第3部 論文 アフリカの都市に暮らす障害者の生計とケア――カメルーン共和国の首都ヤウンデを例に

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論文

アフリカの都市に暮らす障害者の生計とケア――カメルーン共和国の首都ヤウンデを例に

戸田美佳子

はじめに

 アフリカ研究のなかで、障害(者)に関する研究が主題となってきたのはごく最近のことである。変容しつつあるとはいえ、依然として「共同性」や「相互扶助」が重要であるアフリカ研究のなかで、障害者をはじめとする扶助の必要な人々は等閑視されてきたことは確かだろう。それに対して、西(2012)は、アジア・アフリカ諸国の地域社会に展開する対面的なケアの諸実践を、人間の生存を保障する地域社会のレジリエンスとして考察し直している。そのなかで、生態人類学や農業経済学において提示されてきた狩猟採集民社会における「シェアリング」や、焼畑農耕民における「平準化」、そして流動的なアフリカ農民による土地アクセスの「非排他性」と「社会的なネットワーク」を、彼らの生産や消費活動の共同性と同時に、ケアを支える生存維持基盤として再評価している。ただし西の指摘は、伝統的な相互扶助の実践がアフリカ人の生存を無条件に支えているという素朴な共同体論に与するものではない。松田(2000)は、「部族」共同体の相互扶助という言説が実際は成り立たないことを指摘しつつ、ケニアのマラゴリ人が、相互排他的な人間分節を「よそ者」から「身内」へ変換する装置を生み出し、互助を実践していく状況を記述している。また戸田(2011)は、農耕民社会や狩猟採集民社会、すなわち共同性を主な関係性とするような地域社会を舞台に、身体障害者の生業活動の場面におけるケアを分析し彼らと周囲の人々の間の親密性は、長期的でも安定的でもない関係のなかにも形成されていくことを明らかにしている。このようにアフリカでフィールドワークを行った研究者たちは、彼ら障害者は物理的な困難を抱えていることは事実だが、だからこそ相互の関係のなかで生きているという姿を提示している。ただし、これまでのアフリカ農村社会を中心とした議論では、地域社会を超えた「社会」において、どのように障害者と他者が関係を紡ぐことができるかという問題が残されている。都市や町において、見ず知らずの人に対するケアは可能なのであろうか。
 そこで本稿では、カメルーン共和国(以下、カメルーン)の首都ヤウンデ市を舞台に、共同体とは言い難い、流動的で多様な生活背景をもつ人々が集まる都市、つまり複合社会において、障害者は誰を頼りとし、どのように生活を成り立たせているのかを考察していく。

第1節 首都ヤウンデ

 首都ヤウンデは、中心地が標高750m前後で、年間をとおして23度前後と、カメルーンのなかでも暑すぎず寒すぎず過ごしやすい地域である。それはヨーロッパから来た植民者にとって心地いい気候であった。それ故、ドイツ軍の駐屯地として発展してきたヤウンデは、フランス統治時代の1921年に、港湾都市ドゥアラから代わって、正式に首都に定められた。
 今日、ヤウンデの町なかは、いたる所で露天商が立ち並び、行商人や買い物客が行き交い、活気に満ち溢れている。トヨタ製のセダン車に黄色の塗装をした色鮮やかな乗り合いタクシーや、2007年に導入された中国製の路線バスが走り回り、朝方と正午、夕方には慢性的な交通渋滞ができる。このように、ヤウンデはまさに都市的と言える空間が形成されている。背景の異なる雑多な人々が集まってくるところ、カメルーンのなかでも国家やその対抗概念である市民社会という枠組みが最も強固に現れるところが、首都ヤウンデである。
 2005年の国勢調査において、ヤウンデ市の人口増加率は今なお6.8%を維持し、総人口は180万人を越えている(3e RGPH 2005)。

(1)ヤウンデ居住者の生活世界
 カメルーンは、ギニア湾に面する中部アフリカの国家である。北から北東はチャド共和国、東は中央アフリカ共和国、東南部にかけてコンゴ共和国、南部の赤道地帯は赤道ギニア共和国とガボン共和国、そして西はナイジェリア連邦共和国と国境を接する。北部のステップからコンゴ盆地へと広がる熱帯林といった多様な自然環境をもち、250を超えるエスニック集団が存在する。イギリスとフランスによる分割統治と再統合の経緯から、ナイジェリアと国境を接するカメルーン西部が英語圏、その他がフランス語圏とふたつにわかれており、大多数を占めるフランス語話者の政治的優勢が続いている。そのことから旧英領の英語話者の政治的不満が強く、また北部のムスリム(イスラーム教徒)勢力と南部のクリスチャン(キリスト教徒)の不調和など、さまざまな国民統合の問題を抱えている。
 「ミニ・アフリカ」と表されるカメルーンのなかで、首都ヤウンデはこの国を集約したような住民構成と生活空間を形成している。それ故に、国家が抱える、北部のムスリム(イスラーム教徒)と南部のクリスチャン(キリスト教徒)、フランス語話者と英語話者の不調和といった問題もまた、彼らの生活のなかで内在化している。
 ヤウンデに暮らす人々にとって、典型的な「ヤウンデ人(Yaoundéens)」とは、フランス語話者のキリスト教徒である。このようなヤウンデ人と対比して、カメルーン北部のアダマワ県以北の出身者を「北部人(nordistes)」と、英語圏地域(北西部州と南西部州)の出身者を「アングロフォン(anglophone)」と、ひとつのエスニック集団のように呼ぶ。ただしヤウンデに居住する人々にとっては、「ヤウンデ人」も「北部人」も「アングロフォン」も同じ都市空間を暮らす者同士なのであり、人々はエスニシティや宗教、言語グループ間の差異に配慮しながら生活を営んでいる。
 例えば、次に挙げる事例1は、私が友人と首都ヤウンデで、日本とカメルーンが同じ予選グループで対戦した2010年のワールドカップのテレビ中継を観戦していたときのことである。

事例1:ムスリムとクリスチャンが集う公共空間
 ムスリムが主に居住するカルチェ・ブリケテリェ(ブリケテリェ地区)の一画にある道路沿いに、牛肉やヤギ肉、ヒツジ肉にスパイスをまぶし串にさして焼いた「ソヤ(soya)」を売る名物屋台がある。この屋台で働くのは、近所のカルチェ・ブリケテリェに暮らすハウサのムスリム男性たちである。ソヤ売り場の前には絨毯がしきつめられた場所があり、午後3時を過ぎると、そこでお祈りが始まる。買い物客はできるだけこの時間を避けて訪れる。ここには、イスラーム教徒もキリスト教徒も私のような「白人」もこぞって買いにくる。
 2010年6月19日、私はムスリムの友人に誘われて、この屋台でスクリーンに映し出されたサッカーのワールドカップ、カメルーン対デンマーク戦を見に来ていた。図1は、その時の様子を写真に撮ったものである。そこにはスクリーンの試合を間近に観戦するキリスト教徒(奥)と絨毯に寝転がりながら見るイスラーム教徒(手前)がいた。スクリーンを持ってきたのは、ソヤ売り場の奥にバーを構える店主である。スクリーン手前がお酒を飲めるバー、垣根を挟んでお酒の飲めないエリアが広がる。ただし禁止事項などが明記されている訳でも、この場所に入る時に注意されるわけでもない。ヤウンデ市民はそのルールを聞かずとも身につけているのである。
 その日、後からやってきた客の一人が間違って、酒禁止のテーブル席で、「カステル」(ビールの銘柄名)とビールを頼んでしまった。近くに座っていたムスリムが、「ここは飲めない場所だよ」とたしなめる。奥から「酒はこっちだろ」と呼ばれ、席を空けるためにスクリーンの前に座る人々がさらにぎゅうぎゅ詰めになって座り直した。絨毯にねころがって近所のムスリムが冷静に観戦するなか、酒の入った客やムスリムの若者たちが歌い、叫び、熱気をもって応援をしていた。(2010年6月19日、ヤウンデ・ブリケテリエ地区)

 このようにヤウンデでは、宗教が異なる者同士が、同じ都市空間のなかで、互いに配慮をしながらともに暮らす術を身につけ、生活を成り立たせている。異質性を持ちながらも共存する複合的/重層的な社会を生きる人々のハビトゥスが、日常の風景として垣間見える。

図1カメルーンv.sデンマークの試合を観戦するヤウンデ市民(2010年6月19日、首都ヤウンデ市カルチェ・ブリケテリェ、筆者撮影)【省略】

(2)都市に集まる障害者
 首都ヤウンデは、行政の中核都市であり、全国を走る幹線道路の基点でもある。現在の幹線道路網と鉄道網はヤウンデを起点とし、西部州からヤウンデを通り北部州へと続く道路、ヤウンデから東部州をまたぎ中央アフリカ共和国まで続く道路、大統領の出身地である南部州への道路、そして経済の中心都市ドゥアラがある沿岸州へと続く道路が放射状にのびている。
 1970年代に、カメルーンの南北を走るカメルーン鉄道が、ヤウンデからカメルーン北部のサバンナ帯へと路線が伸びたことによって、ヤウンデは森林とサバンナを繋ぐ新たな都市へと成長してきた。このことは、障害をもつ人々がヤウンデに行くことを非障害者以上に容易にしてきた。なぜなら、カメルーン鉄道が障害者料金を設定しており、障害者は事実上、交通費を払わずに移動ができるようになったからである。
 また、ヤウンデは行政の中心地であり、民間団体やミッショナリーの本拠でもあるため、障害者のための医療施設や教育提供の場が集中している。全国にある障害者施設の数は55と多くないが、ヤウンデにはその4割を占める22施設――リハビリセンター兼義肢装具製造施設(私立2施設、公立2施設)、身障者特別支援学校(私立1校、公立2校)、ろう学校(私立1校)、精神障害者学校(私立3校、公立1校)、視覚障害者学校(私立6校)、職業訓練(私立2校、公立2校)――がある。
 このように、首都ヤウンデは国家制度やミッショナリーの慈善事業の影響を全国で最も強く受ける地域である。そうした都市にある障害者施設が、地方から、医療や教育の機会を求めてやってくる障害者を都市に集まらせてきた★1。その結果として、障害者同士が連帯し合うアソシアシオン(障害当事者団体や 経済互助組織)も盛んになっている★2。また、ヤウンデの都市機能や交通機能が、障害者の移動性を高めてきた。
 都市の多くの障害者施設は、欧米諸国の医師団やミッション系の慈善団体によって設立されている。そのひとつに、リハビリの指導を受けられ、補助器具を自ら作るのを学べる、複合機能をもった施設のような障害者学校がある。そのような学校の盲学級を覗くと、脚に障害をもつ先生が松葉づえを使いながら教鞭に立ち、近所から通う障害のない生徒と一緒になって、目の見えない生徒が点字ボードを使い学んでいた。
 ここで、その学校で、精神障害児学級の先生をしているひとりの女性、マダム・シャンタール(仮名)を紹介したい。彼女は、授業の合間でさえビールを飲むような豪快さをもち、なにより人を巻き込む力のある女性であった。そのような見かけとは別に、彼女の知り合いはみんな、彼女を「マダム」という称号をつけて、一人前の女性として接する。

事例2:精神障害児学級の先生をしている地方出身の女性身体障害者
 マダム・シャンタールは、1964年にガボンとの国境近くの南部州の村で生まれた。幼少期にポリオを患い、当時は何が原因であるのかがわからずに、祈祷をはじめとする民間療法を幾度となく続けたという。母親が、一向に良くならない彼女を連れ出して、首都の国立リハビリセンターを訪れたのは発症から10年以上もたってからだった。
 首都に障害者リハビリ施設ができたのは1970年代、彼女の病気の発症と同時期である。電気もない村に情報がすぐに伝わることはない。治療が遅れたのは仕方がないことだったと彼女は話していた。その後、補助器具を手に村に戻った彼女は、学校に通い始めた。そして、イタリア人神父に、ミッショナリーの障害者学校で教壇に立つことを勧められた。今、彼女は家庭の事情で離れて暮らす施設の児童や同郷の少女、そして実の娘といった人たちと、多い時は総勢12人で平屋建ての家に暮らしている。夫はいない。彼女が産んだ娘の父親は、数キロの豆を残して出て行ったきりだ。一夫多妻が珍しくないカメルーンにおいても、男性から結婚を申し込むことができても、女性からは要求できない。それもカメルーンの現状だ。
 マダム・シャンタールは、一人暮らしをしようとアパートを探していた私に「(筆者が)都市では一人で暮らすことができると思っているでしょう。でもね、私たちは都市だから一人で暮らさないんだよ」[2007年10月]と話していた。彼女の日常は、私には自由気ままにもみえる。平日は、授業が終われば、学校の隣に住む友人(女性障害者)の店で、仕事仲間とつけでビールを酌み交わす。女性障害者とアソシアシオンもしていて、お金に余裕がある時は、土曜の昼間も会合の後に飲みに出かける。そんなマダム・シャンタールのもとに、同居する子どもたちが授業を終えて買い物のリストを聞きに来る。子どもたちはついでにお菓子を買いたいとねだることを忘れない。
 マダム・シャンタールは、確かに同居する子どもを養い、見守っている。一方で、子どもたちのなかで買い物に行く者や、料理する者、掃除する者がいる。毎日二回、マダム・シャンタールの水浴び用に、近所の共同利用の井戸から水汲みをして、バケツに入った水をトイレに運ぶ。運動障害をもつマダム・シャンタールにとっては、水汲みも毎日の距離のある市場への買い物も困難である。その点では、子どもたちがマダム・シャンタールの日常のケアをしていることになるだろう。しかし、カメルーンでは家長が身体を洗う時は子どもや妻が用意をするものだし、子どもにとって買い物は好んでおこなう活動だ。家長としての役割を演じるマダム・シャンタールのケアは、障害者のためだけのケアではなく、そのような説明が可能とも言える。
 2007年8月15日のカトリックの聖母被昇天祭に、彼女と一緒に暮らす子どもたちの就学祝いをしていたときのことである。彼女は、集まった人々に「私の子どもたちは村が違う、宗教が違う、でも一緒に暮らすことができる。私たちは家族になることができる。」と挨拶をした。その場には、同じ女性障害者団体のメンバーのムスリム女性や施設のムスリム技師、近隣住民も来ていた。
 彼女は自らが産んだ娘以外にも、施設に暮らす子ども、同郷の少女を育ててきた。彼女が面倒見のいい女性だからこそ、マダム・シャンタールと呼ばれている。(2007年8月から10月、ヤウンデ市)

 このように、一般的には社会的な障壁によって社会参加を阻まれている女性障害者ではあるが、彼女たちはミッショナリーを活用し、新たな社会関係を築き上げるなかで女性の障害者運動も盛り上げている。このような障害者自身による活動が、1970年代には10にも満たなかった全国の障害者団体の数を、2006年には都市を中心に110を超すまでに押し上げてきた。彼女たちにとってアソシアシオンは、国家やドナー機関からの資金援助の受け皿や互助組織という側面もあるが、それ以上に人生を分かち合う仲間が集える場という意味がある。
 ヤウンデの町には、ヤウンデで生まれ育った障害者と同じか、それ以上にさまざまな経緯で集まってきた障害者がいる。彼ら障害者は生活の糧とケアを確保する過程で、ヤウンデという都市空間のなかで集団化し始めている。医療サービスやミッショナリーの働きかけで都市を訪れた障害者は、障害者施設を中心とした特定の空間に「集う」ことによって構築された人々である。

第2節 都市生活者の職

 ヤウンデには、さまざまな職種がある。公的機関に雇われる公務員や公立/私立学校の教師、タバコ会社やビール会社などの私立企業の事務職といった正規雇用職に加え、庭番や門番、守衛、家政婦などのサービス業、製材所や工事現場での日雇い労働、学童期の子どもや若者を中心としたタバコ売りなどの露天商、市場で農作物を売る女性商人といった小規模自営業といった職がある。都市の小規模な自営業を、カメルーンにおいてもインフォーマル・セクターと言う語で呼ぶが、この語は人々にはあまりなじみがない。代りに、彼らは「小さな仕事」を意味する「プチ・メチエ(petit métier)」という語を使う。プチ・メチエは、洗濯屋、靴修理屋、散髪屋、台車引き、新聞販売、古着売り、野菜売りといった、さまざまな職種を含む。それらは、カルチェ(庶民の居住区)に暮らすヤウンデ市民のほとんどが営む生業である。
 2007年7月から2012年3月の期間に、私が直接、首都ヤウンデで話を聞いた計286人の障害者の職種を表1に示している。表からわかるように、ヤウンデに暮らす障害者には、サービス業を提供する場や公的な場、民芸品や服の仕立てなどのものづくりの場、電話貸しなどの町中の路上空間など都市インフォーマル部門を中心に、身体の活動が許す限り、職業選択の範囲は広がっていた。その中で最も多く特徴的だった職(121人/286人)が物乞いである。

(1)被雇用職
 まずは被雇用職から説明していこう。障害者問題を管轄している社会問題省には障害者の採用枠がある。実際に、ろうの男女の二人と、運動障害をもつ車いすの男女4人が勤務している。ある30代の運動障害者N氏は、ヤウンデ大学社会学科の修士課程に在籍し、今、社会問題省のストリートチルドレン対策課の課長になっている。4階建ての建物にはエレベーターがないため、ろうの二人が4階の総務課でタイピストとして働き、車いすの4人は一階の事務所で働く。課長になったN氏はよほど優秀なのであろう、毎年昇進をしていた。私が彼に会いに行くたびに彼の部屋名が変わっていた。通常は役職が変わるたびに配置転換のために勤務場所を移動するが、車いすに乗る4人が配置転換する際は周り(他の職員や物品)が移動していた。N氏の役職が変わるたびに、大量の資料と備品が彼の部屋に移される。動けるモノが動けばいいと言うN氏の説明は、ひとつの会社や役所が全体としてうまくやっていく方法はいくらでもあることを説得力をもって体現しているようだ。
 このような公的機関以上に多い被雇用職として、事例2のマダム・シャンタールのようなキリスト教・ミッショナリーの学校の教師やソーシャルワーカーといった慈善団体に関連する職が挙げられる。
 以上のように、公的にも私的にも、首都ヤウンデには、障害をもつ人々に優先的に機会が与えられる職がある。

表1 ヤウンデ居住障害者の職種1) (N=286人)【省略】

(2)小規模自営業:都市雑業としてのプチ・メチエ
 ヤウンデにはエスニック集団ごとに分業化された職が残っている。そのなかには、身体の所作や技能ではなく、個人の持つ人脈や出自といった特性が参入の足がかりとなるものがある。

事例3:都市のエスニック集団ごとの職
 通称カルチェ・ハウサと称されるハウサ居住区に立ち並ぶ精肉販売店や焼肉屋の屋台の従業員は、決まってハウサである。そこでは、片下肢マヒや弱視のハウサが精肉販売(boucher)を営んでいた。(2011年9月)
 また食糧品販売は、生産地との関わりのある地元農耕民エトンの女性が営む。そのなかには、車いすに乗った小売商販売員がいた。(2011年9月、ムフンディ市場)

 事例3のようなエスニック集団に限った職には、親族関係やエスニック関係、村との繋がりが生業の基盤となる。ただし、経済的階層の差が広がりつつあるヤウンデにおいては、このようなエスニック集団ごとの分業は薄れつつある。それに対して、誰もが参入できるような都市雑業としてのプチ・メチエはますます拡大している。

事例4:都市にあふれるプチ・メチエ
 出生届や婚姻届を届出る市役所の前には、書類のコピーを取るためだけのコピー屋、ラミネート加工するラミネート屋が露店を連ねる。町中のあちこちにいるコール・ボックス。その横には、はんだごてを使って携帯電話の基板を修理する修理屋がいる。
 高級ホテルや外資系スーパーの前では、CFAフラン(カメルーンの現地通貨)からユーロやドルに通貨を両替する非正規の両替商がいる。彼らは、外国人に割高でCFAフラン売りつけることを目的にしていると言うよりは、ユーロやドルを大量に手に入れるのが狙いである。町中の両替商にはグラン・パトロンがいる。カメルーンにおいて、正規でユーロやドルを手に入れるには銀行に行く必要があるが、その手数料が高く、銀行口座がない限り両替は難しい。海外に直接、品物を買い付けに行くカメルーン人が増え続けるなかで、ユーロやドルといった外貨は魅力があるという。
 某有名ホテルには常時4人の両替商がいるが、その内2人は車いすに乗るバミレケ青年と地元のエトン青年であった。そして外資系スーパーの前でもまた、松葉づえをつくフルベが両替商を営んでいた。(2009年3月10日、ヤウンデ市中心街)

 以上のような、町のラミネート屋や携帯修理屋、違法な両替商といった市場経済のなかの隙間産業は、都市に暮らす人々が生み出すものであり、他にも携帯をもつことができた人、品物をまとめ買いできるようなまとまったお金が持てた人、そして路上空間などの場所を共有し合える人との繋がりがあれば参入することが可能なプチ・メチエは限りなくある。
 ヤウンデにおいて、プチ・メチエが複数存在することは、個々の障害者の特性に応じた参入を可能にする。ただし、それだけでは見ず知らず同士が肩を並べあってプチ・メチエを営み、そこで障害者もともに生業を続けていけることの、十分な説明にはならない。そこで実際に、プチ・メチエがどうように成り立っているのかを記述してみたい。

事例5:プチ・メチエを細分化するデブルイヤー(débrouillard)★3
 カルチェ・ティンガの市役所周辺には、屋台、店舗のあるコピー屋と露天のコピー屋、ラミネート屋のほかに、書類作成を手伝う者や何でも屋などがいる。そのなかに、下肢のマヒをもつラミネート屋がいた。彼は、基本的にずっとパラソルを設置したベンチに座って一日中ラミネート加工をする。パラソルやベンチの設置は、市役所の周りにいる何でも屋に頼む。ラミネートに必要な材料はプラスチック販売の行商人が売りに来るのでその時に買っている。電源は、コピー屋から引き、隣のラミネート屋と共同で利用する。そして、仕事が終われば乗り合いタクシーに乗って帰る。

 デブルイヤーのなかには、細かな部品の違いを判別し、かつどの市場のどの区画になにが販売されているのかを知りつくした目利きがいる。電化製品や携帯電話を修理する者は、自らその部品を買いに行くこともできるが、彼ら目利きに任せた方が、仕事がスムーズにいくことがある。運動障害があったとしても、デブルイヤーに任せて、携帯電話の修理を続けることができる。このように、細かくプチ・メチエを分業化することで、新たなプチ・メチエが創出されていく。ひとつのプチ・メチエは他のプチ・メチエを基盤として成り立っている。そのなかで、機能障害をもつ人がプチ・メチエを続けられるのは、このような町中のデブルイヤーの存在が利いている。
 このように、都市におけるプチ・メチエの複数化と、そのすきま産業の細かいまでの分業化、そして町に溢れるデブルイヤーが、都市に生きる障害者の生業のための第一の資源となる。

(3)障害者の生業に関与する制度的支援
 ここまで、障害者が生業への参入を可能とする資源として、ヤウンデにおいてプチ・メチエが複数存在し、分業化されていることを指摘してきた。ただし、都市には、制度的な支援も存在している。
 障害者に対する直接的な公的支援として第一に、前述したような障害者雇用制度による公務員職や、キリスト教系慈善団体における福祉的就労などがあげられる。ただし、このような直接的な雇用支援以外にも、障害者の生業に結びつくものがある。そのひとつが、障害者のための交通費割引制度である。

事例6:ハチミツ売りの女性障害者
 ヤウンデ市北西部の山々の麓では、毎週土日の朝にスポーツ愛好家のヤウンデ市民や外国人がジョギングをする。カメルーンは国を挙げてスポーツを奨励しており、無料で身体測定や血圧を測ることもできる。朝6時になると国際会議場に複数のインストラクターがヤウンデ市民に無料で柔軟体操やランニングの指導をしている。ジョギングのルートは、国際会議場から標高1073mのフェベ(Febe)山が一般的である。このルートには、裕福層をターゲットにした、オレンジ、リンゴなどを販売する露天商が立ち並ぶ。物乞いをする視覚障害者も多数いる。これらの露天商のなかに、同伴の娘を連れてやってくる折りたたみ車いすに乗った女性がいた。
 首都ヤウンデに暮らす彼女のプチ・メチエは、カメルーン北部の鉄道沿線で売られるハチミツを首都で転売することである。彼女がハチミツをヤウンデ市で販売できるのも、カメルーン鉄道に障害者料金が設定されているからだ。蜂蜜の値段が北部の原産地と首都ヤウンデでは1.5倍ほど違うため利益が出る。無料で乗れる鉄道で北部まで行き、鉄道のなかでハチミツを大量に購入する。(2009年9月、ヤウンデ市)

 カメルーンでは、直接、障害者の所得を補償するような公的給付は存在しないが、障害者個人は、障害者への減免などの制度を利用して、自らの商売へと繋いでいる。このような制度的支援も、障害者の生業のための資源のひとつとなってきた。
 ここまで公的支援もしくは社会福祉による制度的支援を説明してきたが、ヤウンデに暮らす人にとっては、家族からの仕送り、親戚や家族集団による所得保障に加えて、次に挙げられるような、エスニック集団や同郷と言った共同体による制度的な支援がある。

事例7:トンチンの配当金で露天商を始めたバミレケ
 ムスリムが居住するカルティエ・ティンガの初等・中等併設学校の前には、パンや雑貨を販売する露天商が軒を連ねる。そのなかに、結核による脊椎カリエスを抱えている30代のバミレケ男性がいた。彼は台車に雑貨を並べ、学生に販売している。彼が台車を購入できたのもトンチン(頼母子講)を続けてきたからだという。同郷のバミレケでおこなっているトンチンの受領金で台車を購入し、露天商のための初期投資が可能になった。(2009年9月、ヤウンデ市)

 以上のように、①公的支援と慈善的支援と、②共同体(家族、親族、同郷、エスニック集団)による、二つの支援が、障害者の生業を支えるようなもうひとつの資源として存在している。

(4)移住者が営む物乞い
 最後に、ヤウンデに暮らす障害者の仕事のなかで最も多く特徴的だった職であった物乞い(121人/286人)について紹介する。
 ヤウンデでは、物乞いをする障害者を日常的な光景として目にする。朝8時を過ぎ、路上に広げられたビニールシートの上に古着や古本が並べられ、タバコやお菓子、紙ナプキンを売り歩く人々の姿で溢れだすころ、物乞いをする者もまた手にプラスチック製のお椀をもち、活動をはじめる。交差点では、スケートボードのように台にコロを取り付けた乗り物に乗った少年が、行き交う人々にすばやく金銭を乞う。イスラームの集団礼拝がある毎週金曜は、モスクに続く参道にイスラーム教徒の身体障害者が列をなす。彼らは自らの目の前にプラスチック製のお椀を置き、路上に座す。
 この物乞いをする障害者の多くがカメルーン北部からナイジェリア北部に居住するムスリムであった。特に、ムスリムの1カ月未満の短期滞在者が全体の18%(22/121人)であり、「出稼ぎ労働」のような1年未満の滞在者は大多数の75%(91/121人)を占める。そしてヤウンデ滞在者(2人)以外は全て「リピーター」であった。イスラームの教えの核となる喜捨思想によって、彼らは堂々と喜捨を要求することができるのだろう。
 首都ヤウンデは、サブ・サハラと森林地域を繋ぐ都市として発展してきたために、彼らに対して寄付を施すムスリムがおり、彼らが寝泊まりできるイスラーム地区がある。これらの資源が、物乞いがヤウンデに集まる要因となっていると考えられる。このように、彼らは金銭を獲得することを目的とした循環的な出稼ぎ民と言える。
 ヤウンデにおいては、物乞いはイスラーム地区と、ストリートのふたつの空間で実践されている。ここでは、イスラーム地区における物乞いの実践をみてみよう。

事例8:イスラーム地区での物乞い
 イスラーム地区のティンガ・エロビ橋での生計活動は、橋をとおる通行人から施される金銭や商店主によって施される商品に基盤がおかれている。橋をとおる通行人のなかでも特に男性が、路上に置かれたお椀に現金100CFAフランほどをすっと入れる。物乞う人々と知り合いの場合は長い挨拶を交わし、時に世間話をした後にお金を渡す。現金に関しては少なくとも全員に回るわけではなく、そこには競争が働きうる。一方で、商店主によって施される商品は必ず全員に回るように、施す側が等分して配る。彼/彼女たちは、商店主からの施しの米やトウモロコシ粉などを小分けにして、その場で通行人に転売する。この場所に一日中いると、彼らは施しを乞うことより、商品を売ることに時間を割いていることがわかる。
 ここにいる物乞いは、ヤウンデ市内を何度も行き来きしている人々であるため、彼ら同士は顔見知りである。ここで一週間程観察を続けると、久しぶりの再会を喜ぶ物乞い障害者の姿を目にすることになる。村でよく見かける光景、久しぶりに帰ってきた家族や親類の再会を喜ぶ姿と同じように私には見えた。ただ実際には、彼らは同郷出身ではなく、この場所で出会った人々である。
 イスラーム地区の物乞いは家族連れが多い。物乞い女性に同伴する人の多くが、彼らの娘や息子、孫、姪たちであった。物乞い活動が実践される場では子どもの名前が飛び交っている。物乞いをしている親たちは「ラリサ、ちょっとブイ(トウモロコシ粥)を買ってきて」と買い物を子どもに頼む。「ラリサが今日、あそこでお金をみつけたんだよ」「アッジャが私の写真を取った」と子どもたちのおしゃべりが途切れなく響き渡る。そのためか、個々の物乞い女性は、「ママ〇〇」と呼ばれる。「最近隣の人いないね」と私が物乞い女性に話をすると「ママ・アイサトゥは村に帰ったの」との返事。「ママ・ラリサがこの間撮った写真を現像してきてほしいってお金をおいているよ」と、私にママ・アイシャが伝言をくれる。公共空間であるはずの道端で、親密圏の呼称が彼らや道行く隣人に用いられる。一方で、男性は本名や敬称で呼ばれる。
 同伴の少年少女は、昼間、自分たちだけで、ストリートに物乞いにいく。
 2010年2月24日、私は彼女らの母親たち(物乞いをしている女性たち)とティンガ・エロビ橋で話をしていると、9時10分に7人の少女がストリートに繰り出した。13時半、タクシーに乗って彼女たちは戻ってきた。彼女たちは母親には内緒だよと私にいって、一人1000CFAフラン(約200円)のお金を得たと成果を報告した。それが彼女たちの小遣いになる。
 ここは、物乞いをする場であるが、食事や清掃、洗濯物の依頼、そのお金の支払いといった日常もまた繰り広げられている。朝7時を過ぎ、カルチェの女性がアリコ(豆)とトウモコシ粉で作った粥を売りに来ると、彼らはお金を出し(100CFAフラン、日本円で20円程度)ここで食事をとる。その後はずっと、施されたものを転売しながら15時過ぎまで、世間話や髪結いをしながら物乞い活動を続ける。毎日15時15分になると、掃除をはじめ15時半から、女性は同じ路上にマットを敷き、男性はモスクに行って約10分間のお祈りをする。16時半を過ぎると、そろそろ物乞い活動も終わりに差し掛かり、帰宅の準備が始まる。イスラーム地区の物乞いは何より清潔である。彼らは週に3-4回、カルチェの洗濯屋に彼らの洗濯物を洗ってもらう。夕方には洗濯物が届き、彼らは代金を払い、子どもたちに家に運んでおくように頼む。日が落ちる18時過ぎに、彼らは別々に帰宅する。(2010年2月、ヤウンデ市ティンガ・エロビ橋)

 きれいに洗濯されたイスラームの衣装を纏った男女が物乞いをする風景が、イスラーム地区での物乞いの第一の特徴と言える。幼い子ども引き連れて施しを乞う姿は、自然と人々を惹きつける。これらは、イスラームの教えに根差した宗教的実践ではあるものの、制度化したものではなく、サダカと呼ばれる自由喜捨によるものであった。
 一方で、ストリートの物乞い活動の場は、商業街や官公庁街といった町なかであり、ムスリム以外のキリスト教徒も物乞いという営為に参入している。ここでは、積極的なねだり、もしくは身体的な傷口や自分の弱点をみせるといった彼らの巧みな駆け引きによって対面的な生業活動が生み出されている。ストリートの物乞いは、場所を共有するインフォーマル・セクターの活動者との双方的な関係を築き、警備員や警察官と衝突しないように渡り歩いていかなければならない。

おわりに

 首都ヤウンデの障害者の営みはさまざまである。障害者雇用制度を利用した公務員やキリスト教系ミッショナリーの先生、障害者料金に便乗する形で個人での商業利用するハチミツ売り、精肉屋を営むハウサ、トンチンによる配当金で露店をはじめたバミレケ商人、町中のデブルイヤーを活用して営むラミネート屋。
 このような都市における仕事/プチ・メチエは、都市に暮らす人々が生み出すものであり、それに参入できるかどうかは個々の障害者の手持ちの資源に応じて変化する。そういった資源をまとめると、以下のようになる。
1) 都市における、分業化と複数化したプチ・メチエ/多様化したすきま産業
2) 賃金労働
3) 町に溢れるデブルイヤー
4) 制度的支援
  -公的支援(障害者雇用制度/障害者の交通費割引制度)
  -家族や親族、同郷、エスニック集団による支援(仕送り/同居家族からの所得保障/エスニック集団による就労/互助講(トンチン))
5) 個人の特性
  -個人の持つ人脈(友人関係やパトロン=クライアント関係など)や出自(共同体における制度的支援と相関関係にある)
  -機能障害を含む個人の身体的特性
6) 周辺環境
  -交通網、鉄道網と交通機関(乗り合いタクシー、鉄道など)
  -都市空間(カルチェとヴィル)など、
 このように大きく分けて6つの資源がある。障害者の生業は、都市のなかで生み出される分業化した職を基盤に、個人の持つ人脈や出自といった個人の特性に加えて、さまざまな制度的支援等が組み合わさって実践される。こういった、手持ちの資源を活用し、時に組み合せて、生きていく為に何かを産出する/得る作業が「生業」であり、これに付随する相互行為として「ケア」が現れてくる。
 以上のように、首都ヤウンデという都市空間では、障害者の生業へと繋がる資源が多様化していることがわかる。このような都市構造が、個々の機能障害をもつ人々のプチ・メチエへの参入を進めてきた。物的な資源と人々の結びつきによって可能になる生業は、それを共にするもの同士の結びつきのなかで価値体系が共有されている点から、社会的に構築されていると考えることもできる。このような視点で、前述した彼らの生業を個々人の特性(出自など)から類型化すると、ヤウンデに暮らす障害者は大きく分けて三つのタイプが存在すると考えられる。
 ひとつめはヤウンデ生まれの障害者である。植民地型の新しい都市ヤウンデには、そこで生まれ育った世代は第三世代から第四世代までしかいない。カルチェ(庶民の居住区)に暮らす彼らの大半がプチ・メチエを営む。彼らは、次に記す移住者とは異なりエスニック集団にもとづく親族関係や地縁関係といった生活の基盤がある。彼らのなかには、エスニック集団による職能がある場合もある。一方で、カルチェで生まれ育った障害者は親類などの共同体による生活の基盤があるからこそ、ある意味で地域集団や家族関係の枠組みに縛られ、カルチェの日常に埋め込まれているようにみえる。彼らの存在は、カルチェの外からは不可視化されているようでもあった。
 ふたつめは、リハビリテーションを求めて都市を訪れ、その後、定住した人々である。障害を成員資格とするような集団性をもっているとともに、障害を介した関係性が住まう地域環境をも再編させてきた。彼らは、障害者同士やミッショナリー関係者で結ばれた特定の集団を形成し、障害者施設を中心とした特定の空間に「集う」ことによって生活の糧(生計)とケアを構築してきた。
 最後が、人や物が集まる都市へ、お金を求めに来た個々の移住者である。彼らの多くは、湿地帯などにあるカルチェのなかの安い家賃の家に暮らしながら、手持ちの資源を活用し、デブルイエ(臨機応変にその場を切り抜け、自力でやる)している人々である。そのなかには、身体的な障害を利用して生活の糧を得る物乞いがいた。このように、ヤウンデには物乞いをする身体障害者が多い。一方で、自分の障害を種にした物乞いに対しては、ミッション系NGO団体で働いている障害者などが「よくないことだ」と度々話題にのぼらせ、啓蒙活動をおこなっていた。2010年6月23日付の『Le Jour』紙において、ヤウンデ市当局と警察が、町中の精神疾患者、物乞い障害者など126人を尋問をしたことを報じられた。一時的な出来事であったが、国家によって都市部の物乞いに対する排除が実施された。それは、障害者の生活の糧となってきた物乞い活動への参入を、より制限しつつある。また、イスラーム教徒の物乞い障害者とそれ以外の障害者は、同じイスラーム地区で隣り合って暮らしているものの、ヤウンデで生まれ育った障害者は全くといって物乞いを生活の糧にしていない。そこから物乞いという生業が、固有の意味づけや文化的拘束のもとにおこなわれる活動であることがわかる。
 このように市井のレベルにおいても、国籍や宗教といった既存のカテゴリーに裏付けされた、障害者排除が起こる可能性もないとは言い切れない。しかし現在の市民の一般的な視線には、「この人たちはそういう人たちなのだ」という「区別」は存在するが、それは「差別」までには至ってないように思える。都市空間の対面的な関係性のなかでは、物乞いはよくないと言うキリスト教徒も、路上で対面した物乞いに金銭を施している。路上を共有する他のインフォーマル雑業を営むヤウンデ出身者は、物乞いを「プチ・メチエ(小さな仕事)する仲間」だと言い、物乞いをする者の家族は、物乞いで得る金銭を当てにして生活している。再度、「物乞い」という他者を必要とする対面的な営為を、彼らの日常のなかで捉えなおすなら、ヤウンデという複合的/重層的な社会で生活を営む人々は、社会的なカテゴリー化を日常に持ち込まないで生活する術を心得ているように私には思える。そうすることで、公共空間においても、人々は対面する者との関係を非拘束的なものとしてとらえ、反構造的な人々との交流の機会を確保しているのではないか。なにより、他者を活かすことで障害者も非障害者もその場その場で生業を実践している。障害者の生業実践とは、都市住民が敢えて周囲との関係性を考えないで、その場その場で創出する「いまここでの」「私とあなた」といった関係性がなせる技なのではないだろうか。

[注]
1 2005年のセンサスによると、ヤウンデには約125万人が居住しており、WHOの基準を適用すると12万の障害をもつ人々が暮らしていると推定される。現在、障害者問題を取り扱う政府の社会問題省が実態の把握を試みているが、実際の障害者数は未だにわかっていない。一方、ミッション系団体によって、ヤウンデに「地域に根差したリハビリテーション(略称CBR: Community- Based Rehabilitaion)」が、1999年からミンボマン地区(カルチェ・ミンボマン)を中心におこなわれている。CBRプログラムによると、ヤウンデの14地区にくらす障害者数は823人であり、そのうち、精神障害をもつ人々が94人、重複障害をもつ人々が95人であった。地方では精神障害や発達障害をしばしば病気と認識しているが、ヤウンデには精神障害者を対象とした施設があり、障害として対応している。
2 2006年の社会問題省の統計資料によると、カメルーンの障害者団体の数は117にものぼるが、その30%にあたる35団体がヤウンデを含む中央部州にある。
3 フランス語圏におけるインフォーマル・セクター従事者(プチ・メチエをしている人々)について、「デブルイヤージュ débrouillage / デブルイエ se débrouiller / デブルイヤー débrouillard」という概念が注目されてきた。野元(2001; 2005)は、「デブルイエ」は、(国や社会はあてにならないという諦めのなかでも)臨機応変にその場を切り抜け、自分でなんとかやっていくということの表現である。カメルーン人地理学者Bopdaは、ヤウンデのカルチェに暮らす人々を、いつかは裕福(rich)で立派な(grand)成功者になり、バストスのような高級住宅地に暮らすことを夢見て、デブルイエしている人として記述する(Bopda 2003: 325-331)。実際に、ヤウンデ住民にとって、「デブルイエ/デブルイヤー」は将来の職を得るための下済み生活をしている人々を指す言葉として認識されている。例えば私がヤウンデで障害者に仕事の話題をしている時に、数名から「私は今デブルイヤーだから(je suis un débrouillard maintenant)」と話していたし、あるヤウンデの知人は、私企業の運転手の公募に応募するために書いていた履歴書の現在の職業欄に、「デブルイヤー(débrouillard)」と書いていた。

[引用文献]
Bopda, A. 2003. “Yaoundé et le défi camerounais de l'intégration: À quoi sert une capitale d'Afrique tropicale?”. Paris: CNRS Éditions.
カメルーン統計局(Institute National de la Statistique du Cameroun: INS Cameroun): http://www.statistics-cameroon.org/(INS-EESI 1993, INS-EESI 2005, 3eRGPH(Recensement Général de la Population et de l’Habitat au Cameroun)2005)
戸田美佳子. 2011.「アフリカに「ケア」はあるか?─カメルーン東南部熱帯林に生きる身体障害者の視点から(特集 研究と実務を架橋する実践的地域研究)」『アジア・アフリカ地域研究』10(2): 176-219.
松田素二. 2000.「西ケニアの社会福祉─扶助と排除の政治学」仲村優一・一番ヶ瀬康子編『世界の社会福祉 11 アフリカ・中南米・スペイン』旬報社, pp.17-39.
西 真如. 2012.「熱帯社会におけるケアの実践と生存の質」佐藤孝宏・和田泰三・杉原薫・峯陽一編『生存基盤指数─人間開発指数を超えて(講座生存基盤 5)』京都大学学術出版会, pp.193-225.
野元美佐. 2001.「アフリカ都市のインフォーマル・セクター――カメルーン・首都ヤウンデの事例から」嶋田義仁・松田素二・和崎春日編『アフリカの都市的世界』世界思想社, pp.265-283.
野元美佐. 2005.『アフリカ都市の民族誌――カメルーン「商人」バミレケのカネと故郷』明石書店.

謝辞
本研究は、文部科学省・独立行政法人日本学術振興会科学研究費補助金(研究課題番号 18201046, 08J02877, 12J04424)の助成を受けて実施することができた。

生存学研究センター報告

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