エッセイ1「風に名を刻んで──福島からのパネリストその後」

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岡本晃明

 水田に張った水が青空を映す。
 ちぎれた雲がゆっくりと滑っていく。
 植えられたばかりのイネの苗はまだ頼りなげで、まだ根を張らずあちこちを向いている。
 6月11日、東日本大震災からちょうど3カ月。
 初夏というにはまだ早い。福島市内の果樹園に人の姿はなく、眠たくなるような真昼だ。
 福島駅前に戻って、阿武隈川にかかる橋を渡る。
 詩人高村光太郎が智恵子抄の中で、「あの光るのが阿武隈川」と、あどけない智恵子の呟きを詩にした。
 雨上がりの陽光と緑の中を阿武隈川がゆるやかに曲がる。

 震災と停電シンポジウムの打ち合わせで佐川優子さんが暮らすIL(自立生活)ホームを初めて訪れたとき、福島の風土の美しさに打たれた。その美しさは、放射線と降り注ぎ拡散する放射性物質が見えないことの恐ろしさの裏返しとなって、この山河に暮らす人たちの心を哀しませ、痛める。公園の砂場で夢のまちを築く子供の姿も、木登りをして樹皮のざらざらを手のひらに覚える子どもも、紅や黄色の落ち葉を蹴散らして走る子どもの姿もない。児童公園は立ち入り禁止だ。福島第1原発事故で、放射線量計の数値が福島の風も土も水も別のものに変えてしまったように思われるけれど、福島に暮らしてきた人たちの風土への思いを抜きに、震災を語れない。
 シンポジウムでは福島から佐川優子さん、中手聖一さん、安田智美さん、長谷川詩織さんの4人に京都までお越しいただいたが、限られた時間の中では、震災以前の暮らしと福島の医療福祉の状況、震災後の福島への深い思いと再生の願いを十分に語ってもらうことができなかった。福島の原発災害は今も続いており、刻々と状況が動く。「原発の建屋が吹っ飛び燃料棒が剥き出しになったとき、地域の姿、家族の姿も震災で剥き出しになった」。シンポジウムでの中手さんの言葉に導かれながら、シンポジウム終了後のインタビューも含め、その思いの一部をメモしておきたい。

◆佐川さんチーム、OK

 陽射しの明るい佐川優子さんの家。佐川さんが暮らすILホームは2009年、夜間の予期せぬ介助ニーズに対応するための「ナイトヘルプステーション」を併設するかたちで、ユニバーサルデザインのアパートとして、ILセンター福島が経営を始めた。人工呼吸器を装着して単身でヘルパーの介助だけで暮らす筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者は全国でもまれだが、簡素でよく整った部屋に、ケアチームがうまく機能していることがうかがえる。ALSは動くこと、話すこと、食べる力を徐々に失っていく。佐川さんはセンサーを介し、意思伝達装置「伝の心」を起動し、モニターに歓迎の言葉を入力してくれる。「お昼ご飯食べたの?」 。一文字ずつ、とても時間がかかるけど、声なき声で、ゆっくり部屋が満たされていく。人工呼吸器が正確なリズムで息を紡ぐ音がかすかにする。
 ALS患者で人工呼吸器を装着して自立生活をしている人は全国でもごく少ない。シーツのしわ一つが苦しみとなるほど感性が研ぎ澄まされる病でありながら、全介助で家族に頼らないということは、当事者に過酷なまでに自らを律することが要求される。「OKマンモス」などと歴史的遺産というべき古いギャグを多用し、いつも人を笑わそうとする佐川さんだが、かつて病院に長期入院し、死、孤独死という言葉と向き合い、生きたいと思えなかった歳月があった。ILセンター福島がパーソナル・アシスタントの研究会を毎月開いていることを偶然知り、すぐに飛び込んだ。新築だったILセンターのアパートに入居した時は、3年待った念願の日。「アパートに着く直前まで流れた水滴は喜びの涙、幸せの涙でした」。介助者を募り、ケア技術や経験はゼロの素人から介助者を育て、一緒に苦労していける仲間としてチームを築いてきた。無茶だといわれるのは、佐川さんも介護事務所も覚悟の上だった。
 「悪戦苦闘の日々ですが、お互いに笑顔は絶やさない」。ヘルパーの公的介護支給量は2010年で重度訪問介護368時間と身体介護78.5時間で、一日24時間の公的介護保障にはほど遠かった。佐川さんは「チームの財政を圧迫し、アシスタントの待遇もまだまだ不十分です。つまりは私の介助体制の不安定要素でもあります」といい、市役所と交渉し、完全24時間保障の実現を目指していた。京都でのシンポジウムの企画趣旨を伝えると、「久々に頭脳に刺激をもらいました。」「非常時は、チームの連携ですね。アホたれユウコです。救援は、あたりまえのことです。アシスタントがいて正義派勢ぞろいでできます。マダマダできますょ」と、返事があった。
 佐川さんが病院から地域生活に移行するときから支え、福島市内で長く障害者の自立生活運動を支えてきたのが中手さんだ。中手さんは30年以上、福島の障害者自立生活運動と介助に関わってきた。震災時はILセンター福島のスタッフだった。
 震災が発生した日。中手さんは、佐川さんと連絡が取れ無事が確認できると、すぐに任せておいて大丈夫だと思い、他の障害者の安否確認と支援に取りかかった。佐川さんが育んできたパーソナル・アシスタントのチームの力を信じていたからだ。ILセンター福島は、福島市内を中心に約180人の利用者がおり、障害者140人ほどに介助サービスを提供している。ILホームは震災後、福島第1原発事故で避難区域になったエリアの障害者を受け入れた。
 大震災で障害者は、自らの被災だけでなく、介助者の安否も命に関わる事態に直面した。福島で地域生活を送る障害者は、東京や大阪などの都市部と異なり、遠くからヘルパーが通うことが多い。ヘルパーは自宅の被災や家族の安否と、いつも通う利用者の介助のローテーションに穴を空けてはならないとの義務感の狭間で苦しんだ。だが佐川さんチームでは、震災前に組んでいた介助ローテーションを変更することもなく、アシスタントたちがいつものように通ってきた。

 中手さんには小学生の息子が二人いる。妻もILセンター福島の職員で、アパートを担当していた。福島第1原発事故と放射能の被害の大きさが徐々に分かり始めると、苦渋の選択を迫られることになった。断水で、みんな給水車の前に長い行列をつくっていた3月15日、福島第1原発で大きな爆発があった。春休みだったが、介助者は30代前後、子育て世代が多い。風に乗り、放射性物資が福島市にも降り注いでいた。列に並ぶ人たちは、爆発を知らなかった。

◆引き裂かれるもの

 中手さんだけでなく、避難指示が出た福島第1原発20キロ圏の人を除いて、福島で暮らしていた人が等しく突き付けられたのは、国やメディアから避難勧告も正確な放射線量と危険度の情報もない中で、「避難した方がいいかどうか」の自己決定だった。いや、選択できるはずもない問いを、国家や科学が判断すべき問いを、個人に押しつけられた。
 皆が被災し、救援を必要とする中で、誰もが誰かの助けを必要とする状況の中で、自分の築いてきた地域社会、仕事場、家族や学校とのつながりの中で、福島を離れるとは言い出せない。みなが故郷に、残るか残らないかで揺れ、まどい、離れる人の思いも残る人の思いもよく分かるから悲しく、やり場のない怒りとつらい思いを抱えた。そして原発事故という災害は続き、放射能の拡散は続く。海渡る大きな風が阿武隈山地の木々の梢を揺らし、雨が黒々とした春の耕地を潤し、川になり魚の群れを走らせる。その太古からの天地の循環が、拡散と除染問題と呼ばれるようになった。地域社会が、仕事場の仲間が、家族がきしみ、分断されていく。障害者の自立生活という平時でも弱い立場のコミュニティにとって、それはあまりに残酷なことだった。「疎開したい」というのに勇気がいる。
 「震災当初は、避難する人たちに対して裏切り者扱いするような雰囲気が地域にありました。ただでさえ原発事故の最中で、『大丈夫だ、大丈夫だ』と取り沙汰される中で、福島県全体が取り残されたような気持ちになっていたんです。出て行く人たちに対して『さらに自分たちを取り残して行くのか』という、正しい感情ではないというのは分かってはいるんだけれど、それでもやっぱり、そうした感情を抑えられない。そういう地域の雰囲気がありました。出ていかないまでも、放射能の危険性というものを調べたり疑ったりする、そういうものを聞きたくないという意識が強かった」。そう中手さんは振り返る。
 震災から一週間目の3月17日、ILセンター福島は運営委員会の日だった。「集まるのは不可能だから見送りにしよう」という意見もあったが、集まれる人間だけでも集まり、臨時の拡大運営委員会という形で話しあった。そして決めた。「両方やりましょうと。避難する人の応援も全力でやりましょう」。援助者の応援とまでは言えないが、「避難したい」という障害者の応援と、一方で今は離れられないという大多数の人たちのために現行の活動を維持したい。「どちらも全力を尽くしましょう、両方やります」という基本スタンスを決めた。「心底全員が納得できたわけではないけれど、割と地域の自分たちの関係に、大きくひびが入ることは防げたかと思います。ただ時間が過ぎていくに従い、地域や世間の人と人とを切り裂いていくような、分断する力にだんだん逆らえなくなっていった」。
 中手さんの妻は3月末、息子2人を連れて岡山県に避難した。話し合い、中手さんは残った。中手さんは仲間たちが避難するのを最後まで手伝おう、一番最後の人と一緒に自分も避難しようと思っていた。脱原発運動に震災前から取り組んでいた中手さんは3月末から、仲間たちと自主的に放射線量の調査を始めた。一方、福島では放射線量のデータが徐々に公開されるとともに、「安全宣言キャンペーン」が始まった。春休みが終わるころ、一時避難を切り上げて福島に戻る人も増えてきた。福島市内で4月、研究者が「放射能の影響は気にすることはない、大丈夫ですよ」と笑いながら話す講演会で、中手さんが反論の質問に立つと、会場から野次を飛ばされた。
 「やめろ、聞きたくない」
 「帰れ」

 5月に中手さんたちは「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」を設立し、中手さんは代表として、県民が声を上げられない中で声を上げ、危険性を訴えた。  「子どもに年間20ミリシーベルトまでの被曝は容認」という文部科学省通知の撤回交渉にあたり、一日も早い避難区域の拡大を呼びかけた。子どもを持つ親を中心に、福島から約6万人が自主避難していると言われる。母子避難も多い。原発がある「浜通り」から、福島市など「中通り」への県内避難をしている県内避難者もいる。中手さんは、「逆に言えば9割の子どもは福島に留まったまま」だと危惧する。
 避難をいう時に、「一時待避」もあれば、「疎開」もあれば、「移住」という言葉もある。福島では2012年になると、「保養」という言葉も使われるようになってきた。
 「疎開や一時待避は『どうなるかまだ判断つかない』という意味。疎開という言葉は、引っ越すんだけど、いつかまた戻ってくるイメージがあるでしょう? それがだんだん、もう判断は付けようとなると、福島に留まるのか去るのか、最終的に自分なりに白黒はっきりつけた場合には「移住」という。留まるなら「保養」ということになってきた。放射能の影響を避けるためとは言わないが、福島市も市内の放射線量の低いところへ、リフレッシュのための保養といいだした。住民に受け入れられるという意味では、『保養』という言葉がこれから支援の柱になるのは間違いない。『保養か移住か』という問いはあるが、それでもだんだん移住者が増えるはずです」
 飯館村が計画避難区域指定された6月から、佐川さんが暮らすILアパートは、飯館村や南相馬市、浪江町からの障害者で、すべての部屋が埋まった。地域生活移行のための体験室も、避難障害者に充てた。
 「違いを感じるのは、障害を持つ人は、初めから自分には避難は無理だと諦めている人が多いこと。そこが一番大きな違いです。障害が重度になればなるほどそうです。知らない土地に行って、一から介助者を探して自立生活ができるはずもない。障害があるということは避難困難者です。生活にしても就労にしても、やっぱり健常者よりもう一段ハードルが高いところから始めねばならず、諦めてしまう割合も高い。だからこそ、障害の有無にかかわらず、等しく避難の権利をと。今言った状況が分かっている故に、避難するまでの葛藤がある。自分が避難をするということは、残っている人たちに負担をかけることになる」。

 阿武隈川は郡山市や福島市を貫いて北へと流れ、宮城県の仙台平野を潤し、太平洋に注ぐ。佐川さん宅を後にして、福島では阿武隈川に併走するJR東北本線に乗った。震災から3か月、福島市など「中通り」から南相馬市など原発に近い「浜通り」へと向かう交通手段は復興の途上で、バスの本数もわずかだった。東北本線で宮城県から迂回して常磐線に乗り換え、「浜通り」を目指す。福島で出会う人はみなまず、浜通りや中通りの違いを説明してくれる。そこにはきっと、風土の多様性への愛惜と、「フクシマ」などとカタカナに故郷が変換されることへの静かな抵抗がある。
 仙台駅では福島のようなマスク姿の人は少ない。仙台駅発常磐線上り列車の臨時時刻表には、宮城県の亘理駅までの折り返し運転しか記載されていない。海沿いを走る常磐線は原発事故と津波で大きな被害を受け、亘理駅から先の鉄路は復旧のメドが立っていない。一日数往復しかないが、とりあえず亘理駅を目指す。左の車窓に広大な平野が広がる。まとめて買い出しをしたのだろうか、大きな荷物を抱えた乗客がいる。亘理駅から阿武隈川の旧河口「鳥の海」へと歩く。地平線のかなたまで、歩いても歩いても遠い。テレビ中継で空撮された津波の帯はゆっくりこの平野を呑み込んだように見えたが、歩けば恐るべき速度だったことが分かる。田園地帯だが田植えは行われていない。ひび割れた水田に、ビニール傘や生活用品が取り残されている。津波で押し寄せた海水が内陸で湖になり、腐敗している。道路上は片付けられているが、傾いた家と瓦礫、住宅街や橋の上に横転した漁船が何隻も放置されたまま。亘理町の津波・震災による死者は302人。鳥の海は、波もなく静かだった。鳥の声を聞いた記憶はない。沿岸部の交通機関は便数が乏しく、福島県南相馬市に向かうのをこの日はあきらめた。

◆ 水俣から福島へ/公害と障害

 福島からの京都への帰路、水俣のことが思い返された。
 1995年、公害の原点といわれる水俣病訴訟の政治救済の局面で、京都訴訟原告団を取材した。不知火海の沿岸住民には漁業を絶たれ、故郷を離れて関西へ移り住み、奇病と言われることや偏見を恐れ、水俣出身であることを隠して暮らした人も多かった。痛む体に対し、厳しすぎる認定基準が立ちふさがり、「ニセ患者」扱いされた悔しさ。南国の日差しに照り返る不知火海への望郷。水俣では原因企業チッソが立地し、地域に深い対立と分断、傷跡を残した。賠償金に翻弄され、被害者と被害者が傷付けあった。曲がりくねる指や麻痺、痙攣する身体をさらし東京やテレビで訴えた患者は、同じ水俣市民から水俣の恥をさらすと罵られた。公式発見から40年が過ぎても、「もやい直し」は途上だった。福島で引き裂かれつつある地域や家族の姿は、水俣での痛ましい歴史を、またなぞりつつあるように思えてならなかった。原因企業に補償問題を押しつける国のやり方も繰り返された。かつて「倒産したら賠償もできない」。そう原因企業は開き直った。
 〈こう、見て下はりまっせ、よか娘でございまっしょ。手足の指どもはな、ちっと曲がっとりますばってん、こうして揉んでやりよりますとな、ほら、こげん柔らしか小まんか指でございますとばい。お姫さまんごて、小まんか指ですとばい。〉(石牟礼道子「苦界浄土」第三部・天の魚)
 そしてもう一つ。水俣を世界に知らしめた胎児性水俣病患者の「封印された写真」のことだ。写真家ユージン・スミスが撮影した「水俣」シリーズの中で最も有名な「入浴する智子と母」は、1976年に成人式を迎えてまもなく亡くなった智子さんを「もう休ませてあげたい」という遺族と著作権保持者のアイリーン・スミスさんの意向で、90年代後半から発表が控えられている。「封印」は、公害問題の告発が、いつしか障害者の生を悲惨だ、「あんなものは生まれなければいい」とみなす言説に転化することへの重い問いだ。メディアの末端で薬害訴訟や公害訴訟のことを取材し、苦しむ被害者として障害のある人のことを繰り返し書いてきた自分にとって、深いところを抉られる問いだ。
 水俣から福島への連続性と、原発にノーをいうことと障害者差別について、長く障害者自立運動に関わってきた中手聖一さんこう語っている。

 ……4月の段階で、放射能の問題は「差別」の問題であると、放射能の「被爆者差別」というのは、ほとんどイコールで「障害者差別」と同じ構造を持って、同じ質の「差別」になっていくんだと、最初から言っていました。
 こうした「差別」とどう向き合うか。逆にどうすることがいけないのか。この問いを一番知っているのは、差別をなくそうと闘ってきた障害者です。そういう意味でこれから、障害者の役割はより一層大きくなっていくんだと、私は障害者に向けて語ってきましたし、今もしています。私たちのこれまでやってきたことを、障害を持たない人たちにも大いに役立ててもらうんだ、そういう私たちは新たな役割を負ったんだと。例えばある夫婦が妊娠をしたとき。この子を生んで、「ひょっとしたら障害持って生まれるかも」と考えるのは、遺伝子疾患を持ったごくごく一部の障害者だけれど、それがもうみんなの問題になったわけです。
 私たちが先駆的にやってきたことが、みんなに活かされる。そんな中で震災当初、ネガティブな話題ばかりがマスコミに取り上げられていた。例えば「福島ナンバーの車に、ガソリンを入れてもらえなかった」とか、入店を断られたりだとか、福島の子どもがいじめられたり、だとか。実はごくごくレアなケースばかりがメディアに取り上げられた。いまだに避難者は「差別されるんじゃないか、子どもはいじめられるんじゃないか」という恐怖感を引きずるくらい、強烈な印象を与えてしまった。実際には一時的な混乱で、実際にはほとんどそういう例はなかったんです。避難者からの相談でも「差別」の話がでて、相模原の体験ツアーの時にもその質問が出ました。それで言ったんです。「そういう例はほとんどない。ただし必ず差別は受けるものだと、今から覚悟しておいたほうがいい」と。
 就職だ、結婚だという時には必ず差別問題が出てきます。それに対して今、自分たちがどういう態度をとればいいのか。絶対にしちゃいけないことは、隠すこと。一度隠せば、ずっと隠さなければならなくて、それが「差別」を根深くします。在日朝鮮・韓国人差別と同じ構造が働く。
 例えば、放射能から子どもを守ろうという活動をしている首都圏の人から聞いたんですけれども、ついこの間、母親から「実は私も被爆者なんだ」と告白されたと。広島の出身の人ではないけれど、看護師で入市被爆してしまった。けれど自分の息子にさえ、ずっと言えずにきてしまったらしい。このように、ずっと隠すと一番「差別」を根深くし、当事者がいわば意識せずに差別の構造化に加担してしまうことになる。だから堂々と福島人だと言える育て方を、自分たちの子どもにしましょうと言っています。「差別」を助長するのではなく、「差別」をなくしていく側に立てるような、そういう人間になりましょうと。そう私は言い続けてきました。
 苦い経験が水俣や広島、長崎である。過去の教訓に学び、福島でも取り組んでいかねばならない。でもそこは当事者が言わなきゃだめなんですよ。「被爆者」「障害者」が言わなきゃダメだと思います。もちろん障害を持つこと自体が不幸ではないけれども、水俣病などの公害、原爆、放射能被害によって、自然の摂理の中ではなく歪なかたちでそうした困難を再生産しているところはあるわけですから、それに対して語るのも当事者の役割だと思っています。障害がない人がそこで言葉を尽くして説明するのは、なかなか難しいことだと思います。
 命のかたちっていろいろあるけれど、命の大事さ、輝きを訴えていく。「障害を持つことイコール不幸ではない」ということをもちろん訴えていきつつ、それを意図的に別に再生産するこの公害、放射能事故に対する日本の政策に対する、イコール容認していいのかという、これはとんでもない話で、しっかりと分けて訴えていきたい。
訴えていくには当事者が先頭に立たなければならないと思います。
 例えば心臓の障害を持っている子どもが生まれた時に、イコールそれが原発事故の被害なのかどうかという因果関係は確定的には分からない。「ひょっとしたら……」ばかりになってしまう。いま、私たちのところに1人、連絡があって「そういう子どもが生まれた」と相談があります。子どもが生まれるまでいろいろと考えてきたから、いずれはしっかりと明らかにしとくと。今も作り出されている被害者を食い止めるために必ず名乗りでると言って下さった。そういう気持ちのある人以外は名乗り出ず、隠れている人もいっぱいあるでしょう……。

 2011年9月21日、京都での停電と重度障害を考えるシンポジウムの終了後、妻や息子たちと久しぶりに再会し、笑顔の中手さんの姿があった。息子たちは避難先で覚えた岡山弁を交えて、習っている剣道の話をした。

◆ 2012年冬 福島の雪

 雪が降り積もっていく。2012年冬の寒さはひとしおだが、福島市や郡山市などの「中通り」で雪が積もるのは珍しいと、福島市から郡山へ向かう車の中で、運転席の中手さんが話す。2012年1月21日、JDF被災地障がい者支援センターふくしま第4回構成団体会議が郡山市内で開かれた。京都のシンポジウムで語っていただいた日本ALS協会福島県支部の安田智美さんも出席している。長文になるが各構成団体からの活動経過報告の要旨を紹介しておく。
 会議では、2011年9月より、支援センターの説明を入れたパンフレットを3万部作成し福島県内の仮設住宅に配布していることや被災地障がい者交流サロン「しんせい」が11月1日に郡山市内でオープンしたこと、障害者向けのわかりやすい東電賠償学習会開催などが報告された。しんせいという名前には、福島県を新生していくという意味を込めたという。仮設住宅や借り上げ住宅で生活されている障害者をサロンに招き、交流や情報提供、勉強会や授産製品販売を行っている。被災障害者に県外避難を促し、障害者の一次避難所機能、「福島の子供たちを放射能から守るネットワーク」と連携して、サロンの場所の一部を貸す代わりにボランティア人材の提供を受けている。
 サテライト自立支援センター∞(むげん)は、放射線被害が気になる障害のある人が避難・疎開する権利を確保できることを目的とし、全国自立生活センター協議会(JIL)、ゆめ風基金などの協力を得て、長期避難拠点として福島県自立生活センター協議会で設置を決めた。白石さんが神奈川県相模原市で活動していた縁で、2011年10月、相模原市にケア付き共同住宅を準備した。移住後に福島県人としての誇りやコミュニティの維持などを確立するため、福島県自立生活センター協議会(FIL)のサテライトCILを設立へと動き、相模原の障害者との共同を模索している。避難・疎開をためらっている人や、避難・疎開、また移住が、障がいを理由にできない状況を打開するのが目的で、東北関東大震災障害者救援本部の支援を受け、2012年2月から「避難・疎開体験パックツアー」を実施していく。パックツアーは1回あたり3名で1泊から利用が可能で、長期体験ツアーでもヘルパーを利用することが可能だが、介助者不足で同行の困難が課題となり、申し込み待ちの状態になっている。フリー利用は2012年1月21日段階で7人が利用、相模原市への移住希望者は2人いる。移住支援では現地障害福祉サービスや日中活動、仲間づくりなどの支援を行う。
 支援物資を届けるなど震災直後の命を守りつなぐ活動から、震災から半年が経ち、暮らしや仕事を取り戻す活動へのステージ移行が、この日の会議の主なテーマだった。
原発20キロ圏内警戒区域/高放射線量計画的避難区域では住民が戻れず、日中事業所の再開支援や仮設住宅での調査による障害者の把握とニーズ調査、県外避難所・避難者への支援センターの周知に取り組んでいる。だが事業所再開には建物を新設する財政支援が必要なこと、住まいが分散してしまったために送迎(移動支援)の負担が大きいことなどが課題として報告された。また原発20〜30キロ圏内「緊急時避難準備区域」では地域全体が生活に多くの困難を抱えており、「津波被害地域など不在者の所在を行政と連携して確認すること。しかし最も大切なのは調査で分かったことへのその後の対応。掘り起こした困難事例への対応」「なんとか職員がそろい作業所を再開したが、避難者への通所ニーズが増えパンク状態」「やることがない、仕事がない状況からの脱却に、職員不足の中で仕組みづくりに苦労している」などの声が紹介された。日中系事業所の再開には人、モノ、カネが不足している。南相馬市の中活動系事業所では、利用者数が震災前の81%まで回復しているものの職員数は回復せず、職員に対する利用者数の比率は2.3倍になり負担が増えている。
 JDF被災地障がい者支援センター3県で、合同要望書を国に提出することも報告された。素案は▽被災市町村の障害者名簿の開示▽仮設住宅の設計段階でのユニバーサルデザイン化▽震災時に重度障害者へのヘルパー派遣時間の大幅増▽障害者を始めとする被災生活困窮者への生活保護受給▽障害者が強制避難・自主避難する際に、分け隔てなく手厚い支援を行うこと——などを求めている。
 JDF被災地障がい者支援センターふくしまの報告(福祉広報1月号 社会福祉NOW)によると、震災から3週間後の4月5日から県内198カ所の一次避難所を訪問したが、112人しか障害者はいなかった。「原発事故による指定区域の12市町村内だけで1万人を超える障害者がいたはずです。実際に7割の障害者は避難所に避難しています。ところが最初はいたのに、いなくなったとのことでした。どこに行ってしまったのか。ここに避難所の課題があります」とし、「ベッドもないので何日も車イスに乗ったまま寝ざるをえなかった」「自閉症の子が周囲になじめず車で寝泊まりした」「精神障害のある方は薬が手に入らず幻覚や幻聴の厳しい状況に陥った」などの声を紹介し、一方で避難所を離れると情報も入らず相談もできないことを課題に挙げている。

◆ 個人情報/名前を消すということ

 633人の死者・行方不明者の大惨事となった福島県南相馬市は、福島第1原発事故で震災前は約7万人だった人口が、一時は1万人まで減り、人影がなくなった。しかし4月以降、避難生活を継続する困難から住民が戻りはじめた。障害者と家族の実態把握と要支援者名簿作成、避難計画見直しのため、南相馬市は4月中旬、個人情報保護の観点から他の自治体が踏み切れなかった障害者手帳交付者の公開に踏み切った。
 JDF被災地障がい者支援センターふくしまの報告書によると、調査は同センターと障害者支援事業所NPO法人「ぴあ ぴーなっつ」が4月30日から共同実施した。原町区と鹿島区の65歳未満の身体障害者手帳、療育手帳所持者1139人のうち、半数以上の人が南相馬市内で生活しており、うち7割が避難を経験していた。避難できなかった・しなかった人が全体の22%いた。聞き取りに対し、身体障害者の40代女性は、こう語っている。
 「子どもに発達障害があり避難所生活では強いストレスを受けると思い自宅生活を選んだが、市の人口が1万人まで減少し、放射能を恐れてトラックも町に入ってこなくなり、食料とガソリンが底をついて餓死しそうになった。配給に何時間も列に並び、長女が一日一個のおにぎりをお腹をすかせている妹に分け与えていた。屋外待避から4月中旬に避難準備区域に変更され、徐々に住民が戻ってき、ようやく孤独や食料不安から解放されることができた。(中略)内部被曝の検査のため、ホールボディ検査や尿検査を始めている。これらの検査を定期的に数十年続けねばならず、県外に避難する事よりも、住み慣れた自宅に留まることを選択したことで、子どもたちに体内・外被曝をさせた事についてお詫びのしようがない。震災の思いを色褪せないように、3月11日のドライフラワーを今も飾っている……」
 会議の終了後、雪がまた強くなってきた。雪景色にみとれていると、「雪がそんなにうれしいかな。わかないな」と、安田智美さんが笑う。
 元気そうで、ほっとする。9月に京都のシンポジウムに安田さんがパネリストとして出席した頃、父健二さんのALS在宅療養生活は最後の日々を迎え、11月3日に永眠された。シンポジウム実行委では、安田さんが父上の体調の変化に心を痛め、最後まで自宅で普通に生活するために、ご家族の大切な時間を過ごしておられることをシンポ実行委員会は知らなかった。75歳で静かに眠るように逝かれた。「お父さん逝くの早すぎだよね、もっと介護したかったね」と話すほどだったという。
 安田さんはシンポジウムで、「災害時に個人情報を守ることが、果たして患者の命を守ることになるのか」と問うた。それは個人情報の壁によって、平時から患者同士が個人として、生き様と顔の見える存在として出会い、絆を育む機会を奪われることへの怒りと同義だ。大震災までの安田さん家族の歩みを伺った。震災前の福島を知り学ぶこと。それぞれの顔が思い浮かべられる縁が生まれれば、復興へ関わり方も変わるように思える。
 安田さんの父健二さんは2008年3月から、ALSで人工呼吸器と胃ろうをつけ、在宅生活を始めた。大震災の発生した2011年3月、福島県内で初めて、24時間公的介護を利用できるようになった。家族はいても24時間他人介護を実現した例は全国でも少ない。ALS患者にとって家族介護の負担はあまりに重く、大きな道を切り開く実践だった。
 「2005年の年末、父の言葉が出にくくなって、ろれつが回らないなあって。すごく笑い上戸になったんだけど、全然、病気だと思っていなかった。お酒の飲みすぎだと思ってて」
 言葉の聞き取りづらさが進み、2006年3月、近くの内科医院を受診した。遠方の病院に入院するよう勧められた。しかしそれでは遠すぎる。安田さんも安田さんの母も仕事があったが、病院は「少なくともどっちかが、仕事を辞めないと無理」と告げた。 二人とも仕事を辞めたくはなかった。
 病は急速に進み、家族の介護負担は増えていった。たんの吸引の頻度はそう多くなかったものの、夜も交代で隣に簡易ベッドを置き、ほとんど寝られない日々を過ごした。「マッサージしろ、マッサージしてという訴えがすごく多くて、一晩中マッサージみたいな感じだったんですよね。病が進行する時って何か足とか何か不快感があるのかな。母もよれよれでした。トイレも自力では行けなくなっていたのに、でも本人はいきたがるでしょう」。
 ヘルパーの支給時間数は当初、重度訪問介護で月270時間だけ。「私たち家族もすごく甘く考えてて、泊まりは毎日までは申し訳ないからと思って」。ヘルパーの泊まりは週3日、日曜日はほとんど家族で介護というプランを組んだ。1カ月も持たずに、二人とも体調を崩した。月約320時間に、日曜日もヘルパーを派遣してくれるよう、ケアプランを見直した。
 呼吸する力が衰え、健二さんは入院して気管切開し、人工呼吸器を装着。病院からは早期退院を迫られた。いわき自立生活センターのケアマネ長谷川詩織さんらの支援を受けて、退院に向けて、たん吸引ができる訪問介護事業所を探した。いわきから郡山まで片道70キロ。毎日のように長谷川さんは通い、家族と一緒に郡山市と重度訪問介護の支給量を増やすよう、交渉を重ねた。
 しかし郡山市内で痰の吸引を引き受けてくれる介護事業所を探したが、ことごとく断られた。最後残った1カ所に押しかけ、「とにかくやってくれ」と頼み込んだ。「じゃあやりましょう」と引き受けてくれたが、ヘルパーに吸引を担った経験はなかった。
障害福祉サービスでのヘルパー派遣自体やったことがない事業所1カ所と、片道1時間以上かかる遠方の田村市の自立生活センターの事業所から、ヘルパー派遣を受けることにした。あとは吸引をしない事業所2カ所から。吸引をヘルパーが担うことは、医療行為とのグレーゾーンにあり、「医療的ケア」問題といわれる。医療的ケアの実践は、郡山市では前例がなかった。
 安田さんたち家族が、ヘルパーに吸引を教えた。1カ月一緒に介助をやって、必ず夜は母が一緒に泊まった。「病院で一応、研修はしましたけど、家でやるのとやり方が全然違うから、戸惑いがあった。人工呼吸器をつけている人に接するのも初めてだから、どうしていいか分かんないみたいな。主治医や訪問看護師も前例がなかったから、在宅で呼吸器付けた生活がどのようなものか、想像がついていなかった」。
 ALS協会福島支部との出会いだけでなく、父の介助を通じて、安田さんはいわき市、田村市、郡山市の障害者自立運動と出会った。名前を知り、顔が見える関係が広がると、大震災でも支え合うことができた。全国のたくさんの人から安否を気遣う連絡があった。田村市は原発事故で屋内待避になったにもかかわらず、田村市からヘルパーさんは通ってきた。救援物資のネットワークも、平時に培った輪が生きた。福島のALS患者への公的介助はまだまだこれからで、家族介護に頼る人が多い。患者会が安否確認に動けない状況が、安田さんは悲しい。

 安田さんからメールを頂いた。
 「父は亡くなりましたが、私は以前とあまり変わらない生活をしています。今日も入院患者さんの在宅移行について相談に行ってきました。こうやって動いている方がさみしさを感じなくて済みますし、もしかしたらそれは逃げかもしれませんが、とりあえず今はさみしさをあまり感じないで過ごしたいなと思っていて。京都に行けたことは、とてもありがたかったです。父も、私がずっとそばで心配な顔をしているより元気に出かけている方がうれしいはずだと思っています」
 「もし、呼吸困難をおこした4年前に、人工呼吸器を付けないという選択をしていたら、父はそのまま病院で朦朧としたまま亡くなっていたと思います。付けたことで、3年半、自宅で生活することができて、その間に、上の孫は大学生になり、初めてのバイト代を『じいちゃんとばあちゃんにこずかい』と持ってきてくれたり、姉はヘルパーの資格をとって父の介護をしてくれたり。
 いろんな幸せなことがあって、そして最期はみんなに見守られて逝くことができて。父にどう思っているか聞くことはできなかったのですが、きっと幸せだったんじゃないかと、思うことができました。たくさんの方々に支えていただいて、こんなにいい看取りができた私たちは、とても幸せだと思います。これからは、同じALSの患者さんやご家族の負担を少しでも減らすことができるように、少しずつ少しずつできることをやっていけたらと思っています」
 人工呼吸器を装着し、娘たちと自宅で大震災をしのいだ安田健二さんの生きざまが、経験を社会に開く安田智美さんの覚悟が、つながりの種になり広がっていく。安田智美さんは、患者の相談を受けることが中心だった患者会を変えようとしている。訪問をして、顔をみて、言葉より多くのことを交換する。

 2004年のスマトラ沖地震で、死亡した日本人36人のうち、外務省が実名で発表したのは了承を得た4人だけだった。外務省によると、現地当局が被害者の氏名を発表しない場合、遺族に意思確認した上で公表を決める。外務省・海外邦人安全課は「報道機関への情報提供はサービスで、職務外」と言い切った。2005年4月の個人情報保護法の施行で、これまで報道機関の問題だった実名発表か匿名かという苦悩が、公的機関ばかりか企業や団体、事業者の共通課題ともなった。同年発生した尼崎脱線事故では、兵庫県警は107人の死亡者のうち4人の名を伏せた。警察も病院も消防も、目の前の命や被害者にそれぞれの立場で真摯に取り組んだ。名前を消すのも、誰かを思いやったのは確かだ。しかし安否情報の扱いは割れ、痛みは被害者が受けた。東日本大震災で住民が離散する中で、障害者の情報公開に踏み切った南相馬市の判断は英断といっていい。福島から県外避難した人がどこに暮らすのか、受け入れ自治体はプライバシー保護を理由に明らかにしない。3.11のとき、私はここにいた…今は石に刻まれたように確かで動かない自明の事実も、やがて歳月は証し立ててはくれなくなるだろう。原爆症訴訟では国ではなく、被害者に立証責任があるとされた。

 人の名前は重い。勝手には消せない。見知らぬ誰かと知り合い、情報発信する多くの活動が今、プライバシー問題という、名前を食べる怪物に直面している。監視社会の実態はなく、匿名化にあぐらをかき無為をむさぼる行政の中で、怪物は孤立と分断を産む。そっとしてあげなきゃ。おせっかいしたら傷付けちゃうかも。そんな優しさと他者への配慮も、この怪物をぶくぶく太らせる。
 「後でややこしいことになったら面倒だ」とリスク回避の発想で匿名を選択する風潮が社会にまん延すれば、時に傷つけることがあっても修復し、人と人とが助け合うきずなは、やがて消え去るだろう。

生存学研究センター報告

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