あとがき

PDFダウンロード

本文

立岩 真也(グローバルCOE プログラム「生存学」創成拠点 拠点リーダー・立命館大学大学院先端総合学術研究科 教授)

 このような冊子のあとがきとして書くべきことは、この催しのはじまりとおわりの挨拶でしっかりと述べられており、またまえがきに松原さん―以下、今回の催しの登場人物は敬称あり―が書いてくれていると思うから、私は、独り言のようなことを記すことにする。
 今回のヤングさんの講演で語られたことはまったく明晰なことであった。ただ、それはそれとして、その人にたしかに起こりはした暗いなにごとかがあるとき、それがその人にとってどんなことであるのか、どのようにそれを―扱えるとして―扱ったらよいのか、そのことを考えるのは、ときになかなかに難しいことのように思える。
 たしかにことは、「事実」に関わるのであって、どうとでも思うようになることではない。(もちろん「ナラティヴ」を語る人たちしたって、そんなことはわかっていると言うのではあるだろう。しかしそれでも時に、基本的な枠組みとして、このことを巡ってことが簡単にすまさせられていないか。)しかし、名づけられ、整形され編成され、知らされ教えられ、といったことが起こる。さらにそれが前提となって、また使われて、様々が組み上がる。そして、そのことに、あるいはそのあり方に、本人であるのか、そして/あるいは、別の人たちであるのかが、疑問、反感をもつことがある。それは別の見方から見ると―例えば病気であることを証明し生活の資を得るために―仕方のない、必要なことでもあって、ヤングさんはそのことを記しながら、しかし、気持ちがわるいと思ったことをはっきりと『PTSD の人類学』に記している。例えば「部外者の私からすれば、マリオンとロジャーがワークしているのをみると不愉快だった。執拗さと信心家のふりと何でも一般論にする正論との三つ組は見るのも不愉快だった。」(p.351)(その表出がとても率直だったから、そんな書き方もありなのだ許されるのだと、私はこれから論文を書こうという人たちに伝えたいと思ったぐらいだ。ただ、わずかに読んだことのある文化人類学の本のことを思い出してみると、人類学ではそんな書き方がわりあい認められているようにも思える。)
 その時、つまり括られて扱われることに反感をもつ時、その人は何を感じているのだろうか。はっきりとは分かたれない二つがあるだろうか。一つに、そうではない、なにか別のことではないかと思う。一つに、なにか取り出し名指すこと、固定することが気にいらないと思う。
 とすると、前者について、違うということをどう言ったらよいのかという問いが現れる。幾つかの場合にはそれは比較的に簡単なことである。例えば、なにか観察可能なもの(の組み合わせ)によって定義されているのだが、実際にはその定義に合わないといった場合。今回ヤングさんが報告した事態はそれに近い。しかし、そんなことばかりではない。本人の言うことを信じればよいだろうか。おおむねそれでよいのかもしれない。ただ、虚言は可能であるといったことを別としても、しかじかに思える私の思いを促している私が気がつかないもの(気づきたくないもの)を想定することはでき、そしてその可能性を当人もまた否定できない。そのような仕組みを介して誰もが罪人となる、そんな仕掛けがある。さてどうしたものか。
 後者、なにか名づけたり、解釈したり、そんなことをもうやめようではないかという思いは、そんなところからも来るだろう。罠にはまってしまう。反対しようとすると泥沼にはまってしまう。もっと自由であるのがよい。これもまたもっともな思いだと思う。ニーチェやフーコーといった人たちの書いたものをこのような線で読んできた人たちがたくさんいるはずだ。もう幾度めかの紹介になるが、日本の思想家のものでは吉本隆明の「喩としてのマルコ伝」(『論註と喩』所収)がある。そうして想起するなら、その吉本という人の思想には、ものを考えたりすることがなにかよいことでありはしないのだという基本があった。
 さて、それでよいのかもしれない。私は基本的にそれでよいと思っている。しかしその上で、残念ながら、と言うべきか、するべきことがなくなるわけではない。あるいは、「学問」にとっては、仕事がなくならない、喜ばしいことだ、ということでもなる。つまり、肯定されるものといったらまったく取り付く島もないものであって、それ以上なにも言うことがないということになるのだが、残念ながらこの世には様々なことが起こってしまうから、それを解毒するためにも、その様々を記述し分析する仕事は残るというわけである。ここに実証家の仕事が確保されるというわけだ。
 ただ、ここで、前者の契機、前者の問いはなくなっているわけではない。つまり、名付けられることの不快の反対は名付けられないことではなく、別様に名付けられることであるというのである。
 今回、ヤングさんへの質問者の二人は「激賞」をいただいたのだが―それは、「指導教員」としても、むろん嬉しいことだ―、その一人の片山さんは、専門家たちが規定するものが気持ち悪いとして、では「当事者」が形成する場において付与される意味ならよいかといえばそんなこともない、そのことを述べた。では片山さんは、いずれでもない、なんでもない、そういうあり方がよいと考えるか。そうではない。今度書いた博士予備論文「教育における正義―言語・文化選択におけるこどもの権利」(審査中)では、「ゲイ・ネイション・ビルディング」を称揚している。戦略的にという但し書きは付くにせよ、「本質主義」を標榜している。さてさてどう考えたものか。
 一つにそんな、おなじみの筋の話がある。おなじみではあるけれども、終わってはいない。たとえば、いま二つ述べたこと、つまりなにか(別の)よいものがあるということと、名付けなくてすむなら名付けなくてよいのだという立場とを択一のものと考えるのは愚かなことであろう。そのことは言えそうだ。だがそれをどう説明したらよいか、等。
 こうして、こんな話を続けていくこともできる。しかし、そもそもの問題は、なにがよいかという問題ではなかったはずだ。(簡単に)逃れられるように思えないよくないものが問題であるなら、どうか。考えるのをやめるとか、もっといいものを思うとか、そんなことができるのだったら、とっくにそんなことをしている、というのである。PTSD という言葉のまわりに存在するできごともまたそんなできごとのはずだ。ここで問いとその答はもうすこし複雑にならざるをえないように思える。
 まず、すっきりした「正解」はなさそうだ。そのことはわかる。その上でどう考えていくか。やってみてもよいように思う。そして、すくなくとも今のところ、その思考の場所は空いていると思う。詰めて考えられてはいないということだ。
 ここで例えば脳生理学の新たな知見はなにごとかをもたらすだろうか。そもそも私はそうした知見をなにも知らない。ただ、何かが新たにわかると、この問いに対する答がまったく変わってくるようにも思えないのだ。例えば、過去の悪い記憶を消去できることになったとしよう。それはどうなのだろう。よいか、よくないか。いろいろ研究が進んで、それがよいと思ったり、よくない思ったりすることが脳生理学的に「説明」されるようになったとしよう。しかしそれは、よいか、よくないかという問いへの答として受け取ることができるだろうか。そうも思えない。そのような意味で、脳の中がわかり、記憶のメカニズムというものがわかれば片がつくことのようには思えない。
 さて、『PTSD の人類学』の、わかるようなわからなさは、こんなことに関わっていると思う。今回の催しの会場で、幾度か発せられ、そのままになった言葉もまた、それに関わっていると思う。私たちは過去の(わるい)記憶にいったいどう対したらよいのか。それに対する答えは文化・社会によって異なる。それはそうにちがいない。しかし、「罪」と「恥」とを対比させてそれで終わりになるような問いであるとも思えない。このあたりからが考えどころだと思う。そして私は、このことを考えるときには、民族誌的な手法には限界があるだろうと考える。どんな対し方があるのか、ありうるのか、その各々の何がどのようにうまくいき、どのようにうまくいかないのか、それを切り分けて考え、組み合わせていく、分析的な手法が必要になってくるように思う。私たちは、人を責めたり、自分を責めたり、人でないもののせいにしたり、なにのせいにもできず佇んだりする。気がすむならなんでもよいではないか、とも思う。しかし、気がすむためには、すくなくともいくらかは信じられねばならないだろう。何を信じるか。「事実」だとすれば、思いたいように思えるということにはならない。どんなことが可能であり、不可能であり、困難であり、また何がもたらされ、何がもたらされないのか。もし可能なら、消しゴムで消すようになくしてしまってもよい記憶もあるはずだ。けれども、そうでないものもまたあると思っているとしたらそれはなぜか。問いはたくさんある。
 私たちの中では、山口真紀の博士予備論文「「傷」と共に在ること―事後の「傷」を巡る実践と議論の考察」(審査中)でそんな作業の一部が始められている。また、2008 年にはアーサー・フランク氏がこちらで集中講義など行なうことになっている。その著作はなにかを言ってくれているのだろうか。私は読んだことがない。だからわからない。だから読んでみようかと思う。
 ただ、考えるためにも、この社会にある言葉・実践を集めてくる必要がある―そして人類学であれ心理学であれ社会学であれ「学問」の言説もまた、そのように収集されてよい素材でもあるのだ。『PTSD の人類学』という大著は、大著であることがまず賞賛されるべきである。そういうものがこちら側にどれだけあるか。池田さんの『実践の医療人類学―中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開』(2001、世界思想社)をはじめいくつかないわけではない。しかし少ない。まず集めよう。調べよう。そしてよく考えてみよう。

生存学研究センター報告

サイトポリシー | 個人情報保護方針 | サイトマップ | お問い合わせ
アクセシビリティ方針