第二部 死刑存置論と死刑肯定論 ──カント『人倫の形而上学』における死刑についての考察──

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死刑存置論と死刑肯定論
──カント『人倫の形而上学』における死刑についての考察──

櫻井悟史


1 はじめに

 本稿の目的は,カントの『人倫の形而上学』を手がかりに,日本の死刑制度について,死刑執行,とりわけそれを誰が担うべきかに注目して論じることで,従来の死刑制度存廃論を批判することにある.具体的には,カントの『人倫の形而上学』の「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない」に関する箇所の解釈から,現行の死刑制度における執行人とは異なる執行人についての可能性を示し,そのことをもって現行の死刑制度をそのまま存置(retention)することと,死刑制度を肯定(affirmation)することは異なること,死刑制度を肯定することと,現行の死刑執行停止を求めることは両立することを明らかにする.
 付言すれば,死刑存置論とは,すでに実装されている現行の死刑制度をそのままの状態で保持(retention)することを擁護する議論のことである.すなわち,どこの国で存置論が展開されるのかによって,存置論が擁護する内容は変化する.また,それは死刑廃止国で死刑存置論が不可能なことも意味する.死刑制度が存在していないのでは,死刑制度をそのままの状態で保持することなどできないからである.あえていえば,死刑制度がない状態を保持するので,死刑廃止国における死刑存置論は,死刑制度を実装しないままにする論を指すことになる.
 一方,死刑肯定論とは,個別の国家の状況に影響を受けない,より形而上学的な論といえる.死刑肯定論は死刑制度が実装されているいないにかかわらず,死刑制度を理念的に擁護する.つまり,死刑肯定論における死刑は必ずしも実装されている死刑制度と関係があるわけではない.その理念的な死刑制度は実装不可能な可能性すらある.ところが,死刑制度が現に実装されていることから,理念的な死刑制度と実定法的な死刑制度は同一視される傾向にある.カントはたしかに死刑制度に対して肯定的ではあるが,それがすなわち現行の死刑制度に肯定的であることは意味しない.そのことを死刑執行人に注目することで明らかにする.それこそが,本稿の要点である.
 本稿の構成は以下のようになっている.2節で日本の死刑制度における死刑執行人の現状を,3節では誰が死刑執行を担うべきかについての先行研究を確認する.そして,4節で誰が死刑執行を担うべきかについての思考実験的な検討を行なったのち,5節でカントの刑罰論の基本を確認し、6節でカントの死刑論を執行に注目しつつ検討する.最後に,本稿の意義について,死刑執行停止の議論と関連させつつ述べる.
 なお,本稿では,死刑判決を下すことについての是非は扱わない.死刑判決についての是非と死刑執行についての是非は別の問題としてとらえることが可能だからである.事実,アムネスティ・インターナショナルが唱える「事実上の死刑廃止国」とは,10年以上死刑執行がない,死刑判決が存置されている国のことを指すのであり,そうした国,たとえば韓国では死刑判決と死刑執行が同一の問題として扱われているわけではないことに留意されたい.
 また,筆者の死刑についての見解は,カントと一致するものではないことをあらかじめ断っておく.死刑を存置するか,廃止するかという二元論的問いに重なっている,死刑を肯定するか否定するかという問いを剔出することが本稿の目的であり,そのためにはカントに注目することが有効であること,そして多くの死刑論のなかで,カントの死刑論がやはり強力であることなどの理由から,ここではカントを手がかりとすることとした.後述するが,カントを乗り越えるためには,「人を殺害したのであれば,生きなくてはならない」と断言する必要がある.筆者は,このことを刑罰論のなかでいかに断言し得るかを今後の課題とする者であり,現行の死刑制度に対しては即時の執行停止を求める者でもある.


2 死刑執行人をめぐる日本の現状

 死刑制度についての議論は死刑存廃論と称される.たとえば,2010年7月に千葉景子法務大臣(当時)らによって法務省内部に設置され,2012年3月まで活動した「死刑の在り方についての勉強会」第6回における資料は,「死刑制度の存廃に関する議論の状況」となっている1).そこでは,死刑制度存置論の立場と廃止論の立場という二つの項目を立てた上で,それぞれの議論がまとめられている.死刑を存置すべきか,あるいは廃止すべきかが争われるから死刑存廃論なのである.そして,この論は死刑を肯定すべきか,否定すべきかについての議論と完全に重なると考えられる場合が多い.少なくとも,先の「死刑の在り方についての勉強会」では完全に重なっている.しかし,存置(retention)という語が端的に表しているように,存置論は現行の死刑制度をそのまま残すという意味合いが強い.現行の死刑制度に多少の不満があったとしても,基本的にはそれを黙認する,それが死刑存置論なのである.
 死刑制度を存置すべきか廃止すべきかについて議論する際に,死刑執行人に焦点が当てられることはほとんどない2).死刑存廃論が想定している主なアクターは,(1)加害者,(2)被害者,(3)被害者遺族,(4)裁判官,(5)国民であって,死刑執行人については,死刑執行に伴う精神的苦痛=「死刑執行人の苦悩」(大塚 1988)もあるから,そのことに鑑みて,死刑は廃止しなければならないという,死刑廃止の理由の一つとして取り上げられるにすぎない3).
 ここには,死刑の存廃が裁判で争われる場合,死刑執行を担う者は裁判における直接的利害関係者とはみなされないので,死刑執行人に焦点があてられることはないという事情もある.無論,死刑執行を担う者,すなわち日本の場合は刑務官自身が裁判を起こせば別であるが,現役の刑務官が死刑について意見するのは極めて難しいといわざるをえない4).
 そもそも刑務官であれば,誰もが死刑執行人となるわけではない.死刑執行の施設がある拘置所に,死刑執行の際に偶然勤務していた刑務官が,1回につき特殊勤務手当2万円を月給とは別に支払われることによって担うこととなっているにすぎず,その経験者は刑務官全体でも極めて少ない.また,1991年以降,刑務官の職務規程に死刑執行を担うことは明記されておらず,国家公務員法98条1項「職員は,その職務を遂行するについて,法令に従い,且つ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」のみが,刑務官が死刑執行を担う根拠となっている.こうした状況下で,そもそもなぜ刑務官が死刑執行を担っているのかについては,小河滋次郎以降,すなわち100年以上まったく研究されてこなかった.

3 誰が死刑執行を担うべきかについての先行研究

 とはいえ,誰が死刑執行を担うべきかという問いは,新しい問いではない.たとえば,アウレリウス・アウグスティヌス5)やトマス・アクィナス6),マルティン・ルター7)らは,それぞれ微細な違いはあれど,基本的に国家権力の行使者たちは神に由来するとし,「人を殺してはならない」と「罪人は殺してもよい」が神を媒介させることによって両立することを示したうえで,死刑を肯定している.
 ところで,現行の法は神に由来するのではなく,人間に由来する.具体的にいえば,立法府,ひいては国民主権に由来する.ここから,国民が死刑執行を担っているととらえることも可能であるが,このことについて,ジャン=ジャック・ルソーは,立法する国民と,公僕としての政府を分け,国民が死刑を執行するのではなく,行政機関が執行するのだとした(Rousseau 1762=1954: 55,83-5)8).
 行政機関が担うのであるとしても,どの行政機関が担うのかについては議論の余地がある.日本の監獄学を確立した明治期の学者である小河滋次郎は刑罰を執行する行政機関が司法省であることに強く反対していた(櫻井 2013).そもそも監獄行政は内務省に属するものであったが,1900年に司法省へと移管されたという経緯がある.この移管に先立って,小河は監獄が理論上も実際上も内務省の監督権の下にあるのが当然かつ便利であると断言している(小河 1892: 8).監獄は行政に属するものであるが,当時の司法省は,強い司法行政権を有していたため,純然たる行政機関ではなかったという背景もあった.こうしたことに鑑みて,小河は死刑制度を存置するのであれば,その執行は検察官か裁判官に担わせればよいと名指しした(小河 1902: 180).
 わざわざ名指したのは,刑事施設で働く刑務官が死刑執行を担うことだけは,小河のなかでありえなかったからである9).小河にとって,監獄および監獄職員は社会復帰と連動する刑罰理論から導出される.これは,現在の日本の刑事施設も同様である.一方,死刑は社会復帰を目指す刑罰ではなく,受刑者に苦痛を与えることだけを目指す刑罰であり,その目的が異なっている.すなわち,もし死刑執行の職務を甘んじて受け入れる刑務官がいるとすれば,その職員は刑務官としての適性に問題がある,とする.そのような刑務官は自身の出自の刑罰思想をまるで理解できていないことになるからである.こうした刑務官の職業倫理と死刑の矛盾は先行研究でも指摘されている(澤野 2004).
 また,小河は,欧米諸国を参照しながら,裁判官や検察官が不可ならば,死刑執行を請負業者に委託すべきだとした.たとえば,死刑を存置していた当時のイギリスがそうした制度をとっていた.日本の死刑執行方法が,そもそもイギリスの植民地であるシンガポールを参照して確立されたことに鑑みれば,日本がこのような制度をとっていたとしてもおかしくはない.
 ところが,実際には監獄の職員が担うこととなっており,さらにこの状況は,死刑執行方法とともに100年以上変化していないという現状がある.この現状の根拠は,機械の登場によって死刑執行に能力は不要となったという誤解10),江戸時代にみられた死刑介添人への差別,そして上司への服従という,三つの社会的条件が経路依存的に重なりあった結果という歴史的な経緯にしかない(櫻井 2011).
 すなわち,刑務官が死刑執行を担うべきでない理由はいくつもあるが,刑務官が死刑執行を担うべき理由は特にない.それにもかかわらず,刑務官に死刑執行を担わせることを擁護するのが,日本の死刑存置論なのである.
 それでは,裁判官や検察官,あるいは請負業者に死刑執行を担わせるべきなのだろうか.そうした,誰が死刑執行を担うべきかという問いが立ち上がってくることになる.

4 誰が死刑執行を担うべきかについての検討

 誰が死刑執行を担うべきかという問いについて,先に確認した死刑存廃論において想定される加害者,被害者,被害者遺族,裁判官,国民という5つのアクターに加え,機械,快楽殺人者を検討することからはじめたい.なお,以下では犯罪を殺人に限定する.その主な理由は,日本の死刑のほとんどが殺人と関連しているからである11).ただし,殺人事件の場合,被害者はすでに存在せず,被害者が死刑執行人となることだけはありえないため,検討から外す.
 (A)死刑囚自身が毒薬等を用いて,自らの死刑を執行するということについてはどうか.しかし,これは現行の日本の死刑制度に鑑みれば,自殺刑であって,死刑とはいえない.死刑執行は第三者の手によってなされなければならないことに現在の日本ではなっているし,現存する全ての国の死刑制度がそのような形式をとっている12).特に,日本の死刑執行は,死刑囚の自殺について拘置所の管理責任を問われて以来,自殺防止のために,死刑執行を当日の朝に言い渡す方式に変更してさえいるのである.
 (A)と関連して,(A’),死刑囚Aが死刑囚Bの死刑執行を担えばよいということがある.これは,最後の死刑囚Zの死刑執行を担う者がいなくなることから否定される.最後だけ別の者が担うのであれば,その別の者とは誰かといった問題が再浮上することになる.
 (B)被害者遺族が死刑執行を担えばよいということについてはどうか.これは六つのことから否定される.ひとつ,被害者遺族が死刑執行を担うとした場合,復讐を国家が保障することとなり,それは近代刑法の原則に反すること.ふたつ,被害者遺族の中に死刑に肯定的なものと否定的なものがいるといった,被害者遺族の多様性があること.三つ,被害者遺族がいない場合,たとえば一族が皆殺しにされた場合などは,死刑執行を担うものがいなくなること.四つ,逆に被害者遺族があまりにも多いとき,しかも一つの家族ではなく複数の家族が交錯している場合,死刑囚の命が一つしかないため,全員死刑に参加することが難しいこと.たとえばテロによって殺された100名以上の被害者のそれぞれの遺族全員が同時に絞首刑を執行するということはほぼ不可能である.五つ,自分の家族を殺した死刑囚は,加害者であり,かつ被害者遺族となるため,加害者が死刑執行を担うとなってしまうこと.最後に,なぜ遺族なのかについて,明確な理由がないこと.たとえば,AがBを殺した場合,Bは家族と疎遠であったが,いつも行動を共にする親友Cがいたとする.このような場合,被害者遺族が死刑執行を担うとするなら,ほとんど関係のない家族が血縁というだけで担うこととなるのだろうが,なぜ家族同然の親友Cが死刑執行を担ってはならないのかについての根拠が不明確である.
 (C)裁判官が死刑執行を担えばよいということについてはどうか.裁判官が死刑執行を担う場合,司法と行政が一体化することとなり,三権分立の原則から外れてしまうため,それは認められない.それでは,法務大臣や検察官はどうか.死刑執行の指揮をしているのは,現在も検察官であるが,ロープを首にかけたり,ボタンを押したりといった直接的な殺人遂行行為は担っていないので,その意味で,現在の死刑執行は検察官が担っているとはいえない.これらの一連の作業を,法務大臣か検察官のいずれかに担ってもらうというのがこの案であるが,それらのうちの誰が担うのかということで,再び議論がはじまることとなる.つまり,刑務官が死刑執行を担うこととなっているのと同じく,決定的な条件がここにはみいだせない.なお,石塚伸一によれば,法務行政の長たる大臣に判断が委ねられていることについては,「人の命が政治的に利用されることのないように配慮し,つねに人道的観点から,死刑執行の可否を判断することを法が期待していると解すべき」であり,したがって,法務大臣に死刑執行を命令する義務はないことも確認しておきたい13).
 (D)裁判員制度と同じく,死刑執行人を市民から選定すればよいということについてはどうか.これは二つの理由から否定される.第一に,裁判員制度が専門家である裁判官三名+市民六名の合議体制度であることに鑑みれば,死刑執行も専門家と市民の共同作業ということになる.そうであるならば,死刑執行の専門家とは誰なのかといった問いが再び浮上する.それは無論,刑務官のことではない.第二に,絞首刑はボタンを押すだけなので,死刑執行に専門家は必要ないとする意見があるが,この考えが誤りであることはすでに先行研究で明らかとなっている14).
 (E)機械によってフルオートメーション化すればよいということについてはどうか.これは,突き詰めて考えれば死刑判決と死刑執行が一致することを指す.すなわち,フルオートメーションの場合,判決が確定すると自動的に執行のプロセスがはじまることとなるのだから,いわば判決が機械のスイッチの役割を果たしていることとなる.そうすると,判決を下したものが死刑執行人となるので,(C)で検討した裁判官が死刑執行を担えばよいという問題に回収されることとなる.よってフルオートメーション化を理由とした死刑執行人論にはほとんど検討価値がない.
 (F)快楽殺人者に死刑執行を任せればよいということについてはどうか.この点については以下の反論が有効であると考える.快楽殺人者が快楽殺人者たるゆえんは,人を殺害した経験にある.ところで,人を殺害したにもかかわらず,法の裁きを受けていないということは,その経験は合法的殺人であったということに他ならない.しかし,合法的殺人を軍隊のない日本で担えるのは,死刑執行人だけである.ところが,死刑執行人になれるのは快楽殺人者だけだとすると,そもそも自分が快楽殺人者なのか否かを判断する術がないことになる.
 このことを解決するために,殺人罪で死刑以外の判決を受けた受刑者から選ぶことも可能であるが,その場合,そうした受刑者が死刑のために常に補充される社会を望むことになり,そのことは認めがたい15).
 以上のなかで,(A)死刑囚の自殺だけが異質である.なぜなら,それ以外は第三者の死刑執行人が必ず必要となるため,その死刑は誰かに殺させる刑罰として記述する以外にないが,自殺の場合は自ら死ぬ刑罰とも記述できるからである.
 ここで重要となるのが,カントの『人倫の形而上学』における,「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない」という一文についての解釈である.なぜ,「人を殺害したのであれば,殺されなくてはならない」ではなく,「死ななくてはならない」なのか.なぜ,「殺されなくてはならない」であってはならないのか.そのことを次節以降で検討する.

5 カントの刑罰論

 カントの死刑論を検討するうえで,避けては通れない箇所が『人倫の形而上学』にはある.すなわち,「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない.これには正義を満足させるどのような代替物もない.苦痛に満ちていようとも生きていることと死とのあいだに同等といえるところはなく,したがって,犯人に対し裁判によって執行される死刑以外に,犯罪と報復とが同等になることはない.ただしその死刑は,処刑される人格における人間性に残忍となりかねない方法で行われてはならない」(Kant 1797[1914]: 333=2002: 180-1)という箇所である.ここでの殺害とは,故殺や過失致死のことではなく,謀殺,すなわち意図的に人を殺すことを指す.
 その点を分析する前に,カントの法と刑罰についての基本的なことを確認しておく.カントは法を大きく二つに分けた.私法(privatrecht)と公法(öffentliche Recht)がそれである.私法とは自然法のことであり,公法とは「法的状態を設立するために一般に公布される必要がある法則の総体」(Kant 1797[1914]: 311=2002: 152)のことを指す.この法的状態が,カントにとっては社会秩序の安定を意味する.すなわち,公的法則がない状態では,「だれもが自分にとって正しくかつ善いと思われることを行」(Kant 1797[1914]: 312=2002: 153)なうこととなり,場合によっては暴力行為からも安全ではいられないこととなってしまう.そのため,法の概念をすべて放棄するのでなければ,第一に次の原則を掲げるべきだとする.

だれもが思い思いに振る舞う自然状態から脱却して,他のすべての人々とともに(相互作用の関係に立つことが避けられない人々とともに),公的法則による外的強制に従うよう統合しあわなくてはならない,したがってだれに対しても,自分のものと認められるべきものが法則によって規定され,十分な力(それは自分のではなく外的な力である)によって配分される状態に入らなくてはならない,つまり何はさておき市民状態に入らなくてはならない.(Kant 1797[1914]: 312=2002: 153)

 「したがって公法とは,一群の人間である人民のための,あるいは一群の諸人民のための法則の体系」(Kant 1797[1914]: 311=2002: 152)といえる.
 公法の代表的なものに国家法(Staatsrecht)と国際法がある.前者が人民のための法則体系,後者が諸人民のための法則体系に該当する.国家法と国際法を合わることで,「諸人民からなる国家の法(ius gentium 万民法)ないし世界市民法(ius cosmopoliticum)という理念」(Kant 1797[1914]: 311=2002: 152)が導かれることとなるのである.
 これら三つの法則体系のうち,刑罰は国家法において論じられる.国際法で刑罰はありえない.なぜなら,「刑罰があるのは,上位者(imperantis)の服従者(subditum)に対する関係においてだけだからだが,そうした関係は諸国家相互の関係ではないからである」(Kant 1797[1914]: 347=2002: 198).
 国家16)においては上位者たる命令者と,服従者たる国民17)がいるからこそ,刑罰が成立する.すなわち,「処罰権とは,命令者が服従者に対して,その人が犯した犯罪ゆえにその人に苦痛を課す権利である」(Kant 1797[1914]: 331=2002: 178).ここでカントは明確に苦痛を課すことが刑罰であると述べている点を押さえておかなければならない.カントは,犯罪者の矯正教育──教育が苦痛でないと仮定するが──というようなことは言わない.なぜなら,「刑罰の法則は定言命法」(Kant 1797[1914]: 331=2002: 179)であり,特別予防のために刑罰を使用してはならないからである.また,一般予防のために刑罰を用いてもならない.刑罰はただ「その人が犯罪を犯したがゆえにその人に課される」(Kant 1797[1914]: 331=2002: 178)のであって,社会防衛や社会秩序のためではないのである18).
 また,カントは,「死刑を宣告された犯罪者は,危険な実験の被験者になることを承諾するなら,そして実験が幸運にも成功し,それによって医師には新しい知見が,公共体には有益な知見がもたらされるなら,その生命を助けよう」(Kant 1797[1914]: 332=2002: 179)といった提案も退けた.「法廷は,そのような提案をする医師団を軽蔑して退けるだろう.というのも正義は,いずれかの代価と引き替えに自らを売り渡すなら,正義ではなくなってしまうからである」(Kant 1797[1914]: 332=2002: 179),と.ここから,死刑の代わりに地雷撤去作業につかせるといった刑罰も否定される.また,キヴォーキアンの提案するような死刑囚の臓器を必要とする人に分配するといった案も19),カントは否定するに違いない.
 カントは犯罪を端的な犯罪(crimen 私的犯罪)20)と公的犯罪(crimen publicum)21)──あるいは,「破廉恥な心性による(indolis abiectae)犯罪と暴力的な心性による(indolis violentae)犯罪」(Kant 1797[1914]: 331=2002: 178)──にわけ,前者は民事裁判に,後者は刑事裁判に掛けられるとする.後者が公的犯罪とされるのは,個人の人格にとどまらず,公共体が危険にさらされるような犯罪だからである.また,刑罰も裁判による刑罰(poena forensis)と自然による刑罰(poena naturalis)とにわけられる.立法者が考慮する必要があるのは前者である.
 カントの刑罰は,「同害報復の法(ius talionis)」から導かれる.すなわち,「それがどのようなものであれ,いわれのない危害を人民に属する他の人に加えるなら,自分から盗むことになり,他の人を殴れば,自分を殴ることになり,他の人を殺せば,自分を殺すことになる」(Kant 1797[1914]: 332=2002: 179)のである.この同害報復の法以外は,別の思慮も紛れ込むため不適切であるとカントは一蹴している.別の思慮とは,犯罪抑止などの刑罰の効果のことを指す22).ここから,意図的な殺人を犯罪とする場合には,刑罰として死刑以外には考えられないとなる.
 大谷岳文によれば,カントの同害報復法は,アリストテレスによるタリオや,旧約聖書,ハムラビ法典などを源流にもつタリオではなく,カントが独自に解釈を施したものであるという(大谷 2009: 84).たとえば,ハムラビ法典に「目には目を」の記述はあるが,「死には死を」の記述はないので,「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない」はカント独自のものとされる.
 そうであるならば,一つの疑問が生じる.カントはなぜ「人を殺害したのであれば,殺されなければならない」ではなく,「人を殺害したのであれば,死ななければならない」と,あえて設定したのかという疑問である.なお,現行の日本の殺人罪における死刑は,明らかに前者を意味していることから,カントのこの箇所は「人を殺害したのであれば,殺されなければならない」と解釈されることもあった(たとえば,下川 1990: 100-1).しかし,原文に即せば,「死ななくてはならない」としかならないため,ここではあえてリテラルな解釈を展開したい.

6 「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない」についての考察

 「人を殺害したのであれば,死ななければならない」をリテラルにとるのであれば,殺人罪における死刑には,第三者の死刑執行人がいないことになる.「他の人を殺せば,自分を殺すことになる」というときも,殺すのは「自分」であって,第三者ではない.しかし,そうであるならば,殺人罪における死刑とは自殺のこととなるが,カントは自殺を否定していたのではなかったかという問いが当然のごとく立つ.
 自殺について,カントは「恣意的に自己自身を殺害することは,それが一般に犯罪であると証明されうる場合にあってだけ,自殺(homicidium dolosum)と名づけることができる」(Kant 1797[1914]: 422=2002: 293)としている.これはすなわち,犯罪ではない場合の自己殺害,すなわち自害までは否定していないことを意味する.それでは,自殺とはいかなる犯罪であるか.カントはそれを「われわれ自身の人格に対して行われる」(Kant 1797[1914]: 422=2002: 293)犯罪としている.われわれ自身の人格に対して行われる犯罪とは,どういう意味か.そのことをカントは,可想的人間(homo noumenon)と現象的人間(homo phaenomenon)という概念を用いて,現象的人間が可想的人間を殺すことが,犯罪としての自殺であるとしている23).
 このことをふまえたうえで,平田俊博は,カントの死刑を以下のように論じている.

カントの批判哲学の急所は物自体と現象の二元論にあるが,それが人間に適用されると,本体人[homo noumenon]と現象人[homo phaenomenon]になる.同一の人物を本体人と現象人に使い分けることで,カントの論証が成立する.根源的な公民的契約に,つまり「社会契約」に参加し,立法し,判決を下し,犯罪者に死刑を宣告するのは,本体人である.これに対して,刑法に服し,死刑を課されるのは,「犯罪能力者」たる現象人である.同一人物中の本体人が理性的人格として,片割れの犯罪的人格に死刑を課する.両者は別人格なのだから,自分の生命を勝手に処分するわけではない.それゆえ,〈死刑は根源的な公民的契約のうちに含まれうる〉のであり,〈死刑は正当だ〉とカントは結論するのである.(平田 1994: 66,[ ]内は引用者の補足)

 ここには,慎重な解説が必要であろう.平田によれば,死刑判決を下すのが法的立法的な本体人(可想的人間 homo noumenon,以下N)である.このNは唯一の存在であるため,各人の中には同一のNが存在している.一方,自然感性的な現象人(homo phaenomenon,以下P)は,各個に分断されている.すなわち,加害者A,被害者B,裁判官Cを想定するなら,彼らはそれぞれAP,BP,CPとして表記することができる.
 このなかで,判決をくだすのは,Nに準拠するCPである.そして,死刑を執行するよう強制されるのはNに準拠するAPである.すなわち,「犯罪者に死刑を宣告するのは,本体人」であるとするとき,この本体人はCP-Nと,CPとの関係を含んだ形で表記できる.一方,「同一人物中の本体人が理性的人格として,片割れの犯罪的人格に死刑を課する」とするとき,その本体人は同様にAP-Nと表記される.この理解を誤ると,犯罪者が自分で刑罰を選択しているという誤謬に陥ることとなる24).死刑執行を担うのはあくまで犯罪者の本体人AP-Nなのである.AP-Nは死刑判決を通じて,自分は死ぬべき罪を犯したと判断することで,死刑執行を担う主体として立ちあがってくる(図1参照).そのように解さなければ,「人を殺害したのであれば,殺されなくてはならない」ではなく,「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない」と表記することはそもそもできない.


 カントの死刑執行をこのように解釈するならば,「誰が死刑執行を担うべきか」について,刑務官,他の死刑囚,被害者遺族,法務大臣・検察官・裁判官,国民,機械,快楽殺人者といったようなことを考える必要はないことになる.もし仮に,第三者を死刑執行人にすえたならば,図2のような図式になってしまうからである.


 図2の解説をする.加害者APは被害者BPを殺害したとする.この事実をNが確認して,裁判官CPを通じて判決を伝える.次に死刑執行人DP-Nが執行を求められ,APを殺害する.このとき,DP-Nは死刑執行を,DPを通じて行なうことになるので,APを実際に死に至らしめるのはDPとなる.
 このとき,DPがAPを意図的に殺すという形式は,APがBPを意図的に殺したという形式と一致する.その意図自体はたしかに違ったものであるかもしれないが,ここでは形式が一致していることが重要となる.なぜなら,その形式の一致ゆえに,DP-Nは,「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない」という内的裁判官からの指令を受け取ることとなるからである.しかし,このときDPが自分で死ぬことは,死刑判決を経ていないがゆえに自殺という犯罪を構成してしまうので,DPは法律的に死ぬことを許されない.だが,一方で道徳的には「死ななくてはならない」とも判断することから矛盾が生じる.この矛盾こそが,「死刑執行人の苦悩」の源泉と考えられる.
 「死刑執行人の苦悩」を,社会復帰を目的とする教育刑と,社会に永遠に帰さない死刑の矛盾から生じるととらえると,それは刑務官という職業特有のものと考えられてしまい,そのような精神的苦痛を被るのであれば職を辞すればよいという結論が導かれることとなる.しかし,そうではなく,人格を備えた人間だからこそ生じるこの矛盾が,「死刑執行人の苦悩」の源泉であるとするなら,それは刑務官以外の誰が担ったとしても,第三者である限り,生じることになる「苦悩」となる.
 現在の死刑執行方法はボタンが三つから五つ並んでいて,誰が死刑執行をしたかわからなくする工夫がなされている.これはすなわち,死刑執行人DP-Nに,APを殺したという事実を認識させないための方法といえる.それゆえに複数のボタンは死刑執行人の精神的負担を和らげると,まことしやかにいわれる.しかし,死刑執行における複数のボタンは,第三者が死刑執行を担うときに生じる図2の形式を不可視化するものでしかないのである.
 とはいえ,図1のような,AP-Nが死刑執行を担う死刑制度は実装不可能ではないかとも思われる.AP-Nが死刑を拒否したなら,死刑の執行はなされずに終わることになるからである.これに対するカントの回答としては,本体人に拒否権はないということになる.なぜなら,意志の決定は法廷が行なうからである.
 しかし,これでは誤判による死刑も肯定することになってしまうのではないか.この点について,カントは明確に述べていない.人を殺害した者が前提であるため,そもそも誤判は想定していないと考えらえる.ただし,あえて誤判による死刑を,これまでのカント解釈にそって検討するとどうなるか.その場合,死刑執行人たる本体人が主体として立ちあがってこない.もし,自分は人を殺していないので死ぬべきではないと理性的に判断しているが,死刑判決が下ったので死を引き受けるとすれば,それは現象人による本体人の殺害となるので自殺となる(図3参照).それゆえ,カントの死刑論は誤判の場合には作動しないと考えられる.
 ここでポイントとなるのは,判決が裁判官CPを通じて下されるという事実である.Nが直接死刑判決を下すわけではない.Nが下すのだとすれば,AP-Nであってもよいので,裁判官CPを別に用意する必要がそもそもない.CPが配置されるからこそ,人間の可謬性に鑑みるなら,そこには必ず誤判が生じる可能性が生まれるのである.そして,そのことは第三者が死刑執行を担う場合,犯罪者でもない人間を意図的に殺害してしまう可能性が常に生じていることを意味するものでもある.

 以上の検討から,殺人罪における死刑の場合,「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない」をリテラルにとると,カントが第三者の死刑執行人を設定することはないと解釈することが可能と考える.誰が死刑執行を担うべきかという問いに,同一人物中の法的立法的な人格Nが担うべしと答える根拠は,同一人物中の現象人Pが死刑に相当する犯罪を犯したからである.そこから他の誰でもない,殺人罪における死刑の場合のときにだけ現れる,すなわち職業や職務として事前に用意されるのではない,特定の死刑執行人を名指すことが可能となる.これは,第三者の死刑執行人を必然とする日本の死刑制度,およびその死刑制度の存置を擁護する論とは一線を画する論といえる.この論を死刑存置論と区別して、死刑肯定論と呼ぶこととする。そして,以上に鑑みるなら、死刑判決の廃止にまではいたらないとしても,第三者による死刑執行の停止に賛成することは、死刑肯定論に反するものではないといえるのではないだろうか.
 こうしたカントの死刑肯定論を否定するには,いかなる論理がありうるか.考え得る一つの例として,マルキ・ド・サドの死刑論が挙げられる.『閨房の哲学』に挿入されている「フランス市民よ,共和主義者でありたければ,もう少しの努力だ」という政治パンフレットの形で,サドは自身の死刑廃止論を披露している.そこでの死刑の廃止理由は主に二つである.一つは死刑に犯罪抑止力がないとするものであり,もう一つの理由は以下のようなものである.
 人を殺してもよいのは自然界に属する現象人だけである.法律はそもそも自然のものではないのだから,人を殺すことは許されない.そもそも人は人を殺してよいのだから,法律に殺人罪があることの方がおかしい.殺人罪による死刑はさらにおかしい.そのように論を展開していき,サドは死刑廃止論へと行き着くのである25).
 これは,現象人の殺人の肯定から死刑を否定するという点で,現象人の殺人の否定から死刑を肯定するカントとは対極にあるといってよい.また,多くの死刑廃止論者が殺人を肯定しないであろうことに鑑みれば,このサドの死刑論は死刑廃止論とも区別され,死刑否定論とでも呼びうるものとなっていることがわかる.
 それでは,サドの死刑否定論が受け入れられないのであれば,いかにカントの「人を殺害したのであれば,死ななくてはならない」に対抗し得るか.当然のことながら,「人を殺害したのであっても,死なない方がよい」や,「人を殺害したのであっても,死ぬ必要はない」といったことでは,カントは納得しないであろう.そこには,刑罰についての別の思慮が紛れ込んでいるからである.カントの殺人罪における死刑に対抗するためには,「人を殺害したのであれば,生きなければならない」と断言する必要がある.そうすることではじめて,サドの死刑論とも違った形で,カントの死刑を乗り越えることが可能となると考える.それはおそらく死刑の代わりに終身刑を置くといったようなことではないと思われるが,では,いかにしてそれを刑罰論のなかで断言できるのかについては,今後の課題としたい.

7 おわりに

 最後に,本稿の意義を死刑執行停止と関連させて述べる.2002年11月22日,日本弁護士連合会(以下,日弁連)は「死刑制度問題に関する提言」を行なった.日弁連は一枚岩ではなく,死刑廃止論者と死刑存置論者の双方を内部に抱える団体である.そのため,「提言」は,死刑存置か廃止かについてではなく,死刑執行停止法の制定を提唱するものであった26).そこでは死刑執行停止の必要性について,大きく二つの理由が挙げられている.一つは死刑についての「国民的論議」を尽くすためであり,もう一つは現存する死刑制度に不備があるためである.前者については死刑についての情報が全て開示されていないことが問題となっている27).こうした情報は,少しずつ公開されはじめているが,具体的な死刑の手続や運用については2013年現在も明らかとなっていない部分が多い28).後者は,主に死刑確定者に対する人権上の問題を指摘するものである.すなわち,誤判防止のための制度が整っていないこと,死刑執行が事前に本人や家族に告知されないこと,面会・通信が制限されていることなどから,現行の死刑制度には不備があるとし,死刑執行の即時停止を求めている.
 日弁連のこうした取り組みは非常に重要である.しかし,不満もある.仮に死刑についての情報が全て出尽くしたとしよう.そこでは,現在明らかとなっている以上の誤判・冤罪があるかもしれない.死刑確定者の中の誰を死刑執行するかについて,かなり恣意的な選択がなされているかもしれない.しかし,それらをふまえた国民的論議を行なったのちでも,国民の多くが死刑存置を望むとした場合,死刑廃止論者の人々は死刑の存置を認めるのだろうか.もし,たった一人でも死刑存置を認めないものがいれば,死刑についての論議は尽くされていないのだとするならば,たった一人でも死刑廃止を認めないものがいれば死刑についての論議は尽くされていないともいえ,死刑についての論議は永久に終わることがないだろう.すなわち,死刑についての情報を開示し,国民的論議を尽くすことには賛同できるとして,その論議の決着がいかなるものであるかについてが明確ではないのである.仮に永久に論議し続けることが決着であると考えるならば,死刑存置論者は死刑執行停止を受け入れないであろう.なぜなら,冒頭でも述べたように,10年以上死刑執行を停止している国は事実上の死刑廃止国とみなされるからであり,それは死刑存置論者にとって敗北を意味するからである.つまり,論議を尽くすためという死刑執行停止理由は,死刑制度廃止よりの理由となり,死刑存置論者からは忌避されることとなる29).
 死刑執行停止の理由において,より重要なのは現行の死刑制度の不備の方である.しかも,それは誤判防止の制度が整っていないといった不備ではない.誤判防止の制度が整うことは,人間の可謬性に鑑みるならありえない.死刑存置論者はこのことを熟知しているがゆえに,誤判防止の制度が整うまでという死刑執行停止理由を受け入れないであろう.さらにいえば,誤判防止の制度が整っていないのは他の刑罰も同様であるという指摘は一理ある.そのことについて,死刑には回復可能性がないので,誤判の重みが違うといった指摘がなされることがある.再審無罪となった実例があることから明らかなように,これは無視することができない指摘といえる.
 しかし,死刑存置論者は以下のような回答を用意することもできる.無期懲役で30年近く投獄されたのち誤判が発覚した場合,それまでの年月の賠償金を刑事補償法4条1項「抑留又は拘禁による補償においては,前条及び次条第二項に規定する場合を除いては,その日数に応じて,一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する.懲役,禁錮若しくは拘留の執行又は拘置による補償においても,同様である」に基づいて支払うことをもって補償可能とされるように,刑事補償法4条3項には「死刑の執行による補償においては,三千万円以内で裁判所の相当と認める額の補償金を交付する.ただし,本人の死亡によつて生じた財産上の損失額が証明された場合には,補償金の額は,その損失額に三千万円を加算した額の範囲内とする」とあり,法律上は補償可能とされているではないか,と.
 この点について,死刑廃止論者の団藤重光は以下のように述べている.「死刑執行後に再審で無罪になって遺族に刑事補償が与えられても(刑事補償法四条三項),それが何になろう.懲役刑の場合でも,失われた青春は再び戻って来ないが,生命とは比較すべくもないのである」(団藤 2000: 26).つまり,刑事補償法4条3項は無意味であるとするのであるが,仮に意味を求めないとすれば,形式上は可能とも考えられる.加えて,意味を求めるのであれば,団藤も認めるように,リップ・ヴァン・ウィンクルを引きあいに出すまでもなく,30年という年月が金銭によって補償できるかどうかは疑問といわざるをえない.
 以上から,誤判を理由とした死刑執行停止は死刑存置論者に受け入れられないと考えられる.それでは,死刑確定者に対する人権上の配慮についてはどうか.こちらは,死刑を存置しながら改善していくことが可能ともいえるので,やはり死刑執行を停止するまでには至らないといえる.死刑執行の事前告知は,告知された死刑囚が死刑執行前に拘置所内で自殺するといった事件から変更された措置である.つまり,死刑存置論者にとって,死刑確定者に事前に死刑執行の告知をしないのは,その方が死刑制度をよりよく運用できると考えているからであり,この点もやはり死刑執行を停止する理由にはならない.
 死刑制度の不備については指摘できる部分がまだまだある.たとえば,死刑相当犯罪の多さである.2009年6月19日に「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」なる特別刑法が成立し,その第4条に死刑が書きこまれたため,死刑相当犯罪は18から19に増えている.この中には戦後一度も適用されていない内乱罪などの犯罪もある.そうしたものの削除可能性は検討されてもよい.
 また,致死罪や殺人罪と名のつくものは,全て殺人罪に一元化するということも考えられるだろう.死刑事件のほとんどが殺人と関係している現状をふまえれば,それでも問題はないはずである.また実際,かつてのイギリスではそのように死刑相当犯罪が縮小していったのである.
 こうした死刑制度の不備は,死刑存置論者にしてみれば大した不備ではないと思われるかもしれない.法律には多くの死刑相当犯罪が残されているが,実践的には殺人と関連するものしか適用されていないので,死刑執行を停止してまで議論することではないし,急いで削除する必要もないと考えられるからである.
 死刑執行方法の不備も指摘できる.元オウム真理教幹部の中川智正の弁護団が,オーストリアの医師であるヴァルテル・ラブルとともに,絞首刑が頭部離断を招く,あるいは招いている可能性があるとする研究成果が発表されている(中川智正弁護団・ラブル編 2011).ここから,約50年ぶりに執行方法にも焦点が当てられることとなったが,この点についても大阪此花区パチンコ店放火殺人事件における裁判員裁判の結果,絞首刑が合憲とされたことから,死刑存置論者が死刑執行停止を首肯する理由とはなりえないといえる.方法についての変更は,現行の死刑制度を運用しつつ検討していくことができる課題なのである.
 しかし,死刑執行人についての不備は,現行の死刑制度を運用しつつ検討できるものではない.現行の死刑制度は,第三者の死刑執行人を必要とする点で,殺人刑制度と呼びうるものである.そこには第三者であるがゆえに必ず生じる精神的苦痛があることは,本稿で明らかにしてきたとおりである.この死刑制度の不備を是正しようとして,本稿でみてきたような理論から,死刑囚自身に死刑を執行させようとすると,途端に問題が生じることになる.その死刑執行が,現象人による本体人の殺害なのか,本体人による現象人の殺害なのかが判別できないからである.つまり,形而上学的に考えるのであればよいが,形而下で考えるならば,そもそも本体人による現象人の殺害とは何かということが解明されていないのだ.そのため,死刑囚自身による死刑の執行は,自殺の強要としてしかうつらない.誤判の可能性を考えるなら,実際に自殺の強要である場合すらあることになり,それは認めることができない.
 すなわち,本稿でみたようなカント的な死刑の実装には,クリアすべき課題が残されていることがわかる.もしも,カント的な死刑制度を実装したいと望むのであれば,この課題に取り組む必要があるが,それは死刑執行を運用しつつ取り組むことのできない課題といえる.なぜなら,死刑を執行できる者がそもそもいないからである.以上から,死刑執行人についての不備を認めるならば,死刑執行を即時停止した方がよいと、本稿では結論する.

付記:本研究は日本学術振興会科学研究費補助金研究活動スタート支援「身体的苦痛による社会統治──日本刑罰思想史における軍刑罰・植民地刑罰・死刑」(研究代表者:櫻井悟史,課題番号:13422370)から研究費の助成を受けている.記して謝辞を表したい.
   また,本稿は2013年11月2日に関西倫理学会2013年度大会で発表した「誰が死刑執行を担うべきか──カント『人倫の形而上学』を手がかりとして」の報告原稿をもとに加筆・修正したものであるが,この学会報告は立命館大学生存学研究センター若手研究者研究力強化型「規範×秩序研究会」における活発な議論がなければ不可能であった.こころより御礼申し上げる。


[注]
1)法務省, 2013, 「死刑制度の存廃に関する議論の状況」(2013年10月9日取得) http://www.moj.go.jp/content/000076135.pdf)
2)いかなる言説が編成されているのかについては,2010年7月に千葉景子法務大臣(当時)によって設立され,2012年3月まで活動した,法務省内部に設置された「死刑の在り方についての勉強会」第6回における資料「死刑制度の存廃に関する議論の状況」に端的に表れている(以下からダウンロード可能.[http://www.moj.go.jp/content/000076135.pdf 2013年3月22日アクセス確認]).そこで挙げられている死刑存置論としては,(一)命による償い,(二)(一)の倫理観の保持,(三)犯罪抑止力(一般予防,特別予防),(四)被害者遺族の感情,(五)世論(刑事司法に対する信頼獲得)などがあり,死刑廃止論としては,(a)人権侵害,(b)殺人を犯罪とする国家による殺人という矛盾,(c)身体刑であるから残虐で野蛮,(d)被害者賠償,(e)誤判・冤罪の可能性,(f)更生可能性,(g)国際的潮流,(h)憲法36条違反,(i)合法的殺人を可能とする戦争の否定,(j)裁判員制度などの論点である.なお,刑法における死刑存廃論の見取り図としては,三原(2008)を参照.さらに補足しておけば,(一)の命による償いとは,刑罰を賠償ととらえることに由来している.一ノ瀬正樹によれば,ロック流の人権を前提として,刑罰を賠償ととらえた場合,そもそも死を所有することなどできないのだから,死刑は不可能となる.それでも,死刑が可能と考えられる背景には「死の所有」幻想があることになる(一ノ瀬 2011).
3)死刑執行が論点とならない背景には,死刑執行が密行化されている,すなわち非公開であるという事情がある.2010年8月27日,一部のマスコミに東京拘置所の刑場が公開され,写真などが新聞やウェブで伝えられるようになるなど,刑場についての情報は徐々に公開されはじめてきてはいるが,実際に死刑を執行している光景が公開されたわけではないので,誰がどのような方法で死刑を執行しているかについては,まだまだ知られていない.なお,筆者は実際の死刑執行現場の公開には反対の立場をとる.当然のことだが,実際の死刑執行現場を公開するとは,死刑囚を実際に殺してみせることを意味し,そのことに賛同することができないからである.
4)菊田幸一と海渡雄一によれば,刑務官雑誌の『刑政』は上司の許可を得なければ論文を掲載できないし,団結権を認められていないので組合もない,それでも戦後すぐのころは,まだ死刑について議論できる状況があったが,1965年頃からそれが「なぜか」できなくなった歴史的経緯があるという(菊田・海渡 2007: 328-9).
  最近では,死刑執行について語り始めた刑務官たちもいるが,そうした人々が「元」刑務官であることには注目しなければならない.そもそも,国家公務員法100条1項に「職員は,職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない.その職を退いた後といえども同様とする」という規定があるため,「元」であっても死刑の実情について語ることが許されるのか否かには議論の余地があるだろう.加えて,刑務官の全てが死刑執行人となるわけでもないという事情もある.そうした状況下で,刑務官が死刑執行についての裁判を起こすことの困難さは,容易に想像できる.
5)『神の国』1巻21章「人を殺すことが許される場合」において,律法にある「汝,殺すなかれ」には例外があり,「神が所定の律法によって,あるいは特定の時に特定の人に下された命令によって,殺すことを命じる」場合,「その人自身の意志で殺すのではない.彼は,剣がそれを用いる者に対して道具であるように,彼に命ずる者に奉仕の義務を果たしているのである.それゆえ,神の命令によって戦争したり,または国家権力の行使者として,最も正しい理性の指図である国家の法律にしたがって犯罪人を死刑にする者たちは,『殺してはならない』と言われるこの戒めに,決して反しているのではない」とした(Augustinus 1959=1980: 71-2).
6)『神学大全』の第64問題「殺人について」第2項「罪人を殺すことは許されるか」において,アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の,人間を殺すことはそれ自体として悪であるゆえ罪人を殺すことはけっして許されない,ということに反論し,「人間は罪を犯すことによって理性の秩序ordo rationisから脱落する.したがって,彼は人間が自然本性的に自由であり,自己自身のために存在しているかぎりにおいて有する人間的尊厳dignitas humanaを喪失し,或る意味で非理性的動物と同じ隷属状態servitus bestiarumに転落する——すなわち,彼については,彼が他の人にとって役に立つutileということに即して秩序づけが為される,というふうに.[……]したがって,自らの尊厳を保持している人間を殺すことはそれ自体として悪であるが,罪人を殺すことは,獣を殺す場合のように善でありうる」(Aquinatris 1985=1985: 163)とした.そのうえで,第3項「罪人を殺すことは私人(persona privata)に許されるか」という問いを肯定する論に,先述のアウグスティヌスの論を援用して反対する.すなわち,主なる神の命令によって殺す者は私人ではなく,神の道具であるから神が殺したこととなる.その場合は隣人や友人を殺すことも許される.しかし,私人が悪人を殺した場合は,それは神に由来しないので,殺人犯として裁かれることになるのである(Aquinatis 1985=1985: 164-5).
7)「軍人もまた祝福された階級に属し得るか」という論考において,「司法官の職務は,裁判官でも,刑吏と呼ばれる執行官でも,神に属する貴い職務である.けれどもその職務に任命せられていない者が之を行ったり,或いは任命せられている者でも之を執り行う際に金銭や偏愛に動かされたりするなら,その職務はもはや正しくもなければ善くもない」(Luther 1526=1954: 89)と指摘し,戦争および死刑におけるような殺人の職務が正しいのは,「その場合にはこの剣を携えて殺戮する手もまたもはや人間の手ではなく,神の御手であり,人間が絞首し,車裂きにし,斬首し,殺戮し,戦争をするのでなく,神が之をし給うのである.すべては神の御業であり,神の審判である」(Luther 1526=1954: 93)からだとする.
8)なお,ルソーが生きていた当時のフランスでは,死刑執行人サンソンの一族が差別にさらされつつ死刑執行を一手に担っていたことに留意されたい.
9)死刑制度廃止論者である小河は,『刑法改正案ノ二眼目』のなかで,もし死刑が刑法に存置されることになったとした場合に死刑執行の濫用を防ぐためとして,七つの提案をおこない,そこで死刑執行人について三つの論点を提示している.すなわち,①死刑の執行は裁判官か検察官が担うべきである,②死刑執行を裁判官や検察官が担えないのであれば私人の請負事業とせよ,死刑執行に応じる刑務官がいることは監獄行政にとってよろしくない,③絞架場を監獄内に設置するのは監獄行政にとってよろしくないといった三点である.詳細は,櫻井(2011)を参照.
10)死刑執行に能力が不要であるため誰にでも出来るという考えは誤りである.オーストリアの法医学者であるヴァルテル・ラブルが指摘するように,絞首刑はボタンを押すだけの刑罰ではない.受刑者の体重,落下の距離,ロープの長さを間違え,12000ニュートンの力が加われば,頭部離断が起こる可能性は十分にある(中川智正弁護団・ヴァルテル編 2011: 133-4).現在の日本でも,公表されていないだけで起こっている可能性はあり,実際に,明治時代にはそのような例があったという新聞記事もある.また,これは電気椅子による死刑や,薬物注射による死刑でも同じで,たとえよく慣れた人間が携わったとしても,死刑執行の失敗はありうる(Borg & Radelet 2004=2009).
11)なお,カントは内乱罪にも死刑を適用すべきであるとしているが,カントに則してそのことを批判している論文としてYost(2010).
12)「現存する」という語を置いたのは,ソクラテスの死刑を念頭に置いたからである.
13)石塚(2012)によれば,刑事訴訟法475条2項「前項の命令は,判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない」については,「確定後6か月という期間は,死刑確定者の心情を弄ぶようなことを禁じているのであり,執行の判断に際しては,人道的配慮をすべきであるとする法務大臣に対する訓示規定と解すべきである」としている.訓示規定とは,命令に違反した場合であっても制裁が科されないことを意味する.
14)脚注10を参照.
15)正当防衛による殺人で快楽殺人に目覚めることも考えられるが,そうした場合も,一般市民が危険にさらされることを期待するような社会となるので,採用できない.
16)「それぞれの国家はみずからのうちに三つの権力を,つまり三様の形をとる普遍的に統合した意志を含んでいる(trias politica 政治的三位一体).それらは,立法者という人格における支配権(主権),(法律に従う)執政者という人格における執行権,そして裁判官という人格における(法律に従って各人のものを裁定する)裁判権である(potestas legislatorial et iudiciaria 立法権,行政権,司法権).この三権を実践理性の推論[実践三段論法]における三つの命題にたとえれば,国家の意志による法則を含む大前提,法律に従う手続きの命令,すなわち法則のもとに包摂する原理を含む小前提,そして当該の事例において何が合法なのかという法的宣言(判決)を含む結論ということになる」(Kant 1797[1914]: 313=2002: 155).
17)国民(cives)とは以下のような本質と法的属性を備えているもののことをいう.「法律上の自由,つまり自分が同意を与えた法律以外のどんな法律にも服従しないこと.国民としての平等,つまり相手がこちらを拘束できると同様にこちらもまた相手を法的に拘束する道徳的能力をもつような,そういう相手だけを認め,人民のなかのある他の人の選択意志によってではなく,公共体の成員としての自分に固有の権利と力とによって営むことができること,したがって,国民としての人格が,さまざまな法的な事柄において他のだれによっても代行されてはならないといこと」(Kant 1797[1914]: 314=2002: 156).なお,国民の資格として必要なものは,投票を行なう能力だけである.
18)「裁判による刑罰は,犯罪者自身にとって,あるいは市民社会にとって,別の善を促進する手段にすぎないということはけっしてありえず,つねにもっぱらその人が犯罪を犯したがゆえにその人に課されるのでなければならない.というのも,人間が他の人の意図のための手段としてのみ扱われること,物権の対象と一緒にされることはできないのであり,市民的人格であることを剥奪する判決が下されても生得的人格であることが,そうした扱いからその人を守るからである」(Kant 1797[1914]: 331=2002: 178).なお,前述したとおり,社会秩序は刑罰によってではなく,法的状態があることによって保たれる.
19)今後の検討課題として,キヴォーキアンの死刑論を紹介しておく.彼は,必要とする人に臓器を提供した死刑囚の提案を法的に不可能だからという理由で却下したことにより五人の助けられた命を助けられなかったと憤る.「あの囚人は,『正義』という神の祭壇に捧げる生け贄となって死んだ.だが,他の人々は何ゆえに死んだのか? 第一に,囚人の臓器は,先に挙げたすべての患者たちをほとんど同時に救うことが出来た.組織の適合状態を調べたり,それ以外の必要な検体検査をする時間は十分にあった.もしもこの囚人の臓器がどこかの他の患者に使われたとしても,結果的にはそのためにあの待機者リストの順番が繰り上がり,ここで挙げた患者たちを間接的に救うこととなっただろう.どこからどう見ても,あの囚人の遺志には計り知れない価値があった.だが,社会はただ盲目的に彼を,彼の自己決定権を蹂躙した.そのために,目には見えないものの,計り知れないほどの悲劇が,多くの人にもたらされたのである」(Kevorkian 1991=1999: 29).カント的にいえば,囚人が臓器を差し出すのは,自分の刑罰を自分で決めることとなるため否定される.また,死刑によって社会に利益をもたらそうとする点からも否定される.しかし,キヴォーキアンを支持する人間は一定数存在する.実際,中国では死刑囚の臓器を使用しているし,死刑が廃止となっている国でも受刑者からの自発的な臓器提供といったことは行なわれている.このことについての考察は,今後の課題である.
20)私的犯罪の例は以下.「横領,すなわち取引のために委託された金銭や商品の着服,売買において他の人の眼の前で行われる詐欺」(Kant 1797[1914]: 331=2002: 178).
21)公的犯罪の例は以下.「貨幣や手形の偽造,窃盗,強盗など」(Kant 1797[1914]: 331=2002: 178).
22)「刑罰の正義(justitia punitive)は,つまるところ処罰可能性の論拠が道徳にあるので(quia peccatum est 罪が犯されたゆえに),この点で刑罰の思慮と区別されなければならない.思慮の論拠はもっぱら実用的であり(ne peccetur 罪が犯されないように),犯罪を抑制するのにもっとも強力な効果があるのは何かという経験に基づくからである」(Kant 1797[1914]: 363=2002: 219).
23)「義務が問題であるかぎり,だから人間が生きているかぎり,人間はその人格性を放棄するわけにはいかない.[……]自己自身の人格における人倫性の主体を壊滅するということは,まさしく,目的それ自体である人倫性そのものの存在を,その主体に関しては,この世から根絶するに等しい.したがって,任意の目的のための単なる手段として自己を処理することは,その人格における人間性(homo noumenon 可想的人間)の尊厳を奪うということなのである.ところが,こうした人間性を人間(homo phenomenon 現象的人間)は保存していくよう委ねられていたのである」(Kant 1797[1914]: 422-3=2002: 294,[……]は引用者による中略).
24)「したがって,犯罪者である私に対して刑罰の法律を私が作成するとすれば,私のなかでそれを行うのは純粋に法的立法的な理性(homo noumenon 可想的人間)であり,その理性が,犯罪をおかすことができる者としての,つまり別の人格(homo phaenomenon 現象的人間)としての私を,市民的統合体に属する他のすべての人とともに,この刑罰の法律に服従させるのである.言葉を換えれば,人民(これに属する各人)ではなく,法廷(公的正義)が,したがって犯罪者とは別の人が,死刑を課すのであり,社会契約には,自分を処罰させる約束は,したがって自分自身と自分の生命を処分する約束は,まったく含まれていない.というのも,処罰する権能の基礎が,自分が処罰されるよう望むという犯罪者の約束になければならないとすれば,自分が処罰されるべきかどうかも,犯罪者に委ねなくてはならなくなり,犯罪者が自分自身の裁判官ということになるだろうからである.——こうした詭弁の主要な誤謬は次のことにある.すなわち,生命が失われなくてはならないという犯罪者自身の判断(その理性は必ずそう判断するはずである)を,生命を自分で奪うという意志の決定とみなすこと,したがって法の判断と法の執行とを一緒にして同一の人格に属すると考えることである」(Kant 1797[1914]: 335=2002: 183-4).
  なお,ジャック・デリダは,カントの死刑を「自-殺」と表記し,「司法的理性の自律にとっては,自己-執行しかない」,それは「あたかも罪人が自殺するかのごとく」であるとしているが(Derrida & Roudinesco 2001=2003: 216),この指摘は示唆的である.
25)「人間は情熱という情動を与えられているので,人殺しという残酷な行為も情熱によって正当化される場合があるのだが,法律はそれ自身冷静なものであり,情熱とはおよそ関係がないからだ.人間は自然界から人殺しを認めてもらえる情熱を与えられているが,法律は常に自然界と対立し,自然界から何一つ与えられていないので,人間と同じ逸脱行為を犯す権限はないのである.法律は人間と同じ動機を持っていないので,同じ権利をもつことはできないのだ」(Sade 1795[1954]=1992: 146-7),「人殺しは果たして悪事なのか,悪事ではないのか? もし悪事ではないとしたら,何故人殺しを罰する法律を定めるのだろうか? もし悪事だとしたら,人殺しによって人殺しを罰するというのは,何と言う野蛮な愚劣な矛盾ではないだろうか?」(Sade 1795[1954]=1992: 176).
26)その趣旨は以下のようなものである.「1 日本弁護士連合会は,死刑制度の存廃につき国民的論議を尽くし,また死刑制度に関する改善を行うまでの一定期間,死刑確定者に対する死刑の執行を停止する旨の時限立法(死刑執行停止法)の制定を提唱する./2 日本弁護士連合会は,死刑制度に関して,下記の取り組みを推進する./(1)死刑に関する刑事司法制度の改善/(2)死刑存廃論議についての会内論議の活性化と国民的論議の提起/(3)死刑に関する情報開示の実現/(4)死刑に代わる最高刑についての提言/(5)犯罪被害者・遺族に対する支援・被害回復・権利の確立等」(日本弁護士連合会 2005: 70,/は段落の変更を示す引用者の補足)
27)具体的に提供されるべき情報としては,以下のようなものが挙げられている.「ア 死刑問題に関する情報/ⅰ 死刑制度の是非をめぐる従来の議論の状況/ⅱ わが国における犯罪動向,死刑判決数や死刑執行数の推移/ⅲ 死刑廃止国と存置国の数,国名等を含む世界の死刑制度の動向.死刑廃止条約の採択と国連の勧告/ⅳ 死刑の犯罪抑止力に関する研究成果/ⅴ 死刑確定者の処遇,生活状況,心情と心情形成過程/ⅵ 刑務官など死刑執行に関与する者の心情/ⅶ 各国における被害者救済制度や各種の被害者ケアの内容/viii 死刑廃止国での犯罪動向や最高刑の内容と運用状況/ⅸ 死刑判決確定までにとられる刑事手続の内容/ⅹ 処刑場の構造・しくみ・具体的執行方法/xi 死刑制度維持のための費用/イ 具体的な死刑の手続・運用などについて/ⅰ いつ,どこで,誰に対して死刑を執行したのか/ⅱ 死刑執行決定に関する情報──どのような基準により,当該死刑確定者がその時点で執行を受けることになったのか/ⅲ 死刑執行はどのような手続を経て為されたのか──とりわけ,当該死刑確定者に対しては,いつ,どこで,誰が,どのようにして告知したのか/ⅳ 執行そのものに関する情報/ⅴ 死刑確定者の服役意思,最終意見などに関する情報」(日本弁護士連合会 2005: 82, /は段落の変更を示す引用者の補足).
28)たとえば,死刑執行命令について近年明らかになったことは以下のようなことである.法務省に死刑執行命令書についての情報開示を要求した朝日新聞(2013年1月11日)によれば,たしかに死刑執行の決済文書には法務大臣と法務副大臣の署名,および法務官僚の押印がなされているが,死刑執行命令書には法務大臣の名が印字された公印があるだけで署名はない.その公印は事務担当者が押しているということなので,執行命令書に法務大臣が直接署名なり判子を押すなりするわけではないのである.ただし,刑事訴訟法475条で定められているとおり,「死刑の執行は,法務大臣の命令による」ので,命令書に署名していないからといって,法務大臣が死刑を命じたわけではないとはならない.こうした情報については明らかになればよいと考えるが,一方で実際に死刑を執行する場面については明らかにするべきではないことは脚注3で述べたとおりである.
29)たとえば,日弁連の死刑執行停止法制定等提言・決議実現委員会委員長河原昭文は,「日弁連は存置でも廃止でもない第三の道として,死刑執行停止を選択した.この選択は,従来の議論からすればわかりづらいものであった.存置論者からは死刑廃止の隠れ蓑ではないかと非難され,廃止論者からすれば変節した妥協案であると批判されてきた」(日本弁護士連合会 2005: 205)と述べている.


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