―坂田良右衛門の聞き取り調査記録

【13】の冒頭で、坂田は厳密な断りを入れている。【13】に収録した聞き取り調査記録は、テープで録音したものを文字起こししたようなものではなく、その場でとったメモと記憶を頼りにした要約でしかない。また、あくまでインフォーマルな聞き取り調査であったため、法廷で発言を否定されればそれに従わなければならない、と。そのため、本節も隠された真相のようなものを記しているわけではなく、坂田が以下で紹介するような話を聞いたと認識していた事実を記述しているにすぎないことを断っておく。聞き取り対象者は「クラチエ事件」の裁判官であった寺田治郎(1960年2月26日午前9時30分から正午まで。大阪市北区同心町2-1裁判所官舎にて)、および検察官であった相沢登喜男(1960年2月27日午前10時30分から11時30分まで。名古屋弁護士会にて)の二名である。
寺田治郎はインタビュー当時、大阪高等裁判所判事であり、のちに第10代最高裁判所長官を務めた人物でもある14。寺田は、様々な証拠を勘案した結果、根本が自分の意思だけで事件を起こしたとは考えられなかったこと、「下士官の刑事責任を将校がまさに死を賭してかぶるということは例がないこと」【13】、大学を出ていた小貫が刑事責任と行政責任とを弁別できなかったとは考えられなかったことなどから、小貫が違法行為命令者であったことを確信していたという。しかし、一方で以下のように述べたともいう。

私は刑の宣告はいたしましたが、臨時軍法会議の通弊として審理不尽と申しますか決して十分ではなく、小貫氏の場合は特に仏軍との関係があったため更に不十分であった点は認めております。もちろん小貫氏が事実、違法行為命令者であって、当然の受刑者として何らの疑念もなく確信をもって最近まで参りました【13】

小貫を裁いた軍法会議について、審理不尽があったことを認めているのである。また、小貫がフランス人宣教師と囚人の殺害を根本に命じたかどうかについての確信が最近になって揺らいだのだともしている。揺らいだ理由は、小貫の戦争犯罪裁判に立ち会った東京第一弁護士会所属の■■■■弁護士から、「小貫氏はどうも無実だったらしい」【13】と聞かされたからである。同弁護士は、サイゴン裁判では死刑が多かったにもかかわらず、「終身刑に落着したことは、当時の仏国戦争裁判としては、無罪にも等しく、小貫氏は、仏国裁判では殺害を命令した事実の不存在が認められたことになり、結局日本軍法会議では、無罪すなわち誤判であったのではなかろうかという結論」【13】に至ったという。

そこで、私はそれまで有罪であるとばかり思っておりましたので、当時のことを思いなおしてみますと、根本軍曹は、一下士官にして到底できないような大きなことを事実は一人の恣意で行ったのか、小貫氏にしても刑を受けることさえ万難を排して避けるところであり、仏国軍において当然死刑になると判っていながら、部下を救うために放った一言を正当化するため一言半句も漏らすことなく、済まないといって流されたと思った涙は、悔悟の涙ではなく無念の涙であったのか、もう一つの心証といたしましては、事実自分が犯人でないという確信があられてこそ、国であるあなた様[坂田のこと]のところへ、そうして訴えられ、またそれは、今になって急に利害関係のために思いつかれたのではなく、戦争裁判のときからスガモに居られたときを通じ一貫して無罪を主張しておられる点と今回も弁護士を依頼され、相沢検察官にも裁判官の私にも是非会って欲しい旨懇請されている点、もし犯人であられるならば、いつかは判ることであり、そのような危険なことをされるとすれば、余程の馬鹿か悪党でない限り常人ではできないことのようにも思われるのであります。【13】
【13】の記録に限定していえば、寺田は小貫の証言の信憑性が高いという心証をもっていたようである。そのため、「裁判官としての私の名誉を失うことも辞しませんから、再審の請求等によって名誉の回復を計られるならば、それに越したことはないと思います」【13、強調引用者】とまで述べたという。ここからわかるのは、消滅した軍法会議による誤判が、戦後の裁判官の職を続けていくことを困難にする効果をもつと寺田が認識していたらしいことである。そのうえで、寺田は軍法会議の有罪の判決をくつがえすためには非常上告がよいとして、そのための道筋をいくつか坂田に伝授した。ここから、坂田は寺田が小貫の名誉回復に前向きであるとの心証を得たようである。
一方、相沢登喜男元検察官は寺田と違い、「この裁判には、私が検察官をいたしましたので、小貫氏が有罪であることには確信をもっており、それから十六年目になる今日まで無罪ではなかろうかというような疑いをもったことは一度もありません」【13】と述べたとされるように、小貫の証言を全く信用していないようであった。それだけではなく、相沢は当時小貫に対して自殺を薦めたこともあったと述べたと、坂田は記録している。

私は小貫氏を取調べるに当たりましては、できる限り慎重に臨み、特に当時は、小貫氏より私の方が二階級も下でありましたので、威圧・脅迫のようなことは絶対になく、懇切に真実の自供を促し、言われることは何でも聞くから、何かありましたら遠慮なく言われるようにと魂に触れたつもりでしたが、深く首をうなだれ、ただ済まないと涙を流し、この位なら死んだ方がよいと漏らされました。そして、あくまで自分の命令によるものであることを固執され、私をして、そこに何らの疑念をも持たされませんでした。/そこで私は、小貫氏は、仏国軍がやがて上陸して来れば、身柄を引き取られて必ず死刑になられる方であり、日本軍にしても、今まで大尉であり、中隊長であり、一地区の警備隊長ともあろう方が、殺人という重罪犯人として、総ての身分等をはく奪され、□□に死刑を待たれることになるご心情に深く同情しおく能わないものがありました。そこで、とっさに思いつき、この責任は自分がとるつもりで腰の拳銃(装てんのもの)を抜きとり、小貫氏の目の前の机の上に無ぞうさに放りぱなし、便所に行くと言ってそこを立ち、物陰で、今に音がするかと待っていたが、一向に音がしない。そこで戻ってはまた別の部屋に行くなど三回にわたって促してみたが、ただ首をうなだれて涙を出しておられるばかりでした【13】

小貫の証言【11-⑥】と合わせて考えると奇妙なことを述べていることに気づく。小貫は相沢から「『此の際は我慢する様に、日本に帰ったら善後策が講ぜられるだろうから必ずしも十三年服役すると言う事は無いのだから』」【11-⑥】という励ましの言葉をもらったことは前節で確認した。しかし、この相沢の証言では「小貫氏は、仏国軍がやがて上陸して来れば、身柄を引き取られて必ず死刑になられる方」【13】となっている。つまり、相沢は小貫が日本に帰ることができるとは全く想定していなかったにもかかわらず、日本に帰ったら善後策が講じられるだろうと小貫に述べていたことになる。相沢がサイゴン裁判における小貫の死刑を確信していたらしいことは、拳銃による自殺を暗に薦めたことからも間違いないだろう。しかし、相沢は小貫が死刑を免れることができるように最大限の努力もしていたという。

神父を殺害したことは違法には相違ないが、この事件によってかえって日本軍が救われたのかも知れない。しかし、終戦によって仏国軍の上陸が寸前のため、どうしても小貫氏は、仏国軍の上陸によって身柄を引き取られ、その結果死刑は必定である。したがって、もしここで処断刑の最大限を科しておいたならば、あるいは、仏国軍によって死刑は免れるかも知れないというあわいいちるの望みから、裁判官は涙を飲んで、その結果小貫氏を求刑の倍に近い重刑に処せられた訳であります【13】

戦争犯罪裁判を予見し、「一事不再理の原則」に賭けて、軍法会議の刑罰をあえて重くしておいたのだという。小貫が相沢から聞いた「必ずしも十三年服役すると言う事は無いのだから」【11-⑥】という言葉には、もともと懲役13年相当の刑罰ではないという確信があった可能性がある。いずれにせよ、これが事実であるとすれば、「善意」からであったとしても、故意の量刑ミスということになる。さらにいえば、この「善意」は全くの逆効果であったことはすでにみたとおりである。
寺田と相沢の「クラチエ事件」に対する態度は対照的である。寺田が重視した戦争犯罪裁判が死刑ではなく終身刑に落着した件について、相沢は「元来外国人は、実行者の責任を重く考える訳であります。したがってこの場合実行者でなかった点において終身刑におちついたものと思われ、小貫氏に実行を命令した事実が無かったことを仏国側が認めたから終身刑になったという理論については、私は首肯できません」として、退けている。しかし、これも奇妙な話で、そうだとすれば相沢がサイゴン裁判による小貫の死刑を確信していたのはなぜだったのかという疑問が残る。無論、当時は海外の裁判の傾向を知らなかったのかもしれないが、当時から知っていたとすれば終身刑になる可能性もあったと考える方が妥当であることになる。しかし、そうすると今度は拳銃による自殺を薦めた理由がわからなくなってしまう。また、寺田が坂田にすすめた非常上告については、「小貫氏の日本軍法会議について、非常上告などとんでもない。当時適法であったので、今日においても何ら動かすべき性質のものではありません。また事実認定の錯誤にしても、小貫氏が部下の罪をかぶっていたなどとんでもないことで私は断乎信じる訳には参りません」【13】として、取りつく島もなかったようである。ここでは小貫の証言を信じないとする根拠がなんら示されていないことは確認しておかなければならない。さらに相沢は次のように念をおしたという。

いつの日か小貫氏にお会いの機会があられましたら、よく申して下さい。もし再審の請求をされましても第一に当時の検察官と裁判官である私と寺田判事が法廷に呼ばれます。この場合私共は、宣誓をした以上お気の毒だからと言って事実を曲げるということはできません。したがって、私共が当時のことについて陳述いたしますならば、根本軍曹がいない以上如何なる証言がありましても総てくつがえされること必定であります。よくお胸に手を当てられ、今更つまらない真似はお止めになるようお伝え下さい【13】

相沢にとっての事実とは、「クラチエ」事件の真相ではなく、軍法会議によって有罪の判決を下したという公文書にも残されている事実に他ならない。その有罪判決はほとんど小貫の偽の証言(と小貫が訴えるもの)によってのみ作られているが、それによって確定した軍法会議の判決という事実を、小貫自身の「真実」の証言によって覆すことはできないというのである。これは相沢の特異な見解ではなく、現在の誤判・冤罪事件の再審でも同様に持ち出される論理であろう。再審には新証拠が必要なのである。ただ、寺田と違って相沢が非常上告を「つまらない真似」として退けたのは、新証拠の発見が難しいというだけではなく、寺田が自身の名誉を失うことを覚悟していたことに鑑みるなら、現在の地位が脅かされるという不安もあったのではないかと推察される。少なくとも量刑を故意に重くしたことは相沢自身も認めており、それもまた誤判には違いないからである。
坂田はこうした相沢の態度が、小貫の名誉回復の上での障害となると考えたようで、書簡で寺田に助けを求めている。しかし、寺田からの返信はおそらく坂田の望んだものではなかった。以下は、寺田の書簡からの引用である。

先日小貫氏からもお便りを頂きました。相沢さんとは、最近あまり会う機会もありませんし、同氏がこの問題についてどのような意見をもっておられるか直接きいたこともありませんが、小生の意見をもってすれば、かりに再審が行われるとすると、それは小生や相沢氏が干与した裁判に対する再審査ということになるわけですから、その場合小生や相沢氏が、どのような意見をもっているか、とか、どのような態度をとるか、というようなことは問題にならないわけで(小生等が一応自己の干与した裁判を正しいものとする立場をとることは、むしろ当然でしょう。再審は、むしろその前提のもとに、それを排除してなされるものです)むしろ、いかにしてあたらしい証拠を発見しうるかが、問題の中心になります。そして、その点にこそ貴官等のお仕事の困難さがあるように拝察いたしていた次第でした。再審について相沢さんが障害であるとおっしゃる趣旨が必ずしも理解できませんが、小生としては、右のように考えている次第です【13】
坂田の「クラチエ」事件についての調査はここで終了している。新しい証拠となりそうなものは、行方不明の根本の証言ぐらいしかなかったが、それは雲をつかむような話でしかなかった。再審の道は完全に閉ざされてしまったのである。そして、聞き取り調査から2年が経った1962年3月25日、小貫は循環器系の病により急死した(坂田 1978: 71)。

家人の話では、死亡直前の就寝前に寝台の上で、取り寄せた根本軍曹の戸籍謄本をしばらく見ており(これには、未帰還者として死亡の処理がなされていた)、こいつさえ帰国していたらと涙を流していたという。(坂田 1978: 71)

6.おわりに―「クラチエ」事件から得られる今後の課題

ここまで「クラチエ」事件について、『法務関係拙論集』に沿ってみてきた。そこから明らかとなったのは、「クラチエ」事件はBC級戦争犯罪裁判という枠組み、あるいは軍法会議という枠組みからだけでは論じることができない事件だということであった。なぜなら、BC級戦争犯罪裁判の判決の基礎となったのが、日本陸軍軍法会議における判決だったからであり、日本陸軍軍法会議の判決に影響を及ぼしたのが、そのあとに待ち受けていると予見されたBC級戦争犯罪裁判だったからである。加えて、「クラチエ」事件には、冤罪問題も絡んでいる。現在でも冤罪を晴らすことは極めて難しいが、「クラチエ」事件はそもそも事件に焦点を当てることすら困難な事件であり、雪冤のスタートにも立てなかったうえに、事件そのものも忘却されて終わってしまった事件だった。こうした事件は、脚注12で示したように、「クラチエ」事件に限ったものでなかった。今後は、軍法会議とBC級戦争犯罪裁判、さらには一般刑事裁判との結節点となるような事件を、「一事不再理の原則」を鍵に分析していくことで、日本戦後史の新たな側面を明らかにしていくことを課題としたい。

付記:本研究は日本学術振興会科学研究費助成事業(若手研究B)「死刑の歴史社会学―刑罰史研究の新たな視座」(研究代表者:櫻井悟史、課題番号:15K17204)から研究費の助成を受けている。記して謝辞を表したい。

[注]
1 同論考は靖国偕行文庫にも、井上忠男資料として古くから保管されていたようである。『井上忠男覚書・第13巻(S47.1.4〜47.5.10)』に、「47.3.18 城一俊曹長の死刑に関する法律的考察 坂田事務官」というメモがあったため、このとき坂田から献呈された資料を、靖国偕行文庫へ奉納したものと考えられる。
2 表にある資料番号は坂田自身がつけた番号ではなく、憲政資料室がつけた番号である。原本の状態が良好ではないため、バラバラになる可能性があり、そのまま公開したのではどのような順番で論考や報告書が収められていたのかがわからなくなってしまう。そこで上から順に、おそらくひとまとまりであろう文書群ごとに番号を付し、その番号ごとに封筒に分けて収蔵することとしたとのことである。
3 『法務関係拙論集』のなかに収録されている論考および報告書のなかで、これまで最も注目されてきたのは、遺族年金等請求却下処分取消請求事件、通称「吉池事件」の最重要資料である「坂田メモ」【34-①】である。事件の詳細は、NHK取材班・北(2013)、瓜生・平塚(1974)、花園(1974)を参照。特に瓜生・平塚(1974)と花園(1974)は、同時に読む必要がある。同事件をもとにした「敵前党与逃亡」などの作品を収録した結城(1970)や、同作品を映画化した深作欣二監督の「軍旗はためく下に」(1972)も参照。
4 国立国会図書館には、『行政庁の刑罰調査〈前科調査こぼれ話〉』と題された新書サイズの本が収蔵されている。そのほかに法学博士清瀬一郎監修のもと、『44条(関係事案の取扱要領)』【40】と題する本を出版した。
5 脚注3で言及した「吉池裁判」ではマスメディアの脚光を浴びることとなった。
6 占領期には、「連合国軍法務部の命令により同部の検事団に使用され、戦争犯罪裁判の捜査関係業務のほか一般犯罪、たとえばスイス代理公使殺害事件の捜査」【34-②】にも携わっていたという。
7 【34-②】によれば、復員局法務調査部は復員局法務調査課となったのちに廃止、その際、当時の復員課に同課は業務ごと吸収され、その後復員課が援護局調査課となったとのことである。
8 1963年6月27日法律第113号によって44条に変更となる。【37】、【40】にある44条とは、この条文のことを指している。
9 戸谷由麻によれば、「オランダ・中華民国・フランスの戦犯裁判資料はいまだに公開に制約があり、研究をすすめるための史料開示が内外で整っていない」(戸谷 2015: 8)とのことである。
10 『秘録 戦争犯罪裁判(上・下)』には、【9】を一部加筆修正した論考が収められている。
11 軍律法廷ではしばしば斬首が用いられたという記録があるが、全て違法である。
12 「一事不再理の原則」を盾にしようとした事件は他にもいくつかあったようである。たとえば、坂田は『秘録 戦争犯罪裁判遺稿』の最後に付された「京都大学国際法学研究会」での講演要旨で、「クラチエ事件」と類似した興味深い事例を紹介している。「『一事不再理』の事例は、こと天皇の責任にまつわることだけに、その当時、つまり終戦時から誰も口にしない。というのは、こと天皇のことだけに畏れおおいからだという。私など公務員としてこのことを当時最高裁判所や学者グループに依頼して研究を始めたところ、そういうことをしたら一服盛るぞと暗に言われて怖くなってやめて了ったことがある。/余談はさておいて、そのアウトラインを見て見ると、■■県■■■の出身でフィリッピン方面軍の司令官であった■■■■中将が内地で逮捕されたのは昭和20年の9月15日であった。/ところが、日本国の軍部は、これをその侭にして置いたならばアメリカ国軍戦争犯罪裁判によって死刑は必至であると考えた。そこで、何とかしてこれを助ける手立てはないものかと考えた。けれども時既に終戦後のこと、これを『先に重く処罰して』、いわゆる『一事不再理』の原則によってもはや新たな処罰の余地を無くすことを考えた。しかし乍ら終戦直後のこと、将校の身分に関する規定廃止(適用)後のため今までの規定によることは出来なかった。/そこで、アメリカ国裁判によって死刑の判決を下だす前に『一時不再理』の法原則を応用して日本国軍将官としては最高の処罰である『礼遇停止』の処分を考えた。/その結果2回までも天皇に「ご前会議」を要請して、1回目は天皇に断わられたという。/当時のこと私が職務上これを調査して知り、それを今記憶していることは、その時天皇は、『朝に忠良なる臣の勲功を嘉して、夕べにこれを加罰することは背理ではないか』と言われ、勅許がなかったとのことである。/その次の第2回目の御前会議において■■■■氏に対して、日本国軍人に対する最高の処罰である『礼遇停止』の処分を行うことが出来た。/ところが、その後■■■■氏を訴追したアメリカ国軍は比島マララ裁判において、この「礼遇停止」なる処分を全く無視したうえ、逆に「日本国の天皇さえこの者に軍人最高の処罰を与えている。」として、その処分を逆手に取って遂にマニラにおいて■■■■氏を死刑として執行して了った。/これを考えて見ると、法律に拠るのではなく、□っての臣下からの要請に拠るものとは言え、表見上は天皇の大権である直接の処分ともいうべき『一事不再理』の法原則が災いとなり、ものの見事に我が方の法律知識を逆手に取られたというこの事象は我が国の歴史上極めて注目に値するものと思われるのであります」(坂田良右衛門『秘録 戦争犯罪裁判(上・下)』[憲政資料室収集文書1430]より引用。
13 巣鴨法務委員会の歴史観を構築した人物で、一度死刑を求刑されるも助命され、6年と5ヶ月の間戦犯として投獄されていた。重松一義によれば、東が行刑界に復帰し、名古屋矯正管区長を務めていた時期に、第1期死刑廃止運動の理論的支柱を築いた正木亮から矯正協会長就任の交渉を受けたが、種々の事情から断ったという(重松編 1973: 41)。
14 2014年4月から第18代最高裁判所長官を務めている寺田逸郎は、寺田治郎の息子である。

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山本英政,2015,『米兵犯罪と日米密約―「ジラード事件」の隠された真実』明石書店.
山本政雄,2006,「旧陸海軍軍法会議法の制定経緯―立法過程から見た同法の本質に関する一考察」『防衛研究所紀要』9(2): 45-68.
結城昌治,1970,『軍旗はためく下に』中央公論社.

生存学研究センター報告

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