第一部 生存と規範理論

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第一部 生存と規範理論





アンダーソンの民主主義的平等論
──「関係性」概念の射程1)──

角崎洋平


1 はじめに

 1990年代末以降の社会正義論の主戦場の一つは,責任感応的平等主義(responsibility-sensitive egalitarianism)の是非をめぐる議論,すなわち責任感応平等主義に対する批判とその代替案の提示,または,それに対する責任感応的平等主義の応答に関連するものである.
 運の平等主義(luck egalitarianism)とも呼ばれる責任感応的平等主義は,「分配的正義は,基本的には選択に感応的(敏感)(choice-sensitive)で,かつ,運に非感応的(鈍感)(luck-insensitive)なものであるべきだ」とする考え方である(Tan 2012: 89).こうした主張の要点は,人々の自由な決定や選択を反映しない所得や富の分配や,かれら自身では如何ともしがたい外部的状況(circumstance)を反映した所得や富の分配は,人々を道徳的に同等な存在(moral equals)として扱っていない,と考えるところにある2).
 こうした責任感応的平等主義に対して痛烈な批判を与えたのが,エリザベス・アンダーソン(Elizabeth Anderson)であった.アンダーソンは,運の平等主義を──かかる平等主義を「運の平等主義(luck egalitarianism)」と名付けたのはアンダーソンである──,自発的な選択の結果により選択当事者がいかなる過酷な状況に陥ろうとも救済の手を差し伸べない理論であると批判した(Anderson 1999: 295-302).また彼女は,運の平等主義を,補償に値する者を自然的不運の犠牲者(victims of bad brute-luck)として見なすことで,結果的にかれらを哀れな者として蔑んでしまう理論であると批判した(Anderson 1999: 302-7).このアンダーソンが,責任感応的平等主義とは異なる平等主義として提示したのが民主主義的平等(democratic equality)論であった.
 それでは,アンダーソンの民主主義的平等論とはどのようなものなのか.またそれは,彼女が批判した責任感応的平等主義とはどのように異なるのか.本稿の目的は,両者の差異について社会に生きる人どうしの関係性をとらえる射程の差異として理解し,その上でアンダーソンの民主主義的平等論を,狭い空間射程と短い時間射程の関係性の理論として定位することにある.

2 先行研究と本稿の構成

 アンダーソンが民主主義的平等論を提示した“What Is Point of Equality?”論文(Anderson 1999)については,すでに日本語圏内でも何度か取り上げられている.しかし保田幸子も指摘している通り,その多くは責任感応的平等主義(運の平等主義)とアンダーソンによるその批判について注目するものであり,民主主義的平等論についてはその文脈において簡潔に説明されているにとどまる(保田 2012: 37-8).とはいえ,アンダーソンの民主主義的平等論に焦点を当ててその内容を詳説することは,彼女の理論の全体像を把握するうえでも,ありうべき平等主義的社会のモデルを検討するうえでも重要なことである.
 アンダーソンの民主主義的平等論の全体像を紹介・検討した論文として,細見圭子の論文(細見 2011)や保田幸子の論文(保田 2012)がある.前者は,アンダーソンの前掲論文の内容を紹介したにとどまる内容である.一方で後者は,彼女の民主主義的平等論の特徴として,分配尺度としての「潜在能力」(ケイパビリティ),分配根拠としての「民主主義」,分配の評価基準としての「十分性説」を取りあげ,手際よく整理している3).
 保田論文は結論として,民主主義的平等論を,運の平等主義のような単なる「分配理論」ではない,「社会関係の理論」であると評価している(保田 2012: 48-9).しかし後述するように,アンダーソンの民主主義的平等論についてのそのような評価は,少なくとも英語圏の論文においては保田の指摘を待つまでもなく,一般的であるように思われる.精確にいえば,責任感応的平等主義と民主主義的平等論の差異に関する評価として一般的というよりも,民主主義的平等論を評価し,責任感応主義的平等主義を批判する側の見解として一般的なものであるように思える.とすれば,民主主義的平等論と責任感応的平等主義を対比するにあたって必要となるのは,民主主義的平等論側の見解を陳述するだけではなく,責任感応的平等主義に理解を示す論者の応答(反批判)をも確認し,そのうえで両者の主張を整理することである.
 こうした問題意識から本稿ではまず,(細見・保田論文で紹介された内容と一部重複するが)アンダーソンの民主主義的平等論の内容についてあらためて詳細に確認しておく(3節・4節)4).そのうえで「民主主義的平等論」を,責任感応的平等主義と対比される「社会関係の理論」として位置付ける見解(社会的平等主義〔social egalitarianism〕)について英語圏での論考を取り上げながら確認・検討する(5節).そして最後に,関係性の射程という観点からアンダーソンの民主主義的平等論の限界を指摘する(6節).本稿は,民主主義的平等論を社会関係の理論として定位することを批判するものではない.しかし本稿は,アンダーソンの民主主義的平等(ひいては社会的平等主義)と責任感応的平等主義の対比を,関係理論VS分配理論といった対比でのみ捉えることを否定することになるだろう.

3 自由と社会関係を捉える方法としてのケイパビリティ・アプローチの採用

 3.1 自由と平等を両立させる理論として
 上述のようにアンダーソンは,責任感応的平等主義(運の平等主義)への対抗として提示した自らの平等理論を,「民主主義的平等」論と名付けている.「民主主義的平等論は,すべての遵法的市民に対して,常時(at all times),自由の社会的条件についての実効的なアクセス可能性(effective access)を保証する(guarantee)ものである」(Anderson 1999: 289)とされている.
 具体的にどのようにして「自由の社会的条件についての実効的なアクセス可能性」を保証するかについては本節および次節で後述する.とはいえいずれにせよこのような理論は,「すべての市民」に「自由」の実質的基盤を提供しようとする点で,ジョン・ロールズ(John Rawls)を含めた「リベラルな平等主義(liberal egalitarianism)」の系譜のなかに位置付けられる.ロールズに代表されるリベラルな平等主義とは,以下のような見解をもつ.すなわち,自由に活動をすることをすべての市民に保証するためには,単に諸活動を制限するための制約からの自由(解放)を保証するだけではなく,各々のライフプランを自由に選択できる権利や機会や所得・富などを保証することが必要となる,と考える見解である5).
 しかしアンダーソンは,自身の民主主義的平等論を,ロールズの正義の理論と全く同一のものとしては見ていない.とりわけロールズの理論と比した特徴として,確認しておかなければならないのは,彼女の民主主義的平等における平等か不平等かを測る尺度(度量単位)としての「通貨(currency)」は,ロールズのような「基本財(primary goods)」ではなく,「ケイパビリティ(capability)」である,ということである.
 ここでのケイパビリティはいうまでもなく,アマルティア・セン(Amartya Sen)のケイパビリティ・アプローチ(capability approach)に依拠している.ケイパビリティとは,彼/彼女らが潜在的に達成可能な〈機能(functionings)〉,すなわち「彼/彼女が行ないうること,なりうること」の集合のことである.そしてその〈機能〉は,資源の多寡だけで決まるものではなく,その人の身体的特性や外部の自然状況やフォーマルまたはインフォーマルな社会制度・社会関係の影響を受けうるものとして定式化されている(Sen 1985=1988: 22).
 センが「行ないうることやなりうること」やその集合に注目するのは,「本人が価値を置く理由ある生を生きられる(he or she enjoy to lead the kind of life he or she have reason to value)」自由(Sen 1999: 87)を,重視するからである.センによるケイパビリティ・アプローチは,本人が現に達成している「行ないやありよう」を越えて,さまざまな「行ないやありよう」が達成可能であるという自由を,そして,その達成可能性を支える制度的・社会的条件をも,できるだけ総体的に捉えることをめざしている.
 アンダーソンも,ケイパビリティをそのようなものとして理解している.「ケイパビリティ(capabilities)とは,その人にとって利用可能な個人的・精神的・社会的資源が与件として設定されたときに,その人が達成しうる機能の集合(a set of functionings)である.ケイパビリティとは,実際に達成された機能を測るものではなく,〔その人が〕価値を置く機能を達成する自由を測るものである」(Anderson 1999: 316).そしてアンダーソンは近年ではさらに,自身の民主主義的平等論を「ケイパビリティ基底的理論(capabilities-based theory)」を発展させたものであると述べている(Anderson 2010: 83).したがって彼女は,センによるケイパビリティ・アプローチがそうであるように,〈現に達成されている機能〉よりも〈自らが価値を置く機能を達成可能とするような自由〉を重視しているのである.

 3.2 関係性についての不正義を捉える理論として
 それではなぜアンダーソンは,ロールズのような「基本財」ではなく,「ケイパビリティ」を平等の「通貨」とするアプローチを採用するのだろうか.
 アンダーソンの観点から見たケイパビリティ・アプローチの利点の一つは,資源や他の分割可能な財以外の不正義の問題も取り扱うことができる,ということである.「ある人のケイパビリティは,固定された個人的特性や分割可能な資源に依存するだけでなく,変わりやすい個人的特性や,社会関係,規範,機会の構造,公共財,公共空間にも依存する」(Anderson 1999: 319).アンダーソンは,不平等を単に資源の多寡のみでとらえるのではなく,その人を取りまく社会関係や,社会関係についてのインフォーマルな社会規範における不平等をも捉えようとして,ケイパビリティ・アプローチを採用している.そういう意味でアンダーソンの民主主義的平等論は,社会関係における不正義を捉えようとする理論である.
 アンダーソンは,かかる関係性における不正義を,平等の「通貨」を基本財などの「資源」とするアプローチでは十分にとりあつかうことができないと考えている.なぜならば,財の資源配分や,ロールズが基本財として捉えるような「権利,自由,機会,および所得と富」(Rawls 1999=2010: 86)の配分を変更するのみでは矯正できない不正義もあると考えるからである.たとえば,第1に,直接的に侮蔑的な社会関係を矯正しようとする試みは,自由社会において人々が持つとされた権利(発言の自由,結社の自由など)に抵触する.第2に,人々に互い友達になるというようなことは,強制できるような性質のものではないため,そもそも国家によって強制して人々を互いに友達にする,ということはできない.ロールズのような資源や基本財に対するアプローチのみによっては,不正義に対抗しようとする試みは失敗を余儀なくされる,とアンダーソンは考えている6)(Anderson 2010: 91).
 しかしながらこうした不正義は,同等な存在としての市民の立場を傷つけ,民主主義的な社会の基盤を台無しにする.そのような不正義は等閑視されるべきではない.「公共文化の領域における正義はフォーマルに執行可能ではない(not formally administrable)けれども,それでも公共政策は資源配分とは違う方法で,間接的に,このような文化的不正義を扱うことができる.それ〔公共政策〕は,スティグマや排除を減少させる社会状況を促進することができる.こうした不正義を認識し取り扱う点において,ケイパビリティ・アプローチは資源主義アプローチよりも有効である」(Anderson 2010: 91).
 もちろん民主主義的平等論は,資源の多寡にも関心がある.「それ〔民主主義的平等論〕は,すべての市民が,他者から圧迫されないために必要な,資源へ実効的な利用可能性を保持することを要求する」(Anderson 1999: 320).ただし,ここで民主主義的国家により保証されるべき資源への実効的アクセス可能性の量と質は,文化的規範や,自然的賦与(endowment)や,個人的状況によって異なる,と考えられている.たとえば,他者の前に出て恥ずかしくないような衣服が必要であるとして,それは文化的規範や気候の状況に依存する.また障害(disabilities)の程度は,平等な存在として生活するためにどれだけの資源が必要か,ということに影響を与える.社会的状況や人の内部の能力に違いがあるため,資源を〈機能〉に変換する能力は個人間で平等ではない.ゆえに同等な存在として自由を享受するために,権原を与えられるべき資源量は異なる,と考えられている(Anderson 1999: 320)7).

 3.3 人間間・市民間・協働の担い手間の平等な社会関係を支える理論として
 とはいえセンのケイパビリティ・アプローチは,どのケイパビリティを平等にする義務があるか──すなわち,どの〈機能〉を評価対象のケイパビリティに含むのか──という点についてオープンなままである.
 こうした〈機能〉に,トランプゲームを上手にすることや,(お金がかかる)タヒチに観光旅行に行くことは含まれるのか,が問題となってくる.アンダーソンは,民主主義に平等な社会が保証する〈機能〉には,こうした〈機能〉は含まれないとする(Anderson 1999: 316).
 では民主主義社会が保証する〈機能〉とは何か.それはアンダーソンによれば,民主主義的な社会が,その構成員たる市民に対して,社会における平等な市民たるためにどのようなケイパビリティに対する権原を与えるべきなのか,という観点から導出されるものである(Anderson 1999: 316).
 民主主義的に平等な社会が市民に保証するべき〈機能〉とは,まずもって,民主主義的な政治参加のために必要とされるものである.したがって,平等な市民として認められるべき〈機能〉には,投票,政治的スピーチへの参加,政府への請願などが含まれる(Anderson 1999: 317).しかし市民が民主主義的な市民社会において活動するために必要となるものは政治的な権利に限らない.

市民社会における制度には,公営道路や公園,レストランや店や映画館といった公共施設や,バス・航空網,放送・電話・インターネットなどのコミュニケーションシステム,公共図書館,病院,学校などが含まれる.また市場で生産活動している企業も,市民社会の一部を担っている.なぜなら企業は消費者に商品を供給するし一般公衆から労働者を雇い入れるからである.市民権運動の重要な達成の一つは,政府に関することだけではなく市民社会において同等な存在として参加する権利を含むものとしてシティズンシップの理解を主張したことにある.あるグループが,市民社会の制度から排除されたり,そこで隔離されたり,市民社会における制度によって割り当てられた社会的アイデンティティに基づく差別にあったりすることは,たとえそうしたグループに属する者が政治的権利のすべてを享受していたとしても,彼らを二級市民の立場に追いやることになる.(Anderson 1999: 317)

 したがって平等な市民として保証されるべきケイパビリティは,政治的なものだけではなく経済活動への参加も含む.アンダーソンによれば,市民として保証されるべき個人の〈機能〉には3つの側面がある.それは,人間としての側面,民主主義国家の政治参加する市民としての側面,協働の生産システムの参加者としての側面,である(Anderson 1999: 317).
 まず,人間としての〈機能〉.このためには,人の生物学的存在を維持するための権原が,実効的にアクセス可能であることが保証される必要がある.すなわち,衣食住や医療──そして人間の行為主体性(human agency)の基礎的な条件──,人の状況(circumstance)や選択についての知識,手段や目的について熟議する能力,自律のための心理的条件(自分自身で考えたり判断したりするための自信を含む),思想や行動のための自由が必要とされる(Anderson 1999: 318).
 政治参加する市民としての〈機能〉を保証するためには,もちろん,政治参加の権利が保障されることが必要となる.すなわちたとえばスピーチの自由や選挙権,さらには市民社会における財や諸関係に対する権原の実効的アクセス可能性も含まれる.具体的には結社の自由,道路・公園のような公共スペース,公共輸送を含んだ公共設備(public accommodations),郵便サービス,遠距離通信サービスが含まれる.また,恥辱なく公衆に現れうることや,部外者として他者から扱われないようなかたちで受け入れられるという社会的条件も含まれる.また,市民社会において関係を形成する自由には,私的空間への効果的アクセスも必要となる.そのような自由は,他者からの視線や他者からの侵入から保護されているときのみ機能すると考えられるからである.したがって,ホームレスのように家の無い人々は,このような自由の条件を欠いている人々であり,そうした状況を改善することは,政治参加する市民として必要となる〈機能〉の観点からみても,重要なことであると考えられている(Anderson 1999 318).
 また,協働の生産システムにおける平等な担い手としての〈機能〉を保証するためには,生産手段への実効的アクセス可能性が保証される必要がある.それには自己の能力を発展させるために必要とされる教育へのアクセスや,職業選択の自由,他者と契約したり協働したりする権利,自己の労働の公正な価値を受け取る権利,自己の生産過程における貢献に対する他者からの承認が含まれる(Anderson 1999 318).
 これらの〈機能〉は,市民にその実効的アクセス可能性が保証されているとともに,民主主義社会の主権者である市民が互いにそれを保証しあうことを義務付けるものである.そのため民主主義的平等論は,それが求める義務を履行しないものにも,それが保証する〈機能〉を提供しようというものではない.「民主主義的平等論は,平等主義的社会において,財を生産する義務を負った誰かの存在なしに,すべての人が財を受け取る権利をいくらか有しているという見解を回避する.民主主義的平等論は,シティズンシップの一部を構成するようなものとして広く解釈された,諸機能を達成するためのケイパビリティや実効的自由(effective freedom)における平等を探求する.労働が可能であり仕事へのアクセスが可能である人々にとって,こうした諸〈機能〉の達成が保証されるべきかどうかは,生産システムへの参加に条件づけられる.ヴァン・パレースの見解とは異なり,市民は互いに浜辺で遊びほうける実質的自由を負ってはいない」(Anderson 1999: 321).
 市民は互いに,人間として,政治参加する市民として,互いを尊重する.そして,協働の生産システムの担い手として互いを尊重する.そういう意味でアンダーソンの民主主義的平等論は,民主主義社会を前提として,人間間・市民間・協働の担い手間の平等な社会関係を保証しようという理論である.

4 十分主義的な生活保障の構想

 第1節で指摘したように,アンダーソンの民主主義的平等論は,責任感応的平等主義を批判的に検討するなかで対抗的に提示されたものだった.
 ゆえに今度は民主主義的平等論が,自発的な選択の結果により選択当事者がいかなる過酷な状況に陥ろうとも救済の手を差し伸べないという責任感応的平等主義の問題,そして,補償の対象者を自然的不運の犠牲者としてみなして哀れな者として蔑んでしまうという責任感応的平等主義の問題を,避けることができるかどうかが問われることになる.
 アンダーソンによれば,市民が,過酷な状態に陥るべきでも,不運によって蔑まれるべきでもないのは,民主主義的社会によって人間間・市民間・協働の担い手社会間の平等な社会関係を保証されるべきだからであり,そのための実質的機会が常時(at all times)保証されるべきだから,である.

 4.1 「協働のシステムとしての経済社会」という構想
 まずはそのうちの一つ,「協働の生産システムにおける平等な担い手」としての〈機能〉が常時保証されるべきだ,という観点から,彼女の民主主義的平等論において,過酷状況に陥る者も蔑まれる者も発生しない,という理由を確認してみよう.
 その前提にあるのは,アンダーソンの,経済社会は協働のシステムであり共同生産のシステムである,とする経済観である.「公正な分業(division of labor)や労働の成果の公正な分割(division of the fruits)を決定するための原理を決定する際には,(その分業に参加している)労働者たちは経済を,協働のシステムまたは共同生産のシステムとして見なす必要がある」(Anderson 1999: 321).
 アンダーソンによれば,経済社会とは『ロビンソンクルーソー』の物語で描かれた自己充足的な社会ではない.そうではなく,経済はあくまで協働的な生産システムである.すなわちそれが意味するところは,人々が,すべての経済上の生産物を,すべての人が共に働くことによって共同的に生産されたものとして見做す経済システムである.アンダーソンはこうした観点から,特定の生産物(output)をだれか特定の労働投入(input)のみの成果とすることを,ほかの誰かがなしたことに依存して各人は生産的貢献をしているという協働的生産システムにおける因果の網(casual web)の恣意的切断(arbitrarily cut)であるとして批判する(Anderson 1999: 321).
 アンダーソンは以下のように事例をあげて現代経済における「協働性」を指摘する.たとえば,各人の労働するための能力は,他の人々によって生産された膨大な投入物(食品,学校教育,子育てなど)に依存している.市民は,レクリエーションやエンターテイメント産業の労働者にも依存している.なぜならばそうした人々の労働が,他の人々の労働のためのエネルギーや熱意を回復することを助けるからである.ある人の労働の成果は,その人の努力のみによって達成されるものではない.バスケットボールコートをきれいに掃除する人がいるからこそマイケル・ジョーダンは活躍できるのである.数百万の人々は,公共交通機関の労働者がストライキをすれば,仕事に就くこともできない(Anderson 1999: 322).また,ルーティン的な低技能労働に従事している人がいる故に,高生産労働に従事できる人がいるのである.企業の高級役員は,電話応答に答えなくてもよいからこそ儲かる仕事に注力できるのである(Anderson 1999: 326).
 現代経済における分業(division of labor)の包括性は,協働なしで何も生産できないことを示している.分業を,協働生産の包括的システムと考えることで,労働者や消費者は,各人の選ばれた役割を果たすことを各人に集合的に委任する者として自らを捉えるのである(Anderson 1999: 322).「こうした観点は,各人は社会における能力と役割の多様性から便益を得ていることを評価するものである.またそうした観点は,組織のトップにいる労働者が社会的生産において偏った貢献をしているという考えも否定し,そして,高賃金労働者と低賃金労働者の格差を縮小させるような互恵性(reciprocity)の構想を動機付けることを助けるのである」(Anderson 1999: 326)8).

 4.2 民主主義的平等論による「協働のシステムの担い手」に対する生活保障9)
 こうした観点からアンダーソンは,協働のシステムの担い手の間で,極端な所得格差・不遇(disadvantage)が生じることを認めない.
 アンダーソンは,責任感応的平等主義では,極端な格差や不遇は解消されない,と考えている.それは,上述のように彼女が,責任感応的平等主義を,選択が自発的なものであればそうした選択の結果がいかなる過酷なものであろうとも,過酷な情況にある人々を救済しない理論である,と考えているからである.しかも,こうした政策体系において救済されるためには,自身が「不運」の犠牲者であることを広く社会に示す必要があり,こうした対応自体がスティグマの問題さえも引き起してしまう,と彼女は批判している(Anderson 1999: 305-6).
 アンダーソンは,民主主義的平等を根拠とすれば,責任感応的平等主義では救済できなかった人々を救済することができる,と考えている.
 たとえば危険な労働(農林漁業・鉱業,消防,警察)に強制されずに従事してけがをした者に対して,責任感応的平等主義では自ら選択した結果の悪運であるとして医療やリハビリテーションなどの補償をしない,とアンダーソンは批判する.そして彼女は,以下のように問いかける.協働のシステムとしての経済社会において,危険な労働をすることなく食品を食べ,鉱物や木材を使用し,火事や犯罪からの保護を享受している消費者が多数存在する.そうした人々が,危険な労働を担うことで障害を負った者に対し,自発的な選択の結果であるからあなたたちには補償を受ける権利はない,と主張することは果たして説得的なことなのだろうか,と.アンダーソンの「協働のシステムとしての経済社会」観に基づけば,人々は,危険な仕事の従事者の労働から自分が利益を得ている一方で,そうした危険な仕事を遂行することを(自分では為さずに)かれらに委任している,といえる.このため消費者には,危険な労働に従事している労働者にふりかかる不運についてのすべての責任を,こうした労働者に転嫁する自由はない,と彼女は考えている(Anderson 1999: 323).
 またアンダーソンは,責任感応的平等主義は,自然災害が起こりそうな地域に住んでいる人が実際に自然災害に罹災したことに対して,適切な補償を提供しない,と批判する.彼女によれば(そして彼女の経済社会を協働の生産システムとみる観点によれば),そうした地域に住んでいる人は,その地域からえられる天然資源の採掘作業などを,他の市民から委任されている人である.その資源を人々が需要している以上,人々はその地域で生活することにそうした作業を委任していることになる.そのため彼女は,市民は住んでいる場所を理由として基本的ケイパビリティを奪われるべきではない,と主張する(Anderson 1999: 323).
 それでは賃金では評価されないケアの担い手(non-wage-earning dependent caretaker)はどうか.こうした人々には女性が多く,彼女たちの多くは自ら選択して市場部門(market sector)の外部で,ケア活動に従事している.責任感応平等主義は,彼女たちの無賃金・低賃金・依存状態は,彼女たちの自発的な選択の結果であるとして,彼女たちに十分な生活を保障する政策を提供しないだろう,とアンダーソンは見ている.しかしケアの担い手は,市場の外部におかれていても,協働のシステムの外部に置かれているわけではない.ケアの担い手を協働のシステムの外部者として考える見解は,「市場部門と経済を混同している」と彼女は喝破する.彼女による経済を協働の生産システムと見なす観点からすれば,ケアの担い手は,賃金を稼いではいないけれども,3つの意味で経済社会に貢献しているのである.第1に,ケアの担い手は,自分たちが存在しなければ雇用によって担われていたような家事労働に従事している.第2に,未来の労働者を育て,傷病者の回復を助けている.第3には,その人たちがケア労働を担うことによってこそ,他の人々は市場に参加できる(Anderson 1999 : 323-4).
 もちろん責任感応的平等王主義はこのような批判について反論し,責任感応的平等主義であってもアンダーソンが批判するような過酷な帰結を放置しないとする.その反批判の内容と当否については別稿ですでに論じたのでここでは触れない10).
 とはいえいずれにせよアンダーソンは,民主主義的平等論においては,責任感応的平等主義よりも人の品位を落とさない方法で,労働者の低賃金や過酷な労働環境を改善したり,それに付随するリスクとしての事故・災害について補償したり,ケアの担い手の生活を保障したりする理論的根拠を提示できる,と考えている(Anderson 1999: 325).アンダーソンの民主主義的平等論によれば,社会は,まさに責任感応的平等主義がそうするように,低賃金労働者が選択によってこのような状態にあるかどうかとか,かれらの低い自然的賦与のせいでより良い仕事に就けないのかどうか,といったような判断をする必要はない.協働のシステムとして社会を捉える民主主義的平等論は,低賃金労働者や危険な労働の従事者やケアの担い手たちが果たしている役割に焦点を当てることで,かれらの生活水準を保障するための公共政策を正当化するのである(Anderson 1999: 326).
 4.3 人間・市民としての生活を保障する
 では,協働の生産システムの担い手ではない個人が直面する生活の過酷さ,または協働の生産システムを担うこととは別個の選択結果による過酷さについては,アンダーソンの民主主義的平等論はいかにこれを除去するのか.
 責任感応的平等主義は,当然他の人が払うであろう注意を払わず,結果として大事故の犠牲となった人を救済しない,とアンダーソンは考える.たとえば,事故後の治療費を補償する医療保険に加入することなく,ノーヘルメットで,バイクに乗った人がいる.そしてその人は危険なカーブを高スピードで曲がり事故にあい,瀕死の状態に陥った(だが治療すればどうやら命は助かりそうだ),とする.しかし責任感応的平等主義の観点からは,このような人を救済する論拠を導き出せない.なぜなら,行為者が事故を起こして瀕死の状態に陥ったのも,保険未加入ゆえに治療を受けられないのも,そしてそのまま死ぬかもしれないのも,「選択」の帰結であるからだ,と(Anderson 1999: 295-296).また,当該選択者が一命を取り留め,その後障害を負ったとしても,責任感応的平等主義はそうした障害者に対しては何ら支援をしないだろう,と考えられる(Anderson 1999: 296)11).
 対して「民主主義的平等論は,自由の社会的条件に対する実効的なアクセス可能性を,すべての市民に保証(guarantee)する.市民がどれだけ無思慮に(imprudently)ふるまっても,である.民主主義的平等論は,不注意(negligent)もしくは自己破壊的市民から必要不可欠な医療を奪ったりはしない.民主主義的平等論は,障害者を,その人が負った障害の責任がどの程度その人自身にあるのかによって区別しない」(Anderson 1999: 326-7).これは市民であれば誰であっても(無思慮な行為者であっても),常時,人間としてまたは市民としての〈機能〉を達成するための実効的可能性(すなわちケイパビリティ)が保証されるべきだとアンダーソンが考えるからである.したがって協働の生産システムの担い手でなくとも,民主主義的平等論は,人間として,政治参加する市民として,生活するに必要な実質的な機会を,人々に保証するのである.
 このような民主主義的平等論は,無責任を誘発すると批判されることもある.「無思慮(imprudent)に行動しても彼らが陥った状況から解放されるのならば,どうして思慮深く(prudently)行動しようか」,と.しかしアンダーソンも,このような問題を等閑視しているわけではない.彼女は,「平等主義者は,国家破綻を避ける場合にのみ,個人的責任を維持する必要性を直視するに違いない」と考えている(Anderson 1999: 327).こうした問題に対して責任感応的平等主義者であれば,行為者に原因がある損失とそうでない損失を区別し,後者のみ補償の対象とするだろう.しかし責任感応的平等主義はアンダーソンのみるところ,人々を過酷な情況に追い込みかねないものであった.これに対して民主主義的平等論は,平等主義の関心から補償される〈機能〉とそうでない〈機能〉を区別し,前者のみを補償しようする(Anderson 1999: 327).
 したがって,民主主義的平等論はすべての無思慮な行為によるすべての損失を補償するわけではない.たとえば民主主義的平等論は,喫煙に至った責任の程度に関係なく,喫煙者が肺がんになったことに対する治療を提供するだろう.しかし,彼女が病院で過ごすことや肺機能の低下で失われる人生の機会の損失,死の恐怖,親族からの彼女のライフスタイルに対する非難に対して補償を提供することを民主主義的平等論は主張しない.個人は,このような無責任な行為を通じた損失を負わされるので,民主主義的平等論においても個人は,思慮深く行動するインセンティブは持っているとされるのである(Anderson 1999: 327).
 そして民主主義的平等論は,犯罪を為した者に対して,個人の協働の生産システムの担い手としての基本的ケイパビリティや,市民社会における同等な存在としての立場を個人から取り除くこともありうる.なぜならばそうした人は,民主主義社会における市民としての義務を果たさないばかりか,他者の権利を侵害した者だからである.民主主義的平等論は,こうした人にまで,そうでない他者と同等の自由の社会的条件への実効的なアクセス可能性を保証しない.とはいえ,有罪確定した犯罪者でさえも人間としての立場は保っている.ゆえにそうした犯罪者であっても,十分な栄養摂取であるとか住居とか医療といった人間としての最低限の基本的諸機能は保証される,と考えられている(Anderson 1999: 327).

 4.4 アンダーソンの十分主義
 以上みてきたように,アンダーソンの民主主義的平等論は,市民に,○1人間として,○2政治参加する市民として,○3協働の生産システムの担い手としての〈機能〉を達成するに必要なケイパビリティを保証しようというものである.
 そのうえで本節の最後に確認しておかなければならないことは,アンダーソンの民主主義的平等論は,十分主義(sufficientarianism)を明確に支持しているということである.民主主義的平等論は,既に確認してきたように,市民に,人間として,政治参加する市民として,そして協働の生産システムの担い手としての〈機能〉の達成可能性を保証するものであった. 
 ここで重要なのは,民主主義的平等論が目指すものとは,民主主義社会で生活するに十分な〈機能〉を保証するということだ,ということである.したがって民主主義的平等論は,十分性の閾値を超えた水準のケイパビリティの保証について政策を提言するものではない.「その理論の焦点は,正義の要求を,民主主義国家における市民権から説明されるものとして定義することにある.私の観点にもとづくならば,民主制にとっての基本的必要条件とは,市民が互いに平等な条件で存立していることである.市民たちは,社会において同等な存在として生活するに十分なケイパビリティ集合を要求する権利を有する.(中略)民主主義的に重要な諸〈機能〉とは,十分な安全性,健康,栄養,教育,移動とコミュニケーション,恥じることなく他者と交流する権能(ability)である」(Anderson 2010: 83).
 アンダーソンの民主主義的「平等」論は,これまでみてきたように,すべての〈機能〉の達成を「平等」化することを目指すものではなかった.また,その達成可能性を視野に入れつつも,すべての〈機能〉の達成可能性に対する「平等」な機会保障を目指すものでもなかった.そして彼女の民主主義的「平等」論は,どのような〈機能〉の保障水準であっても,「平等」であればよいとするものではなく,市民として活動・生活するに「十分」な水準の「平等」な保障を目指すものであった.
 こうした十分主義の理論は,アンダーソンによれば,ロールズの格差原理──すなわち最も不遇な人の人生の見通しを最大化しようとする理論──とは異なるものである.彼女によれば,ロールズによる最不遇層(worst-off)に照準を合わせた政策は,最不遇層のわずかな収入の獲得のために,中間下層(lower-middle)に多大な犠牲を強いるものである12).彼女によれば民主主義的平等論は,ロールズの格差原理よりも,互恵性(reciprocity)の穏健な(less-demanding)形式を採用するものである.
 アンダーソンは,すべての市民が社会において同等な存在としての機能を得るのに十分なほどに,ディーセントな自由の集合を得ているのであれば,不平等はそれ自体として大きな問題ではない,と考えている(Anderson 1999: 326).彼女にいわせれば,不平等がどの程度許容されるのかは,所得の不平等が社会的地位(自尊の社会的基盤や投票における影響力)の不平等にどの程度変換されるかどうかにもかかっている.社会的地位や政治的影響力が経済的不平等に影響されないような社会システムであれば,不平等はより受け入れ可能になるとも彼女は考えている(Anderson 1999: 326).

5 社会的平等主義と責任感応的平等主義
 
 5.1 社会的平等主義
 以上でアンダーソンの民主主義的平等論の概要を確認した.アンダーソンは,ケイパビリティ・アプローチを採用することで,各人の生活状態を財の分配パターンのみで測るのではなく,個人を取り巻く社会関係をも視野に入れようとした(3節).またアンダーソンは,民主主義社会における社会関係に必要なもの,という観点から,彼女が責任感応的平等主義では供給できないと考えた,十分主義的な生活保障を提供しようした(4節).
 保田幸子はこうしたアンダーソンの主張を踏まえて民主主義的平等論を,単なる分配理論ではない「社会関係の理論」であると結論づけている(保田 2012: 48-9).とはいえそもそも,民主主義的平等論が「社会関係の理論」であることは,保田論文の結論や本稿の指摘を待つまでもなく,すでに英語圏ではよく知られた見解である.
 ゾフィア・ステンプロウスカ(Zofia Stemplowska)──彼女自身は社会的平等主義者ではない──は,社会的平等主義を「関係的財(relational goods)の分配にもっぱら関心を置く」ものとして定義し(Stemplowska 2011: 116),彼女は,そうした理論を提示する者として,ジョナサン・ウルフ(Jonathan Wolff)やサミュエル・シェフラー(Samuel Scheffler)などとともにアンダーソンの名前をあげている(Stemplowska 2011: 118-9n8).彼女のいう関係的財とは,社会的立場や友情などの,貨幣や厚生といった財──彼女はこれらを非関係的財(non-relatinal goods)とよぶ──とは異なる財である.社会的平等主義は,「人々は民主主義的コミュニティにおいて他者と協働することを欲していると想定」している.このため社会的平等主義は,「互いに社会的政治的制度編成について相談することを要求するし,また義務として,互いに敬意を持って他者の意見を傾聴し,応答すること」を要求する.こうした観点から「社会的平等は,他者と同等な存在として人々が自立する(stand)ことを不可能にするように制限された資源へのアクセス水準を越えた水準での閾値(threshold)を,人々が下回らないことを要求する」のである(Stemplowska 2011: 119).こうした観点から社会的平等主義が常に保障しようとする資源とは,関係的財にとどまらず,非関係的財である所得や富も含まれる.なぜならば所得や富の不平等は,社会的立場といった関係的財の不平等に繋がるからである(Stemplowska 2011: 119n15)

 5.2 アンダーソンとシェフラーの社会的平等主義
 ○1アンダーソン
 アンダーソンが社会的平等主義に位置づけられることは,3節および4節から明らかである.確かにアンダーソン自身は,自らの平等論を,単なる非関係的な財配分の理論ではない,平等な社会関係の構築を目指す理論だと明確に捉えている.
 アンダーソンは,平等主義的政治運動とはそもそも,上位階級が下位階級に,暴力をふるい,排除し,侮蔑し,見返り少ない労働を強制するような,ヒエラルキー的非平等主義支配へ抗議するものであったと理解している(Anderson 1999: 312).アンダーソンは以下のように述べている「かれら〔平等主義者〕は,人格(person)には同等な道徳的価値があることを主張している.この主張は,すべての人が同等の徳(virtue)や能力(talent)を有しているとまでは主張していない.この主張は,消極的には,出自や社会的アイデンティティなどに基づく道徳的価値の差別を拒否する.(中略)積極的には,すべての能力ある(competent)大人は平等な道徳的行為主体(agents)である,と主張する.すべての人は平等に道徳的責任を発展させたり運用したりする力を有しており,また,他者と正義の原理に従って協働したり,自らの善の構想を形成したり実現したりする力を有している」(Anderson 1999: 312).
 こうした点を踏まえアンダーソンは,民主主義的平等論についての,運の平等主義(責任感応的平等主義)と異なる3つの特徴を指摘している.第1に,アンダーソンによれば民主主義的平等論は,社会的につくられた抑圧(social created oppression)を除去しようという理論である.これに対して責任感応的平等主義は,自然的秩序(natural order)によって形成された不正義を矯正しようとする理論である.第2に,彼女によれば民主主義的平等論は,社会関係における平等に関心を置く「関係の平等理論(relational theory of equality)」である.対して責任感応的平等主義は,所得・資源・厚生のための機会などの分配パターンが平等であることを目指す「分配の平等理論(distributive theory of equality)」である.関係の平等理論においては,「各人が,他者も受容可能である原理によって自らの行為を正当化する義務を受容しているとき」,人々は平等であると考えられる.第3に,彼女によれば民主主義的平等論は,平等な承認の要求と,平等な財分配の要求を接合する理論である(Anderson 1999: 313-4).「財は,すべての人に対する尊敬を表現する原理や過程にしたがって分配されなければならない.人々は,財の取り分に対する権利を主張するための条件として,他者に対して服従することや貶められることを要求されてはならない」(Anderson 1999: 314).
 したがってアンダーソンの民主主義的平等論について,単なる資源の平等分配ではなく,支配や搾取や排除(marginalize)など抑圧からの消極的自由や,各人が平等な関係性のなかで自立するための積極的自由の平等な保障を視野に入れた,社会関係のあり様を捉える平等理論であると理解することができる(Anderson 1999: 313,316-7).

 ○2シェフラー
 またアンダーソンと同じ社会的平等主義の擁護者とされ,自身もアンダーソンとの類似性を認める(Scheffler 2003: 7)シェフラーは,ドゥオーキンらの責任感応的平等主義が,資源を分配する主体と,資源を分配される客体の非対称性を前提とした,「行政執行的な平等構想(administrative conception of equality)」に陥っていると批判する.その上で,それとは異なる関係論的な平等主義を提示しようとしている(Scheffler 2003: 37).
 シェフラーは,ドゥオーキンのような平等主義の特徴は,ドゥオーキンが自らの平等主義を展開する前に仮設的問題として提示した以下のような事例に現れている,と考えている(Scheffler 2003: 35-6).すなわち〈5人の子どもを持つ裕福な父親の事例〉である.ここで問われているのは,「盲目」「高価な嗜好をもったプレーボーイ」「高くつく野心を抱いた政治家」「質素な詩人」「〔高価な材料費を必要とする〕彫刻家」といった5人の子どもたちがいる場合に,父親はどういうふうに遺産を残すべきか,という問題である(Dworkin 2000=2002: 21).シェフラーはここに,財を持つ遺言人(父親!)と相続を受ける子どもの非対称な関係をみる.確かにここには分配する者と分配を受ける者の非対称な関係を矯正しようという発想はない.シェフラーの言葉を使うならば,分配する者はヒエラルキーに君臨する「慈悲深い統治者(benevolent tyranny)」である(Scheffler 2003: 37).こうした点を踏まえシェフラーは,「平等な配慮(equal concern)という抽象的原理をいかにベストに執行し操作するのかという問いから出発する平等主義と,同等な者どうしの関係性とはどのようなものかという問いから出発する平等主義は,(中略)鋭い対照をなす」と述べている(Scheffler 2003: 37).
 まさに,同等な者どうしの関係性を平等なものにしようという平等主義は,アンダーソンのそれと同じものであり,ステンプロウスカのいうところの社会的平等主義である.そして,そうした理念は少なくない点で,責任感応的平等主義のような理論とは異なるものである.
 5.3 責任感応的平等主義の「関係性」観
 このようにみると,社会的平等主義と責任感応的平等主義の対立は確かに,「社会関係か分配か」という対立に見える.さらに上記のアンダーソンも含めた社会的平等主義の主張を確認するならば,かれらの主張は,非関係的財を分配することの重要性を否定するものではなくむしろ,関係を維持・平等化するための手段として関係的・非関係的を問わず財を分配することの重要性を肯定するものである.関係の平等を目的,分配を手段,とすると,責任感応的平等主義などの分配理論は,分配という手段に注目するあまり,適切な目的を見失った理論にも見える.前掲保田論文においても,「アンダーソンの運の平等主義批判は,単に責任基底的平等主義の平等な分配についての見解を否定しているのではなく,平等を分配理論に断片化していることに対する批判であると理解すべきである」としてアンダーソンを支持している(保田 2012: 49).
 しかしこうした見方は,あまりに社会的平等主義による責任感応的平等主義批判のみを受け入れており,責任感応的平等主義側からの反論を無視しているように思われる.または,そもそも社会的平等主義理論の明確化のためにいささか戯画化された「責任感応的平等主義」観が提示されているように思われる.
 そもそも1節で述べたように.責任感応的平等主義の要点は,人々の自由な決定や選択を反映しない所得や富の分配や,かれらが直面し,かれら自身では如何ともしがたい外部的状況(circumstance)を反映した所得や富の分配は,人々を道徳的に同等な存在(moral equals)として扱っていない,と考えるところにある.そういう意味では,責任感応的平等主義が目的にするのは,単に分配パターンを平等化することでもなく,「責任」といった概念の分配パターンへ強く反映させることでもなく,「同等な存在」としての各人の尊重,といったことにあるといえる.
 ステンプロウスカは責任感応的平等主義について以下のように述べている.

責任感応的平等主義のモデルは,事実として,私たちが,各人を平等な道徳的地位を持つ者として,営むべき自分自身の生(own live to lead)を持つ者として尊重しなければならないという観念を捉えることを意図している.自分自身の生を営むために,それゆえ自分自身の企図(project)を実現するために,人々は資源へのアクセスを必要とする.しかし,資源の希少性ゆえに,私たちが為した選択は,他人が利用できる資源の量に影響を与える.私たちは希少性の状況下で,個別の人生を送っている(we are being with separate lives).そのため私たちは,他者──とりわけ,無分別に浪費的だったり向こう見ずだったり,そうした理由で,政策上当然にと補償されるだろうと考える他者──の選択からのある種の保護を与えられる権原の保有者として,各人を尊重しなければならない.(Stemplowska 2011: 130)

 各自が各人の「生(人生)」を尊重すること.資源が希少な状況下で,自分のなした選択が他者に影響を与えることに配慮すること,そうすることで他者の人生を尊重し,道徳的に同等な配慮を受けるべき存在として尊重すること.確かに責任感応的平等主義は,社会的平等論が捉えるような,民主主義社会において必要とされる人間としての,市民としての,協働の生産システムの担い手としての尊重を,各人に求めるものでこそない.しかし,責任感応的平等主義は,同じ資源の希少性という経済環境下で,長期的に相互に影響を与えながら生活している者同士の,相互の尊重を各人に求めるものである,といえる.
 確かにドゥオーキンは〈5人の子どもを持つ裕福な父親の事例〉を例示し,分配する者と分配される者の非対称性を等閑視しているようにみえる.しかし,責任感応的平等主義をこのように互いを道徳的に尊重する理念であると理解するならば,彼が提示した事例を,【誰かへの分配が別の人の分配上の取り分に影響を与えるといった関係にある人々に,どのような根拠で分配するべきか】という問題,として読みとることが十分に可能である.
 ステンプロウスカによれば,責任感応的平等主義は,「道徳的に同等な存在として個人を尊重するために何が必要とされるか」を捉えようとしている.一方で社会的平等主義は,「社会的に同等な存在として人々を尊重するために何が必要とされるか」を考えている.「ここでいう社会的に同等であるということは,同等な人々による社会のメンバーである,ということである」.ステンプロウスカは,社会的に同等な存在として社会から評価を受けるためには,他者を道徳的にも尊重することが必要とされる,と考えることで,その両立可能性について考察している(Stemplowska 2011: 131).
 こうしてみれば,社会的平等主義(民主主義的平等論)と責任感応的平等主義の違いは単に,分配か社会関係か,といった問題に集約はされない.ここまでの議論を踏まえるならば両者の差は,【民主主義的社会における関係を前提とした相互尊重の理念】と,【資源の希少性下において.それぞれ異なる目的をもって生きる人々の関係を前提とした相互尊重の理念】との差,であるといえる13).そういう意味では,責任感応的平等主義は,社会的平等主義とは異なる射程で,人々の関係性を捉えようとしているのである.

6 民主主義的平等論の射程の「狭さ」と「短さ」

 社会的平等主義と責任感応的平等主義について必要になるのは,それぞれの関係や尊重をめぐる射程の差異を踏まえた適切な統合理論か役割分担(分業)である.その具体的考察は筆者の今後の課題となるが,そのための準備作業として本節で,民主主義的平等論の関係性の「射程」について,責任感応的平等主義と対比しながら検討してみよう.

 6.1 社会的正義論の射程
 ロールズがいうように,「正義とは社会制度の第1の徳目」であり,社会制度とは,権利と義務,そして負担と便益を人々に割り当てるものである(Rawls 1999=2010: 6-7).そうであるならば,制度原理を実際の公共政策として運用するためには,割り当ての適否を測る〈尺度(度量単位)〉と,それが適用される〈射程〉とを定める必要がある.
 分配の尺度とは何かという問題は,「何の平等か(equality of what)」という問題として議論されてきた.たとえばその尺度は,功利主義においては〈効用〉であり,ロールズにおいては〈基本財〉であり,センやアンダーソンにとっては〈ケイパビリティ〉であった.また,本稿(3節・5節)で議論してきたことに即していえば,社会的平等主義が尺度としてきたのは「関係的財」でありそれを適切に評価に入れるとされた「ケイパビリティ」であった.
 分配の射程はどの範囲かという問題は,ニルス・ホルタッグ(Nils Holtug)とカスパー・リパート-ラスムッセン(Kasper Lippert-Rasmussen)の整理を参考にすれば,「誰の間の平等か(equality between whom)」という問題と,「いつの平等か(equality when)」という問題に区分される(Holtug & Lippert-Rasmussen 2007: 5-12).前者は,分配の対象となるのは,個人(individuals)か,それとも同じ属性を持つ個人の集団(group)か,または分配の対象に別の国家やそこに住む市民を含むのか,などについての問題である.他にも生活保障の対象として,外国人移民・難民を含むのか,という問題も考えられる.後者は,分配のために比較される個人の状態とは,生誕と死亡の間の生涯(lifetime)と呼ばれる長いスパンを包含するものなのか,幼年期・壮年期・高齢期などといった一定のライフステージ(life-stage/time-stage)で括られるものなのか,それとも日々変わりゆく時点切片(time-slice)における状態なのか,という問題である.
 要するにこうした問題は,分配の〈尺度〉とは別の,分配対象の〈射程〉を問うものである.「誰の間の平等か」は,分配対象の空間射程を問うものであり,「いつ時点の平等か」は,分配対象の時間射程を問うものである.そして分配の射程とは,関係性の射程でもある.なぜならば,上述のように分配は,ある社会における民主主義的関係のためや,資源の希少性下で相互に影響を与えあう人々の間の相互尊重に基づく関係のためになされるからである.こうしてみると空間射程の問題とは,視野に入れる人と人との関係性について,どれだけの空間的(地理的)範囲を想定しているか,という問題である.また時間射程の問題とは,視野に入れる関係性について,どれだけのスパンで相互関係が見られれば関係性(互恵性)があると判断できるのか,という問題である.

 6.2 狭い空間射程
 前小節を踏まえ以下では,民主主義的平等論の「空間射程」「時間射程」について検討する.空間射程から考えてみよう.
 コク-チョラ・タン(Kok-Chor Tan)は民主主義的平等論を主張するものとして,上で取り上げたアンダーソンやシェフラーの論文,そしてロールズの『公正としての正義 再説』(Rawls 2001=2004)を紹介している14).したがってここでの民主主義的平等論はアンダーソンのそれと同じく,社会的平等主義に位置づけられるものであるといえる.
 タンは,民主主義的平等論(社会的平等主義)と運の平等主義(責任感応的平等主義)を,「なぜ分配的平等が重要か(why distributive justice matter)」という問題に際して,異なる回答を提示する理論であるとして区分している.
 タンは民主主義的平等論の特徴について,平等や生活保障を実現する論拠を,「民主主義的政治秩序(democratic political order)におけるメンバー間の政治的関係」に立脚して導き出すものとして理解している(Tan 2012: 97).「民主主義的平等は,観念的には民主主義的社会のメンバー間の公平な社会的協働のシステムとして考えられている.そして公平な社会的協働の理念は,メンバーが互いに理に適った形で互いに受容する条件で,互いに生活しなければならないということを必要としている.後者は互恵性(reciprocity)の理念に繋がり,互恵性の理念は所与の社会経済的制度編成がすべての社会の参加者にとって受け入れ可能なものであることを必要とする」(Tan 2012: 97).
 したがってここでの民主主義的平等論は,生活保障を,民主主義社会の参加者としての市民や,社会的協働(cooperation)の公正なシステムの参加者である個人間に限って適用するものとして理解される.そしてこうした特徴は,アンダーソンの民主主義的平等論にもあてはまるものである.
 対して責任感応的平等主義は,民主主義的価値や社会的協働の価値から分配的正義の論拠を切り離す.責任感応的平等主義は,かれら自身では如何ともしがたい外部的状況(circumstance)を反映した好遇(advantage)や不遇(disadvantage)が発生するときに,それを是正する力を発動する(Tan 2012: 135).
 この違いが顕著に表れるのは,グローバルな平等の問題について考えるときである.このとき民主主義的平等論にとって問題となるのは,グローバルな政治経済社会のなかで,分配の根拠となる民主主義的互恵性(democratic reciprocity)の存在を確認できるかどうか,ということである.このため民主主義的平等論は,グローバルな社会に分配的正義の理念を適用することに懐疑的もしくは慎重にならざるを得ない(Tan 2012: 145).対して責任感応的平等主義は,資源の希少性下における,個人に好遇や不遇を与える個人では如何ともしがたい外部環境の存在に,分配する根拠を見出している.そのため責任感応的平等主義は,グローバルな政治社会における民主主義的互恵関係の存在がなくとも,グローバルな経済環境のもとで,グローバルな分配的正義を実現するための論拠を提供しうる(Tan 2012: 145).ゆえに,空間射程の問題については,責任感応的平等主義に比して,民主主義的平等論(社会的平等主義)の方は狭い,ということになる15).

 6.3 短い時間射程
 次に時間射程について考える.
 アンダーソンの民主主義的平等論は,十分主義的保障を市民に「常に(at all times)」提供しようとするものであった.上述の3つの側面の〈機能〉は,全人生の過程(the course of an entire life)において常に保証されるべきものであった.
 アンダーソンは,個人が不可逆的に基本的自由を他者に譲渡すること,または金銭でもってそうした権利を売却することは,個人の自発的な選択であっても無効である,と考えている.なぜ人は基本的自由をその人が選好するほかの財と交換してはならないのか.それは「個人の自由の社会的条件についての譲渡不能な権利に対応するもの(counterpart)は,その人の尊厳や道徳的平等を尊重する無条件の義務である」からである(Anderson 1999: 319).他者から権利を「購入」してその人に金銭を渡すことは,そしてその後に権利売却者を無権利者として扱うことは,他者の尊厳を尊重したことにはならない.
 彼女はカントを参照し,すべての個人が持つ尊厳は,誰かほかの人の欲望や選好に条件づけられてはならない,とする.さらにはその人個人の欲望に対しても条件づけられてはならない,とする.彼女は,相手の同意があったとしても他者を奴隷のように働かせたり強制労働に就かせたりする行為は無効である,とする.それは,行為者自身が自分の将来にわたる自由を放棄するような愚行を選択したとしても,それゆえに実際に行為者から将来にわたる〈機能〉への実効的アクセス可能性を奪ってはならない,と考えているからである(Anderson 1999: 319).
 このことは,ある時点でなされた選択は,以降の時点における分配パターンに反映されないということを示している.そういう意味では,ある時点(たとえば将来時点)での個人は,別時点(たとえば現時点)の個人の選択から守られているといえる.民主主義的平等による十分主義的な保障政策のもとでは,ある時点で自由を放棄するような選択をしたとしても,市民はその選択に生涯縛られることはない.
 たとえば,ある時点で働かずに浜辺で遊びほうけていた場合は,確かにその時点においては協働の生産システムの担い手としての〈機能〉の達成を保証されない.しかし,常に協働の生産システムの担い手として生活保障される機会に開かれているのであるから,現時点で就労せずにサーフィンをしていたという選択が,別の時点での就労し収入を得る機会に影響を与えることはない.また,政治参加する市民としての〈機能〉に関するケイパビリティは,常なる政治参加を可能とするために,常に保証されるだろう.しかし,市民に保証されているのは〈機能〉を達成することそのものではなく〈機能〉の達成可能性なのであるから,政治参加を欠かすことなく必ずしなければならない,ということにはならない.民主主義的平等論が保証するのは,政治参加しなくてもその選択が別の時点の政治参加する権利に影響を与えないということである.協働の生産システムにおける互恵性に参与する機会や,政治参加する市民としての関係性をとり結ぶ機会は,一定の期間ごと(たとえば,毎月の定期的な職業紹介を受ける機会や,公職選挙のための投票日ごと)に保証されているのである.
 したがって民主主義的平等論においては,ある時点で愚行を犯しても,次の時点で瀕死の重傷を負うとしても,前時点の愚かな選択を理由として救助されないということはない.しかしそうだとすれば,愚行者を救済するコストを思慮深い行為者が負担するのは理に適っていないのではないか,と批判されるかもしれない.民主主義的平等論はこうした疑問に対しても時間射程を短く設定することで応答しようとする.たとえば,確かに民主主義的平等論においては,喫煙が自分の健康を害すると理解していながら喫煙を繰り返したとしても最低限の医療を受けることができる.しかしそれによるコストは,喫煙して健康を害した時期──すなわち将来時点──に支払われるべきではなく,喫煙をしたその時期──すなわち現在時点──に支払われるべきであるとする.すなわちタバコ購入に対する課税によって賄われるべきである,とする.したがってアンダーソンは,ある人の愚行がもたらす社会的コストについて,「事後(ex post)」ではなく「事前(ex ante)」(すなわち健康を害してからではなくタバコ購入選択時に)に負担させるべきだと考えている(Anderson 1999: 328-9).
 アンダーソンは,対する責任感応的平等主義については,人生の初期における機会の平等が達成されればそれでよしとする「スターティングゲート理論(starting-gate theory)」であると批判している.彼女は,責任感応的平等主義は,選択の失敗によって平等な自立の基盤(equal standing)へのアクセス可能性が損失してしまうことを等閑視する,と批判している(Anderson 1999: 319).実際に責任感応的平等主義がスターティングゲート理論かどうか,選択の失敗による自立の基盤の喪失をどの程度許容するのかについては,ここでは議論しない.とはいえいずれにせよ,人々の自由な選択や決定を重視する責任感応的平等主義においては,ある時点でなされた選択が,後続する時点における分配パターンにも反映されることを許容するだろう.
 デニス・マッカーリー(Dennis Mckerlie)は,このような責任感応的な平等主義を,「人生全体の平等主義(complete lives egalitarianism)」の一つとして位置付けている(Mckerlie 2012: 32).人生全体の平等主義とは,「正義の原理を適用する適切な時間単位(temporal unit)は,人生における時間的段階ではなく,生涯(lifetime)である」とするものであり,まさに時間射程の長い理論である(Mckerlie 2012: 9).
 マッカーリーが人生全体の平等主義とは異なる,短い時間射程の平等主義説として提示するのが,平等主義の同時点区間説(simultaneous segments view)である(Mckerlie 2012: 61).これは,平等か不平等かを比較する際に,当該者間の生涯間(たとえば,A氏の生涯全体とB氏の生涯全体)を比較するのでも,それぞれのライフステージ間(たとえば,現在若者であるA氏の現在の状態とB氏の20年前の若者期の状態)を比較するのでもなく16),その時その時のある同時点区間内における当該者間の状態(たとえば,現在若者であるA氏の状態と現在老人であるB氏の状態)を比較するものである.ただしここでの「同時点」ということについて,ある瞬間瞬間の時点切片間の比較であっても,若者期・壮年期・老年期といった比較的長いライフステージ間の比較であってもかまわない.同時点区間説にとって重要なのは,同じ時間区間(その区間は生涯全体よりも短い)を共有する個人間が平等であるか否かを判定する,ということである.
 人間として,政治参加する市民として,協働の生産システムの担い手としての〈機能〉の達成可能性を,十分主義的に達成しようとする民主主義的平等論は,その十分性の閾値に達していない個人を救済の対象とする.ここで救済の対象となる個人はどのように選ばれるのか.時間射程の短い民主主義的平等論においては,前の時点での選択や状態や,後の時点での状態の見込みは,考慮に入れられないだろう.とすると民主主義的平等論において,十分性の閾値に達していないとして救済対象に選ばれる者とは,現時点でそうした閾値に達していない人である.逆にいえば,その人が過去に裕福な状態にあろうとも,将来裕福になる見込みが高かろうとも,現時点でその人の状況が保証されるべき閾値水準以下にあるのであれば,救済されるのである.そうした意味では民主主義的平等論(社会的平等主義)はやはり,(アンダーソンの民主主義的平等論においては「平等性説」ではないものの)一定区間を定めた同時点内における人々の状態や関係性を捉えようとする点で,同時点区間説の一バージョンであるといえる.ゆえに時間射程においては,アンダーソンの民主主義的平等論の方が短く,責任感応的平等主義の方が長い,ということになる17).

 6.4 アンダーソンの射程とケイパビリティ・アプローチ
 それでは,アマルティア・センの提示し,アンダーソンが自らの民主主義的平等論に導入したケイパビリティ・アプローチは,このような空間射程の狭く,時間射程の短い理論に適用するのに適した尺度であるのだろうか.結論からいえば,適していると考えてよいだろう.
 アンダーソンの民主主義的平等論は,民主主義社会における関係性の平等を評価する理論であった.そのために人間として,政治参加する市民として,協働の担い手としての〈機能〉の達成可能性を市民一人ひとりに保証する理論であった.そうした点からみれば,3節でみたとおり,「ケイパビリティ」という尺度は「財」だけではなくて,社会関係・社会規範のありようがもたらす,〈機能〉の達成可能性の不平等を視野にいれる.
 上述のように,アンダーソンの民主主義的平等論は,民主主義的な関係性/互恵性が成立している領域で効果を発揮するものである.そういう意味では関係性の空間射程は狭い.とはいえこうした互恵性が成立する領域は,互恵性が見込めない領域よりも,人と人との関係性が密であり,それと裏腹に,人が他者の尊厳を毀損しやすい空間である.ケイパビリティという尺度は,関係性が密な空間において重要な意味を持つ社会関係や社会規範を評価するのに適切な尺度であるといえる.
 また,民主主義的な関係性/互恵性を重視するアンダーソンの民主主義的平等論は,個人が不可逆的に基本的自由を他者に譲渡することや,先行する時点での選択により後続する時点の生活が過酷な状態に陥ることを避けようとする.そのためアンダーソンは,民主主義的な関係性の基盤となる自由や権利や最低限の生活を,どの時点においても保障しようとしている.そうであるならば,ある時点での選択が,別の時点のケイパビリティ(〈機能〉の達成可能性)に影響を与えることは避けなければならない.ケイパビリティを短い時間射程へ導入するためには,対象となるケイパビリティ(達成可能な〈機能〉の集合)を,各人の人生全体でではなく,時点(ライフステージ)ごとに保障しなければならない.
 ケイパビリティ指標をこのように利用することは,ケイパビリティ・アプローチの原理を改変することにはならない.なぜならば,尺度の問題と射程(空間射程と時間射程)の問題は独立したものとして扱うことができるからである.実際に,「測る尺度を何にするか」と「何を測るか」ということは別の問題である.たとえば質量をグラムで測るかポンドで測るかという問題と,ヒトの平均体重を計測するか,ヒトも含めたサル目全体の平均体重を計測するかという問題は,別の問題である.アンダーソンの民主主義的平等論にケイパビリティを導入することとは,短い時間射程でとらえられた民主主義社会における密な関係性を,ケイパビリティという尺度で測る,ということであり,ケイパビリティという尺度の特性をなんら毀損するものではない.
 ただし,ケイパビリティという尺度は,狭い射程・短い射程にのみに適切に適用されるわけではない.ケイパビリティを広い空間射程に適用するならば,国民国家・民族・経済圏に分断された社会における自然環境・経済環境の差異を配慮した資源配分を検討することができよう.また長い時間射程に適用するならば,「本人が価値を置く理由ある生を生きられる」自由と,その選択責任を重視する基本的ケイパビリティの指標を,考察することもできよう.とすれば,ケイパビリティとはやはり社会正義の有効な尺度ではあるが,アンダーソンの民主主義的平等を捉えるときにのみ有効なのではない.アンダーソンの民主主義的平等論がケイパビリティを尺度として用いることは適切ではあるが,ケイパビリティが民主主義的平等論にしか適用できないわけではない.

 6.5 「狭さ」と「短さ」がもたらす問題
 アンダーソンは,市民に保証すべき〈機能〉とは何かを,民主主義社会で生活する市民にとって必要となる〈機能〉とは何か,という観点から導き出す.その射程は「民主主義的互恵性」にこだわるがゆえに狭く,「常なる保証」を重視するがゆえに短い.「狭い」「短い」ということを指摘するだけではアンダーソンの民主主義的平等論の問題を指摘することにはならないだろう.おそらくアンダーソンからすれば,責任感応的平等主義の「広い」「長い」射程では人々に対して十分な生活保障を提供できないと批判するだろう.
 とはいえ,民主主義的平等論におけるこのような射程の「狭さ」と「短さ」は,やはり問題含みである.すでに指摘した(6.2)ように,民主主義的互恵性に基づく理論が,グローバルな経済関係における不平等,すなわち「互恵性」内で生活する者と「互恵性」外で生活する者の間の不平等を是正する理論としては効果を発揮しにくいのではないかという疑念は,やはりぬぐい難いだろう.
 また「互恵性」内においても,民主主義的平等論による十分主義的な保障は,社会正義が関心を置く対象として適切なのかも疑わしい面が残る.既に確認したように,民主主義社会で生活する市民にとって必要となる〈機能〉とは何かを考える民主主義的平等論は,十分性の閾値を超えた水準のケイパビリティを保証するものではない(4.4).しかしそうであれば,その閾値水準を超えた人びとの間の格差,たとえば閾値水準をはるかに超えた生活水準の人と,閾値水準と同水準で生活する人の格差を是正する論理を持たないことになる.
 これ自体は,民主主義的平等論(社会的平等主義)自体の問題というよりも「十分主義」の問題ではあるが,アンダーソンの民主主義的平等論においてはこうした問題がさらに深刻になるおそれがある.たとえば責任感応的平等主義を擁護するカール・ナイト(Carl Knight)は,民主主義的平等主義が保証する閾値水準では,個人的〈機能〉の最低限の水準を保障するに留まってしまう,と批判している(Knight 2009: 157).
 ナイトによれば,人間としての〈機能〉や政治参加する市民としての〈機能〉の達成可能性の保証はもちろんのこと,協働の生産システムの参加者として保証される〈機能〉の水準も低いものにならざるを得ない.ナイトはアンダーソンの議論を引用しながら,協働の生産システムの参加者として保証される〈機能〉とは,(1)教育,(2)職業選択の自由,(3)生産手段への効果的アクセス,(4)労働の公正な対価を受け取る権利,(5)生産的貢献についての他者からの承認,に限られると指摘する(3節参照).そしてナイトは,以上のうち(1)と(2)は,分配的正義に懐疑的な保守派(conservatives)でも賛同するものであろうと指摘する.またナイトからみれば,(5)は財の分配を伴わないし,(3)は現在の不平等な生産手段の私有制度に挑戦するものではない(Knight 2009: 158).(4)についてアンダーソンは確かに,「社会は労働の役割を,債務奴隷のような日雇い労働(peonage)や奴隷労働のような強制労働(servitude)に帰せしめないだろう.また社会は(可能であれば)労働者に,障害の無い労働者がフルタイム働いても基本的ケイパビリティを欠いてしまうような賃金しか与えないということを否定するだろう」と述べている(Anderson 1999: 325).しかしナイトは,アンダーソンは(4)については上記引用個所でしか言及しておらず,そうであるならばやはり,「アンダーソンが保証するのは,市民にせいぜい低い労働者クラスの立場であり,最悪の場合アンダークラスの立場である」と批判する(Knight 2009: 158).そしてナイトは,「アンダーソンは我々に,まさにぎりぎりの最低限の資源を保証が整っているならば,分配的正義の思想を放棄しろと求めてきている.たとえば,分配上の取り分が誰かの人生の企図(ambitious)の達成を可能にし得るとき,最低限レベルを超える分配は 正義にとって非常に重要なものであるかもしれない」と指摘している(Knight 2007: 158-159).
 しかもアンダーソンの民主主義的平等論の問題は,閾値水準以上の保証を提供できないということに留まらない.リンダ・バークレー(Linda Barclay)は,アンダーソンが市民の福祉(well-being)にとってある種の社会的・制度的関係性が重要であるということを強調してきたことを評価しているが,それでもやはり,正義のすべての要求を市民間の平等な地位という問題に還元することは間違いであると指摘している(Barclay 2007: 198).バークレーにいわせれば,「国家の関心を引きだすべきケイパビリティや〈機能〉の範囲を,平等な立場で関係をもつ人々に限定することは(中略)あまりに狭すぎる(far too narrow)」(Barclay 2007: 205).たとえば,アンダーソンの民主主義的平等論は,ケア提供する者に対して十分な生活保障を提供しようとしている(4.2を参照).確かにケア提供者に依存するケアを受ける依存者も,そこから利益を受けるであろう.しかしそれは,ケア提供者の労働を,協働の生産システムの担い手として適切に評価するためのものである.したがってケアを受ける依存者の生活は,ケア提供者の生活保障から反射的な利益を受けるに留まり,かれらの生活を直接的に保障するものではない(Barclay 2007:207).
 このような問題が惹起される理由は,アンダーソンの理論が「民主主義的互恵性」ということを根拠に生活保障を提供しようとものであるというところにある.関係性の射程を「民主主義」的な諸関係に絞ることは,その関係性の射程に,グローバルな経済関係を視野に入れにくいという問題につながるに留まらない.民主主義的平等論が,民主主義的関係の保証のみを重視するならば,【市民として民主主義的に政治活動するに十分な水準】以上の生活保障に沈黙せざるを得ないし,しかも民主主義的社会で主体的に活動できないケア提供者に依存した者に対する生活保障を提供する根拠を欠いてしまうのである.やはり分配上の不正義を是正したり,人と人との関係性について尊重したりすることを,「民主主義的互恵性」のみに絞って正当化することは難しいといわざるを得ない18).
 そして,時間射程の短さも問題含みである.もちろん過去の選択が現在の選択に深刻な影響を与えないようにすることは,十分主義的な生活保障のためには必要であろう.しかしリチャード・アーネソンが指摘するような問題──これに対応できる責任感応的平等主義として彼は「責任対応的優先主義(responsible catering prioritarianism)」を提示する──,には民主主義的平等論は適切な回答を提示できない.この問題とはすなわち,山岳公園での遭難者が同時に複数存在する──第1のグループは予期せぬ吹雪の遭遇した遠足中の学童,第2のグループはあえて難しいルートを選択した経験ある登山家たち,第3のグループは公園側の警告などを無視して向こう見ずな行動をとった旅行者──場合に,そのうちどのグループから優先的に救助されるべきか,という問題である.こうした問題に対してわれわれは通常,自発的判断の有無や向こう見ずだったかどうかということは考慮に入れるだろうが,民主主義的平等論はこうした問題に対して沈黙してしまうのである(Arneson 2000: 348).
 やはり,過去選択を現在選択に反映させないとする理論には限界がある.人はいかなる選択をしようとも必ず十分な生活が保障されるという議論は一見魅力的である.しかし,アーネソンが懸念するように,アンダーソンの民主主義的平等論においては,以下のような深刻な問題が発生しうる蓋然性を払しょくできない.現時点でいかにふるまおうとも将来時点の生活は保障されるならば,「ある個人は非難に値するほど無責任に,何度も何度もふるまい,結果として,諸個人を閾値レベルで保証するコストをひどく高いものにするかもしれない.さもなくば,すべての社会資源を使い尽くしてしまうかもしれない」(Arneson 2000: 349). 
 こうした批判に対して時間射程の短いアンダーソンの民主主義的平等論は上述(6.3)のように,そうした「非難に値する」ふるまい(たとえば「喫煙」)に対して,ふるまいをした時点においてその行為のコストを負担させるかもしれない.しかしそのような政策は,社会に負担を与える蓋然性の高い行為に,社会に本当に負担をかけるかどうか未確定な段階で高額な税(高額なタバコ税)を付加することにつながる.そしてそれは,そうした行為(たとえば低所得者の喫煙)を事実上禁止することになる.アンダーソンはすでにみたように「自由の社会的条件」を重視していたはずである.にもかかわらず,特定の行為を社会にコスト負担を強いる行為であるからと予測して事前に禁止する政策は,過度なパターナリズム的政策を正当化してしまい.「自由の社会的条件」を毀損してしまいかねない.

7 おわりに

 本稿では,アンダーソンの民主主義的平等論について,○1ケイパビリティ・アプローチを採用することで,個人を取り巻く社会関係をも視野に入れた状態を評価しようとしたこと(3節),○2民主主義社会における社会関係に必要なものという観点から,十分主義的な生活保障を提供しようしたこと(4節),を指摘した.本稿は,こうしたアンダーソンの民主主義的平等論と,それと対比される責任感応的平等主義との差異を,「分配か社会関係か」ではなく,【民主主義的社会における関係を前提とした相互尊重の理念】と,【資源の希少性下において理由や目的をもって生きる人々の関係を前提とした相互尊重の理念】との差であると指摘した(5節).それを踏まえ本稿は,両者の差異について,空間射程と時間射程の視点から整理し,ケイパビリティを狭い空間射程と短い時間射程に適用することや,こうした特徴を持つ民主主義的平等論の限界について考察した(6節).
 総括すれば,民主主義的平等論(社会的平等主義)は,空間射程の狭い,時間射程の短い,分配と社会関係の理論であるといえる.一方で責任感応的平等主義は,空間射程の広い,時間射程の長い,分配と道徳的関係の理論であるといえる.本稿では,「狭い」「短い」民主主義的平等論の問題点を指摘したが,だからといって「広い」「長い」責任感応的平等主義のみが妥当な社会正義論であると考える必要はない.「狭い」空間射程であることは,密接に関連する市民間の社会関係の可能性と問題点を視野に入れるのに適していた.また「短い」時間射程であることは,他時点での選択が別時点における〈機能〉の達成可能性に影響を与えないことを保証するものだった.理論の特徴を踏まえつつ問題点を指摘することは,その理論の限界を指摘することであり,その理論の守備範囲を規定する作業でもある.いずれにせよ,5節で確認したように,単に分配か社会関係かといった視点で両理論の優劣を測るのは適切ではない.それぞれの理論が捉えようとしている関係性の射程を踏まえたうえで,両理論の統合もしくは分業の方法を考える必要がある.人は,身近な人とその時々の関係性の中で生きると同時に,共通の資源の制約下で遠く離れた個人の人生にも影響を与え関係しながら生存しているのである.

付記:本稿は日本学術振興会科学研究費補助金(課題番号25885103)およびユニベール財団「健やかで心豊かな社会をめざして』を基本テーマとした研究助成金」による研究成果の一部である。


[注]
1)本文の引用文中の傍点および亀甲かっこは筆者.引用文献が邦訳のある英語文献である場合は,訳語を一部変更してある場合がある.
2)このような主張を最も初期に整理した形で提示したのは,ロナルド・ドゥオーキン(Ronald Dworkin)であった(Dworkin 1981).ドゥオーキンは,政府による分配は,「各人の経済的背景,性別,人種,あるいは技能やハンデキャップ」などに対して「非感応的(鈍感)」であり,かつ,人々(市民)自身が行った選択に「感応的(敏感)」であるべきだ,としている(Dworkin 2000=2002: 14).他にもリチャード・アーネソン(Richard Arneson)は,「厚生のための機会の平等(equal opportunity for welfare)」という考え方を提示し(Arneson 1989),またジェラルド・コーエン(Gerald Cohen)は,「有利性へのアクセスの平等(equality of accese to advantage)」という考え方を提示している(Cohen 1989).もちろん,ドゥオーキン,アーネソン,コーエンなどの論者それぞれの見解については差異があり,実際に対立している点もある.とはいえ,分配は「選択に敏感で,かつ,運に鈍感(luck insensitive)なものであるべきだ」とする考え,そして,自分のコントロールを超えた状況の不運によって被った不利益性(disadvantage)は補償されるべきだ,とする考えは,責任感応的平等主義の擁護者の間では共通する.それぞれの見解の差異については,井上(2002: 279-97)やKnight(2007: ch.1, ch.2)などを参照のこと.
3)保田自身の用語法にしたがえば,ここでいう分配尺度とは「分配項目」であり,分配根拠とは「分配基準」であり,分配の評価基準とは「分配理念」である.しかし,項目・基準・理念という用語法は,用語各々の関係や位相が不明確であり,その意図する内容について誤解を招きやすい.そのため本稿では,あえて「尺度」,「根拠」,「評価基準」に言い換えている.
4)したがって,Anderson(1999)やAnderson(2010)をすでに読んだことのある読者は,これらの節について読み飛ばしても問題はない.なお,筆者によるアンダーソンの運の平等主義批判についての検討は,角崎(2013)を参照のこと.
5)リベラルな平等主義の詳細な説明についてはKymlicka(2002=2005: 3章)を参照のこと.
6)ロールズは基本財として「自尊の社会的基盤」も含めている(Rawls 1999=2010: 86, 577など).そのためロールズの基本財アプローチにおいても,社会関係の問題は視野に入れられているといえるかもしれない.しかし,やはり財や権利の配分のみで「自尊」が確保されるわけではなく,いったいどのようにして「基本財」としての「自尊」が保証されるのか,ロールズの議論からは判然としない点も多い(斎藤 2011など).
7)アンダーソンは,資源主義アプローチよりもケイパビリティ・アプローチの方が有効な理由として本文で取り上げた理由の他に,ケイパビリティの方が手段で達成されるべき目的を直接捉えていること,個人の身体的・精神的な差異に敏感(sensitive)であること,民主主義的諸制度との適合性,をあげている(Anderson 2010: 88-95).
8)ここでアンダーソンの議論が述べていることは,現状の所得格差は,経済社会を協働のシステムとして捉える観点からは容認できない,ということに留まる.したがってアンダーソンの民主主義的平等論は,現在の低賃金労働者の待遇改善には結びつくであろう.しかしここでアンダーソンは,たとえば「掃除をする人」「公共交通を担う人」の所得と地位のラディカルな改善(たとえば掃除をする人の賃金や地位を,バスケットボール選手のそれよりも,同等かそれ以上のものとして評価すること)を主張しているわけではないように思われる.
9)本小節と次小節の内容については,角崎(2013: 3節(2))と一部重複する部分がある.
10)角崎(2013)の3節(4)〜(5)を参照のこと.
11)こうした見解についても責任感応的平等主義者は反論するだろう.詳細については角崎(2013)の3節(3)〜(4)を参照のこと.
12)こうしたアンダーソンの批判がロールズ批判として的を射ているかどうかは留保しておかねばならない.なぜならば,ロールズは階層間の所得分布について「鎖状のつながり(chain connection)」を前提にしており,鎖状のつながりが成立している以上はアンダーソンが懸念するような事態は発生しないからである.すなわち鎖状のつながりがある状況下では,最不遇層(worst-off) の生活状況がわずかながらでも改善されるときには,必ず,それより生活状況のよい中間下層(lower-middle)の生活状況も改善される(Rawls 1999=2010: 110-1).ただし,ロールズは鎖状のつながりが必ず成立するとまでは言及していないし,それが格差原理を正当化する条件であるとも主張していない(Rawls 1999=2010: 112).したがって,アンダーソンの批判するような事態が絶対に発生しないことまでは,ロールズは説明してはいない.
13)とはいえ,社会的平等主義(民主主義的平等論)は資源の希少性の問題から逃れられるわけではない.その点については角崎(2012: 53).
14)アンダーソンとロールズの差異について,またはロールズと責任感応的平等主義との差異(とりわけ関係性をめぐる射程についての差異)は,別稿で論じる予定である.
15)ただし注意しなければならないのはタンがこうした比較を行うのは,「なぜ分配的正義が重要か」という問題に対して,すなわち分配的正義の正当化論拠をめぐってのことだということである.ここでの区分においてタンは,民主主義的平等論も,責任感応的平等主義も,「いかにして分配するのか(how to distribute)」「何を分配するのか(what to distribute)」についての回答を提示する「実体的原理(substitutive principle)」ではなくて,そうした原理を基礎づける「根源的原理(grounding principle)」であるとしている(Tan 2012: 106-7).よって,民主主義的平等論と責任感応的平等主義の空間射程の差とは,あくまで根源的原理における差である. そういう意味では,民主主義的平等論はグローバルな世界に導入できないわけではないし,責任感応的平等主義もグローバルな分配正義の実現を保証するものではない.が,後者のほうがやはり,民主主義的な互恵関係を前提とせずとも資源分配を正当化することができる点で,空間射程が広いと規定できるのである.
16)マッカーリーは前者を「生涯区間説(lifetime segments view)」,後者を「対応区間説(corresponding segments view)」とよぶ(Mckerlie 2012).
17)もちろんアンダーソンの民主主義的平等論が市民に,人間として,政治参加する市民として,協働の担い手としての〈機能〉を保証するということは,その時々の生活を保障するためだけではない.またアンダーソンが平等の「同時点区間説」を採用したとしても,彼女が「人格の同一性」について否定していたと考える必要はない.むしろ〈機能〉の達成可能性はat all timesで保証されていることから,(平等性・十分性の比較については「同時点」で行われるけれども)その視野には,間接的ではあるがすべての時間(all times)が入っているとみるべきであろう.上述のマッカーリーも,平等主義が比較すべき時間射程について,生涯区間説を否定し,短い時間射程で人生を区切ったうえでの優先主義的比較を行っている(マッカーリーはこれを「時間特定的優先性説(time-specific priority view)」とよぶ(Mckerlie 2012: 96)).
18)アンダーソン自身も最近は,民主主義的平等論の限界を認めている.たとえば彼女は,「深刻な脳のダメージ」を負った者──すなわち,ケア提供の依存者──に対しては,民主主義的平等論ではない別の原理が必要であることを認めている(Anderson 2010: 84).


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[注]

1) 1978年の厚生行政調査報告によると,全国の特別養護老人ホームは,8,000施設,入居者が寝たきり老人の約16%の6万4000人,入院者は約14%で,残りの約70%は在宅となっている(厚生省大臣官房統計情報局編 1979).
2) 1949年に発足した「上京生活を守る会」が中心となり,零細の賃織労働者や西陣機業の関連業者,商店主などの住民約800人が出資.設立金約3万円で,京都市上京区の白峯神社の近くに設立された.理事長に西陣学区の神戸善一(織元).所長に早川一光(医師).
3) 白峯診療所は,当時共産党を中心とした医療運動の一環として設立された.1953年に他医療機関とともに,関西民主的病院診療所連合会京都支部を設立したが,1961年に脱退.
4) 助成会は,学区ごとに8つの支部に分かれ,各支部代表の8人が助成会の理事となり,堀川病院の院内理事とともに理事会を構成していた.各支部には福祉厚生部・保健部・長寿会連合会などがつくられ,学区の横の繋がりを果たしていた.任意団体であった助成会は,1960年から京都労働金庫と提携し,一口100円の助成積立金制度を始めた.1967年から,出資金3000円以上の出資者を病院法人の社員とする制度をひき,年に1回の社員総会が開かれた.1981年,医療法人西陣健康会堀川病院の社員組織と助成会を統一し,助成会を西陣健康会と改称.300人から始まった会員数は1980年には4,500人となったが,それをピークに減少していった.
5) 当時は家庭訪問とよばれていた.
6) これらの疾患は西陣病と名付けられていた.
7) 京都府下の市町村に対し,80歳以上および65歳以上の福祉年金所得以下の寝たきり老人に限って,医療費の二分の一(京都市は三分の一)の補助金を出すことから始まった.
8) 無料化制度は,年間38万以上の収入のある場合と扶養家族5人で年間250万円以上ある場合は対象にならなかった.
9) 1970年の京都市の老人人口比は,京都市が7.5%,上京区は9.6%となっている(京都市役所総務局統計課,1970).経済成長の最中であり,ドーナツ化現象と若年労働者が西陣機業に就かなくなったことが,老齢化の速度を早めた大きな要因である.
10) たとえば,あるケースワーカが取り扱った1971年の堀川病院における長期在院(6ヶ月間)患者の処遇内容では,実数41名のうち,他医療機関・特養への転院は3名となっている.
11) 西池季一氏は,1958年〜1990年まで,出町診療所医療事務,堀川病院健康管理部に従事していた.本章での西池氏への聞き取りは2011年9月16日におこなった.
12) 1965年前後の社会保険の引き締めと経済不況によって,地域資金の他は3千万の銀行借入れに依存していた.外来医療と病棟の最大限利用によって1970年に赤字は解消したが,病棟部門は赤字であった.その後,社会的入院や医療者不足によって再び1971年に赤字経営となっていた.
13) 桐島世津子氏は,1975年から1995年まで居宅療養部に所属した保健師.本章での聞き取りは全て2011年9月16日.
14) 定期社員総会は,堀川病院の最終的な意思決定機関である.出資社員(1974年時 点で約700人)の過半数以上の出席で開催される.
15) 1972年の平均69歳を対象にした正親長寿会の実態調査では,生活費は自分で稼ぎたいという高齢者が87人中40名近く存在している(『医療生協助成会だより』第83号 1972年4月1日).
16) S氏は,1962年〜2000年まで堀川病院助成会事務局担当.筆者による聞き取りは2011年9月19日.
17) 厚生省による寝たきり老人の短期保護事業がはじまったのが1978年である.1979年には,在宅の要介護高齢者等に対して入浴や食事,日常動作訓練等を行うディサービス事業が創設され,1982年から在宅の寝たきり老人等に対して,居宅まで訪問して入浴・給食等のサービスを提供する訪問サービス事業が開始された.

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若月俊一,1970,「農村の地域医療保険活動(人間のための科学医学と生物学を起点として)」『科学』40(4): 209-214.
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全国社会福祉協議会編,1968,『居宅寝たきり老人実態調査報告』.

生存学研究センター報告

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