労働の分業/労働を通じた統治──感情労働の位置について

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天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

 それにしても、フーコーは、人間の死について何も悲しむべきことはない、といいながら何をいいたかったのだろうか。実際、人間という形態は良いものであっただろうか。それは、人間における力、生きる力、話す力、働く力を豊かにし、そして持続することができただろうか。それは、存在する人間を、暴力的な死から守るものであっただろうか。だから、またも提起される問題は次のようなものである。もし、人間における力が、外の力と関係してはじめて形態を合成することができるなら、いまそれはどんな新しい力と関係する可能性があり、そこから、神でも、人間でもないどんな新しい形態が出てきうるだろうか。ニーチェは「超人」と言いながら、このような問いの状況を正しく示したのである。(Deleuze 1986=1987→2007: 248)

1 「方法論としての感情労働」をめぐる価値について

 本稿は、2008年7月31日に開催された国際研究交流企画「ケアの論理と倫理——看護・感情・労働」におけるパム・スミス氏(Pam Smith)とヘレン・カウイ氏(Helen Cowie)による研究報告に対する私たちのコメントを踏まえ、まずはそれらの議論がケアをめぐる問題群における〈全体〉のどこに位置するかを論考することを目的としよ。その上で、「感情労働」ないしは「感情」の問題についていかに思考することが可能であるのかについて論考しておくことにしよう。この小論はそれ以上でもそれ以下でもないのだが、それでもここで私たちが思考すべき〈全体〉の一部を記すことは一定の意義を内在するだろう。
 上記の企画において私がスミス氏ならびにカウイ氏の報告にコメントをしたのは大きくは4点である。それだけと言えばそれだけのことしかコメントをしていない。
 第一には、「方法論としての感情労働」の価値づけについてである。本報告書のコメントにて記しているので、ここではごく簡単に言及するにとどめるが、確かに、私たちはままならぬ現実に身を委ねている状況において怒りや無力感などの感情を感受することで、しばしば暴力的な事態を召喚してしまうことがある。その意味では、「感情管理」を適切に遂行することでその場で引き起こる感情から生起する「暴力的な出来事」を事前に回避することができるという事実は確かにある。私はこうした「肯定的な側面」があることを否定しない。実際に、例えば、「看護」の場面において看護師が患者に様々に振り回されることによって強い怒りを感受してしまうが、患者に憤懣の感情を直接的に表出することも困難であるがゆえに、逆にそうした怒りの感情を回避して「冷徹・無関心な態度」や「ルーティーンワークに徹する態度」が採られてしまうことがある。平たく言えば、「感情の感受(怒りの感情)→暴力的な出来事」を回避するために、それこそE.ゴッフマンが実に巧みに描出したように、むしろ「感情の感受(怒りの感情)→暴力的な出来事←回避戦略の方法論としての冷徹・無関心な態度/方法論としてのルーティーンワーク……」という現実があるの。ただ、そのような「方法論としての冷徹・無関心な態度/ルーティーンワーク……」を遂行する場合には、逆に患者との「抜き差しならぬ関係」や更なるアイロニカルな事態を出来させてしまうゆえに、その更なる回避戦略として「方法論としての感情労働/感情管理」が採用されたという視点から解読することができるの。
 すると、「方法論としての感情労働/感情管理」は、一方では、ケアを受ける当事者とケアする側との「抜き差しならぬ関係」やアイロニカルな事態を巧みに回避すると同時に、他方では、その実践を通じてケアする側の役割や労働が社会的に評価されるものとして見做され、そのことでケアする側も一定のやる気や動機づけを調達することができ、更にはこうした「方法論としての感情労働/感情管理」や「事前的/事後的なトラブル回避戦略」などを通じて当事者を「おとなしく物分りのよい人びと」や「手のかからない面倒のない人びと」へと管理・統制することが可能になることで自らの感情的・肉体的負担と負荷を最小化・軽減化するものであると言えるのだ。「方法論としての感情労働/感情管理」には事実このような効果が確かにある。それはむしろ幾重にも深い苦悩と葛藤をもたらしていた過酷な状況を耐え忍ぶ実践としての「方法論としての冷徹・無関心な態度/ルーティーンワーク」等々(のような粗野で野蛮な方法)よりもずっと巧妙な看護労働を可能にする方法論であると言える。
 更に重要な点は、そうした「方法論としての感情労働/感情管理」が私たちの社会において制度化され、それに対して評価がなされ、そして場合によってはそれに対しての対価が与えられていることの意味である。そして評価・対価が与えられる限りにおいて、ケアする側を雇用する事業所や業界としてはそれらの獲得を通じて事業所の収益を確保したり、事業所としての価値を主張したりするであろうし、業界としては自らの守備範囲を戦略的に拡大したり、自らの職業集団としての意義を強調するようになるという事実である。すなわち、ケアする側個人にとって過酷な状況を耐え忍ぶ「方法論」として「感情労働」や「感情管理」が採用されるという事実のみならず、その方法論が採用されることを通じて誰/何かにとっての利得と損失となっているという利害をめぐる現実があるのだ。多少複雑でもあるこうした「方法論としての感情労働/感情管理」をめぐる利害の現実と歴史を押さえておくことは「感情労働」に関する研究としてもなされるべきことであろう。

2 「方法論としての感情労働」をめぐる制御性について

 第二には、「方法論としての感情労働/感情管理」をめぐる価値づけとして、これまでどちらかといえば暗黙の内に——こういってよければ「疎外論の密輸入」として——語られてきた問題の捉え方についてである。E.ゴフマンやA. R.ホクシールドの知見を引くまでもなく、私たちは自らの印象や感情を管理することを通じて——自らのアイデンティティ管理や存在証明を通じて——他者からよく思われようとしたり、あるいは少なくとも悪く思われないような実践を駆使しているのであると説明されてき。

それらに対する「否定的な評価」の一つとして、悲しむ場面でニコニコしなければならなかったり、あるいは逆に喜ぶ場面で喜ぶことさえできずに疲弊・摩耗してしまったりすることによって罪の意識や嘘の意識などを感受してしまうということへの批判がある。そのような自らのアイデンティティ管理や存在証明を通じて自らの感情に対する大いなる負担と負荷が強化されてしまうということがある。あるいは、感情管理を通じてケアする側が「やりがい」や「共感」などを感受してしまうがゆえに、次第に燃え尽きてしまったり、 ひどく感情をすり減らしてしまうということがある。これもまた事実としては正しい。
しかしながら、そのことはこうした「感情労働」や「感情管理」が捨てられてよいことを意味しない。とりわけ元々の「方法論としての冷徹・無関心な態度/ルーティーンワーク」等々によって様々に精神的・肉体的な負担と負荷が課せられてきたこと、そして当事者において圧倒的な精神的・肉体的な負担と負荷を余儀なくさせてきた現実を踏まえるのであれば、論理的に「方法論としての感情労働/感情管理」それ自体の廃棄は導けない。むしろ、問われるべきはそれらの「感情労働」「感情管理」を通じて感受することになった(別様な)感情的・肉体的の負担と負荷の問題をいかに思考するかとなる。これもまた疑いのない周知の事実であると言えよう。
 「否定的な評価」の第二の点としては、「感情労働」や「感情管理」にともなう精神的・肉体的負担と負荷がいかに社会的に配置されているかという問題になる。現実に、「感情労働」「感情管理」が必要とされる人たちの労働が「割のあわない仕事」とされていたり、あるいは現実に「しんどい仕事」として課せられている状況がある。例えば、感情労働が「社会的」に課せられているとしても、あるいはその業務遂行上において必要であると「社会的」に見做されていたとしても、大学教員の感情労働などが然したる問題とはならないのは感情労働も含めた労働に対する対価が支払われていると同時に、その感情労働の限定性と感情労働を実践する上での学生−教員の非対称的な関係性が参照前提になっているからである。つまり、私たちの社会における「社会的場面」において様々に感情労働は遂行されているが——エリアス的に言えば確かに「文明化」の過程において感情労働/感情管理を通じて「社会圏」は圧倒的に拡大化され変容してきたのだが——、そのような「社会的場面」における感情労働や感情管理それ自体が問題なのではなく、むしろその労働の置かれている「位置」の問題として「感情労働」を批判的に論考するという立場である。要するに、「感情労働」を含む「労働α」が社会的構造のもとで「位置β」において課せられているという問題性において「感情労働」を批判的に思考するという道筋があ。
 第三には、社会的介入・統制という観点から「感情労働」に対する「否定的な評価」を裁定するという文脈もある。いわば労働者による「感情管理」が社会的に管理されているという事実性を参照前提にして批判するという構えである。実際、ケアする側は様々な泣き笑いを含めて感情を管理するのだが、そのような個人の感情管理が社会的に余儀なくされたものであり、「感情管理」の「管理・統制」が行われているという観点から批判することがある。後述するように、この問題は「介入」や「パターナリズム」をどのように考えるかを含めて考究すべきものである。
 いずれにしても、このような「否定的な評価」についての問題がどのように「感情労働」をめぐる問題構成として位置づいているのかを確認することなしに、私たちはその本質において「感情労働」を思考することはできないのである。

3 感情労働の位置

 ところで、「方法論としての感情労働/感情管理」の社会的な位置はどこにあるのか。
 以下、本稿では「ケアの社会化」を思考的補助線にして、「方法論としての感情労働/感情管理」の位置について極めて簡略かつ乱暴に整理・提示してみよう。私たちが「感情労働」をいかに見定めるのかを確定する上でもこの点は決定的に重要な作業だ。

 極めて粗いものであるが、誤解を恐れずあえて図式化するのであれば、私たちの社会における〈ケアなるもの〉をめぐる問題構成の構図は図1のようになる。多くの誤解が存在するが、「ケアの社会化」と呼ばれるものの内実とは下記のようなものである。
例えば、家族のみがケアを行う「社会α」と、「介護市場/介護労働市場」を「準市場」として設定した上で、リスクと負担の再分配という共済制度をもとに財源を確保し、価格統制をもとにした準市場への参入を営利および非営利の事業者に促してケアサービスの供給を確保するという形で「ケアの社会化」がなされている「社会β」を仮定した上で、両者を比較しておこう。ただし、これはあくまで極めて図式的解釈であることを断っておく。
 説明するまでもないのだが、一つには「社会α」と「社会β」によってケアの受け手である当事者へのケアの総量は大きな変化を示さない。「社会α」において家族によってなされている「ケアa」+「ケアa’」は、基本的には「社会β」においてケア労働者によってなされる「ケアb」+「ケアb’」と総量としては大きく変わらない。主として「社会α」にて家族において提供されていた「ケアa」+「ケアa’」によって当事者の生存が可能になっていたとすれば、「社会β」にてケア労働者において供給される「ケアb」+「ケアb’」によって当事者の生存が可能となるだけの話である。
 ただし、これは「感情労働」においてはその内実やその担われ方などは変わってくる。実際、「社会α」における「子育て」を限定的に脱家族介護(育児)化したとしても、家族における「ケアa」における感情労働と他者による「ケアa’」における感情労働の総和は──感情労働の「総和」なるものがかりに想定されるとしても──「社会β」における「ケアb」と「ケアb’」の感情労度の総和と一致しない。そして、その感情労働の「総和」の多寡はたんに批判されるだけのものではないだろう。
 二つめとしては、上述した点とも重なるが「社会α」と「社会β」において〈全体〉としての負担の総量は変化しないことである。「社会α」において家族介護者──その多くは圧倒的に女性が占めてきた──による「ケアa」の精神的かつ肉体的負担ならびに家族外部から調達した「ケアa’」に対する支払としてなされる経済的な負担ないしは精神的負担と、「社会β」における家族介護者による「ケアb」とケアの準市場を通じて供給される「ケアb’」ならびに税や保険料を通じて担われるべき負担の総量は基本的に圧倒的な差異はないはずである。しかしながら、個々人で見た場合には、「社会α」と「社会β」での負担のあり方は大きく変化するはずである。当然ながら、当事者や家族などの負担は変化する。そして、ケアを供給している労働者の負担もその仕組みによって増減する。最も負担として変化するのはこれまで負担から免れてきた人々に負担が課せられるため、その負担の負い方は変容する。ただし、より詳しく言えば、その負担は税や保険料の徴収する割合や傾斜や総額によって変更するため、その負担の担われ方の「程度」はその制度設計と運用に大きく依存することになる。また、「機構b」を通じて有償化/賃労働化されたケア労働への賃金によって、あるいはケア労働市場における労働の分配構造によってその程度は変更するもの。
 三つめは、「社会α」と「社会β」ではその〈全体〉として算出した場合、「ケアの総量」ならびに「負担の総量」に変化はないが、その財やサービスならびに負担が不均衡に分配されているならば、当然ながら、個々人のケアとその負担には圧倒的な差異が生じる。そして、ケアとその負担を担いつつ、「感情労働」ないしは「感情管理」する場合にはその「方法論」は様々なあり方として立ち現れることになるのだ。実際、「認知症高齢者」と呼ばれる人たちを介護する場合、様々な「感情労働」が求められ/課されたりするのだが、少ない人員配置と過酷な勤務条件など状況のもとではそのギリギリの状況を耐え忍び、やり過ごし、回避したりするための──そこでの負担と負荷を最小化・軽減するための──「方法論としての感情労働/感情管理」が駆使されることになる。したがって、「方法としての感情労働/感情管理」はこうしたケア労働の配置=配分とともに語られるべきなの。

4 統治という問題

 確かに「方法論としての感情労働/感情管理」をケア労働の配置=配分、とりわけ誰が誰に対していかなる行為・労働を供給しているのか、ケアとその負担をめぐる分配構造の認識論的地平から考究することが重要であるとして、問題はそれで終わるか。それだけではまったく終わらないのだ。それだけでは「感情労働/感情管理」の問題を考えたことにはならないのだ。

 決定的に重要な点は「生産/秩序の増強」の見積りをいかにするか、もっと言えば「感情労働/感情管理」が何をいかに産み出しているのかについて思考することにある。この点は強調しすぎてし過ぎることはない。
 拙稿(2009a)にて詳述したが、周知の通り、フーコーは、その代表的著作である『狂気の歴史Histoire de la folie a l’age classique』(Foucault 1961→1972 =1975)、『言葉と物Les mots et les choses』(Foucault 1966=1974)、『監獄の誕生Surveiller et Punir』(Foucault 1975=1977)を刊行した後、1976年に『性の歴史・——知への意志Histoire de la sexualit_ Vol.1: La volont_ de savor』(Foucault 1976=1986)を刊行するに至って「bio-pouvoir」という概念を産出した。その意味で、この『監獄の誕生』刊行と『性の歴史・』刊行のあいだの時期に行われた1975-1976年度講義『社会は防衛しなければならない』(Foucault 1997=2007)、1977-1978年度講義『安全・領土・人口』(Foucault 2004a=2007)、1978-1979年度講義『生政治の誕生』(Foucault 2004b=2008)の記録は「後期フーコー」の「統治論」を包括的に跡づけることを可能にする著作だ。
 紙幅の制約上、詳細については割愛するが、要するに、フーコーが「生−権力」の概念で示したことの一つは、「法的なものの時代」における「古い権力」は、主権者の権力の行使を通じてはじめて法/権利は「死なせること」と「生きるに任せること」に結合して「死なせること」をもたらしていたのに対して、「生−権力」は人間の生命を「死へと落下する脆弱な生」として掌握することで、その「死へと落下する脆弱な生」への「抗い」という形式を通じた権力として立ち現われるということだ。それはすなわち、「生きさせる」か「死に廃棄する(死ぬに任せる)」権力として現出するのである(Foucault 1976=1986:173/Foucault 1997=2007:240-241)である。
 もう一つには、フーコーの論考は往々にして「主体化=隷属化論」として解読されてしまうことがあるが、フーコーの最も重要な要諦の一つはそこにはなく、むしろ「後期フーコー」において展開された「統治論」にこそある。そして、そこで決定的に重要な点は、「ヒトという種における基本的な生物学上の特徴が、政治の内部に入りこめるようになるにあたって用いられる、さまざまなメカニズムからなる総体」(Foucault 2004a=2007:3)としての「生−政治」が〈〉と〈〉を包括する〈〉を可能たらしめている事実を剔出したことにあるのだ──だから、たんに「生−政治」を「生物学的生」の管理・統制としてのみ解読するのではまったく足りないのだ。
極めて乱暴に結論だけを言ってしまうと、フーコーはこう述べているのだ。 すなわち、私たちの社会における統治は、内政における国家理性としては「国家の自律的な維持と増強」のためであり、内政から経済を通じた統治へと変転しても、その統治は「国力増強と秩序増強」のためである、ということだ。そして、それを可能にするのが他ならぬ〈〉という観念なのだ。少なくともフーコーはそう考えていた(天田 2009a:163)。
 だからこそ、「生−政治」が対象とするのは、いわゆる生物学的本質や人間本性のことだけではなく、むしろ「社会の自然性」──「世界の本性という意味に理解されるような自然自体のプロセスではなく、人間どうしの関係に特有の自然性、人間たちが共住したりいっしょにいたり交換したり労働したり生産したりするときに自発的に起こることに特有な自然性」──であ(Foucault 2004b=2008:432)。そして、政治経済学は、「社会の自然性」を備えていると想定されている集合たる「人口」における「自然的な調整」を可能とする「調整」のためにも「自由」を産出する──「自由、それは、絶えず製造されるような何かです。(中略)自由主義、それは、絶えず自由を製造しようとするもの、自由を生み出し生産しようとするものなのです」(Foucault 2004b=2008: 80)。こうした「自由の生産」こそが「社会の自然性」における「自然」を可能たらしめるものであり、国家はその「自然」の「自然的な調整」を可能とさせるべく統治するのだ(天田 2008d:212)。それは、経済を通じてまさに「国力の増強と秩序維持」を企てる統治術なのだ。

5 ケアの社会化による感情労働の在り処

 私たちは概ねこうした「国力の増強と秩序維持のための統治」という理解を受容してしまうが、果たして、「福祉国家化」さらには「ケアの社会化」もまた「国力の増強と秩序維持のための統治」のためであるの。私たちはこう問わなければならない。

 もっと露骨に言ってしまおう。単純に考えて、またその歴史を踏まえても、なぜゆえに「国力の基礎としての富の増大」には大きな貢献・寄与をもたらすとは思えない老い衰えゆく人々を私たちは生かし、保護するのか。すなわち、「国力の基礎としての富の増大」ならびに「生産性の増大」「資本蓄積」の観点から言えば、高齢者ならびにその家族がいくら厳しい状況に捨て置かれたとしてもあえて「保護」の対象とする必要はなかったはずである。更には、老い衰えゆく人々を生かし、保護することが「社会防衛」「秩序の増強」の機能を果たしてきた事実があったことを一定度認めるものであるが、その指摘はそれ以上でもそれ以下でもない。むしろ、老い衰えゆく人々を生かし、保護する理由としては「社会防衛」「秩序の増強」の理由だけでは弱いのだ。
 すると、「ケアの社会化」がなぜゆえにいかにして起こったのかの理由としては、「生産」「資源」「市場」「労働」「負担」という「社会の自然性」における「自然的に調整」を可能にするような「調整」が企てられてきたのであり、その中で〈社会的なもの〉を作り出してきたからであると説明することもできよう(天田 2009a:171)。だとすれば、老い衰えゆく人々を生かし、保護してきたのは、老い衰えゆく人々自体が「国力の基礎としての富の増大」に貢献・寄与することはないにしても、老い衰えゆく人々に対して年金や医療や介護などを通じた経済を形成するからである、ということになる。しかしながら、こんな陳腐かつ平板な俗流ケインズ主義的解釈でよいのか。よいはずがない。
 ここで極めて慎重にならなければならないのは、どのようにフーコーの統治論が照準した「国力の増強と秩序維持」を見積もるかである。フーコーが指摘したように、統治の目的を「国力の増強と秩序維持」とするのであれば、老い衰えゆく人々を生かし、保護する積極的な理由は見つからない(いずれも然したる理由はない)のだが、フーコーを正確に読むならば、「福祉国家化」ないし「ケアの社会化」を正義・道徳でもって基礎づけることはできないし、すべきでもない──この意味で、社会学におけるフーコーの読解は完全に誤読していることが多いし、「社会保障システム」についての先行研究がきちんと思考していないのもこの点にある。以上を前提にするのであれば、最低限、考えられるは以下の2つである。
 一つには、「国力の増強と秩序維持」の意味するところを最大に見積ることである。つまり、「一人では食っていけない者たちを労働させるためである」「それらの人々を世話・介護する者たちの労働力の確保のためである」「介護市場・介護労働市場の形成のためである」「そうした介護市場・介護労働市場の形成は経済的な効果をもたらしており、また失業の福祉的対策になるからである」「社会防衛・秩序維持のためである」「政治的対立の緩和のためである」云々などは、いずれも然したる理由にはならないのであって、老い衰えゆく人々を生かし、保護する最大の理由は、私たちの社会において〈経済〉として算出・集計されていない〈何か〉を生み出しているからではないかと思考することである。
 フーコーはそのことにどの程度自覚的であったかは明記されていないにせよ、少なくともそのような生成・生産を織り込み思考していたのではないか。すると、老い衰えゆく人々を生かし、保護することは、「国力増強と秩序維持」を言葉の真の意味における「エコノミー」として捕えるしかない〈何か〉をやはり生み出していると言えるのだ。もっと言えば、財政・金融・保険・市場・労働における「集計量」として〈人口〉考えるならば、まさにそのような「集計量」を根底から支えているものこそがその〈何か〉ではないか。
 もう一つには、上記を認めたうえでも、老い衰えゆく人々を生かし、保護する理由としてはやはり「国力の増強と秩序維持」とは別の〈何か〉を生み出していると思考することも可能である。換言すれば、財政・金融・保険・市場・労働における「集計量」としての〈人口〉から合理的に判断しても、やはり老い衰えゆく人々は最大に見積もった上での「国力の増強と秩序維持」には何も貢献し得ないのであり、「社会の自然性」を可能とする「調整」の観点からも「特段の効果」「決定的な強い理由」はないと言わざるを得ないのではないか。それでも〈何か〉を生み出しているのではないかと考究する道筋がある。
 ことほど左様に、老い衰えゆく人々を生かし、保護する対象と範域を拡大していく「ケアの社会化」は広義の「国力の増強と秩序維持」を可能とするものとして、あるいは「国力の増強と秩序維持」とは別の〈何か〉を生み出していると論考することができる。であるとすれば、その「ケアの社会化」にともなって昂揚・拡大していると思われている「方法論としての感情労働」はいったい何を生み出しているのであろうか。
 それはいったい何を生み出しているのか。介護労働を正当化する物語なのか。あるいはそれこそ過酷な状況を耐え忍ぶ方法論を供給することを通じての何かであるのか。もっと広義の意味での労働や労働市場であるのか。老い衰えゆく人々や介護者の無害化・無毒化を通じた広義の社会防衛であるのか。政治的対立の緩和・解消であるのか。そのような問いを立てることを通じても「感情労働」を考究することが可能であるのだ。
 つまり、私たちはこう問うべきであるのだ。そもそも「ケアの社会化」ならびに言うなれば「感情労働の社会化」は「国力の増強と秩序維持」のためであるのか。それともそこには回収されない〈何か〉であるのか。財政・金融・保険・市場・労働における「集計量」としての〈人口〉から合理的に判断して、あるいは「社会の自然性」を可能とする「調整」の観点からして、「感情労働」の「特段の効果」「決定的な強い理由」はあるのかないのか。あるとすれば、それは何か。更には、そこには到底収まらない〈何か〉を生み出しているのか。あるとすれば、それは何か。解読することが困難な問いがここにある。

6 感情労働をめぐる問題構成

 本稿では、第一に、本企画において筆者がスミス氏ならびにカウイ氏の報告に対してコメントをした「方法論としての感情労働/感情管理」をめぐる価値づけについて、すなわちその「肯定的評価」と「否定的評価」が可能であることを剔出した上で、まさにその両義性ゆえに——ケア労働者が巻き込まれる可能性のある「暴力的な出来事を回避する方法論」として、あるいはケア労働者が余儀なくされている「過酷な状況を耐え忍ぶ方法論」として——それは当然ながら私たちの社会の〈〉に編成=配分されていくものであることを論考した。「ケアの社会化」をめぐって出来している事態などはまさにその端的な現実の一つだ。私たちはこうした「感情労働」をめぐる問題を思考することができるのだ。
 第二に、そうした〈〉への編成=配分が誰に対していかになされているのかを解読することを通じて、それらの「統制」についての問題が浮上することを剔出したのだ。このような「統制」をめぐる問題において重要な点はそれをたんなる広義の「社会防衛」として回収してしまうのではなく、むしろ「国力の増強と秩序維持」を最大限に見積もって徹底的に思考することにあるのだ。私たちはそのように論考すべきなのだ。
 第三に、その上で、「ケアの社会化」を通じて昂揚・拡大していると思われている「感情労働」——ある種の「感情労働の社会化」——を統治論の文脈において思考することを通じて、「感情労働」ないしは「感情労働の社会化」が「国力増強と秩序維持」にとっての大いなる〈何か〉を生み出していること、さらには「国力増強と秩序維持」には到底収まらない〈何か〉を生み出しているのかを思考する問題系が存在することを言及したのだ。
 肯定的評価であれ否定的評価であれ、私たちは「方法論としての感情労働/感情管理」について議論しているようで、その実、その最も根底の問題については何ら思考しきれていないのだ。私たちはこのような位置にいることを痛感したほうがよい。

◆註
(1)2008年7月31日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された国際研究交流企画「ケアの論理と倫理──看護・感情・労働」の企画の経緯ならびに立命館大学グローバルCOE「生存学」創成拠点が発行する「生存学研究センター報告8」としてまとめる至った理由については「まえがき」にて簡潔に記しているので、そちらを参照されたい。

(2)たとえば、E.ゴフマンの著作を丁寧に解読すれば、私たちが様々な厳しい過酷な状況に置かれている只中でも何とか耐え忍ぶためにも、様々な「方法論」が駆使されることが確認することができよう。このように、私たちはギリギリの状況に耐え忍ぶためにも様々な「方法論」を駆使してしまい、それが逆に周囲に対してより過酷な現実を出来させてしまい、そのような現実の只中で更に周囲は耐え忍ぶ「方法論」を繰り出し、それが今度は私たちのより過酷な状況を招来してしまうことについては天田(2003、2004a)にて詳述した。また、そのような視点から認知症介護をめぐる問題が照準されてきたことについての解説として天田(2008c)にて取り上げた。
(3)拙稿にてこのような「方法論としての○○」がいかなる事態を出来させ、その事態が他者の「方法論としての○○」を召喚してしまうかについては詳説した(天田 2008c)。例えば、認知症を生きる人々は自らにおいて感受する強烈な《不安》の只中にあって何とか必死にその事態に「対処」「抵抗」しようと試みることで自ら(のアイデンティティ)を守らんとするが、そのような「対処」「抵抗」こそが逆に「悪循環のループ」を召喚してしまうことがある。しかしながら、その結果として、ケアする側はこうした「悪循環のループ」に巻き込まれてしまうのだ。実際、ケアする側はこうした「悪循環のループ」に繰り返し対応するにつれて、「またか!」「何度やれば気が済むんだ!」という感情が強化されていき、しばしば自らのケアが無意味なもの、無効なものとして感受されてしまう結果、ひどく疲弊・摩耗してしまうことがある。とは言え、「振り回されるのも御免」だが、ケアする側として完全に「役割や仕事を放棄」することはその義務感や業務上の役割や職業倫理上からできないため、その「振り回されず、さりとて放棄せず」の態度の中で自らの置かれた事態に「対処」しようとするのだ。更に重要な点は、しばしば「振り回されず、さりとて放棄せず」という態度こそが、ケアする側の「感情の爆発」や「暴力の発動」を抑制することで、辛うじてケアする側は日常の役割や仕事をこなすことが可能となっているという事実である。こうしてケアする側もギリギリの状況の中で自ら(のアイデンティティ)を辛うじて守らんとして日々の実践を遂行してしまっているのだ。加えて、「振り回されない」ために事前にトラブルが予測される状況を回避したり、あるいは事後的にトラブルが最小化するような戦略を図ることによって──いわば「事前的/事後的なトラブル回避戦略」とでも呼べよう──、「振り回される」ことによって生じてしまうケアする側の感情的・肉体的負担と負荷を極小化しておくということもある。更には、日々の微細なやりとりを通じた「親密性」の擬制化によって、認知症を生きる当事者をできる限り「おとなしく物分りのよい人びと」や「手のかからない面倒のない人びと」へと管理・統制し、更には「負担」を最小化にするように水路づけ、方向づけるという戦略が採られることがあるのだ。あるいは、当事者に「ちょっと、すみませ〜ん!」と声をかけられても「ちょっと待っててね〜」などと「軽く」受け流すことによってケアする側の感情的・肉体的負担と負荷を最小化・軽減化する実践なども行われていくのだ。他方では、「何もできない人びと」「かわいい存在」「関わっていて不思議で楽しい存在」などのように当事者を「手前勝手」に意味づけることを通じて、いわばご都合主義的に「包み込む」ようにして「巻き込まれる事態」の意味を変転/転換する戦略もあるのだ。いずれにしてここで重要な点は、こうしたケアする側の「振り回されず、さりとて放棄せず」という「対処」によって何とか必死に「感情の爆発」や「暴力の発動」を抑制することこそが、辛うじてケアする側の自ら(のアイデンティティ)を守らんとする実践になっている点である。いわば「方法論としての感情管理」としてあるのだ。
  しかしながら、他方では、このような反復的に遂行されるケアする側による自ら(のアイデンティティ)を保たんとする実践こそが、更なる過酷な事態を出来させ、それ自体が当事者にとっての「脅威」となり、より一層の《不安》を喚起してしまうゆえに、当事者は更なる(アイデンティティを死守せんとする)実践を駆使してしまうことになる——たとえば、軽くあしらわれた当事者がケアする側に「バカやろう!」「冷たい鬼のような人間だ!」などと悪態をつくなどのように「抵抗」することが、更なるケア労働者の「はい、はい、バカですよ〜」などと受け流してしまうような対処戦略を産み出してしまうのだが、今度は、そうした対処戦略のよって当事者は一層の《不安》に陥ってしまい、施設の物品を隠すなどの行為を遂行してしまうことになり、その結果……という更なるアイロニカルな事態を産出していく——。こうして認知症を生きる当事者の自らを守らんとする実践とそれによって引き起こされたケアする側の自らを保たんとする実践が相互にぶつかり、捩れあい、相反し、軋轢と対立を現出させ、両者の関係は「抜き差しならぬ関係」へと陥っていくことになるのだ。このように「方法論としての○○」は、逆説的に、他者にとってより過酷な状況を出来させてしまったり、あるいはそのような過酷な状況に耐え忍ぶ別様な「方法論」を駆使させていくドライブになってしまうことがある。これらについては天田(2008c)にて詳述をしたので、そちらを参照されたい。
(4)天田(2003、2004a)あるいは天田(2003)の「普及版」である天田(2007a)や刊行予定の天田(2009a)の第三章ほかにて詳述した。詳細はそちらを参照されたい。
(5)説明するまでもなく、この労働の位置の問題は労働者に限定されない。企画のコメントで説明するように、実際に「ケア」と呼ばれる領域においては、「手のかかる人たち」をめぐって生起する事態における感情の負荷を、その当人が自らの感情を押さえ込むように課すことによって、あるいはそのケアを行う家族や支援を行う人たちなどに自身の感情を押さえ込むよう課すことで辛うじて成り立っているという現実がある。そのような当事者や家族・労働者が置かれた構造のもとで課せられている感情のあり方を問題にするというのもここでの「否定的な評価」に含まれるものである。
(6)実際、ケア労働市場、とりわけ現在の介護労働市場は一部の男性正規雇用者と女性費正規雇用者の圧倒的なジェンダー非対称性のもとでの分配構造となっている。平たく言えば、一定の報酬を得ることが可能な男性正規労働者の労働がパートタイム労働などで極めて限られた報酬しか受け取ることができない女性非正規労働者の労働によって可能になっているという構造があるということだ。上野千鶴子と立岩真也の対談において議論の多くが費やされていたのは、このように介護労働が細切れ労働としてあり、その単価も安いために単身で生計を成り立たせる労働となっていないこと、生涯賃金や将来的なキャリア形成の見通しが立ちにくい労働であること、その非対称的な分配構造は男性−女性、正規−非正規という問題に限定されず、日本人介護労働者−外国人介護労働者にもなり得る可能性があること、現在における介護保険の制度設計と運用においては、とりわけ利用料制限と自己負担という仕組みを通じてこれらの問題が必然的に産出されてしまうような構造になっていること、こうした構造を改善するために介護労働の単価を上げ、生涯賃金が公平に確保されキャリア形成が可能となる仕組みとし、誰にいかなる種類と範囲でどの程度の財やサービスを供給するかの判断・決定をする仕組みと運用ができるようにし、所得と財の分配の社会的制度が──「所得の再配分+社会サービスを社会保険方式を通じて消費する二段階方式」ないしは「所得・社会サービスの徹底した分配方式」のいずれにせよ──実質的に機能するようにするための道筋である(上野・立岩 2009)。
(7)本稿で言及した「ケアの社会化」や「感情労働」については立命館大学生存学研究センター編『生存学Vol.1』に収録された「生存の臨界」という名が付された座談会でも言及した(天田・大谷・立岩+小泉・堀田 2009)。なお、座談会のその他の部分については、立岩・大谷・天田+小泉・堀田(2009)ないしは大谷・天田・立岩+小泉・堀田(2009)を参照されたい。また、本論で言及したように、「感情労働」に関する社会学研究においてはホクシールド(Hochschild 1983=2000)や崎山治男(崎山 2005)の知見が広く知られており、また看護研究においてはそれこそスミス(Smith 1992=2000)の研究があるが、高齢者介護と感情の厄介な関係について論考を重ねてきているのが、春日キスヨ(1997、2000、2003)である。また、筆者も小澤との対談(小澤・天田 2006)やそれを踏まえての論考(天田 2006b)において一部言及している。また、紙幅的制約から部分的言及にとどまっているが天田(2004b)でもケアの受け手の感情管理/感情労働について指摘している。また天田(2006a)、栗原・天田(2006)でも僅かに論考している。さらには、全く別の観点からではあるが、社会調査と感情の問題系については天田(2007c)を参照されたい。また、私たちの研究において感情ないし感情労働に関連するものとしては、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点院生プロジェクトである「老い研究会」(研究代表:仲口路子)における報告などがある。それらの成果で示された老いをめぐる歴史とその主動因を思考しつつ、感情ないしは感情労働について論考していくのがよい(有吉・北村・堀田 2008、仲口・有吉・堀田 2007、仲口・北村・堀田 2008、田島・坂下・伊藤・野崎 2007、田島・坂下・伊藤・野崎 2008)。また、それらを踏まえつつ有吉(2009)、田島(2009)は書かれており、そちらも併せて参照されたい。加えて、これまで8号まで刊行されている立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点発行の『生存学研究センター報告』(青木編 2009、有馬・天田 2009、松田・棟居編 2009、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 2008a、2008b、2008c、山本・北村編 2008)の中での幾つかの論考が強く関連するであろう。とりわけ片山(2008)、小宅(2008)、大谷(2009)、山口(2009)などが重要な論点を提示している。熟読されたい。
(8)詳しくは以下のように言及する。「おおざっぱにいって中世の伝統やルネサンスの伝統においては、良い統治(きちんと整序されている王国)とは神が欲した世界の一大秩序の一部をなすものとされていました。つまり、良い統治はこの大いなる宇宙論的神学の枠組みのなかに書き込まれていた。この自然的秩序に対して国家理性が導入したのが切断です。このラディカルな切断自体が国家でした。(中略)つまりここで中世の政治思想に枠組みを与えていたあの古い自然性との断絶がなされた。それは非自然性、いわば絶対的な人工性です。(中略)この内政の統治性は人工主義である。国家理性は人工主義であるということです。しかしここで、経済学者の思考とともに、ふたたび自然性が(というか、また別の自然性が)登場することになる。(中略)つまりこの自然性はもはや、中世や十六世紀の統治的理性の枠組みとなってこれを支えてきた宇宙の自然性とは同じタイプの自然性ではまったくないのです。この自然性はまさに、政治・国家理性・内政といったものの人工性に対置されることになります。(中略)それは、世界の本性という意味に理解されるような自然自体のプロセスではなく、人間どうしの関係に特有の自然性、人間たちが共住したりいっしょにいたり交換したり労働したり生産したりするときに自発的に起こることに特有な自然性なのです。(中略)それまでは存在しなかったものの自然性です。これまでは存在しなかった当のものとは、社会の自然性(そのように名指されてこそいないにせよ、少なくともそのようなものとして思考・分析され始めているもの)のことです」(Foucault 2004b=2008:432)。
(9)このような「介護の社会化」ないし「ケアの社会化」がいったいなぜゆえにいかにして起こったのか、あるいはそれは何のためであるのかという問いは、立命館大学生存学研究センター編『生存学 Vol.1』に掲載された座談会の座談会「生存の臨界・」(天田城介・大谷いづみ・立岩真也・小泉義之・堀田義太郎)において小泉義之から発せられた問いである。その応答の一部については天田(2009a)にて試行的に試みた。また、その前提になる議論を〈ジェネレーション〉の観点から論考している(天田 2008d)。なお、エコノミーの神学的系譜を「魂のオイコノミア」を導きの糸に考察し、エコノミーのもとでの死の贈与と犠牲の構造について言及した拙稿として天田(2008a)。老い衰えゆく身体を生きることを記述する倫理学的困難については天田(2008b)。《生》の根源的肯定を思考することの困難についての拙稿として天田(2007b)など参照。また、老い衰えゆく身体を生きることへの社会学的・規範論的考察については天田(2003→2007a→2009c、2004a)、構築主義における困難あるいは公共性論ついては天田(2004b、2005)ほかで言及。老い・障害・病いなどを思考する際の困難については天田(2007c、2007-2008)、社会学の困難については天田(2008-)にて簡単にまとめている。「ケア」と呼ばれる領域において、老いが死に放擲される事態については(天田 2007d)に簡単にまとめてあるが、詳細は期日を改めて報告する(天田 2009e)。本稿で明示した各論点についてはそれぞれ緻密かつ詳細に論じなければならない問題である。それらの詳細は稿を改めて論じる(天田 2009d、2009d、2009fほか)。

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生存学研究センター報告

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