第3部 論文 ナイジェリアのプライマリー・ヘルス・ケア対策に潜む特有の政治的問題

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第3部
論文

ナイジェリアのプライマリー・ヘルス・ケア対策に潜む特有の政治的問題

マリー・ラスト(近藤宏 訳)

 公衆衛生(public health)という用語はあるものを想定する。例えば感染症のリスクを減少させるために、ワクチンを準備したり、水、排水、廃棄物処理などなどの設備を整えることで――皆が利用可能な、地域の無料の診療所の維持には言及しないのだが、住民のあいだでの「不健康(ill health)」の発生を最小化することを優先順位の高位に置く、中央政府ないし地方行政の存在である。しかし、公衆衛生にそうした優先順位のないときには、例えば、その一方で教育がより意義のある投資とみなされているときには、何が起こるのだろうか? その時、公衆はいかに自らの「公衆衛生」をやりくりするのか?この報告で私が示すのは、ナイジェリア北部地域とは、すべてではないにしてもいくつかの地方自治体において、行政による公衆衛生が、衛生(health)に配慮するレトリックにもかかわらずほぼ失効することの、ひとつの実例である、ということだ。私が信じる限りでは、このことには妥当な理由があるものの、衛生対策を強調する政治に備わる問題、政治的なものがそこにありさえすれば、正常になりうる問題が存在する。もし初めの問いがこの問題がこれまでになぜ生じてきたかということであれば、続く問いはそれをいかに解決するか、ということであるに違いない。いいかえよう。これは一義的にはガバナンスと官僚的な機能不全の問題――いかに地域の衛生配備を効果的にさせるか?――なのだろうか、それとも、一義的には政治的、あるいは、より深い水準では、文化的でさえある問題なのだろうか?
 しかしまずは、私たちはより広い文脈を理解する必要がある。北部ナイジェリア、私がこの50年間調査してきた場所は、全国土が1961年にイギリスからの独立を果たした後、そのガバナンスを大規模に変えた。1966-67年という期間は、抜本的な改革期であった。ふたつの暴力的なクーデターが、安全と歳入確保(地方税を通して)に関心を向ける中央集権的で権威主義的な体制から、今日の36の州・774の地方自治体区画と新しい首都アブジャにある連邦政府からなる分権的政体へ、という長期間の変化を促進した。また別の重大な変化が歳入面で生じている。アブジャの連邦政府石油口座に、主要な石油企業から月ごとの支払いが入り、それからこの歳入が、州、地方自治体及び関係する別の諸機構に対して、ある公式に従い配分される。定期的に配分される金額は莫大で、3つのレベルの行政府が開発のために利用できる(あるいは望む)額以上であり、その額の多くが何らかの仕方で私物化されている。しかし金は、誰かが「稼いだ」ものではなかったために、まして重労働による市民の稼ぎから支払われた税金に由来するものではないために、ナイジェリア人が私に語るには、この現金の流れにはある種の非現実性がある。言説としての「開発」は今でも政策課題であるが、個人的な消費はより切迫している。テーブルに並ぶ現金の量を考慮に入れさえすれば、ふたつにかかわるひとつの基準ができる。政治は非常に高くつく仕事である。誰もが政治家には非常に寛大であることを期待する、そして住民は仕事、契約、声明あるいは重大局面での助力を求め、昼夜、平日休日を問わずその地方政治家を悩ませる。政治家が成功するためには、誇示される成功(そして、権力)によるできる限りの虚飾を利用し、名声を得たパトロンとならなければならない。すなわち、基本的には地方自治体の議員、さらには地方自治体の長であってもフルタイムの政治家でなければならない、少なくとも彼らに認められた職位の在任期間の期限までは(議長の場合、それは八年である)。誰もがその体制を腐敗と呼ぶ――そして確かに個人的にはおどろくべき規模で豊かになる、だがしかし、多くの実例においてそれは再分配の体制でもある。ある知事が週末の声明のために400万ナイラ(約3万米ドル)を必要とし、夫人も彼女の故郷に小旅行するためにも同じ額を必要としたとき、秘書は金曜の午後に首都を走り回り、その額を用意しなければならなかった――もちろん現金で。つまり、これこそが、地方の衛生事業に関するこの報告が配置される文脈である。通常より上流の農民や交易者、また田舎や大都市の「スラム」の深部から離れたその家族は、現地の文脈においては例外的な規模の富にアクセスできる特権階級である。目につくのは、いかにふたつの環境が衝突しないのか、ということだ。彼らは、平和に互いのそばを通りすぎる。しかしながら、路傍の農民には怒りという要素が、そしてそばを疾走する新しいエアコンの効いたホンダ・アコードのなかには、不安という要素が存在する。アブジャにいる友人は、ベッドの上で死ぬことを予期すると、私に言う――従者に殺されるのだ。
 私のフィールド・データのほとんどすべては、ムスリムと非ムスリム(Maguanzwa)を含め、ハウサ語話者に関するもので、彼らの家で私は長期滞在する客としてともに生活をしてきた。彼らは、記録のある歴史が少なくとも500年は遡るイスラーム諸国家の一部をなしてきた。ナイジェリアは1903年から1960年までは大英帝国の一部であり、北部ナイジェリアの首長国にイギリス人が設置したその行政体制は、「間接統治」として知られることとなった。インドにおけるイギリス政府の実践がモデルとなるその体制によって、現地の役人が職員として働く「現地当局」を首長たちが主導できるようになるが、すべてはイギリス人職員による小さな当局の監視下にあった。それぞれの現地当局は、その首長国において独自のシャリーア司法部(shari’a judiciary)、警察権力と監獄、そしてあらゆる成人からの徴税を指揮した。このより抑圧的な体制に対する反動として、政府の分権化を促進する改革は当初は人気があった。この報告では、政府のこの新たな分権化の体制のもとでのプライマリー・ヘルス・ケア・サービスの命運を考察する。基本的な私の議論とは、ナイジェリアの行政体制はいまだに改善途上である、と想定することである。誰もがその体制には改善が必要であることを知り、長年にわたり多数の委員会が勧告をした(いくつかは政府が了承した)。だが、主要なジレンマはそうした改革の履行にある。改革とは、政府がそれを命じた時に、そのように、単純に「生じる」ものではない。履行を強要するだけではなく、改革によって新たに力を得た者が確実に法律の文言とその精神に応じるように、誰かがしなければならない。
 しかしながら、分権化という活動そのものが、意図されたように体制が動くことを確保してきたかもしれない単一の機構からその正当性を奪う。要するに、あなたは規則を破ることも、それとうまくやっていくこともできる。あなたも何かの犠牲を伴うかもしれないが、そのリスクは「不正利得」でうまくやることの報酬と比べれば、取るに足らない。このように、ナイジェリアは、市民が意志のままに行動するための甚大な自由を彼らに提供する――その思惑を強制し、政策が厳密に実行されることを保証する植民地的な形式の当局は存在しない。すなわち、人口を管理する周到な監視の体制は存在しない。
 ここで私が注目することとは、ナイジェリア北部社会の市井の人びと、私が長年にわたり草の根のレベルにおいて知り合ってきた人びとが衛生の諸問題に、個人的にも公的にも、いかに対応するか、である。国家による首尾一貫した衛生事業の不在に対する住民の幅広い応答の基になるのは、文化的な次元と同様、政治的な次元である。当然ながら、文化は変化する。だが、「常識」は驚くべきほどに恒常的で、ほとんどの場合、語られず、記録されないからこそ、このことが重要なのである。

行政の分権化:あるいはなぜあらゆる政治家は彼自身の地方政府を欲するのか

 私たちはまず、政治的には民主主義を促進するという名目で、医療経営上ではプライマリー・ヘルス・ケアを優先させるという名目で、海外機関やドナーが分権化を促進すること、さらには強要することがいかに流行しているかを理解する必要がある★1。ただ、しばしば、こうした分権化の必要性は、国家内政、とりわけ1960年代・70年代のナイジェリアや1990年代のマリのように、分離主義が広まった時期のそれと響きあう。少数派の集団は国家に吸収される必要があり、考えられていたところではそのことをなす方法とは、自らの経費で賄う地方政府を与えることだった★2。地方政治家とは、一義的【ルビ:プライマリー】なものであれば、地方の市場【ルビ:いちば】や公衆設備、そして生死の登録などの基本的なプライマリー・サービスだけではなく、初等教育【ルビ:プライマリー・エデュケーション】でもプライマリー・ヘルス・ケアでも何でも、組織し維持できる、あるいは、すぐにそれらを習得すると、その政策は当て込んでいた。もうひとつ別の思い込みとは、新たに流行した一系列の予算(単一の公的なトップあてに作られたひとまとまりの財源)は、いかにそれが巨額であっても――石油の収益のおかげで――、地方のレベルにおいても収支報告が可能であり、いかなる財政上の過誤も民主的な手続きと透明性によって監査可能であるということ、あるいはそれに失敗すれば、不正は中央政府から実質的な権限を与えられた経済・財政犯罪委員会によって阻止できる、ということである。
 実際には、これらは、政策が形づくられた当時の1970年代後半の政策立案者の思い込みであったので、すぐに過度に楽観的だったことがはっきりとした。怪談が即座に広がった。ある同僚が私に語るには、地方政府の首長でもある彼の友人は、銀行から地方政府に月々割り当てられた現金を引き出し、家に持ち帰り、そこで別の友人とともに床にすわり、それを分けることにどれほどなれているか――私の同僚は、いちどナイラ紙幣の札束を渡されそうになった。しかしながら、医療や教育などの項目については、実質的な地方政府の財源が維持される、「州と地方政府の共同の口座」が形式的にはある。すなわち、州知事はそれに地方政府の長と同じようにアクセスできる(またも、一系列の予算の状態で)。地方政府の長が応じる以外の選択肢をほとんど持たないのも、州知事(とその政党)は通常、彼の推薦人が地方政府の長として「選出される」ことを保証するからである。さらに悩ましいことに、なかには地方政府の長よりも不道徳にふるまう州知事もいる。つまり、知事はその財源の一部を議会と共有するかもしれないとはいえ、「共同口座」は単に知事がアクセスできる財源を増加させるだけなのである。
 このように、ナイジェリアは、はじめは州を創設することで、続いて(1976年、主要な改革が始められた年以来)地方自治体を設立することで、政府の多数の機能を委譲、委任してきた。「ビアフラ」市民戦争とその後の緊張を和らげるため、またより良くではないのなら、より無難に、1970年代に膨大になり始めていた急に拡大する石油の利潤の分配を管理するためである。以来、長年にわたり、地方の要求によって地方自治体の数の莫大な増加が生じた。強固な組織的活動を通してのみ中央政府による同意が得られたとはいえ、ひとつの要求はひとつの地方政府に相当した。体制がうまくいくようにするいくつかの試みにもかかわらず、地方政府の政治は、激しい競争を伴い、割り当てられた事業の提供に失敗することで、結局は地方のコンフリクトを増加させただけである。民主的な「ボーナス」もまた、著しく不足していた。先にあげた地方自治体を動かす人物による盗みの怪談にはどうやらもはやそれほど真実味はないようではあるが、地方政府によるプライマリー・ヘルス・サービスの準備金は、著しく少ない。

地方政府当局:あるいはなぜ大きな医療予算は、表に出すには取るに足らないように思われるのか

 多くの途上国とは違い、ナイジェリアはおそらくは「最良の政策」に従い、地方政府とともにプライマリー・ヘルス・ケアを分権化した。憲法では、プライマリー・ヘルス・ケア対策への「参加」の責任は774の地方政府当局にあるが、それらに対する実行性のある予算監視は存在しない(実際には地方自治体の長を管理する州知事もいるが)。財政は問題になるはずはがない。連邦政府のゆとりある石油歳入から直接もたらされるからである。問題は、衛生事業に割り当てられた金が、それらを利用するはずのものには常には届かないことにある。建物はそこにある(常に手入れされる訳ではないが)、だがあるときにはスタッフには数か月分の給料が未払いであり(そしてしばしば仕事を休む)、医薬品は診療所になく、そして必要な治療器具、シーツ、さらにベッドさえも今頃になって届こうとしている、という具合である。もちろん、給料のよい「ゴースト・ワーカー」がいるわけでもない。鍵となる問題とは、医療施設を建設し、修理するための巨大な契約からもたらされた恵与ではない。問題は、給料、薬品貯蔵、設備の修繕と維持のための周期的な支出にこそある。大きな新しい診療所の建設は容易であり、その開業は、写真撮影の絶好の機会である。困難なのは、必要なサービスを定期的に、日ごとに、いつもいつも、運営し、維持することで、それには上手で、実直な予算運営が必要となる。もし現地でそれが可能でないのなら、だれが衛生事業の責任を負うのだろうか?それでも、公衆衛生予算すべてに対する権限を譲渡することで、さらに多くの権力を国家の統治者に委ねることに対する嫌気が広がっているように思われる。そして、アブジャによる集権的な管理という古びたスタイルへの回帰は、問題含みであり、いまや実現可能ではないだろう。集権化されたワクチン提供プログラム、とりわけ抗ポリオ・ワクチンのプログラムの運営に関する注意深い最新の研究は、中央からの管理はもはや存続可能な選択肢ではないことを示している★3。ナイジェリアはあまりに巨大で(カバーすべき人口と距離のふたつの面において)、文化的に複雑であるため、集権化された市民サービスが実際に効果的に運営されることはない。こうして、多くのことが、中央行政が依存するところの州政府とその地方政府にすでに委ねられてきた。契約下にある商業的な仕事でさえ、要求されるサービスを提供できるようには思われない。
 確かに、他のものよりも実直な運営をする地方自治体はあるが、結局その帰結として、患者とその近親者が、薬だけではなく病院でのケアを求めて民間セクターに頼ることになる。小さな町でさえ見られる民間の病院や専門家の診療所の流行は、このことの証拠である。それらはボロボロに見えるが、地方自治体の施設よりも劣悪であることはない――少なくともスタッフはそこにいる。しかしながら、36の州政府が病院に対して責任を持つ一方、連邦政府は病院を教える大学、国立病院、そして市場から「偽」の薬品の駆逐を企てるNAFDACなどの重要な機構を運営する。ではなぜ、地方自治体を運営する政治家が憲法上割り当てられたもを提供するのに失敗したことに対して、公衆は更なる怒りを持たないのだろうか?
 明らかだが、現在政府は石油歳入によりとても豊かであり、地方の投票者は税金を支払わないという事実は、地方議員が医療予算の現金を「盗む」のであっても、納税者が苦労して稼いだ金を投票者が選出した者が悪用することだとはみなされないことを意味している。適切な公的なヘルス・ケアの要求は、選挙における主要な論点のようには思われない。対照的に、学校と道路は政策課題となるが、選挙不正の程度を考慮に入れたとしても、地方自治体の失敗は結果にはほとんど悪影響を与えない。しかし、今日の地方自治体にはもうひとつの深刻な政治的な問題がある。つまり、その「公衆」とは誰なのか?ということだ。論点は、彼らが満足する者にはだれでも「現地人の証明」を発行できる権利にある――しかし、より重要なのは彼らを不快にさせるいかなる者に対してもその証明を否認できる権利である★4。あなたの家族はある街に数百年住んでいる――さらに、その発展を助けてきた――が、このことはあなたに現地人という証明を保証することはなく、そうした証明なしには、あなたとあなたのこどもは、現地の学校、奨学金、現地での仕事、福祉サービスにアクセスすることはできない(ただし、緊急時には、あなたが病院から追い払われることはないだろうけれど、と私に語るのだが、その可能性を除外しない者もいる)。その時、ナイジェリア市民として、あなたは文字通りの「無国籍」になりうる――「現地人」としての権利をあなたに保証するいかなる州・地方自治体が存在しない。それでも、憲法上の投票権を有するが、そのことが現地での身分や契約の獲得に対して、違いを生み出すことなどない。事実上、あなたはナイジェリアの「公衆」の構成員ではない。これこそが、多くの怒りや敵意を生じさせる、新しい開発である。つまり、宗教的な差異ではなく、現地人であること(indigeneity)こそに、地域の政治的なコンフリクトの核心が存在する。基本的には、現地人だけが地方自治体での職を勝ち取りやすく、そしてその職を通じて、地方自治体の金庫に、毎月割り当てられる巨万の富にアクセスできる。現地人としての分類を保証する証明を管理するための競争は、当然すさまじい。というのも、それによってあなたはあらゆる種類のライバルを排除できるからである。仕事や交易のために移動するあらゆる集団(おそらく、豊かになり、潜在的には権力をもつようになった)は、自身が現地の文脈では政治的には取るに足らない人物に縮減されていることに気づくだろう。
 連邦政府は地方自治体の制度的な過剰を抑制できる、と考える者もいるだろうが、いかなる政党も、その地方自治体の怒りを買うリスクを冒す気にはならない、というのも、地方自治体こそが、事実上投票を(あるいは少なくとも投票ブースや得票数の事務仕事を)管理するからである。オバサンジョは、2005年に地方自治体の改革のために重要な計画を立てたが、その改革案は、第三期を勝ち取ろうとするプロジェクトとともに、失敗におわった。強力な軍事政権だけがおそらく、権力を掌握した直後には、地方自治体に与えられた憲法上の権利を停止し、そうして地方の政治家が引き起こそうとするだろうあらゆる利己的な大混乱にまさろうと、住民の明らかな不満に頼る、という気概を持ちうるのだろう。なぜなら、政治家の個人的な収入において非常に大きな役割を果たすことを見ているので、地方自治体は、現地の医療予算に対するアクセスを差し控えようとする気がないからである。そのために、あらゆる規模において、獲得可能な予算相応の、政府財源の「公衆衛生」とプライマリー・ヘルス・ケアから「公衆」が遠ざけられているそのあり方に、即座に変化が起こるとは、私は見立てていない。

ナイジェリア北部における「公衆」という概念の起源:あるいはなぜ政府の衛生プログラムに対する態度はそれほど両義的なのか?

 私はここで、遠隔地(deep-rural)の住民にとっての近代、政府主導のヘルス・ケアの経験に関する歴史的、および「文化的」データを提供するが、それは第一に、まず私が2年間ともに生活してきた(そして過去40年間毎年再訪している)市井の人びとが、公的な抗議の危険を冒すほどには「公衆衛生」の不在に悩まされていないであろうということを、第二に、地方自治体の政治家が衛生に使われるはずの現金をポケットに入れることになぜ罪の意識をもたないのか、ということを指摘するためである。

家庭内の宗教:あるいは、私が生活したところでは実際には誰がプライマリー・ヘルス・ケアを利用するのか?

 遠隔地という語は、主要な道路から離れたところ、あるいは都市圏から百マイルやそれ以上離れたところを、そして住民(people)という語は男性と同じように女性と思春期の若者を意味するものとして私は利用する、というのも私が次の区分を支持する議論をするためである。「家庭内」の宗教(その家の良き生活を維持し、病気を引き起こす何種類かの邪悪な存在を寄せ付けないようにデザインされた家のなかで私的に行われる諸実践、女性がこれらの実践の遂行においては鍵となる)と「公共」の宗教(ナイジェリアの北部の大部分ではイスラームであり、多くの場合は男性によって遂行され、しばしば集合的となる)である★5。なぜなら、家のなかでの病気の大半を経験するのはこどもや母で、家庭内の宗教が日頃の治療の本質的な部分となる。公衆衛生やプライマリー・ヘルス・ケアは、そのとき、家庭内の宗教と病気を防ぐその治療プログラムにとって補助的なものとみなされることになる。それゆえ、公衆衛生についての女性の見解は、いかに秘められていようとも、公衆衛生とそれが日常生活に取り入れられたり、入れられなかったりする仕方を私たちが理解するのに重要である。それにもかかわらず、私の経験上、外から来る研究者は情報提供者から紋切り型のもの、ヘルス・ケアに対する「公的な」理解しか聞き取ることができないことが多い。医療に関する議論の内容が、実際には調査者に適するようにいかに調子を合わせているのか、ということを私は指摘できる――ある農場に滞在した私のフィールドワークの初めの8か月のあいだの経験とは、「紋切り型なるもの」に囲まれたものだった、ということが分かったのだ。それにもかかわらず、偶然、私のホストの妻のひとりが、畑を耕すことに一息ついていると、健康上の諸問題についての当時の家のなかで平行していた理解を、つまり農場の隣人に対してこどもにも大人にも同じように、邪術、精霊、妖術師が、及ぼしかねない効果に対する不安も含めた問題を、私に語ることを決意した。
 私がいかなる知識も、さらにはそれを知る権利も持ち合わせていなかった治療の層――「民族解剖学」、「民族生理学」と同様――が存在した。つまり、私的なことだ(ただし、秘密ではない)。(アフリカの様々な地域では起こる、公的で、企業的な妖術師審問は北部ナイジェリアには見られない。若者たちは彼らの農場から、「妖術師」を追い出すかもしれないが、ある人物が本当の「妖術師」であったかそうでなかったかは、開かれた問いのまま留り、進んで議論されない。多くのことは、単に話題にならない。沈黙でないのなら、控えていることが望ましい――それは他者に備わる不安の源でもあるのだが)。

植民地支配以前の政体における「公共」の不在

 植民地支配以前の時代(1903年以前)、伝統的な権威が寄せる「公衆衛生」への関心とは、家族という水準での衛生というよりも、霊的な平面において「土地」が良く生きることであった。疫病(髄膜炎やコレラ)に対する最終的な責任は、首長や地方にいる役人にあった。彼らの暗黙の役割とは、その領土が霊的に(それはまた道徳的なことを意味しうる)「清潔」であることを保証することである――それゆえ、共同体が正しいムスリムであり損ねることは、干ばつだけではなく、ほかの共同的な災害(飢饉や疫病――さらに植民地的な侵略さえ)に帰結することもある。ある疫病に対する現地の定義とは、「普通は」死なない者――つまり、若い男女――が多数死に始めることであり、赤子や年配者は常に死ぬため、彼らの多くの死、とりわけ一年の特定の季節のものは、疫病の一部にはならない。路地や市場の維持にかかわる役人(muhtasib lumo)がいるのだが、彼らの役割とは、ひとりふたりのカーディー(Qadi 裁判官)と協力して、公序良俗を守ることであり、公衆衛生を保証することではなかった。イスラーム政府の中心的な要素である、正義それ自体が公衆にある種の社会的な「衛生」を提供した。
 19世紀初頭、地方の治療をイスラーム化し、ムスリムでない治療者(boka, maye)を医療にも精通したウラマ(culama’)に代替させる試みがあった。様々な病気に対する適切な祈りの言葉を綴ったテキストである。古典的なアラブ由来の治療の教本は、限定的に流通してはいたが、しばしば、言及される植物や鉱物は北部ナイジェリアでは入手不可能であるか、適切な翻訳/等価物が知られていなかった。実際には、伝統的な医療者が植民地時代にも生き延びたのは、単に治療について、代替となる情報源がなかったため、イスラーム的な治療の公的な機構がなかったためである。19世紀の新しい聖戦(jihadi)の当局は病院や収容所を設立しなかった。マリスタン(marisatn 病院)はこれまでに設立されなかったのだが、それは部分的には、ほかの所ではワクフ(waqf 学校や図書館に送られるような、チャリティの贈り物)の支援を呼び寄せる制度であっても個人に委ねられていたからである。福祉とは、大きな家々の手中にあった。今日でも、夕方の貧者への食事は、豪邸のドアの外にある皿の上におかれ、モスクから戻る途中で、そこに行けば住民は自由に食べることができる。理論的には、公邸は深刻なほどに必要がある住民を支える手段(と蓄え)を備えている。しかし、私が知るのは、夕食を必要のある200人程度の住民に給するために(しばしば私もその恩にあずかった)、他者からあたえられた穀物も使う家があるということだ。
 より重要なのは、(jamaca ムスリム共同体、という概念とは弁別されるものとしての)おそらく、「公共」という概念が無視されたということだ。間違いなく、ソコト(Sokoto)というカリフの地位を設立した支配的な学問エリートは、「非人格的な所有」あるいはワクフという概念を知っていたにもかかわらず、である(彼らはつまるところ競合する弁護士であった!)。例えば、特定の役人によって運営されているにもかかわらず、管理や建設の観点からは、植民地支配以前にはモスクや「公邸」、さらに監獄さえも私的な所有物であり、「公共物」ではなかった。水道設備(井戸という形式)も私有物である。しかし、理論的には、必要があれば皆が家のなかにある井戸からでさえ水を引く権利を有するので、アクセスに問題がなさそうなところでは、井戸は家の前庭や庭の端に掘られることもあった。公共の水浴び場のない都市部では、入浴や洗濯用の公共の流しが放置された。同様に、「警察」もまた、存在する場合には、役人や大きな家の従者の私的な人材であり、軍隊は特定の組織的活動のために、個人的な臣下(奴隷を含む)と町の仲間から召集された――侵略の危機があるときでさえ、「国」軍など存在しなかった。同様に裁判員も、ある意味では任命は個人的だった――カノなどの巨大な首長国においても、3人か4人ほどしかおらず、ひとりは市場に、他の者は法的な補佐役として主要な統治者に随行した。つまり、正義(そして国内的な衝突の解決)は統治者に由来するのであり、裁判官にではない。正義は個人的で、家庭的な場で行使されるのであって、「公的」な裁判所ではなかった。英国植民地体制(1903-60)になってはじめて、英国の官僚制の様式において、責任を有する「現地当局」という新しい特定の部局とともに、公式な「公共」の次元が設立された。裁判官のいる新しい裁判所、公式の制服を着用する警察、監獄、そして同じように病院と医師などなどである★6。王宮でさえ公的な住居となり、統治者の家族の私的な家ではなくなった――公共の所有物である。同様に、かつては個人的であったものが公共財として再分類されたために、「不正」は、それが公共財を私物に転化することと定義されるので、新しい違反となった。さらに、この新しい違反は、植民地体制を監視する新たなイギリス人役人によって非常に深刻なものと受け取られた。唯一の真なる公共的な空間とは、村や町(西部では)の外部や境界的な場所(カノ市をふたつの区画――人びとが別の側に渡ることを好まないほどに独特なもの――に分割する川の土手など)に位置する市場であった(そして、今もそうである)と私は考える。「市場」はそれ自体の生を持つ――(群衆としての)「市場」は、刑罰なしに、盗人に私的制裁をくわえることができ、だれもその殺人の罪に問われはしない。市場は処刑の現場であった、剣を使った打ち首か生きたままでの串刺しどうかは開かれているが。ただし、死体はそこに残された。市場はいまだに、昼間は隠れ蓑であり、夜は寝床である。より一般的に言えば、市場とは名づけられた個人が匿名の群集、公衆になる場所である。公衆の観客が目撃される場所とは、公的な布告がなされる場所なのだ。
 そこで、私が示唆しておきたいことは、植民地支配以前のイスラーム的体制のナイジェリア北部とは、エジプトやマグレブのようではないということである。これらの国家が保持するような仕方では「公共」の次元を持たない。代わりに、指導的な大きな家や家族が、必要とされるものすべてを、とりわけ、都市のなかでも彼ら自身の区画では提供した。貧しい「公衆」は、あまり役には立たなかったものの、こうした家に所属したが、盲目の物請いたちは、通常は彼ら自身の集落をつくった。来訪者の一団、キャラバンの運び人やドライバーなどは、町の端に独自の住処をもった。そこで、都市部でのシャリーアの法によって規制されるであろう物事が行われた(ギャンブル、飲酒、雇用目的のセックスなど)。(さらには、安全の目的のために急角度でまがった小道と一緒に建てられた、市街の門が、荷を積んだラクダが通過するのに十分なスペースを備えていることはまれだった。そこで、商人は壁のなかで荷積み、荷解きをするよりも壁の外で滞在することを好んだ)。多くの住民が気にかけ、管理したものは、制度的ななにかではなく、人格同士のつながりであった。英国の植民地体制とは、それゆえ、共同体に対してある外在的な制度的な層を押しつけた――単に「間接統治」としての彼ら自身ではなく、公共、官僚的な領域である。官僚制、「公共的なもの」の領域とは、つまり植民地的な制度――なじみがなく、キリスト教的――であり、ハウサの政治的・文化的生活のうちに占める場所はなかった。植民地的な統治者が去ったのだから、なぜ、おせっかいな植民者たちが考えてきたのと同じ重要性を官僚制に与え続ける必要などがあろうか?
 その記章がなんであれ、統治者はかれらが統治する者がよく生きることに対して、広い範囲で責任を有する。この文脈において、植民地統治の初期、ムスリムの土地がよそ者であるキリスト教徒によってはじめて統治された時代が、他の災害――特に厳しい飢饉やスペイン風邪のような主要な疫病――の舞台となったというのは、現地に適切なことだと思われた。新しい政府は責められるべきであったが、なによりも、その民を罰するのは、この奇妙な非―ムスリムを押しつけ、そして、少しの後に、一連の致死的な病を課す(第一次大戦後の流感や1924年の脊髄膜炎など)アッラーであった。これらの危機に対する住民の反応とは、彼らのイスラーム的な実践の改善、改善されたスーフィー教団(Sufi brotherhood)への参加(TijaniyyaやMahdiyya)そして、これまでよりも熱心に、こどもをクルアーンの学校に送ることである――アッラーが持ち込みたもうたキリスト教を自らが再び取り除かれるほどにアッラーを満足させるようにという固い信念のもとに。しかしながら、多くの住民はアッラーが動くのを待つ代わりに、別の場所へと移動した――メッカまで東に向かい、マハディ(Mahdi 救世主)をそこで待つために。エグゾダスは際限がなく、耐え抜かれた苦境はあまりにも深刻であるので、多くの家族がスーダンに留まることを決意し、メッカに行くことはかなわなかった。もちろん、彼らの判断は、「公衆」の判断ではない。大きな拡大家族は集まり、彼らのうちの誰が東に移住し誰が財産と家畜の群れを管理し、旅をするには年を取りすぎた人びとの世話をするのかを話し合うために会った。またも、決定が下され、対策が立てられるのは家族というレベルでのことである。1903年3月のソコトでの敗北後、首長アミール・アル=ムウミニーン(Al-mu’minin)はその歩を東に向けたが、もし群衆も彼とともに行っていたら、事態はより悪化しただろう――当時、水と食料が絶望的なほどに不足していたのである。ヒジュラ(hijra 移住)は「公共政策」ではなかった。

自給自足の衛生

 北部ナイジェリアでこうした飢饉や疫病に直面したイギリス人は、彼らとしては、一義的には彼ら自身とナイジェリア軍隊、警察機構の衛生の確保を懸念した。医療事業は、しばしばあることだが、当初は軍隊のニーズに関連していたのであって、市民のニーズではなかった(「現地人」や公衆のニーズはいうまでもない)。ムスリムではない「統治者」を許容することの正当性に向けられたムスリムのあいだの大きな懸念があったので(とはいうものの、非ムスリムはほとんどおらず、目立たなかったであろうが)、イギリス人は彼らの要塞に、彼ら自身の安心感のためだったのかもしれないが、緊急時に闘えなくなるような病にかかることなど決してない軍隊を必要としていた。初期のイギリス人の役人の多くは、軍隊出身者だという理由で選出された(南アフリカでボーア戦争を戦った者もいた)。そういうわけで、軍事的な衛生に対する懸念はいつものことだった。ザリアでのみ、新しい大英帝国政府はひとりの宣教師にムスリム都市への滞在を許し、のちに彼は医療センターを設立した(バッバン・ダド Babban Dodo にて)。しかし、数人のムスリムの「王子」をキリスト教徒に改宗させるという彼の成功は、医療ステーションを南のほうの市街地の外部に移動し、隔離された居住域(ウササ Wusasa)に新たに建てよ、という植民地当局からの命令を受けるという警告を呼び込んだのである。そのほかには、川向の市街北部のバリキ(bariki 兵舎)が、初期の植民地医療の主要な現場だった。事実、バリキは、いかがわしいとみられ、ふつうではない、ある種の非ムスリム的生活様式の同義語にもなった。医療は当時郊外から始まったが、それはハウサが文化的には下層階級にあり、そして立入禁止区域であったからである。つまり、医療とはまずは「他者」のためのサービスだったのである。イギリス人キリスト教徒のために戦った軍人の将校と隊列は、ムスリムとハウサが共に軽蔑し恐れる民族(当然、母系的な人種である)から選出された。「歯を食人種の様に磨き上げるものもいた」と初期の植民地の報告書には記されている。それにもかかわらず、新しい混血の居住区にあるその基地から、ジョン・ホルト(John Holt)のような先駆的な交易者が現れ、特許療法(pengoあるいは”pain-go”など)、キニーネや石鹸を、(植民地の宿営地にある、交易のためのメイン・ストリートが乾いたソコト(dry Sokoto)や丘の上のジョス(hilly Jos)などと呼ばれていたので)「海岸」沿いや「下手にある」店頭で販売するために輸入するようになった。そのうち、特別にヨードで処理された塩が甲状腺腫の発症を制限するために輸入されたが、しかし、小規模交易者、とりわけナイジェリア南部のキリスト教徒の交易者は、強風用ランタン、マッチ、ろうそく、石鹸、そして普通の塩(そして、1本あたり1ペニー、あるいはそれ以下のタバコも)を販売するために、バイクにまたがり、地方の奥地まで足を延ばすようになった。これらの交易者は、集落にある生家に戻った兵士や警官のように、遠隔地にある共同体への「西洋的」な医薬品の紹介者なのである。この文脈において、プライマリー・ヘルス・ケアや公衆衛生を促進するいかなる公的なサービスも、住民の理解には無関係だった。
 結果的に、現金の不足のため(税を徴収する能力を念頭に入れると)、英国植民地領政府は「自給自足の農業」という観念と似てないことはない「自給自足の衛生」という政策を立てた。衛生は、市井の人びとが通常の治療行為を続けるに任せられた。ナイジェリア北部でのムスリム首長国では、衛生の植民地的政策とは、すべての学校や病院・医務室が事実上「現地当局」、英国の「間接的」指導下にある地方の首長国の役人が働く強力な行政機構によって運営されているために、キリスト教宣教師が、伝道所を建設することを許可しないことだった(1930年代のハンセン病施設を除けば)。これらの学校と医療施設に関しては、しばしば(ナイジェリア人であろうと、外国人であろうと)キリスト教徒が働くこともあり、その結果、「衛生」とは、まずはキリスト教信仰と同一視される業務のひとつとなった、教員や看護師、そして(やや遅れてではあるが)医師であるムスリムの存在にもかかわらず。
 しかしながら、住民が私に語るには、宣教師は住民に不快な代償を強要しがちだった。病院や診療所で診察してもらおうと、数時間長い列で待っていると、あなたをキリスト教徒に改宗させようと試みる、終わりなき説教にさらされることになった。人びとがそこに訪れるのは、治療のためであり、「異教徒」の信仰(ここには家庭内の宗教を私は含めることにする)に反対する非難と教会に参加することへの重圧のためではない。ミッション・スクールも非キリスト教徒の少年に厳しくあたった。重圧により改宗に至ることもあるが、長期的には、彼らはそれから学んだ――そして、いつでも彼らは後にはキリスト教徒をやめることができた。つまり、白人のあいだの利他主義は不足していた。あなたはその代償を知らなければならなかった。そのうえ、同時に利他主義に出会い、そして心温かくそのことをまだ覚えているうちに、白人のあいだの真の私欲を住民は認識したのだった。

活動的な「公衆衛生」に向けた動向、そしてそれに対する人びとの疑念

 1950年代までに植民地政府は(独立に向けて走り出すなか)、衛生検査官(ハウサ語で、duda gari)のチームが、あらゆる住民の家に入りこめるとみなす(というのも、常にチームの一員が女性であったために)、さらに公衆衛生よりの政策に着手した。毎週検査官たちが来る前に、住民は住宅地をきれいにした。田舎では、巡回する地方役人が、健康被害の要因とみられる棘のある植物(kasin yawoなど)の除去を含め、農業やその周囲の衛生条件を調べた(そして報告した)。また、コンクリートの蓋を備えるように井戸が改善されたかどうかを調べた。総人口中の寝たきりの病人の調査が確立され(1940年代の初めに)、そして、頸部リンパ浮腫を患う者は治療のための収容施設に強制的に連行された。リンパ浮腫を患うと同定された者の大多数が美しい女性や少女であり、連れ去られたために、これは搾取的なプロセスに転換した。公的な誘拐から妻や娘を守るために費用が掛かったのである――わたしは、この過程が1970年代にも起きているのを目撃した。当時の、あらゆる種類の政府役人がいかに非道であったかを記憶しておくことは重要である。彼らの欲求に資金を融通するための石油歳入などなかったため、街出身の役人は、週ごとに農民に支払わせる新しいスキームを携えて、集落まで出てくるのだった。要するに、政府とは、たかりと同義語だったのである――公式接見などの祝事であるはずのことでさえ、現地の農民のなかで一番美しい娘を連れ去ること、その家族の激怒、そうでなければその絶望に対する言い訳なのである。つまり、政府は「公共善」の精神を備えているかもしれない、という観念は、たとえ衛生に関する諸問題であっても、繰り返し、虚偽であることが確証されてきたのである。私自身にもそれは起こった。このことは隠されてなどいない。
 しかし、私の時代よりもさきに、実践はうまく確立されていた。政府による医療事業とは無益である、少なくとも市井の人びとのためのものではない、という非常に信に迫った疑念が既に広まっていた。この疑念は、「白人」(あるいは、むしろ、ヨーロッパ人が分類されるように「赤人」ともいえる)が、海から現れ出た魚かカイギュウの一種であるような存在とみなされていたころの、植民地支配の初期の時代にまでさかのぼる。彼らの服の染料は色落ちせず、定期的に水を必要とし(シャワーや入浴)、まともに歩くこともできず(靴下や靴を身に着けなければならず、ハンモックみたいなもので運ばれる)、そしてダムを建設し、池をつくることを好んだ(そこにはピクニックで訪れ、さらに飛び込み、泳ぐ者さえいた。――おそらく、水中は劣悪なことをしている)。夕暮れ時に氷や冷たい水を好むことこそ、その本質的な魔女性の決定的証拠である★7。医師としての白人の仕事に対する住民の疑念の典型、医師に関する精霊憑き(bori)の叙述では、首の周りに聴診器を下げて、その家の最も美しい少女がそのそばに座っている男が医師である――聴診器は、男が少女から血を吸い取るために使う。
 これらの観念は今や滑稽なものに思われるかもしれない(確かに古風で、面白みが欠ける)が、農場での私のはじめの2年間、1970-1972年という近い時代においても、私は、同居人たちがそれらの観念が私に当てはまると考えているのかもしれない、ということに気がついた。大学の教育病院の外部ユニットである、現地の「小屋のような病院」は、同じく疑念の焦点であった、というのも、患者がしばしばそこで死に(最後の休息地として運び込まれていた)、そしてその遺体は検死の対象となり、その後にはすべての身体部位が常に戻されているわけではなく、また戻ってきた身体とは、それを包む布の下では、胸に紙が詰められているかもしれない――しかし、賢い近親者はふつう、埋葬の前にそれを見ることはない。つまり、病院とは、それがなければ無力である白人による、地域の黒人の人口と彼らの年季の入った政治的な権威に対する不確かな権力の行使でもありうる、黒人の身体の主要な器官を白人が抜き去る場所、「権力の根拠地」のようなものである、という噂があった。病院の医療は、彼らの目には、魔術のようなもの、その核心にあるものが有害である魔術であった。X線など、人の内部を見る諸技術は、妖術師の性質であった。しかし、しばらくすると、その妖術師は満足し、彼の力を邪悪なことではなく、良いことに使うようになり、その時にこそ妖術師は有益な友人となる。農場にいた何人かにとって、私はそうしたかつての妖術師であったが、私が農場に到着してからから8か月ほど後にようやく、妖術の力を私がかつて持っていたことを彼らは知っていた、と語ってくれた。当時、みたところ私は、農場にいた別の妖術師と死に至る争いをしていたらしい。その時私が悔しかったことに、私のホストたちは完全に彼の勝利と、私の死か逃亡を期待していた。これらのいくつもの疑念(覚えておくべきことは、それらは「信念」ではないし、「事実」でもない、のちにそれらは真実であることが明るみに出るかもしれないというだけなのだ)を踏まえればと、政府の病院という棘のある鉄線の高いフェンスの内側に入ることは、潜在的に危険を伴う取引だとみなされていた。人びとはそこに痛みや障害を和らげるために行くのである――彼らの生命を「救う」ためではない、なぜなら、アッラーのみが人が死ぬときを決めるからだ。それゆえ、人びとは自らの判断で患者を連れてくる。決断を下す者(そしてリスクを負う者)とは彼らなのであり、そして決定とは、確かに政府の役人の命令ではないのである。

今日の「私的な衛生」:あるいは、今日、こどもの死はいかにこれほど減少したのか?

 1970-72年、遠隔地にある農場に住んでいるとき、こどもの死亡率はおおよそ50%だった。私がそこで知っていた131人のこどものうち、66人が死に、65人が生き残った。今日、おおよそ40年がたったが、(毎年やるように)私が農場の墓地を訪れた時には、前年のうちに掘られたせいぜい4つほどのこどもの墓穴を数えることができた。今や農場には、40年前にくらべると、おおよそ五倍のもこどもが生きている――60からおおよそ300までの上昇である(はじめて、2009-10年のあいだにはひとりのこども死ななかった)。これは驚くべき変化で、当然、土地や仕事について莫大な影響がある。そのふたつは共に不足しているので、多くの若い男性は職を得るために都市部に出ていかなければならない。彼らが農場に戻るのは、妻やこどもに会い、経済的に支えるためだけである。より広い集落のエリアの人口は、1954年では納税者が1,500人で、2007年には居住者が75,000人になるまで成長したが、1980年代あるいはそれ以後にようやく「母とこどものケア」は変化したのである。伝統的な医療(私が「民族小児科」とよぶもの)は、赤子や幼いこどもを死に至らせる急性の感染症を管理することには大した成功を収めてはこなかったことを思い起こす必要がある――あるいは、実際には、それは破局的な妊娠やこどもの誕生から母親を救うことだったのである。薬品と必要な外科手術を利用する、「母とこどものケア」は女性にそれまでには得ることができなかったものを提供した。例えば、周産期性心疾患には、伝統的な治療は存在するが、必要な投薬量は算出することはできない――それゆえ、時々はそれは効果を発揮するし、そうでないこともある。
 「母とこどものケア」を行う現地の診療所、州政府、及び大学経営の病院の手術施設はあるものの、地方の「治療文化」における大きな変化は、現地の若者が生体医学に興味を持つようになり始めたことである――部分的には、市場で医療品を取引することを望んだために、販売するそれぞれの商品が顧客にとっていかなる効果をもつのかを説明できなければならないからである。都市部の薬局の売店であっても、若い少年たちが、彼らの父や叔父が販売している医薬品を説明する係であることさえある。私が滞在していた農場では、2、3人の少年が、職業として、医者ではなくコミュニティの看護師、あるいは手術室看護師ではあるが、生体医学の道に進んだ。そのため、農場では彼らが点滴を準備し、注射を行ない、病の親族のケアを行うようになっている。そして彼らは、その能力を備えている。彼らは、ある隣人、年長のHIV陽性の女性を、彼女が農場で拾ってしまった日和見性の感染を追い払うため、さまざまな薬品を利用し、1年ほど生存させた。彼らが新しく学んだ経験は、彼らの配偶者だけではなく、農場やその近隣にいる母たちに刷り込まれていっている。蚊帳は、1970年代には農場では(私以外に)誰も持っていなかったが、全員が使うということはないかもしれないが、今は受け入れられている――あなたはそれを買わなければならいのだが、それも、それらがもうひとつの蚊帳を身体に宿してはいないからである。若い花嫁は、彼女の嫁ぎ先の寝室に、素敵な寝台と肘掛け椅子のそばに、それがかかっていることを期待するかもしれない。そうはいっても、電動の光や水道の水が彼女を喜ばせることはないが――もし電線や導管があったとしても(道路わきの集落にみられるように)、政府はいまだに電力や水を供給しない。(電線と導管は、道路のように、私的な契約者とその契約を履行する者たちに利益となる業務にかかわるのだが、電力を維持し、水道を流し続けることはそうではないのだ)。
 これらの開発は、「私的」な主導、「私的」な医療、そして「私的」な設備に依存している(井戸でさえ、通常は個人がその手で掘るのだ)。若い青年は、私的に所有される診療所(通常、州立病院の公的な実務にかかわる医者に属している)でまっとうな職を獲得する。ある事例では、私が知っている若者は、手術室看護師として手術の方法を覚えており、時には、外科医に何をすべきで、何をすべきではないかを指示することもあった。新しく赴任した「外科医」は政府から免許を受けているにもかかわらず、完全に(そして致死的に)訓練を受けていないことが明らかになった――資格や実地を買うことができる(患者が死んだときには、自身の技術不足よりも神を責めるくらいに大胆、かつ/あるいは口がうまければだが)。住民は、医療を提供する者たちは、気取ったやからであることに気づいている。例えば、地方の集落にいる「薬剤師」は、自家製の液体を目に入れる注射を専門としており、しばしば悲惨な結果を引き起こす。私が知っている若者は、ふつうは、コミュニティ・ヘルスのための州立学校で訓練を受けるのだが、多くの者はさらに互いに教えあう。本が適切な情報源であることはほとんどない、書かれた英語に対する住民の理解力は低く、教科書はまだハウサ語に翻訳されていないからである(いずれにしても、それは読むにはとても難しい)。それゆえ、政府の体制は流行の後を追いかけるが、ヘルス・ケアを提供することに身をささげる若いナイジェリア人が草の根にいる。しかしながら、私は、政府の公衆衛生ではなく、何よりもまず、人びとによる個人的に動機づけられたヘルス・ケアの体制こそが、遠隔地地方における、死亡率と病的状態における著しい変化を引き起こしたのだと指摘したい。
 ただし、ひとつの例外は記されておくべきである。農民、その妻そしてとりわけこどもにとって破壊的な害虫である、メジナチュウは根絶された。海外の政府から助成を受け支援された、ナイジェリア政府によるプログラムだったのだが、体系的に実行され、効果的であった。それは地方自治体による産物ではなかったことは認めるが、従来の意味での公衆衛生によるものであり、それが生を変えたのである。同じように、私たちの集落の長は、彼の前に50年ほど彼の父がしてきたように、真面目に人びとのために尽くしてきた。彼は、ポリオ・ワクチンが投与されるように確保してきたが、それは不完全にしかできなかったことを認めた(人びとにそれ受けるように強制することはできない)。その安全性について多くの公的な議論があったことと、イスラムの少女を不妊にするために開発されたという疑惑にもかかわらず、定数を満たす程度には協力する村民にはポリオワクチンが投与されてきたが、村の行政区域にいるほかのものは皆、放っておかれたことを彼は見ていた。住民は、とりわけそれなしには毎年4月と5月にこどもの死亡率が跳ね上がる、あらゆるはしかに対するワクチンの価値を知っている。しかし、私が目撃したある大きなキャンペーン(はしかに反対する)は、それを求めていた女性やこどもには届かなかった。なぜならワクチンは冷蔵されていなければならず、貯蔵のために与えられた冷蔵庫は「私物化」され(つまり盗まれ)、ワクチンが無駄になったからだ。いかなるときにも、ワクチンを携えるチームのメンバーは、主要な、タールでおおわれた道路から離れることに乗り気ではなく、長くは滞在しない――彼らは女性がこどもとともに彼らのところに着く前に、去ってしまう。個人に対する「奉仕【ルビ:サービス】」の感覚は強い、だが一般的な「公衆」に対する利他的なサービスはまれであるように思われるのだ。

結論? あるいは状況がすぐに変わらないならば、なぜそれが人びとにとって問題ではないのか?

 連邦政府の中核に大きな政治的変化がなければ、地方自治体は、皆に対するプライマリー・ヘルス・ケアを提供するための、自発的で本気の自己改革をするようには思われない。たしかに、他の州政府よりもより良くやっている州政府もある。そして、今ではおそらくより多くの知事がその点を競っているだろう。しかし、地方政府の創出とは、地方のレベルでの政治的不満が凄まじいものになっていった時の、喫緊の政治的課題に対する政治的な解決だった。石油由来の利益はよりよく、広範に配分されなければならず、そして分権化が選ばれた解決方法だった。地方政府に対する州知事の権力をさらに一層増加させることへの熱はほとんどない――分権化は、州都にいる者をさらに豊かにするためのものではない。地方の金とは、仮に地方自治体の区域からはるか遠くで誤用され、投資されようとも、まだそれは潜在的に、現地での生活する市井の人がよりアクセスしやすいものである。
 プライマリー・ヘルス・ケアと初等教育との比較――両者は憲法では地方自治体の責務である――は、ふたつの単純な理由において、衛生が教育と同じ優先順位を有していないことを示す方法である。第一に、近代教育とは、ある人のこどもが生活するには十分な農地がなくなるであろう時に農業をする未来を運命づけられてはいないのならば、就労に必要なものである。第二に、近代教育とは、教育を受けた教員による学校だけが提供するものである。さまざまな方法であなたがアクセスできるヘルス・ケアとは違い、教育は有資格者によって厳格に管理される。もしあなたが職を得て、それを続けたいのであれば、どうにかして資格を獲得し、教育を受けた男、女であるという資質を日常生活と仕事で示さなければならない。それゆえ、1990年代に地方自治体から教員への不払いのために、連邦政府が介入し、地方自治体に認められたひとまとまりの財源から引き出し、教員に確かに支払われるようにしなければならないほどに、学校の囲いを覆う論争は強烈だった。衛生ではありえないほどに、学校教育は重要な問題なのである。この強調は長く遡ることができる。20世紀のアフリカでは、慣習的に学校予算は衛生の予算の4倍もの規模があったことを私たちは知っているが、住民はこどもが教育を受けるために、この優先順位を共有していたとみることができる。実際に、ひとたび、こどもが就学年齢になれば、こどもの死亡率が最もひどい時期が終わる、そのために学校教育はこどもと彼らの両親、双方にとって最良の投資となるのだ。
 対照的に一人の大人として(長期間発達させてきた免疫と抵抗力によって)あなたは、こうした人びとから提供される最小限のヘルス・ケアで何とかやっていける。もちろん、救急の場合には、病院や診療所に(多大な危険と莫大な費用とともに)連れていかれるのだが。しかしながら、最終的には、あなたの生死はアッラー次第であって、医者次第ではない。人びとは公衆衛生を、最も重要な関心ごとが「公共的なもの」ではなく彼ら自身である個人的な仲間に与えられた職業と権力としてみている。なによりも、彼ら自身の(財政上の)衛生を促進しながら、彼らは自らの「公共」を保持している。医療に向けられた植民者の意図に対する深刻な疑念は、政府が主張する利他主義と事業に対する冷笑に、その場を譲ったのだ――彼らが言うには、衛生事業の組織的活動で時間を無駄にするな、あなたが信頼できる良く選ばれたケアによって家族の衛生を確かなものにしろ、地方政府がこれまで公衆衛生とプライマリー・ヘルス・ケアを提供しただろうけれど、それはボーナスみたいなものである。その合間にも、私たちは自分たち自身をケアしなければならないのである。

[注]
1 一例を挙げれば、1987年の「バマゴ・イニシアティブ」は、WHOとUNICEFが組織し、アフリカ各国の厚生大臣が引き継いだもので、物資と児童衛生の分権化と、プライマリ・ヘルス・ケアの準備に焦点を合わせたものだった。予防接種とメジナチュウの根絶も課題に含まれていた。
2 マリについては以下を参照。Jennifer Seely, 2001 “A Political Analysis of Decentralisation: Co-opting the Tuareg Threat in Mali” Journal of Modern African Studies 39(3): 499-524.
3 Elisha Renne, 2010, The Politics of Polio in Northern Nigria(Bloomington: Indiana Univeristy Press.)
4 「現地人であること、先住民性」については以下を参照。Human Rights Watch, 2006, “They Do Not Own This Place”: Government Discrimination against “Non-indigenes” in Nigeria(New York: Human Rights Wathc)特定の場所にとっての先住民と定住者の区別は植民地期以前にさかのぼるが、植民地支配のなかで強固になり、また地方自治体の増加が進んだ1970年代にさらに補強された。また、2002年ごろからジョスではこの区別は大きな論争を読んでいる。
5 家庭内の宗教には、精霊信仰(iskoki, aljann)やおそらく様々な魔術的なまじないも多種多様なアッラーへの特別な祈りと同じように含まれている。耳にした限りでは、家庭内の宗教は非常に手の込んだもので、秘密離(あるいは少なくとも私的)なものに留められており、夫婦のあいだでさえ、隠される。当然、こうした実践は、地方の田舎に限られる。都市部にすむ同僚たちは、私に、彼らの家族のうちで何が行なわれているかを教えて(そして見せて)くれたが、それはよく論じられる類のものではない。家庭内医療とはこのように、まったく別の問題なのだ。それらには、普通の植物、食べ物が使われ、今日では体調の悪い人に元気を与えたり、楽にするための強壮剤として与えらえた丸薬が含まれる。
6 この新たなシステムにおいて、政府の意志は医療に留まらない役割を持っていた。救急の場合や住人が不在の場合は、医師がその県の指揮を取ることになっていた。
7 妖術師が(市井の人びととは違って)腹のなかに持っていると考えられる、決定的な実体とは、氷である――伝統的には一粒の雹で、氷の発生に知られる唯一のものである。

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