第二部 韓国 障害運動の過去と現在  ──障害─民衆主義と障害─当事者主義を中心に

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ユン・サモ
(韓国障害者人権フォーラム政策委員)


1 はじめに

 マイク・オリバーは障害者団体を登場の順序によって5段階に分けている1)。
第一に、政府機関とのパートナーシップを基にして障害者たちを支援するスポンサー、慈善団体が最初にできる。第二に、障害者の経済的な問題に関連して議会を説得するロビー団体が登場する。このような団体は大体、非障害者らが組んでコントロールする「障害者のための団体」(organizations for the disabled)である。第三に、1970年代初めから消費者主義を基にした障害者の自助団体が登場する。第四に、民衆主義を基にした活動家の組織が現れ、第五には消費者主義および民衆主義組織などが連帯した傘型組織が出てくる。オリバーは自助団体の段階からは「障害者当事者の団体」(organizations of the disabled)に分類し、このような団 体らが障害者運動を新社会運動に導いたと主張している。
 韓国障害者運動の場合、欧米とは異なり、1980年代半ばの民衆主義を指向する性質が強かった青年障害者運動組織が先に結成されてから10年くらい過ぎ、保護組織を指向する団体(韓国DPI)が登場する。
 また、自立生活センターなど消費者中心主義団体らは2000年以降になってから登場する。このような発展の様相は韓国障害者運動の特徴を表している。少人数の運動の脈絡からスタートした欧米の障害者運動とは違って韓国のそれは1980年代の非障害者─民衆運動の影響下から始まったので、最初から〈障害─民衆主義〉の伝統が強かった。
 韓国の民衆運動がいわゆるPD(民衆民主派)─NL(民族解放派)対立の歴史なら、障害者運動は〈障害─民衆主義〉と〈障害─当事者主義〉の対立として説明できる。〈障害─民衆主義〉というのは障害者運動を民衆解放運動の一つの道として認識し、これを土台にして実践する理念を合わせた〈暫定的〉概念である。この主張に同調する団体にはノドル障害者夜学、全国障害者自立生活センター協議会に所属する複数の自立生活センター、女性障害者の共感、全国障害者父母会などがあり、すべて2007年に全国障害者差別撤廃連帯として結集した。この連帯には障害者の団体だけではなく、(旧)民主労働党、(旧)進歩新党、社会党、行動する医者会、全国教育者組合なども参加していた。
 一方、〈障害─当事者主義〉は障害問題に対するスペシャルリストの介入に抵抗し、障害者運動の理論、実践、組織を障害者自らが判断し、決定し、統制するべきだという主張がある。もっと具体的に言うと、「障害者の政治的な連帯を通じて障害者を抑圧する社会環境とサービス供給システムの不平等な権力関係を批判、牽制することで障害者の権限、選択および評価が重視された障害者の福祉を追求し、その結果、障害者の権利、統合と独立そして自助と自己決定を達成しようとする障害者主導の発展された権利運動」である2)。当事者主義を掲げた団体としては韓国DPI韓国障害自立生活センター総連合会に所属する複数の自立生活センター、韓国障害者人権フォーラム、女性障害者ネットワーク、韓国精神障害者協会、肢体障害者協会などがあり、彼等は韓国障害者団体総連合会と韓国DPIを中心に連帯している。
 韓国障害者運動から障害─民衆主義グループと当事者主義グループはそのルーツが同じであるにもかかわらず、1990年末から様々な事をめぐっていまだに対立し続けている。
 本報告は上記の二つのグループが登場してから発展していく過程を追いながら韓国障害者運動の歴史を整理し、最近の障害者運動の危機的状況について言及したい。したがって、この研究は韓国障害者運動史を総評し、その回答を出そうとする試みではなく、あくまでもっと多くの論争の為の問題提起だと言えるだろう。

2 韓国障害運動の歴史
 韓国民衆運動史の中で大きく注目を浴びることはなかったが、過去25年間、障害者運動家たちは止まることなく抵抗し続け、取り組み、連帯してきた。闘争の熱意に比べ、障害運動のために資源と経験の不足から数多くの試練と不和があったが、障害者運動は粘り強く生き残り2000年代以降、その華麗な花を咲かせた。

2.1 青年障害者運動時代(1986年〜1998年)──障害─民衆主義の登場と闘争
 1980年代初頭まで、韓国では組織的な障害者運動がほとんどなかった。障害の種類別に障害者団体らが一部存在していたが、彼らは利益集団の限界を越えることはできなかった。また大学、病院、障害者施設などで自然にできたサークルや同窓会組織らが全国肢体不自由大学生連合会(以下、「全肢大連」)を作ったが、この組織は運動団体というより親睦団体に近かった3)。
 このような水準を越え、本格的な障害者運動組織が登場した時期が1986年であった。その年、ソウルではウリ厶トと韓国DPI(韓国障害者連盟)が立ち上がるが、これは移動権闘争以前の韓国障害者運動史の中で一番重要に記録されるべき部分である。
 ウリムトは正立(ジョンリップ)会館高等部サークルである「ミラル」出身の大学生10余人の主導で作られた小組織であったが、既存の障害者団体とは違って、運動組織らしき構成と面貌を揃えていた。特に、機関誌〈ハムソン4):喊声〉を通じて障害問題の原因は個人ではなく資本主義的な矛盾のせいだと主張するなど、当時としては相当にラディカルな主張を相次いで出した5)。考えてみれば、〈ハムソン:喊声〉の主張は独創的な障害理論というより、当時の民衆運動の論理を障害者運動に、たんに言葉通りに代入しただけなのに、これが障害─民衆主義の理論的な土台となり、いまだにこの理論の信奉者が少なくない。
 1987年、ウリムトは障害者運動が大衆化するなかで全肢大連に加入し、この組織を理念的、実践的に主導しようとしたが、彼らの急進的な観念と他の所属団体の構成員らの〈家族的な性質〉は簡単に融和できなかった。障害者大衆運動を導くリーダシップの限界と組織内の不和が重なり、結局ウリ厶トは1992年、解散することになる。
 解散後、ウリムトのメンバーの大部分は障害者青年運動連合会(以下、「障青」)に加入する。障青は1988〜89年のパラリンピック拒否闘争と障害者福祉法の改正および、障害者雇用促進法の制定闘争を主導した首都圈の青年障害らが1991年に結成した組織である。障青は設立宣言文の中で「抑圧され疎外されている400万の障害持つ民衆の生存権を勝ち取るため闘争し、民衆が主役になる新しい社会の建設を目的にして闘争する民族民主勢力と連帯し、障害者解放の旗を、反逆的・反民衆的な集団と闘争する戦線なら、いかなるところであっても力強くふるのであろう」6)と述べるなど、障害─民衆主義を全面に押しだした。しかし、障青も少数の運動家らが先導する闘争の限界を見せながら目標にしていた全国障害者青年組織の設立に失敗してしまい、設立して2年後に他の大衆的な組織との統合の道を探ることになる。
 次は全国障害者家族協会(以下、「全障協」)が統合の対象となった。1991年に結成された全障協も親睦会レベルの組織であったが、全肢大連よりは組織力が強かった。それは全障協が全肢大連のように色々なサークルが連合した組織ではなく、小児麻痺の治療施設であるヨスのエヒャン病院出身たちの集まりである「ミラルドル」が中心になったからである。1993年、障害-民衆主義の観点を持った障青と全国組織ネットワークを持った全障協が統合され、全障協の青年障害者運動家たちが1998年まで韓国障害者運動の主軸となる。
 青年障害者運動家たちは、実際1980〜90年代の障害者運動を導くようになった。彼らはパラリンピック拒否闘争(1988年)、障害者雇用促進法の制定および、障害者福祉法の改正闘争、つまり両対法案闘争(1989年)、正立会館不正闘争(1990年、1993年)7)チェ・ジョンファン烈士焼身闘争(1995年)8)イ・トクイン烈士疑問死闘争(1995年)9)など、数多くの大衆闘争の現場から時には独りで、時には民衆運動と連帯し、激しく闘争した。
 当時の青年障害者運動家たちは街頭集会を通じて障害者たちの要求を知らせる一方、正念場では「占拠闘争」を積極的に活用した。パラリンピックに寄付すると言いながら、ヨンドン教会を占拠し、両対法案の闘争時はサンユック・リハビリーセンター、パラリンピック組織委員会、共和党社、野党党社に移りながら占拠した。また、施設不正に関連して1989年にソウル障害者総合福祉会館を、そして1990年と1993年の2回にわたって正立会館を占拠し、籠城した。
 このような占拠戦術は2001年以降の移動権闘争にそのまま受け継がれることとなる。決められた空間を占拠し自分の主張を対する戦略こそ、機動力に頼るしかない障害者たちには非常に効果的な闘争手段であったのである。
 青年障害者運動家たちは1990年代初頭までは労働権、生存権など包括的な要求を掲げて闘争したが、1990年代後半からは少しずつ日常の生活問題に視線を向けるようになった。全障協のテジョン支部は1996年に移動便宜権の闘争を通じてテジョン市長から全てのテジョン地下鉄歴舎の中にエスカレーターを設置することを約束される。また1997年ソウルでは、全障協、障害者便宜施設を促す市民の集まり、脳性マヒ研究会が「障害者交通権確保の為の運動本部」を結成し、リフト付きバスの導入を求める10)。当時、障害者たちが訴えた「障害者もバスに乗りたい!」は2000年代の移動権連帯の主なスローガンとなる。
 上記のようにウリ厶ト、障青、全障協に繋がる青年障害者運動の組織ら、また障害─民衆主義の性向の強い青年障害運動家たちが1980〜90年代韓国障害運動をリードした。
 従って、この時期を「青年障害運動時代」と定義しても良いだろう。

2.2 障害者運動の分化(1999年〜2007年)──障害─民衆主義と障害─当事者    主義の対立
 激しかった青年障害者運動は1995年イ・トクイン烈士疑問死闘争以降、小康状態になる。占拠籠城は無くなり交通機関利用券、参政権、労働権などを請願する運動がその代わりとなった。30代後半になった活動家らは、少しずつ離脱し、闘争の熱気は冷めていく中で、運動が新たな見通しがつかなかった。結局、全障協はもう一度、統合をすることでこの難関を突破しようとした。次の対象は韓国DPIであった。

 2.2.1 全障協と韓国DPIの統合──青年障害運動時代の終り
 韓国DPIは1980年RI総会に参席し、国際障害者運動を直接目撃したソン・ヨンウック弁護士(当時、韓国小児マヒ協会の理事)を中心にして1986年に設立された。DPI、精神によって各々の障害者有形を代表する肢体障害者、視覚障害者、聴覚障害者など20余人が発起人として参加した。しかし、初期のDPIは経済的、社会的に成功した中年層の障害者で構成されたこと、大衆運動より少数エリート中心の運動だったということ、そして国内問題より国際連帯に力を入れていたということから当時の青年障害者運動とはその方向が異なっていた。
 この時期に障害者運動の新しい突破口を探していた全障協と国内問題に目を向け始めた韓国DPIが出会い、1998年10月20日、統合を決議する。
 全障協-韓国DPIの統合は1993年の障青─全障協の統合とは正反対の方法に進む。青年障害者運動の立場からみると、前者が大衆にアピールし闘争の動力を確保するための統合であれば、後者は障害者運動の理念と国際連帯のための統合になる。だから、当時の青年障害者運動は今まで堅持していた障害─民衆主義の代わりに韓国DPIの障害─当事者主義を選んだのだ。このように1980年〜90年代に韓国障害者運動をリードしていた青年障害者運動の時代には幕が降ろされ、新しい時代が開いた。
 当然、統合の過程がうまくいったわけではない。統合を主導したウリムト出身者らと組織の構成方法、運動路線などをめぐった葛藤が生じ、(全障協付設機関の)ノドル障害者夜学の教師などの一部活動家らが統合グループから離れた。その上、全障協の地域組織8ヶ所の中でカンジュ、ウルサン、カンウォンド、テジョン支部が統合に合流できなかった11)。青年障害者運動と国際障害者運動が一つの舟に乗ったが、〈不安な〉出発であった。
 このような過程を経て、韓国DPIに統合されたグループと障害者運動から離れたグループは各自の道を歩むが、2年後、移動権闘争現場で再び出会うことになる。
 2.2.2 移動権闘争の展開過程
 2001年1月22日、首都圏地下鉄4号線オイド駅でコ・ジェヨン(74才)さん、パク・ソヨップ(72才 肢体障害3級)さんご夫婦が駅舎内のリフトに乗って行って、7メートル下に墜落する事故が起きた。この事故で夫は中傷を負い、妻は死亡した。この際、韓国障害者運動の流れが急旋回することになる。事件の直後、ソウルDPI、ノドル障害者夜間学校、ソウル肢体障害者協会、障害者失業者連帯、障害者利便施設促進市民連帯は「オイド駅障害者垂直型リフト墜落惨事対策委員会」を構成し、鉄道庁、保健福祉部、産業資源部への抗議訪問を始め、闘争に入った。
 2月6日にはソウル駅の広場で100余人が参加し、事故に関して糾弾する集会を行い、その後障害者数十人が地下鉄ソウル駅の線路に入り込み、約30分間占拠した。このように障害者移動権闘争は瞬く間にまた激しく爆発した。
 オイド(駅)対策委その年の4月20日、「障害者移動権確保のため連帯会議」(以下、移動権連帯)に変わる。ソウル肢体障害協会がオイド対策委から離れ、代わりに障害者失業者総合支援センター、韓国脳性マヒ障害者連合、民衆福祉連帯などが新しく参加した。参加団体は増え続け、移動権闘争が大詰めになった2005年には全国民主労働組合総連盟、全国民衆連帯、民主労働党、希望社会党、行動する医者会など35ヶ所にもなる。
 移動権闘争は、移動権法律制定運動と直接的な行動で大きく展開する。直接的な行動の核心戦術は「占拠」と「テント籠城」であった。2001年3月から「障害者と一緒に地下鉄に乗ろう」キャンペーンが始まり、7月から始まった「障害者もバスに乗りましょう!」行事は2005年1月まで全部で41回行われた。特に、2001年8月にはセゾン文化会舘の前でバスを4時間占拠したことでデモ隊85人が警察に連行された。当時のノドル障害者夜学のパク・キョンソク校長は1970年代のアメリカ障害者たちと同じく自分の体をチェーンでつないだが、その後、チェーンは障害者の抑圧と抵抗を象徴とするイメージとなった。
 2001年7月、一次「バスに乗る」行事が終り、デモ隊はソウル市庁に行き、テント籠城に入る。1週間の間、3回もテントが撤去され、この時にデモ隊45人が連行される。結局、場所をソウル駅の広場に移し、テント籠城を続けたが、1ヶ月後、警察に強制撤去される。
 2002年5月ソウル地下鉄5号線バルサン駅で重度肢体障害者がリフト墜落事故でまた死亡したことで移動権連帯は5号線カンファ厶ン駅で無期限のテント籠城に入った。9月にはソウル地下鉄1号線市庁駅の鉄路を約1時間占拠したことで76人が連行された。そのなか、2003年5月。首都圈の国鉄ソンネ駅で視覚障害者が線路に墜落して死亡した。このときにも移動権連帯所属障害者たちは視覚障害者団体と一緒に地下鉄線路を占拠し抗議した。そして10月からは移動保障法律制定を要求しながら、国会の前で68日間、テント籠城した。それだけでなく、国家人権委員会、ハンナラ党舎、ソウル市庁、政府機関の行事場を占拠し、ヨンドンポロータリーとマポ大橋、およびソウル市内の車道のあちこちを占拠した。
 移動権連帯は現場の闘争とともに法律制定運動も進めた。2001年6月から移動権確保の為に100万人署名運動を始め、2004年12月まで約55万余人の署名紙を国会に渡す。また、2002年10月には「障害者、高齢者、妊婦などの交通手段の利用および移動保障に関する法律」(以下移動保障法)の入法闘争を宣言、2003年初から全国巡回懇談会を組み、共同対策委を構成する。
 ついに、2004年7月国会議員16人が移動保障法を共同発議することで、政府は11月に「交通弱者の移動便宜増進法案」を国会に提出する。そして、政府の法案を土台にし、その年の12月31日移動便宜増進法が全会一致で国会にて通された。
 移動便宜増進法が制定されることで「移動権」12)が法律的権利として定義され、5年ごとに交通弱者移動利便増進計画を樹立、地方自治団体はリフト付きバスと特別交通手段(いわゆる「障害者コールタクシー」「福祉タクシー」)を段階的に導入しなければならなくなった。また、全国のすべての地下鉄駅内にエレベーターの設置が義務つけられた。

 2.2.3 移動権闘争──韓国障害者運動の鞍点
 移動権闘争はいくつかの側面からみて、韓国障害者運動の転換点として評価に値する。
 まず、移動権闘争を経て、障害者運動の先鋒が高学歴─軽度─小児マヒ障害者から低学歴─重度─脳性マヒ障害者に変った。
 当時には非可視的存在であった重度障害者たちは家族と一緒に住んでいても外出することすらできず、相当な数の障害者たちは施設に収容され、社会と完全に隔離されていた。このような立場の重度障害者たちが社会に参加し、社会関係が持つことが可能な唯一なルートは夜学と自立生活運動だけだった。
 当時、ノドル夜学(ソウル)、ジルララビヤ大学(テグ)等、障害者夜学は全国で約10ヶ所だったが、そこは重度障害者たちと非障害者の活動家たちが相互的に意識化される空間であった。

障害者夜学を訪れる彼らは学習を通じて学びたいという欲求を満たしていった。それと同時に自分の人生を抑圧している世の中とのコミュニケーションの方式として人生が運動に繋がる過程を経験しながら少しずつ、世の中を新しく見ることができた13)。

 また、当時始まったばかりの自立生活運動のなかで育った重度障害者活動家らも移動権闘争の主役として活動することになった。このような重度障害者たちが前面に出ることで、障害者運動の象徴も〈松葉杖〉から〈車椅子〉に変わった14)。
 二つ目に、移動権の闘争を通じて障害者運動と非障害者─民衆運動の連帯が一層強固となった。
 移動権闘争には多くの非障害者の青年たちも参加した。闘争に参加した非障害者たちは学校で特殊教育を専攻した大学生、障害者夜学の教師、学生運動家、進歩政党活動家等、多様な構成であった。彼らは重度障害者たちの活動を補助する個人的な支援と宣伝ビラの配布など直接、闘争にも加担し国に拘束される場合もあった。社会党、民主労働党、民主労総等の市民社会団体らも闘争を支援していた。一部の非障害者活動家らは闘争支援だけでなく闘争を企画、主導したり「フラクション」をしたりもした。彼等を媒介にして相当な障害者たちが進歩政党らの障害者委員会に吸収された。
 しかし、障害─非障害者運動家らの連帯はあくまで外側のみの統合であり、日常の生活の中で同志的な関係にまではならなかった。今日の障害者運動は非障害者運動家とまったく同じ口調でスローガンを叫び、社会を見つめ、全く同じ論理で国家を批判する。
 障害─民衆主義グループに限ってみると、労働者階級を中心にして民衆勢力の縦的(歴史的)に連帯する旧社会運動的な企画が、人種、女性、少数者等の多様な運動勢力の横的(現代的に)に連帯している新社会運動的な企画を(まだ)圧倒している様子である。
 三つ目に、移動権闘争を経て韓国障害者運動は〈障害─民衆主義〉と〈障害─当事者主義〉に分かれていくようになった。
 移動権闘争の真最中に、障害─当事者主義という新しい方針を選んだ韓国DPIは、(異なる意見がある可能性もあるが大体に見ると)、闘争方法と連帯機構の運営方式の問題で障害─民衆主義グループともつれたあげく移動権連帯を脱退してしまう。1980年〜90年代に青年障害者運動をリードし、第1次地下鉄線路を占拠した当時、一番数多く連行者を出した韓国DPIの活動家らが脱退することで障害─民衆主義と障害─当事者主義の分離が早まることとなった。
 移動権連帯を脱退した韓国DPIは、2003年12月、韓国脳性マヒ障害者連合、障害者便宜施設促進市民連帯とソウル、チェジュ、ヤンチョン、サンファ自立生活センターなどと共に重度障害者電動車椅子国民健康保険拡充適用推進連帯(以下「電動連帯」)を結成し、「電動車椅子保険適用闘争」に専念する。電動連帯は電動車椅子の医療給与の保障を求めながら集会、公聴会、記者会見等、多様な圧力手段で闘争を進めていく。特に、2004年11月には所属団体障害者29人が国民健康保険管理公団のロビーと理事長室を占拠したが、一日で全員連行されてしまう。このように韓国DPIは移動権連帯から脱退してから自分なりの方法で障害者移動権闘争を展開したことになる。
 電動連帯の闘争の結果、2005年4月保健福祉府は重度障害者が電動車椅子と電動スクーターを購入する場合、各々209万ウォン(日本円で約20万円)と167万ウォン(日本円で約13万円)まで支援するという内容の医療給与法改正案を公布する。これで、重度障害者らは安い値段で電動車椅子の購入が可能となり、そのため彼等の移動スピードは増加し、活動範囲が大きく広がった。
 移動権連帯内部のコンフリクトと相次いだ脱退、独自の闘争の展開などの過程を経て障害─民衆主義と障害─当事者主義が徐々に分かれたあげく、正立会館事件で2つのグループは完全に分かれることになる。

 2.2.4 正立会館事件──障害─民衆主義と障害─当事者主義の断絶
 韓国小児マヒ協会が運営する正立会館は1975年10月に開館した国内最初の障害者利用施設である。正立会館は設立初期から芸能大会、スピーチ大会、運動会、キャンプなど当時まではなかった画期的な青少年プログラムを運営し、特に障害学生の身体検査を行っていたので当時の障害青少年たちによく利用される場所であった。学校と地域社会はもちろん、さらに自分の家族からも拒まれていた時期、障害青少年たちにとって正立会館は体と心を癒すことのできる場所だったのである。そこは単なる障害者施設ではなく運動空間であり、遊園地であり、社交場であり、討論空間であった。また、施設内のプールで服を脱いだ「小さくて捻じ曲がっている」自分たちの体と向き合いながら、障害者としてのアイデンティティを確かめる空間でもあった。このような空間で集団化と障害を共有する経験を持った障害者たちは大人になっても「ひとつの家族」になった。正立会館出身10余人からスタートしたウリムトがその後、嵐のような青年障害者運動をリードできたことはけっして偶然ではない。
 2004年、この正立会館で障害─民衆主義グループと障害─当事者主義グループが相対する。移動権闘争の当時にも二つのグループは葛藤を持っていたが、その時には片方が去る程度で済んだが、今回は障害者運動を見る観点だけでなく、〈感情〉まで正面衝突してしまう。
 2004年4月、当時の正立会館の館長が定年を2ヶ月残して館長の任期を65才の定年制から、3年任期制に規定を変える。このことで1年前から給料と団体協約問題でもめていたソウル・キョンイン(ギョンギドとインチョン)社会福祉労働組合正立会館支部(以下、「正立労組」)は6月にノドル夜学等と共に正立会館民主化の為の共同対策委員会(以下「正立共対委」)を構成し、館長の連任撤回、新任館長の採用、利用者代表理事の参加、労働組合活動の保障等を要求しながら正立会館を占拠する。それで他の利用者らと非組合員らがこれに反発、両側が物理的に衝突してしまう。理事会は館長の連任制は定年制より先進的な制度であり、また、館長の退任を前にして規定を変えたのは、後任館長の任用条件をあらかじめ決めておくためだったと言い返す。これに応じて正立共対委は「我々は〜韓国小児マヒ協会理事会を閉鎖的で非民主な集団であると規定する」と言い切る15)。このことは正立共対委と韓国小児マヒ協会の間の対立になってしまう。
 この過程で正立共対委所属の障害者は、ソン・ヨンウ理事長(韓国DPI初代会長)、イ・イクソップ理事(当時の韓国DPI会長)、チェ・ジョンゴル理事(当時の韓国DPI副会長)のプライベート空間まで押しかけて抗議することで、3人とも引き下がることになる。3人は国際障害者運動と当事者主義の主要な理論家であった。こうした理論家でもあり実践家である人たちが他でなく障害当事者たちの攻撃の的となったことは、韓国DPIとしては耐えられない傷になった。韓国DPIは青少年の時期に正立会館を利用していた障害者たちを中心として「正立会館が大切な人々の集まり」を作り、立ち向かう。「正立会館が大切な人々の集まり」は事件の本質を施設民主化の問題でなく労使問題であると主張しながら、当時の館長は個人的な不正は全くなく、在任期間に自立生活運動を紹介するなど、韓国障害者運動に寄与したと主張した。
 結局、この事件は2005年2月5日、クァンジン区庁の仲裁で230余日ぶりに妥結された。妥結合議の中には占拠、籠城の解除、適切な時期の館長退任、組合員1人解雇、および7人の停職処分等が含まれる。両側の立場が〈適切に〉調整された内容である。
 事件は決着したが、障害者運動の立場からみれば、その結果は最悪であった。主要労組員らが解雇されるか退社することで労働組合が壊れ、正立会館の本館3階を無料で使っていたノドル夜学と韓国DPIは、2007年12月と2008年4月に正立会館から退去されることになってしまう。以後、〈施設民主化〉論が〈脱施設化〉論に変わり、障害─民衆主義グループと施設労組の連帯闘争も無くなってしまう。何より痛手であったのは、問題の館長は約束の通りに館長職をやめたが、その代わりに韓国DPIを支持する理事らが、去っていた小児マヒ協会の理事長の席を占めたということである。館長を追い出そうとしたことがかえって彼に、法人と施設の丸ごとを渡してしまった結果となった。
 全国最大規模の障害者利用施設が障害者運動の影響から完全に離れ、それと共に思春期の時に正立会館で思い切り遊ぶことができた数多くの障害者たちの〈心の中の故郷〉は消えてしまった。その代わり、障害者運動は、障害─民衆主義と障害─当事者主義の断絶の歴史を目撃することとなった。

 2.2.5 自立生活運動の分化
 アメリカの自立生活運動の理念は日本をつうじて韓国に紹介されるが、この時、正立会館が仲介として登場する。正立会館は1997年に、世界最初の自立生活センターのバークレー自立生活センターに、職員たちを研修のため送り、1998年には日本最初自立生活センターのヒューマンケアと共同で「韓日障害者自立生活セミナー」を開催する。また、2000年にはテグ、カンジュ、チェジュ、ソウル等をまわりながら「韓日自立生活全国巡回セミナー」を開催した。
 また、正立会館とヒューマンケアは「韓日自立生活支援基金」を共同に助成し、この基金で2000年8月と9月に、ピノキオ自立生活センター(ソウル)とウリイウット自立生活センター(カンジュ)が韓国では初めてオープンする。特に、移動権闘争を経験した重度障害者らが自立生活運動に大勢参加することで、2004年20ヶ所であった自立生活センターが2009年には170ヶ所にまで増加する16)。
 つまり、自立生活運動でも障害─民衆主義グループと障害─当事者主義グループの対決構図が作られた。
 2003年全国の11ヶ所のセンターが集まり、韓国障害者IL団体協議会を結成した。その翌年に名称を韓国自立生活協議会(以下、「韓自協」)に変える。この過程でノドル障害者自立生活センターに類するものが中心になった障害─民衆主義グループと、チェジュ障害者自立生活センターとソウルDPI付設ヤンチョン障害者自立生活センターに類するものが中心になった障害─当事者主義グループが激突する。韓自協の活動の方向性に対して、障害─民衆主義グループは活動家組織が中心となり、強力な現場闘争を展開しようという立場に比べ、障害─当事者主義グループは多様な組織が参加して運動とサービスを両立しようという立場であった。
 結局、障害─当事者主義傾向のソウルセンター、チェジュセンター、ヤンチョンセンターなどが韓自協と分かれ、2005年に韓国障害者自立生活センター連合会を結成する。彼らは障害─民衆主義グループの民衆闘争路線に批判的だった。2006年に10ヶ所のセンターが続いて韓自協から脱退して韓国障害者自立生活センター連合会に加入することで韓国障害者自立生活センター(以下「韓自連」)が作られる。その後から現在まで自立生活運動で韓自連と韓自協との対立の構図が続いている。

韓自連は権益の追求活動と各種サービス提供の調和を主張しながら韓自協とは別途の連合体を構成したが、これは現場闘争中心の移動権連帯と韓国DPIの間の競争構図として認識されることになった17)。

 初期の自立生活運動の分化は内部立場の差による要因もあるが、障害─民衆主義と障害─当事者主義が取り組んだ移動権闘争と正立会館のような外部的要因もかなり働きかけたと思われる。
 その後、韓自協は障害者差別禁止法、障害者教育権、民衆連帯、脱施設問題などに、また韓自連は障害者福祉法の改正、活動補助員および自立生活の制度化、サービス体系の改善、自立生活模型の開発などに力を入れている。

3 終わりに──幾つかの問題提起

 障害─民衆主義と障害─当事者主義の両方とも韓国障害者運動の重要な価値を含んでいるのは確かなことである。障害─民衆主義は急進性、運動性、変革志向性、献身さを強調し、当事者主義はアイデンティティ、自己決定権と自己主導性、国際連帯を強調する。それにもかかわらず、韓国障害者の運動史を振りかえてみると、この二つの潮流は健全な競争関係だというより、殺伐とした敵対関係に置かれているようだ。無論、志向の異なる複数の運動が一つに統一される必要はないが、いつまでも子どものような敵対関係を続けることは無意味なことである。
 この事態を仲裁できる有力な勢力を探しがたい状況の中、障害─民衆主義グループと障害─当事者主義グループに各々幾つかの問いかけることでこの文章を終わりにしたい。この質問に対する返答を探す過程が相手の方を理解できる過程になってもらいたい。

 まず、障害─民衆主義グループへ
一、障害者たちが社会的、文化的、政治的に経験するすべての問題を国家的な問題に還元させる傾向があるが、では個人が負ってしまった損傷による苦しみや悲痛はどうするべきか。
二、障害─民衆主義の論理を最後まで押し切ればその結局、「労働解放・民衆解放になり、障害者解放にもなる」という主張があるが、本当にそうなのか。
   それなら、民衆解放された国家、いわゆる旧ソ連、中国、北朝鮮の障害者たちの生活の質が欧米の資本主義国家の障害者らのそれより高いという証拠はあるのか。
三、障害─当事者主義のグループが政府予算に妥協的で権力追求的だと批判しているが、それならあなた方はどうなのか。韓国障害者運動史の中で常に障害─民衆主義の先鋒に立った団体が年間数億ウォンの政府から支援金を受け取っているが、これはどう説明できるのか。また、障害者運動が保守的権力は欲してはいけないが、その逆は欲しても良いのか。

 そして、障害─当事者主義のグループへ
一、「障害者当事者主義」は障害者運動の指導理念なのか、それとも組織の運営または、闘争の原則に過ぎないのか。主要な有形別の団体が障害者当事者主義を押し立て、福祉館の委託を積極的であるが、福祉館は代表的な反当事者主義の施設ではないのか。このように当事者主義が幅広く悪用される可能性に対しての案はあるのか。当事者らは専門家に比べ、専門性や責任が足りないのではないか。
二、障害─当事者主義の核心組織である韓国DPIはいままで、国際連帯事業を殆ど独占してきたが、これが韓国障害者運動に具体的にどんな影響を与えたのか。一部、影響を与えたとしても、海外事業に資源を動かしたことの対比にし、その効果を分析してみると、肯定的だということができるのか。国際連帯事業ばかり重んじて国内闘争の現場はなおざりにしているという韓国障害者運動一部からの批判に対してどう返答するのか。
三、障害─当事者主義らはウリムトの時期から絶対、諦めなかった継続的で全国的な大衆組織の建設をいまだに夢見ている。しかし、今までの努力にもかかわらず、当事者主義の団体らは露骨的に障害者運動から遠ざかっているし、韓国障害者自立生活センターのような大衆組織は韓国DPI運動方式にまだ留保的だが、それなら、真の保護組織の建設はどうやってするのか。当事者主義の理念は相変わらず力をもっているが、それを実践する組織の実体ははっきりしていないようである。これをどうやって乗り越えるのか。

 最後に、障害─民衆主義にせよ、障害─当事者主義にせよ、次のような古典的な質問に返答をしなければならない。
 障害者運動は、政治体制に対する代表性が無視されることもあり、また捏造される危険性のある社会政策と法律の中で小さい利益でも得るため、国家活動の体制内化されることを受け入れなければならないのか。それとも、周辺化と孤立の危険を押し切っても国家から独立し、政策と実践の長期的な変化と障害者の権利の強化を導く活動に集中すべきであるのか18)。


[注] 
1)マイク・オリバー、(ユン・サモ訳)、2006、『障害化の政治』テグDPI
2)イ・イクソップ、2005、「障害者当事者主義と障害者の人権運動:その背景と哲学」『障害者当事者主義大討論会資料集』韓国障害者人権フォーラム・韓国障害者団体総連合会
3)ソウルの「大学正立正立団」と「5-4集まり」、イクサンの「チョンソル」、テグの「プルンセム」、プサンの「ジジントル」と「チョネへ」チュンチョンの「イェメク」等が初期の全国肢体不自由大学生連合会に参加した。
4)チェ・オクラン烈士、キ厶・デション韓国DPI事務総長、イ・アンジュン韓国DPI理事、キ厶・ビョンテ前民主労働党障害者委員長、シン・ヨンホ前障害友権益問題研究所長、ウィ・厶ンスクソウルDPI会長、イ・ソック韓国障害者財団事務総長、キ厶・トンホ前保健福祉部障害者権益支援課長、ユ・ヨンホカンブックチャンセサン障害者自立生活センター所長、パク・チュヌ韓国障害者開発院経営本部長、ソン・ボクモク前韓国障害者団体総連合会事務所長、イ・サンホソウル市議員、ナ・ウンファ前ソウル市議員(以上無順)等がウリ厶ト出身である。
5)仮に、「韓国社会運動と障害者運動」(ジョン・テホ、1987年、4号)、「韓国障害者運動論」(キ厶・トンホ、1988年、6号)、「障害者解放というのは一体何か」(キ厶・ハンベ、1989年、8号)
6)障害者福祉新聞、1991年4月19日
7)1990年と1993年2回にわたって正立会館長の不正を糾弾する占拠籠城がソウル障害者運動青年連合会の主導で展開し、結局、不正した館長が引き下がり、新しい館長が就いた。
8)1995年3月8日チェ・ジョンファン(37才、肢体障害1級)がソチョ区庁の屋台の取締に抗議して焼身自殺したことで全国障害者ひと家族協会の主導で展開し、民衆運動団体らと共に火炎瓶を投げ出しながら激しく闘争した。
9)1995年イ・トクイン(29才、肢体障害6級)が屋台撤去反対闘争の期間中にインチョンアアン島の海辺で変死体で発見されたことで全国障害者ひと家族協会が中心になり、真相究明を要求しながらインチョンとソウルで街頭行進を行った。
10)『全障協活動記録集「障害者解放、その一本道へ!」』、2002、113-114ページ
11)当時、全障協にはソウル、テジョン、カンジュ、ウルサン、カンウォン、チュンナム、チュンブク、チェジュに支部があった。統合論議の初期から親睦集まりに残ると宣言したカンジュ支部を除いて、最初はみんな統合に賛成したが、統合の課程で前・後任支部長の小競合(ウルサン支部)、会長の闘病(テジョン支部、カンウォン支部)等の理由で支部の半分が統合に参加できなかった。
12)移動便宜増進法は移動権を“障害者等の交通弱者が〜交通弱者ではない人々が利用する全ての交通手段、旅客施設および道路を差別なく安全で便利に利用して移動できる権利”と定義する
13)キム・ヨンウ、2009、「障害者夜学の展開と学生、教師の文化──二つの夜学物語」、テグ大学博士学位論文、3ページ
14)移動権闘争の過程で重度障害者たちが障害者運動の「先鋒」に登場したのは確実であるが、しかし彼らが運動全体をリードしたかについての評価はまだ早い。相変わらず、高学歴-軽度-男性障害者たちの発言権が運動内部に強く残っている。
15)エイブールニュース、「ジョウリップ共対委 声明書全文」2004年8月6日
16)ユン・サモ、2010、「韓国自立生活運動の現況と課題」『自立生活発展方案 討論会資料集』韓国障害者人権フォーラム、7ページ
17)キム・トヒョン、2007、『差別に抵抗しろ』パク・ジョンチョル出版者、141ページ
18)マイク・オリバー、(ユン・サモ訳)、2006、『障害化の政治』174ページ

生存学研究センター報告

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