第1部 生存をめぐる規範 2 福祉と健康の情報的基礎としてのケイパビリティの再検討のための研究ノート ―資源概念とQALYとの比較

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生存をめぐる規範

福祉と健康の情報的基礎としてのケイパビリティの
再検討のための研究ノート
―資源概念とQALYとの比較

村上慎司


1.はじめに

アマルティア・セン(Sen [31] 等)とマーサ・ヌスバウム(Nussbaum [17] 等)によって提唱されたケイパビリティ概念は福祉や健康など多様な領域において導入されて、その研究は急速に進展している。ケイパビリティとは人々が財やサービスを用いて達成可能な価値をおく理由のある「諸機能(functionings)」の集合であり、ここでいう諸機能は人々の「行い方(doing)」や「在り様(being)」を意味する。ケイパビリティの支持者は、ケイパビリティが従来の福祉や健康に関する情報的基礎に対する理論的優位性と実践的有効性をもつと主張している。
こうした主張の妥当性を再検討することは、ケイパビリティを批判する立場だけでなく、それを支持する立場にとっても有意義な課題であると考えられる。しかしながら、爆発的に増加しているケイパビリティ研究全般を網羅的にサーベイすることは不可能である。そこで、本稿の目的は、政治哲学者ジョン・ロールズの社会的基本財に代表される資源概念と健康・医療政策の規範理論的基礎として影響力をもつ「QALY(quality adjusted life years、質調整生存年数)」の二つだけに着目し、それらとケイパビリティとの比較を試み、幾つかの論点を提示して、福祉と健康の情報的基礎としてのケイパビリティを再検討するための一助とすることである。
本稿の構成は以下の通りである。2 節ではセンのケイパビリティ概念を概観してセンとヌスバウムのケイパビリティ概念の異同を確認する。3 節では資源概念とケイパビリティを比較し、そして、4 節ではQALY とケイパビリティを比較する。最後に5 節では、これまでの比較から導入された論点をまとめたうえで、さらなる論点も提示する。

2.センとヌスバウム

ケイパビリティとは、先述したように、個人が財やサービスを用いて達成可能な価値をおく理由のある諸機能の集合として定義される(Sen [31, Ch. 2])。センのケイパビリティの考え方を説明するために、自転車という財が個人iに与えられる状況について考えよう1。まず、「個人i に自転車が与えられる」という言明は、個人i が属する社会において、個人i に対して自転車を配分することが実現可能であることを意味している。つまり、当該社会は一つ以上の自転車を生産するテクノロジーがあり、そして、自転車に関する何らかの資源配分メカニズムが備わっていることを意味している。このことは自明なことに思えるかもしれないが、センのケイパビリティ概念が生産テクノロジーや資源配分問題という経済学の重要な問いの上に成り立ち、これらを無視した福祉概念ではないことは注記しておくべき点である。
そのうえで、この「個人i に自転車が与えられる」という言明は、「個人i は自転車を所有する」という言明を含意していると想定しよう。つまり、当該社会には、所有についての慣習や法体系があることを意味している。このことは、個人i が今回の状況のように第三者的存在から自転車を「与えられた」のでなく、市場を通じて自転車を購入する場合において重要性を帯びる。もし当該社会において数多くの自転車が存在していたとしても、それらが第三者的存在から「与えられる」のではなく市場を通じて購入しなければならない商品であったとすれば、ある個人が自転車を所有できるかどうかはその個人の購買力に依存する。ここには、先述した資源配分問題のなかでも市場や購買力を巡る問いがあり、これらはケイパビリティ概念に至るまでにセンが行った重要な研究の一つである貧困と飢饉の研究と関連する(Sen [30] 等)。その研究は、ベンガル大飢饉をはじめとする20 世紀に世界各地で発生した大飢饉の原因が当該地域での食料供給能力不足にあったという通説を否定し、人々の十分な食料を正当な方法での入手する権利、すなわち「エンタイトルメント(entitlement)」剥奪に由来していたことを明らかにした。
当該社会における財・サービスの有無やそれらの数量の多寡ではなく、人々が実際にそれらを入手・活用・消費できるかどうかに関心を寄せる発想は、後続するケイパビリティ概念にも継承されている。実際に、機能概念は個人の財・サービスの「特性(characteristics)」とそれにもとづく「利用(utilization)」を反映している。特性とはGorman [10]とLancaster [13] によって提唱された財・サービスと効用の中間的概念であり、財のもつさまざまな望ましい性質である。ここでいう利用とは個人が財・サービスの特性から諸機能を生み出す様式のパターンを意味し、利用関数によって表現される。このとき、同じ財・サービスでも、そこから生じる特性・諸機能は多様でありうる。自転車の場合、近所への買い物に利用する特性(輸送性)と、遠方へのサイクリングを楽しむ特性(娯楽性)では、同じ自転車という財を用いても異なる。また、その人が足や目に障害をもつ場合(個人的・心身的要因)、自転車を所有していても、自転車の特性から諸機能を享受することはできない。さらに、健常者であったとしても、豪雪地帯の冬季(自然環境的要因)や舗道のような交通の社会基盤が不整備な状況(社会的要因)では、自転車の特性から十分な諸機能を引き出すことは困難である。
このように財・サービスから特性・利用・諸機能への変換要因をさまざまな形で考慮して人々の福祉をより適切に捉える点にケイパビリティの理論的利点はある(Sen [31])。つまり、ケイパビリティは、(a)身体的/知的/精神的障害や疾病とその程度、栄養状態、妊娠の有無、年齢などの生物学的側面、(b)慣習、制度、世帯構成、ジェンダーなどの社会的文脈、(c)稼得能力、性的指向、コミュニケーション・スキルなどの複合的産物、といった人間の属性を規定する数多くの要因に関する変換可能性を理論的射程に含んでいる。
その反面で、ケイパビリティは難点を抱えている。まず、各種の変換過程をどのように考えるかである。そして、かような変換過程を経た諸機能とその集合であるケイパビリティをどのように評価するのかである。最もシンプルな考え方は、ある種の客観性によって、これらの変換過程が一意に、あるいは、ほぼ一意に特定・記述されるというものである。確かに、幾つかの機能では、科学的知見によって、限りなく一意の変換過程を特定・記述されうるかもしれない。しかしながら、そのことを認めた上で、科学的知見のみでは十分に対応できない社会的側面に関する機能への変換過程、そして、かような諸機能とケイパビリティをいかにして評価するのかという問題は、不可避的である。
上記の問題について、Sen [31, Ch. 5] は純粋な客観主義的立場を擁護していない。これは評価における比較・測定可能性等の実践的問題に関わるが、評価の主観/客観主義を巡る根本的問題とも大いに関係する。まず、Sen [31] は伝統的な厚生経済学的枠組みで採用される「効用(utility)」アプローチを批判する。その議論は諸個人の精神的な態度に全面的に依拠することに由来する物理的条件の無視と当該個人の評価作業への直接的な言及の回避という二つの観点から展開されている。次に、Sen[31]は実質所得アプローチという物質的な富裕に専ら焦点を当てるアプローチを批判する。かかるアプローチは財・サービスに対する市場における財・サービスの所有権に依拠し、飢饉や広範囲な栄養失調などの現象を分析する際、第一次近似として有効でありうる。しかしながら、福祉とは個人の状態であり、当該個人の財貨所有と異なる概念である。それゆえに、実質所得アプローチは人間を疎外した財貨崇拝的であるという謗りを免れない。
こうした批判を踏まえた、ケイパビリティの独創性は、諸機能の客観的特徴に注目しつつも、これらの諸機能を感情ではなく理性的な評価に基づいて判断することにある。ここでの個人の評価構造は多層性を有していると想定されている。後藤[42, p. 232] の整理によれば、とりわけ重要となる区別は私的選好と公共的判断の区別である。私的選好とは通常、経済学で想定されているような私的利益や目的への関心に基づく判断である。それに対して、公共的判断とは私的関心から離れて公共的観点から理性的反省や公共的討議を経て形成されるという。
次に、このような公共的判断とは異なる善に関する哲学的理論によって、ケイパビリティを導出・正当化しているヌスバウムの議論を確認しよう。ヌスバウムのケイパビリティ概念は、アリストレスの「真に人間的な機能(truly human functioning)」という考え方を中核においている。つまり、他者との関係性に充足感を覚える社会的・政治的な存在である人間の生活していくうえで中心的な重要性をもつと考えられる諸機能のリストに立脚し、人間の価値や尊厳とも関わる(Nussbaum [17, 18])。
ヌスバウムは、中心的ケイパビリティのリストとして、以下の10 項目を挙げている。すなわち、(1)生命、(2)身体の健康、(3)身体の不可侵性、(4)感覚・想像力・思考力、(5)感情、(6)実践理性、(7)連帯、(8)ほかの種との共生、(9)遊び、(10)自身の環境のコントロール、である(Nussbaum [17, 18, 19]等)。
ケイパビリティのリスト提示を積極的に提示するヌスバウムのスタンスと対照的に、センはケイパビリティのリストを提示することに消極的である。初期のSen [29] から近年のSen [37] に至るまで、センはベーシック・ケイパビリティとして十分な栄養摂取、住居、健康、回避可能な罹患や早死の回避、自由な移動、コミュニティへの参加等の幾つかの例を挙げるのみである。センは、自身がケイパビリティのリストを積極的に作成しない三つの理由を述べている(Sen [36, p.79])。第一の理由は、汎用性が高いケイパビリティの利用者が焦点を当てるものは利用者の使い方と動機に左右されることである。第二の理由は、ケイパビリティのリストが提示する社会的状況や優先事項の変更可能性である。第三の理由は、仮に固定化されたリストを提示した場合、公共的討議や推論による改善が停滞する可能性へ危惧である。
とはいえ、センはケイパビリティのリスト提示作業を全面的に否定しているのではない。実際に、センは「人間開発指数(human development index)」の作成に携わったこともある。ただし、それは、国民総生産や国内総生産が捕捉し損なったクオリティ・オブ・ライフの基本的な部分を利用可能な統計データからのみ算出するという限定的条件を課す極めて最小限のケイパビリティのリストであるという(Sen [36, p. 78])。
他方で、ヌスバウムの中心的ケイパビリティのリスト2は、変更可能かつ控えめなものであるという(Nussbaum [17, p. 77])。そして、多元的な実現可能性の理念のもとで、リスト内容は地域の信念や状況に応じて具体化されていくという(Nussbaum [17, p. 77])。したがって、ヌスバウムの中心的ケイパビリティのリスト提示作業は、センの懸念に対する一定の予防線を張っていると考えられる。
以上の確認を踏まえて、次の3 節ではケイパビリティが誕生する契機の1つであるロールズの社会的基本財を含む資源概念との比較をみていこう。

3.資源とケイパビリティ

まずは規範理論における資源概念について、瞥見しよう3。例えば、ロールズの社会的基本財の議論と並んでDworkin [8] は資源についての最も著名な論文の一つである。同論文は厚生の平等(Dworkin [7])の代替として、より適切な平等概念であるとドウォーキンがみなす資源の平等を提唱している。ドウォーキンの資源概念は個人の物理的かつ精神的な特徴を含む。したがって、ハンディキャップを抱えて生まれた者は他者より資源の点でより劣った状態から人生を開始する。
ロールズとドウォーキンの資源概念を含む5 種類の資源概念に関するタイプがRobeyns [26, pp. 35-36] では分類されている。タイプ1は一人当たりの国民総生産であり、タイプ2は個人の可処分所得である。タイプ3は個人の物質的財についてのエンタイトルメントである。ここでいうエンタイトルメント概念は非市場生産物や公共財の提供を評価することによって可処分所得の発想を拡張させる。タイプ4はドウォーキンの資源概念であり、タイプ5はロールズの社会的基本財である。
ドウォーキンの資源概念とロールズの社会的基本財の差異を以下のように説明しよう。ロールズの社会的基本財は、所得、富、自由、機会、自尊心の社会的基盤、つまり、社会的な資源を含む(Rawls [22, 23] )。しかしながら、社会的基本財は個人の物理的/精神的な特徴、つまり、内的資源を含まない。これに対して、ドウォーキンの資源概念が社会的資源と内的資源の両方を含み、それゆえに、ある種の意味では、ドウォーキンの資源概念は、ケイパビリティに近い概念とみなすことができるだろう(Dworkin [9, Ch. 7])。
ロールズの社会的基本財はSen [29, 32, 34] 等において批判されている。クリティカルな論点は以下の通りである。

基本財と資源から諸機能とその他の達成の代替的な組み合わせに関する選択の自由への変換は個人ごとで非常に異なる可能性があるため、基本財や資源をの保有が平等であったとしてもそれぞれの個人が享受する実質的な自由は深刻な不平等を伴っているかもしれない(Sen [32, p. 81, 邦訳p. 125])4。

確かに一人当たり国民総生産や個人の可処分所得のような単純な資源は、かかる変換問題に答えることはできない。しかしながら、洗練された資源、つまり、ロールズの社会的基本財やドウォーキンの資源概念の賛同者は社会的要因を考慮することによって資源から実質的達成への変換を調整できると主張する。例えば、このことは政治哲学者トマス・ポッゲの以下のような言説において示されている。

資源主義者は以下のことを認めている。個人の精神的・肉体的構成は、かなりの程度、社会的要因によって形成される。つまり、個人は地域や家族によって育てられ(それらは栄養摂取、保健医療、体を動かすこと、遊び、幼年期や青年期の教育機会に多大な影響を及ぼす)、そして、当該社会の文化や制度的秩序によって方向づけられる(それらは社会的・政治的参加の機会を決定する)。それゆえに、資源からの利益をもたらす個人の能力を発展させることが資源への優先的アクセスによって同時決定されると資源主義者は認めている(Pogge [21, pp. 27-28])。

このようにポッゲはセンの批判に対してロールズの社会的基本財を擁護している。だが、Berges [1] は洗練された資源に対しても批判している。両者の議論は以下の二つの論点を巡って展開される。第一の論点は、生まれつきの不利性についての補償とスティグマの概念に関わる。第二の論点は、資源の観点による分配がケイパビリティの観点からの分配のように人間の多様性を実質的に調整できるか否かである。
第一の論点に関して、Pogge [20, 21] は、ケイパビリティ支持者が暗に内的資源の平等を前提としているために、そこに至らない個人を劣った補償の対象とし、それがスティグマを生み出すと批判する。この批判に応じるため、Berges [1] は、アリストレスの見解に影響を受けたヌスバウムのケイパビリティは補償とは異なるものであると反論する。つまり、ケイパビリティのある種の閾値以上の水準に至るために行われる分配は、劣った存在への補償でなく、当人のケイパビリティの開花・開発のための正当な支援として位置づけられる。だが、この考え方がスティグマ問題を本当に解決したのかどうかについて本稿は疑問がある。
第二の論点に対して、ポッゲのような洗練された資源主義者は、資源へのアクセスに焦点を当てることによって、資源による分配を擁護している。この擁護に対するBerges [1]の反論は、女性教育が劣った価値とみなされる国々に住む少女にとって教育へのアクセスを実際上もつためにはケイパビリティの言説に参入する必要がある、と述べる。だが、本稿は、資源支持者がこうした事例でもセンシティブに対処できるという再反論の可能性を指摘する。
それでは(1)スティグマ問題と(2)資源概念から実質的達成への変換問題をどのように考えればよいのだろうか。まずはスティグマ問題を取り上げよう。本稿は、先のPogge [20, 21] の指摘にあったケイパビリティの議論における内的資源の平等化志向は適切な解釈ではないと考える。実際に、センはケイパビリティの平等が常に他のすべての重要な配慮に勝る「切り札」とみなす必要がないことを述べている(Sen [38, p. 295, 邦訳p. 423])。このことを説明するため、センは以下のような事例を挙げる(Sen [38, p. 296, 邦訳p. 424])。等しく医療・介護を受けた場合に、女性の方が男性よりも各年齢階層の死亡率は低くなり、長寿であることが知られている。このとき、単に長寿に関するケイパビリティの平等に専ら関心を寄せると男性の自然な不利性を相殺するために女性よりも男性のほうにより多くの治療を受けさせるという議論も成り立つが、同じ疾病に関して男性より少ない治療しか女性に受けさせないことは問題があると考えられる。つまり、ここでは長生きのケイパビリティの平等と治療の権利の平等が対立しており、ケイパビリティだけに着目しては適切に応えることができない。このようにセンにとってケイパビリティの平等は考慮するべき一つの項目に過ぎない。
他方で、内的資源の平等だけがスティグマを生じさせるわけではない。社会政策の議論が指摘するように、日本の生活保護に代表される選別主義的政策では、所得のような外的資源であっても受給者にスティグマが発生している。つまり、スティグマ問題は、内的資源と外的資源の選択、あるいは、ケイパビリティと資源概念の選択といった情報的基礎を巡る問いではなく、選別主義や閾値を充たすタイプの分配ルールに関わる。スティグマ問題は複雑であり容易に解決方策を提示できないことを認めた上で、本稿は選別基準や閾値水準の設定に対して人々が受動的にあることがスティグマを発生させる重要な要因ではないかと考える。だとすれば、こうした設定に関する社会的選択への人々の能動的な参画がスティグマ問題を解く手掛かりになるだろう。
次に、変換問題に移ると、本稿は、ロールズの見解、とりわけRawls [24] の見解を確認することが有益だと考える。Rawls [24, p. 169, 邦訳p. 294] では、社会的基本財がケイパビリティの問題意識を考慮していると強調している。だが、この言明において、人々のニーズは十分に類似していることが重要な背景的仮定となっている(Rawls [24, p. 170, 邦訳p. 296])。もちろん、実際には、こうしたある種のノーマルな人々だけが存在するわけでない。
ここで重要なのは、病気や事故によって最低限以下に陥った人々をどのように扱うのかである。例えば、ロールズの正義論において、医療ニーズのような特別なニーズに対する補償は、正義原理が体現とする社会の基礎構造において実施されるのではなく、後の段階である法律等を利用して補償すると想定されている。このことを理解するためには、ロールズの正義論における四段階系列、すなわち、原初状態における正義原理の段階、憲法段階、立法段階、司法段階の系列を説明する必要がある。四段階系列とは正義原理を諸制度へ適用するための概念装置であり、実際の憲法制定や立法過程を説明するものではない(Rawls [23, p. 176, 邦訳p. 272]。その要点は段階が進行するにつれて不偏性を体現するための情報制約的概念装置である無知のヴェールの効果が緩和されることにある。つまり、後続の段階にある意思決定の当事者はより多くの情報を入手して判断すると想定される。よって、ロールズは、こうした情報が入手可能な立法段階において保健医療提供制度や公衆衛生政策が検討されうると考えている(Rawls [24, p. 173, 邦訳p. 302])。
しかしながら、ロールズはより一層の困難事例において自身の「公正としての正義(justice as fairness)」が首尾よく拡張できるかのどうかわからないことを認めた上で、センのケイパビリティを公正としての正義に組み込むことが重要な課題になることを指摘している(Rawls [24, p. 176, footnote59, 邦訳pp. 390-391, 註59])。これに従うとすれば、本稿は対象となるニーズ問題に応じて資源概念とケイパビリティの相互補完性や組み合わせを追求する理路が有望だと考える5。
変換問題もスティグマ問題と同様に、変換に関する公共的判断を伴う評価作業の在り方が肝要である。その意味では、保健医療プログラムの経済分析でしばしば言及されるQALY は理性的な評価を回避した効用概念に基づくために弱点を抱えていると考えられる。続く4 節では、このQALY とケイパビリティを比較していく。

4.QALY とケイパビリティ

QALY とは医療行為がもたらす効用の指標の一つであり、クオリティ・オブ・ライフを考慮した生存年数の単位である。QALY では完全に健康な状態を1、死を0 とし、ある特定の医学的状態がもつ効用を1 から0 の間の値で表現する。そして効用値に生存年数を掛けた値がQALY 値となる。QALY を計算する際に使用される効用値は様々な医学的状態のシナリオを人々に示し、回答者たちがその状態をどの程度好ましいと評価するかによって得られる(浅井[39])。
例えば、二つのケースを選択する状況に直面したとしよう。まずケース1は、脳出血に対する救急治療であり、これは後遺症として半身麻痺が残るが10 年間生存できる。このとき、半身麻痺状態を0.7 と効用値で評価すると、QALY は0.7 × 10=7 となる。これによって、100 人を生存させると700QALY となる。仮に700QALY を得るために1 億円の医療費がかかるとすると、QALY 1単位あたりは1 億÷ 700=約14 万3000 円の費用となる。
次にケース2 は心臓移植手術である。効用値が0.9 と評価され10 年間生存でき、100人を対象とすると900QALY となる。仮に900QALY を得るために10 億円の医療費がかかるとすると、QALY 1単位あたりは10 億÷ 900=約111 万円の費用がかかる。
ケース1、2を比較して、資源は可能な限り多くのQALY を入手できるように配分されるべきであるとしてケース1が選択される。
こうしたQALY の利点として、第一に全く異なる多様な医療的介入のアウトカムを一単位あたりの費用で一元的に比較でき、第二に計算式も単純であり誰が見ても分かる数値比較で医療的介入の効率性の判断が明示化され、第三にQALY に反対する立場の諸理論と異なり、一意の回答を導出することがある。
だが、QALY への限界・問題点を指摘する声も大きい。例えば、近藤[41] ではQALY値は測定値として信頼できるのか、つまり再現性があるのという問題を提起している。つまり、QALY 値計算における効用値は主に時間損失法(悪い状態で長く生きるのと良い状態で短く生きるのを比べ、どのくらいの時間の長さなら同様であるかを答えてもらい、それに基づいて効用値を算出する方法)や評価尺度法(線分の一方の端点を最高の状態、もう一方の端点を死と想定して、いろいろな状態ごとに、その状態の効用がどれくらいに位置するかを評価してもらう方法)を用いて測定されるが、同一回答者を対象にしても測定法によって当該状態に対する効用値が異なる場合がありうる。
また、橋本[45] は、仮に何らかの方法で得られた個々人の選好やQOL 評価に基づいた効用値が信頼に値するものであるとしても、それらを集計した「社会的な効用値」として社会全体の効用を示す指標とみなし医療資源配分に用いてよいのかという疑問を呈している。
さらに、QALY の基本的な考え方は費用便益分析に基づいているが、Sen [35] は主に以下の五つの点から費用便益分析を批判的に検討している。第一に標準的な費用便益分析は「完備性(completeness)」を要求するが、センは自身のこれまでの研究で利用している非完備的である部分順序や広義の帰結的評価のほうが有益であるとして批判する。第二に標準的な費用便益分析における加法性を測定問題の観点から批判している。第三に標準的な費用便益分析における価値判断の問題を基本的/非基本的判断の枠組みから批判している。第四に標準的な費用便益分析が動機、権利、自由の観点を無視していると批判している。最後に標準的な費用便益分析は貨幣中心の市場中心的な評価であると批判している。このように費用便益分析には多くの問題があり、それがQALY にも反映されている。
以上の三つの論点、すなわち、(1)測定値の信頼性問題、(2)集計問題、(3)費用便益分析の問題に対して、ケイパビリティはいかにして応答することができるのか。このことを考察する前に、先のケイパビリティと資源概念のように、ケイパビリティとQALYを組み合わせることを指摘したい。実際に、Cookson [4] では効用ベースでなく、ケイパビリティ・アプローチをQALY に応用することを検討している。他方で、QALY に代替する新たに健康政策・公衆衛生の規範理論的基礎概念として、ヘルス・ケイパビリティを提唱するRuger [27] がある。こうした二つの見解を踏まえ改めてQALY に対するケイパビリティの理論的優位性があるのかを論じるために、先の三つの論点を考えてみよう。
まず測定値の信頼性問題について、もしケイパビリティの測定をアンケート調査などの主観的な回答のみに基づく統計データをそのまま活用した場合にQALY と同じ弱点にさらされる。ただし、先のケイパビリティの独創性に照らせば、理性的な評価が重要な役割を果たすために、こうした主観的な回答のみに基づくケイパビリティの測定はあまりに大雑把な近似的な手法して却下されるだろう。他方で、仮にケイパビリティの測定が何らかの熟議的な営みに基づいたとして、その結果に再現性を期待することは困難であると考えられる。しかしながら、再現性があるという意味での信頼性は担保されなくとも、熟議という手続きを通じたケイパビリティの測定は正統性を調達することができ、このことが信頼性の機能的代替となりうるかもしれない。
あるいは、人間開発指数のようなある種の操作化された指数によって信頼のおけるケイパビリティの測定が実現されうるかもしれない。この方向性では、計量経済学的手法との接続を企図するKuklys [12] 等、ファジー集合理論の応用を試みるChiappero-Martinetti [2]やLelli [14] 等などのケイパビリティの実証研究の進展に期待がされている。こうしたケイパビリティの指標問題は集計問題とも密接に関係し、Dutta, Pattanaik and Xu [6]6のように集計関数の検討が研究されている。
最後に、費用便益分析について、確かにケイパビリティはそうした発想を拒絶するだろう。だが、そもそも費用便益分析が意図するようなケイパビリティの財源についても議論は不可欠である。この点について、Ruger [27, Ch. 7] の議論が参考になる。そこでは、医療経済学における医療保険の衡平性を援用した議論を展開している。さらに、より一般的なケイパビリティの財源を論じるために、税の衡平性を考慮した研究も重要になってくると考えられる。

5.ケイパビリティの再検討にむけた課題

本稿におけるケイパビリティの論点をまとめると、(1)スティグマと当事者の参画に関する問題、(2)公共的判断に基づく機能における変換問題とケイパビリティの評価問題、(3)ケイパビリティの測定・集計問題、(4)ケイパビリティの財源問題となる。ここでは、(1)と(2)に関連する事項を若干、補足的に述べていく。
(1)について、本稿はセンの「エージェンシー的自由(agency freedom)」に着目する。エージェンシー的自由とは、行為主体性・責任主体性を意味する「エージェンシー(agency)」として,自身の目標に追求する自由を意味する(Sen [32, Ch. 4])。これを政治的自由の行使と関連させて、自身のニーズ問題に関する社会的選択のプロセスへ参入させることを実質的に保障できれば、スティグマ問題は解決に向けて動き出すだろう。ただし、児童や知的/精神的障害を抱えるなど十分な選択能力を行使することができない個人についての難題に直面し、このことが残された課題となる。
(2)に関する公共的判断の定式化として、鈴村・後藤[44, 第8 章]、Gotoh, Suzumura and Yoshihara [11] が有力である。そこでの定式化は精密な数理的表現であるが、その要点は、当該社会で利用可能な生産テクノロジーや資源の初期賦存量、社会基盤、構成員の資源利用能力、私的選好から成り立つ経済環境を公共的判断の情報的基礎としているところにある。だが、鈴村・後藤[44, p. 288] の記述にあるように「このアプローチは、理性的反省や公共的討議を経て個人の公共的判断が形成されるプロセスを強調するセンの重要な観点を補足できていない」とあり、異なる着想に基づく研究が必要とされている。
続いて、(2)に関するケイパビリティ集合を評価する五つの方策を検討しているComim [3, p. 165] の議論をみてみよう。それらは、すなわち、(i)最も価値のある要素自体の価値によるもの、(ii)要素数、(iii)最大値要素x と当該集合の最大値要素数n を組み合わたもの、(iv)最終的に選択されたオプション、(v)ベーシック・ケイパビリティ集合に関するアプリオリな定義によるもの、である。まず、(ii)は即座に否定される。なぜなら、Sen [32, p. 62, 邦訳p. 94] でのケイパビリティの重要な側面である自由概念の論述を見ると、より多くの選択肢を持つことと当該個人にとっての自由の拡大に直結しない可能性を指摘しているからである。次に、(iv)について考えると、これはSen [33 pp. 201-202, 邦訳pp. 224-225] において「選択型適用法(choice application)」と呼ばれるものに該当する。この発想は先述した自由概念を適切に捉えることができない可能性がある。なぜなら、自由とは実際に選択されなかった選択肢にも固有の価値を賦与するものである。それゆえに、本稿は(iv)を採用しない。続いて、(i)と(iii)を検討しよう。これらはSen [31] での要素的評価法とその拡張的変種である。いずれも個人の評価関数における最大値、あるいは追加して要素数によって判断するものであるが、これらも最大値に達しないものの重要な要素の存在を組み入れることはできていない。最後に(v)を考えよう。ベーシック・ケイパビリティの構成する一連の機能リストは単に量的な側面のみではなく質的な側面を考慮しているため、Sen [33 pp. 201-202, 邦訳pp. 224-225] において「オプション型適用法(option application)」―人々がいかなるオプション(選択肢)をもっているかに焦点を当てる―と呼称された手法の理想型と言える。さらに、かかる機能リストに「反実仮想的選択(counterfactual choice)」―もし選択可能であれば選択したであろうと思われる選択―に関連する機能を組み入れることも可能であるという(Sen [32, p. 67, 邦訳p. 98])。しかしながら、「アプリオリな定義」の妥当性に疑問が生じる。
この点に関しては、先のケイパビリティのリスト論争に関わる。ケイパビリティのリストについて、ジェンダー不平等を査定するためのケイパビリティ・リストの選出を論じているRobynes [25] では、ケイパビリティ・リストの選出のために、(a)明確な定式化、(b)方法論的正当化、(c)文脈への鋭敏性、(d)一般性への異なる水準、(e)要素における相互排他性と非還元性、といった五つの基準を提案している。これらの基準に鑑み、さらに、先行研究の精査、ケイパビリティの利用目的に照らした実証調査の参照等のステップを経る必要があるという。もちろん、これが決定打ではないので、さらなる研究が待望される。
最後に、本稿が指摘したい新たな論点を述べよう。(1)の論点で言及したケイパビリティの平等と関わるが、ケイパビリティの分配を考える上では、平等とは異なる衡平性に依拠した分配ルールの設計が一つの課題となりうる。このことは、健康政策・医療経済学において研究が進展している健康の衡平性が手掛かりになると考えられる。以上をもって、ケイパビリティの再検討のための今後の課題の一部としたい。


1 以下におけるケイパビリティの説明は、村上[46] を基本としつつ、Sen [31]、鈴村・後藤[44]、後藤[42]を参照とした。
2 ここで、中心的ケイパビリティは、ベーシック・ケイパビリティとどのような関係があるのかという疑問があるかもしれない。まず、管見の限り、センはベーシック・ケイパビリティに対して明確な概念規定を与えていないと思われる。これに対して、ヌスバウムにおけるベーシック・ケイパビリティとは、ある種の追加的な分配条件のもとで、より高度な機能レベルを達成するための訓練されていない自然本性的ケイパビリティのことであるという(Nussbaum [16])。神島[40, p. 79] の見解を踏まえれば、リスト作成を問わず保障すべき最低限のベーシック・ケイパビリティを発展させて、政治的共同体が保障するべきリストを想定したものが中心的ケイパビリティであるといえるだろう。
3 以下の3節前半の記述は、Murakami [15] を基本として加筆修正している。
4 該当箇所の邦訳を参照しつつ、訳文は変更している。
5 例えば、こうした理路に近いものとして、機会概念を導入して健康政策の規範理論の議論を行っているDaniels [5] がある。他方で、社会的基本財をケイパビリティに代替した場合、はたしてロールズの正義論が成り立ちうるのかどうかについては後藤[43, 第12 章] を参照せよ。
6 同論文を解説しているケイパビリティ・アプローチのサーベイ論文であるSchokkart [28] も参照せよ。

参考文献
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