第2部 報告・レポート アフリカの「病・医療・障害」 故郷に出会うまで――ザンビアのハンセン病回復者のライフストーリー

PDFダウンロード

本文

アフリカの「病・医療・障害」

故郷に出会うまで――ザンビアのハンセン病回復者のライフストーリー

姜 明江

はじめに

 ウモヨ村は、ザンビア共和国の東の端にある小さな農村である。トウモロコシ畑にはさまれた小道を歩いて行くと、なだらかな丘陵地の日あたりのいい稜線に、ぽっかりとウモヨ村が姿をあらわす。村の住民は約400人。住居や畑といった村の外観も、村人たちの日常の暮らしの様子も、この地域にある近隣の村々となんら変わりなくみえる。しかし、この村は、周りの村々とは全く違う歴史や経験を持っている。このウモヨ村は、過去にハンセン病を発症し、ハンセン病療養所で治療を終えた人たちが、定住の地を求めて移り住み、つくり上げた村なのである★1。
 ウモヨ村のようなハンセン病の回復者が集まって暮らす村や集落はアフリカの諸地域でみられる。その成り立ちや形態はさまざまで、ウモヨ村のように患者や回復者の働きによってつくられたところもあれば、行政や海外からの宗教団体の働きかけによってはじまったところもある。その多くは、ハンセン病治療をおこなう医療施設の近くにつくられ、治療終了後の回復者が移り住んだ。ウモヨ村も、東部州にあるムロンガ病院の近くに位置している。
 ハンセン病は、紀元前から存在していたとされる非常に歴史の古い疾患である。有史以来、世界各地でさまざまな意味づけがされ恐れられてきた病気であり、ザンビアでも例外ではなかった。ザンビアでは、地域によって違いがあるものの、呪術のせいであるとか、罪による業病だといった意味づけがなされることが多かったという。そのため、発症した人を隔離したり、村から追放するなどといった行為も多くみられた★2。
 20世紀に入ると、ザンビアでもキリスト教宣教団(ミッション)の働きかけにより、ハンセン病療養所が設立されるようになる。ハンセン病療養所で治療を受けることができると知った発症者は、治療を求めて療養所を訪れた。ムロンガ病院は、1920年代にアメリカから訪れたミッションによって開設された歴史のある医療施設である。開設してまもなくハンセン病療養所も併設され、ザンビアのなかでも専門的な治療をおこなっていたという。そのうわさは広まり、ザンビア各地、時には隣国のマラウィやモザンビークからも患者が療養所に集まってきた。
 しかし、治療を終えハンセン病そのものは治癒したとしても、故郷に戻ることは、かれらにとって難しいことであった。故郷の人たちから、村に戻ることを拒否されたり、戻ることができたとしても、共用の井戸の使用を禁じる、結婚や葬送などの儀礼などに参加させてもらえないといった、社会的にも、文化的にも疎外された状況で生きることを強いられたからだ。そのため、ウモヨ村のような回復者の暮らす村や集落がつくられていったのである。
 これから紹介する男性ポールは、ウモヨ村に移住した回復者の中でも若い世代にあたる50代の男性だ。毎日、精力的に働いている。彼は「ハンセン病の後遺障害は全くない」と語り、確かに外見上なんら問題なく見える。これから紹介する物語は、ポールが故郷を失い、ウモヨ村という終の住処に辿りつくまでを語ってくれたものである。ハンセン病という逆らえない問題に向かいあい、ときに周りの流れに身をゆだね、そしてときに立ち止まって生き抜いてきた、彼の人生の断片である。

ポール、幼少期

 ポールは、マラウィ共和国の独立前、ニヤサランドだった時代に現在の首都となるリロングエで生まれた。マラウィは、1964年にイギリス連邦内の連邦王国として独立を果たし、1966年には共和制を採用して現在のマラウィ共和国となった。共和制となった同年、マラウィ会議党の党首であったカムズ・バンダ氏が初代大統領として就任した。彼は、マラウィ会議党以外の政党結成を禁止して一党体制を確立し、本人が終身大統領となることを議会で承認させるなど、猛烈な独裁政治を行った。バンダへの忠誠はあらゆる場面で強制され、大統領を非難するものや、反体制派のものは追放や投獄といった刑に処され、殺害されることもまれではなかった。

ザンビア共和国、マラウィ共和国の位置(図:省略)

 そのような政治的に不安定な状況のなか、ポールの父親は、リロングエでも有数の資産家であり名士であったという。ポールは両親や兄弟たちと、不自由ない暮らしを続けていた。しかし、その後、彼は両親との別れ、祖父母とのザンビアへの逃亡と激動の少年時代を送ることになるである。
 ポールが10歳となった年、モザンビークからある団体がリロングエを訪れた。そして、ポールの父親から移動用の車を借り上げるべく手配をした。ところが、このグループは反カムズ・バンダ派の一味であり、なんらかの目的を持ってバンダに近づこうと企んでいたのである。もちろん、ポールの父は当初そのようなことは露知らず、車を貸し出す約束をした。
 ところがかれらの陰謀が大統領の知るところとなった。そしてまた、メンバーたちも、自分たちの素性が大統領に漏れたことを知るのである。身の危険を感じたかれらは、一目散にリロングエから逃亡する。ポールの父親は、そのグループの企みには一切関係はない。しかし、反大統領派である人物の手助けをしたものは、同様に反体制の人物とみなされ処罰される危険があった。そこで父とおじは、自分自身、ひいては家族にも影響が及ぶことを恐れ、すぐさまリロングエから逃げ隠れることとなったのである。
 「少しでも大統領に反対するものは、簡単に殺されてしまう時代だった」とポールの語りに裏付けされるように、父は隣国ザンビアの首都ルサカに、おじはザンビア東部州の州都チパタにその姿を隠した。

ザンビアへ

 リロングエに残されたポールは、ザンビア東部州に暮らす祖父母に迎えられることになり、マラウィを離れることになった。1970年代初めのことであった。一方で、この移住は母との生涯の別れとなってしまう。ポールがリロングエを離れるとき、母親はその地に残った。そしてザンビアへの移住以降、母親との再会はかなわず、現在もどこに暮らしているかわからないままである。
 一年ほど東部州の南にある農村で暮らしたのち、同じ州の地方都市ペタウケに祖母と移った。このときすでに、ポールはハンセン病を発症していたようだ。身体中に斑紋が生じ、痛みは日に日に増していく。そこで彼は祖母に相談するが、祖母は彼を病院につれていくことはなかった。それどころか、家から出ないように告げるのである。痛みに耐えかねたポールは、祖母の元を逃げ出して、ペタウケにあった病院にどうにかたどりついた。
 その病院でハンセン病という診断を受けた彼は、しばらく入院し治療を受けることになった。しかし公立でさほど規模の大きくなかったその病院には、ハンセン病の専門家がいなかった。そのため十分な治療ができず、70kmほど離れた町にあったミッションの運営する病院での治療を勧められた。そこでポールは一人で次の病院に向かうのである。
 転院先のミッション病院には、ヨーロッパの教会から派遣された医師がおり、地域の信頼を集めていた。そして、ポールもようやく治療らしい治療を受けることができたのである。とはいえ、その医師はハンセン病治療の専門家だったわけではなく、この病院でも症状はよくなることはなかった。そこで専門医のいたムロンガ病院への転院を再度、勧められたのである。
 このミッション病院とムロンガ病院は直線距離でも100km以上は離れている。暮らしていたペタウケからは、もっと遠く離れてしまう。村からさらに離れてムロンガ病院に移るのは不安だらけだったが、その不安以上に身体中におこる症状が彼を痛めつけていた。ただただ治療を求めて、彼はムロンガ病院に移った。彼が12歳のときだった。
 ムロンガ病院への移動の際は、医師がミッションの車を手配してくれ、また、祖母も付き添ってくれた。しかし、ムロンガ病院に到着すると、まだ幼いポールに祖母はこう告げたのである。「この病気がもし治っても、村には戻ってくるな」と。祖母は、症状がひどくなってポールが手足の指を失い、村でハンセン病であることが広まり疎外されること、そして自分にもその影響があることを恐れたのだ。幼いポールはこの言葉の意味をすでに理解していた。「この病気の人は指を失くす。そうするとその人は村に帰るべきではない。もし、指や鼻を失ってしまうと、みんなその人を怖がった。だから、ここにコロニーがつくられた。ここで治癒しても、故郷に戻ったら人びとは差別してくる。そして結局この地にもどってくることになりコロニーに住むのだ。」

コロニーでの生活

 このようにして、ポールはムロンガ病院に併設されたハンセン病療養所で、治療を受けることになった。病院に残された記録によると、療養所の病床数は時代によって増減するものの、数十の規模であったようだが、ミッションはこの療養所のすぐそばにコロニーと呼ぶ住居群を設けていた。療養所には重症の患者が入所し、コロニーには家事を含む日常的な生活を送ることができる患者、ハンセン病は治癒したが皮膚症状や神経障害などの治療を続ける回復者、そしてその家族などを入所させた。例えば、全盲の患者や回復者であっても、周囲の入所者や家族の手伝いによってこのコロニーで暮らしながら治療を受けていた。多い時には200人以上が暮らし一つの村ほどの規模がありながらも、ミッションが整備し管理する病院の一部であった。患者や回復者たちとその家族が利用できる学校、商店や畑もミッションにより提供されていたという。
 ポールは、コロニー内の住居で単身の男性患者たちと暮らすことになった。若くて障害のあまりみられなかった彼は、視力や手足に障害を持つコロニー入所者の生活を手伝いながら治療を続けた。
 コロニーには入所している人たちに向けて、ベーシック・スクール(日本でいうところの小学校、1年生から7年生まで)が併設されていた。ポールは以前住んでいたペタウケで3年生を修了したのだが、病気のために学業を中断したままになっていた。そこで、治療のおかげもあり体調が良くなったポールは復学を希望する。学校に真面目に通い、順調にベーシックを卒業した彼は、次にセカンダリー・スクール(8年生から12年生まで)への進学を希望した。しかし、セカンダリーはコロニーに設置されておらず、コロニーの外にある学校に進級しないといけなかった。そこで彼は、学籍の空きをペタウケの学校に見つけ出した。ミッションも進学を許可し、彼は希望に胸を躍らせるのであるが、ミッションに学費の支援を拒否されてしまう。これまで住居、食料、衣類など、生活に必要なものは全てミッションからの支援を受けながらコロニーで暮らし貯金などなかった彼は、急遽、学費を工面する必要にせまられたのである。そこで、彼は過去に生き別れた父親に頼ろうと、父親捜しをはじめたのだった。

父を探す

 ポールはまず、生まれの地リロングエを訪れ、両親を探しまわった。バンダ大統領の圧政ゆえ逃げ出したリロングエであったが、もしかすると戻っているのではないだろうか、戻っていなくとも、なにか情報を得られるのではないかと聞き込みをはじめた。しかし両親にあえるどころか、治療中の身体を酷使し足の痛みが増すばかりである。痛みに耐えながら両親を探していたある日、父親を知るという男性に出会う。その男性は、「チパタに住むおじを探しなさい、おじが父の居場所を知っている」、とポールに告げた。そこで彼はチパタに向かう。足の痛みを我慢しながらのつらい行程であったものの、チパタでおじを探し当てることができた。おじの言うことには、父親はルサカに暮らし働いているとのことだった。「工場にいって、製造ラインをチェックしなさい、そこで見つかるはずだ。ルンクヮ・トランスポートと描かれたトラックを見つけなさい。そこの工場だ。」おじの言葉を頼りに彼はチパタから遠い道のりを首都ルサカに向かった。1983年のことだった。
 彼はルサカでなんとかその工場を見つけ出し、とうとう父親に会うことができた。しかし父親の反応は、彼の期待を打ち破るものであった。「僕は父親に近況と学費の問題を訴えた。すると、母親の所へ行って頼めと言われたんだ。当時、父は他の女性と結婚していた。もう僕のことまで気がまわらなかった。」
 父親は、お金は後で渡してやるからオフィスの外で待つように、と告げ仕事に戻ってしまった。しかし、その態度に納得いかず傷ついたポールは、父に再度会うことなくペタウケの学校に帰ってしまう。

就学の断念、盗みの生活

 彼は、なんとか学費をやりくりして2学期間(約6か月)ペタウケの学校に通学したが、学費を得るあてもなくなり退学を余儀なくされてしまう。そうして、仕方なく彼はムロンガ病院に戻るのである。しかし、戻ってきた彼にミッションの対応は冷たいものであった。
 「ミッションは、もはや学校に行かないのであれば、ここ(コロニー)に住むことはできないと言う。かれらは私にウモヨ村に行き、一人で住むように告げた。1984年のことだったよ。」このようにして彼はコロニーを去ることを余儀なくされてしまった。 このことは、約8年という長いコロニーでの生活のなかで、彼にとって一番つらかった経験として刻まれている。
 「ペタウケの学校を辞めてコロニーへ戻った時が、なにより一番つらかった。
 なぜならミッションに『君が学校を修了すると期待していた。もう行かないのであれば自立しなさい。私たちは、君が学校に行かないのであれば、どんな援助もすることはできない』と言われたから。」コロニーに戻れば以前のように暮らせると信じていたポールにとって、ミッションからの対応は冷徹なものであった。
 彼はコロニーを去り暮らすことになった。しかし、すぐに生活のためのお金を得ることは難しかった。そこで、彼は盗みをはじめたのである。ミッションに入ってくる海外からの支援物資の古着を標的に、病院の敷地内にある倉庫に忍び込んでは盗みを続けた。そしてそれらを売ってはお金を手に入れる。当時、洋服が手に入りにくかったこの地では、ミッションに入ってくる海外からの古着は垂涎の一品だった。そのためおもしろいように売れたという。「自分自身を助けるためにね。」彼はおだやかに振り返る。
 しかしある日の盗みの最中、とうとう警察に捕まってしまった。警官に連行されなぜ窃盗をしたのかと事情をきかれた彼は、これまでの身の上について説明した。すると彼の身の上を哀れに思った警官は、その場で釈放してくれたという。さらに、この逮捕の一件を知った友人の父親が、彼にムロンガ病院での日雇いの仕事を斡旋してくれることになった。1984年の年末のことだった。

ムロンガ病院に就職、そして政府職員になる

 指定された日にムロンガ病院を訪れると、病院まわりの雑草の刈り取りや花壇を手入れする庭師の仕事を与えられた。1985年の1月の話である。彼は勤勉に働き続けた。「1986年、僕は病院内の厨房に移動することになった。本館の厨房で食事を受け取って、自転車で食事を少し離れたところにある病棟(別棟にあった眼科、ハンセン病療養所)に配達する。当時、ブラッドフィールドという名の白人が働いていて、彼が南アフリカから大きな自転車を買ってきた。その自転車はもともとアイスクリームを売るために作られた自転車だったよ。そこに患者の食事を載せて運んだ。僕は2つの仕事を受け持っていた。金曜、土曜、日曜、僕は自転車を使って、シマ(トウモロコシの粉を練って作る固粥、この地域の主食)やポリッジ(シマより軟らかく、粥状にしたもの)を運んだ。
 夕飯のシマもね。その年、手術室の中央器材室の人手がたりなくなって、ボランティアでそこも手伝うことになった。力仕事だ。まだ仕事はパーマネントの雇用ではなく、日雇いの立場だった。」
 まじめに働き続けた彼は、1986年の6月には日雇いからムロンガ病院の正規職員となった。そして配膳から施設課に移動し、施設課では2000年まで働いた。2000年以降は契約がムロンガ病院から政府職員のペイロールに異動され、さらによい条件で働くことができるようになった。そして現在に至っている。

ウモヨの村内(写真:省略)

コロニーからウモヨ村へ

 少し時代が前後するが、進学をあきらめコロニーを離れることになったとき、彼は住む場所を探す必要があった。盗みを働いていた間どのように生活をしていたのだろうか。
 コロニーをでた当初、ルンダという当時40歳ほどだった男性が、行く当てを失ったポールを彼の家にかくまってくれた。ポールの心中にペタウケの祖母のもとに帰るという選択肢は無く、ルンダも彼の祖母との一件については知っていた。ルンダも過去にハンセン病を患い、コロニーに暮らし治療を受けた経験があった。治癒後はコロニーのベーシック・スクールの教師として雇われ、病院近くの職員用住宅で妻と子どもとともに暮らしていた。そこに教え子であったポールを迎え入れたのである。現在40歳近いルンダの娘は、当時のポールとの暮らしを「彼が盗みを始めたから、父はとても心配していた。そこで父は、彼にウモヨ村に移って一人で住み、独立するように言った。彼はミッションで泥棒ばかりしていたけど、私の家のものを盗んだことはなかった。私とはいい兄弟だった」と語っている。ルンダに心配をかけたポールであったが、行き場のないままコロニーを退所した自分を迎え入れてくれたルンダには感謝しているといい、現在も家族ぐるみで親しく付きあっている。
 このようにしてポールはウモヨ村に移ることになった。1984年、ちょうど時期を同じくして、ミッションの方針によりコロニーが閉鎖となる。そのためコロニーを退所することになった人たちが暮らすための住居を、ミッションがウモヨ村に準備させた。そのうちの一軒で、彼のウモヨ村での生活が始まったのである。
 ウモヨ村での暮らしも20年近くになった。ムロンガ病院を訪れて以来、ペタウケの村を訪れることはなく、祖母にも一度も会っていない。現在、ウモヨ村で妻と5人の子どもと暮らしている。ムロンガ病院の職と広大な畑を持ち、また近年は村内に果樹園を作るなど、ウモヨ村でも屈指の精力的に働く人物である。「ここが自分の暮らす場所だ。故郷だ」と彼は語る。

学校帰りに遊ぶ子どもたち(写真:省略)

解説

 ここからはポールの語ってくれた半生をもとに、その社会背景などを簡単に解説したい。裕福であったポール家族の生活は、カムズ・バンダ大統領の圧政とモザンビークからの客人により、一瞬にして崩壊することになった。そのときの状況を詳しく説明する彼は、当時、幼かったにもかかわらず、すでに彼をとりまく政治的な複雑な状況を理解していたのかもしれない。まだ幼いポールは親から引き離され、都市での暮らしから一転して農村での生活を送ることになったのである。
 彼は10歳のころに発症した。ハンセン病では、神経障害のためにさまざまな神経痛が生じることがある。多くの場合で、神経痛に加え発熱などの全身症状と皮疹の悪化をともなう。幼い彼には恐ろしい痛みであったであろうことは想像に難くない。しかし、ハンセン病について知っていた祖母は、ポールの状況を知っても病院につれていくことはなかった。医療へのアクセスが難しかった当時そして現在も、ここはンガンガ(Ng’anga)と呼ばれる伝統的な治療者の利用がさかんな地域であるが、祖母はその治療すらも拒み、彼を家に閉じ込めてしまう。ウモヨ村に暮らすハンセン病の回復者たちのなかにも、過去、故郷において病気のことを村人たちから揶揄され、一緒に食事をとることや井戸を使うことを禁じられた、と語る人たちが少なからずみられる。祖母がポールに「治っても帰ってくるな」と告げたことからも、彼を家に閉じ込めたのは、周囲に彼の症状を知られないためという理由もあったのかもしれない。
 病気の痛みに耐えかねたポールは、ひとり病院を訪れる。その時代、ハンセン病患者は保健省やミッションに登録され、病院の裁量によって転院させられることもあった。彼も、ペタウケの病院、ミッション病院、そしてムロンガ病院へと転院することになる。ムロンガ病院にやってきた彼は、コロニーで共同生活を送った。このような形態でハンセン病の治療が行われることは、アフリカ諸地域でみられた。またウモヨ村に暮らす回復者の多くが、コロニーにあったベーシック・スクールに通っていたと話している。学校はコロニーに常設され、無料で通うことができたという。ウモヨ村に暮らす60代から70代の人たちは、村の若者たちにくらべ比較的英語を話すことができるのだが、それはコロニーにあった学校で習ったものだという。
 ポールもコロニーのベーシック・スクールを卒業し、セカンダリーへの進学を希望する。一方で、現在でも農村部では、セカンダリー・スクールへの進学は金銭面で難しい。また学籍の空きを探すことも難しく、就学率は高くない。セカンダリーを卒業することは、農村部では現在でも職への近道となり、また尊敬されることなのである。ポールはセカンダリーへ進む学費を得るため、痛む身体で父親を探しだし支援を頼む。しかし、父はすでに母とは別の女性と新しい生活を築いており、ポールの申し出を苦々しく受け取るのである。父との離別を決意したポールは、学費のあてのないまま復学するものの、継続できなくなりコロニーに戻ることになる。しかし、コロニーの対応も冷たいものであった。
 彼がコロニーに戻った1980年代は、効果のある経口剤が手に入るようになったことから、「早期診断と治療」を重きにおいた外来診療を拡大している時期であった。また、ちょうどミッションがコロニーの閉鎖を決定する直前でもあり、ミッションも「コロニーという形のハンセン病対策」や「回復者のケア」への関心が薄れてきていたのかもしれない。コロニーに戻ることができなかった彼を受け入れたのは、ハンセン病回復者であり、またコロニーの学校の教師であった男性ルンダであった。現在のポールは非常に穏やかな人柄で、かつ商才にたけた男性である。セカンダリーに進みたくて奔走したことからも、まじめに学業に取り組んでいたと思われる。ルンダもまさかポールがミッション内で盗みをはじめるとは思わなかったという。ミッションに対し、恩義と不満という、相反する気持ちを抱いていた回復者は少なくない。ミッションで治療を受けたこと、多くの支援をもらったこと、また、故郷で身の置き場のない状況から開放されたこと、回復者はミッションに対しての恩を感じている。他方で「ムロンガ病院にいるミッションのスタッフは、海外からの寄付の品々(衣類など)をまず自分たちのものにする。そして残り物しか私たちにまわさない。それがアメリカの本部に知られることになった。そして海外からの支援が終わってしまった。かれらは本当にクリスチャンなのか」と村人たちは語る。また「かれらは私たちの写真をとって海外に送る、そして支援を得る。しかしその物資を自分たちのものにしている。そのせいで海外からの支援がなくなってしまった」という語りもたびたび聞かれた。戻る故郷をなくし、コロニーにやってきたかれらは一時期は十分な、周辺の村の人たちがうらやむほどの支援を受け生活していたこともある。しかし、安定しない援助の方針には失望の念を抱いていた。ポールもコロニーでの生活を尋ねると「学校を辞めて戻り、ミッションから拒否されたときがコロニーでの生活のなかで一番つらかった」と退学当時のことを語っている。ミッションに対し、病気の治療と新たな居場所をもらった気持ちと、ミッションに反古にされたことによる喪失感のような感情があったのかもしれない。盗みをくりかえしていたポールは、恩師ルンダからウモヨ村に移り、自立するよう促される。そのようなポールをウモヨ村に暮らす周囲の人たちが支えた。友人の父は日雇いの仕事を紹介し、村では、コロニーでともに暮らし先にウモヨ村に移っていた回復者たちが、彼に農地を分け与えた。この農地の譲渡は、他の回復者でもみられる。民族が異なり血縁や地縁がなくともおこなわれ、また興味深いことに現在でも世代を超えて続けられている。
 現在、ウモヨ村には約400人、90世帯ほどの家族が暮らし、うち30人弱が回復者である。回復者の平均年齢は60歳を超えた。回復者の平均年齢が高く、また人口割合が低いのには理由がある。まず、コロニーが完全に閉じられたために村への回復者の流入が1985年を最後に激減したこと、回復者の高齢化、子孫となる人口の増加などがあげられる★3。
 回復者以外の住民の多くは回復者の子孫である。日本では法のもと強烈な隔離政策がおこなわれたが、ザンビアでは療養所やコロニーにおいての婚姻や子どもを持つことは自由であった。そこで、回復者どうし、また回復者と回復者の子どもといったカップルの婚姻が頻繁にみられた。例えば、夫は回復者、妻は回復者どうしの夫婦の娘で、コロニーで出会いコロニーの教会で結婚式をあげ、その後ウモヨ村に移ってきたといった具合だ。
 ウモヨ村の一日は、こんな感じだ。日の出のころにはみんなすっかり起きだして、男性たちは畑や仕事にむかい、女性や子どもたちは水汲みや調理に忙しくしている。お昼も過ぎると時間はゆっくりと流れだし、住居の軒先では女性たちが集まって家事や農作業の手を動かしながらもおしゃべりに花を咲かせ笑い声が聞こえる。夜になるとどこからか子どもたちのかわいい歌声が聞こえだし、輪になって踊っている様子がうかがえる。現在、ウモヨ村に暮らす回復者たちは、ここが自分たちの故郷なのだと胸をはる。生まれ育った場所と生活環境の異なるウモヨ村という新天地で、つながりをつくりあげ、世代を超えて生活を共にしている。

大きな木のしたが村の集会所(写真:省略)

おわりに

 ウモヨ村に暮らす回復者は、ハンセン病を発症したことにより思いもよらなかった生活を余儀なくされ、ウモヨ村に安住の地を求めた。そして、今ではウモヨ村が自分たちの故郷だと語る。もちろん、ポールの語りからだけでは、かれらの、ひいてはハンセン病者の人生の軌跡や、その苦しみやあらがい、そして生まれ育った故郷への想いを追うには十分ではない。
 ポールの語ってくれた物語は数時間足らずのものであり、彼の人生の断片にしかすぎない。ポールは、都市に暮らす裕福な家庭の子どもとして育った。両親も彼の明るい未来を疑うことは無かっただろう。そう考えれば、彼の語りは、ごく普通に生活を送ろうとしていた人物の語りなのである。一方で、政情や、とりわけハンセン病という病気のために、自分ではあらがいようのない現実のなかで彼は生きることを余儀なくされた。ハンセン病は、医療、政策、社会や文化的なまなざしといった、さまざまな問題や議論を抱える疾患だ。ポールは家族や地域社会から疎外され、また医療政策や国際的な援助によって人生を左右されながら、生活をつくりあげてきた。ポールが、そしてザンビアで暮らすハンセン病者がこの病気よって受けた痛みは、ローカルなものであると同時にグローバルなものであり、ハンセン病における問題を見つめることは、同時に普遍的な人類の経験を見つめることだと、ポールの語りは訴えかけてくるのである。

付記

 ハンセン病は「らい菌」と呼ばれる細菌によって引き起こされる慢性の感染症である。らい菌は非常に弱い菌であるため、感染力は極めて弱い。そのため感染したとしても、症状のないまま自然に治ることがほとんどである。発病には、菌の量や個人の免疫力、栄養や衛生環境が影響しているといわれ、保健衛生の整ってきた現在では発症はまれな疾患となった。また、有効な薬剤と適切な使用法の確立により、現在では完全に治癒する疾患である。しかし、発見の遅れや適切な治療がおこなわれないことにより、神経障害などの障害を残すことがある。また、治療法が確立した後でも、医療基盤の充実していない地域では、誤った診断のため治療にたどりつかない、薬を入手できない、また医療へのアクセスが難しいといった問題から、症状を悪化させ後遺障害を残してしまう人も見られる。ウモヨ村で暮らす回復者の多くも、治療が遅れたことによりなんらかの後遺障害を抱えて暮らしている。ハンセン病については、医学、社会、史実など多面的にとらえる必要がある。ハンセン病回復者、医療関係者や研究者によって数多くの手記や記録が出版されているので、ぜひそれらも参考にしていただきたい。

謝辞

 本稿は筆者が2007年より訪れているザンビア共和国のウモヨ村、ムロンガ病院における聞き取り調査を基に記したものです。ウモヨ村、ムロンガ病院のみなさまに感謝の意を表します。

[注]
1 本稿では、現地語の訳の一般的な表現として「ハンセン病」を用いている。コロニーに関しては、現地語はなくコロニーと呼ばれていたこともあり、そのまま記している。人名や村の名前といった固有名詞は、国名と都市名を除いて、全て仮名を用いている。
2 Griffiths, P. G. 1965. “Leprosy in the Luapula Valley, Zambia: History, Beliefs, Prevalence and Control.” Leprosy Review 36(2): 59‒67.
3 1988年度の住民登録が第二村長宅に残されており、それによると当時の全人口は267人うち回復者は74人で全回復者の人口比率は27.7%であった。2008年のデータと比べると、ハンセン病を経験していない、若い世代が増えてきていることがわかる。これら若い世代は主に回復者の子や孫、またその配偶者にあたる人たちである。

生存学研究センター報告

サイトポリシー | 個人情報保護方針 | サイトマップ | お問い合わせ
アクセシビリティ方針