争いと争いの研究について

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立岩真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)

加担することは肯定される
 これまで多くの事件・裁判に、学者・研究者・学識経験者たちが、総体としてはとてもとても十分にということではなかったにしても、そして——ときにはずいぶんと入れ込む人がいたにはいたのだが——ほとんどの場合に「専門的知識の提供」というぐらいのことであり、いずれにせよ個人としての協力ということではあったのだが、関わってきた。争っている一方の側に付くことがあってきた。そのある部分は、問題を見えなくさせ、事態を悪化させ、事態の解決を遅らせるものであることもあった。他方、そうでない方向のものであることもあった。すくなくともそのある部分は、価値があり意義のあるものだったし、幾人か、幾人も、その活動が記憶されるべき人たちがいる。
 学問のための学問の意義を否定しないが、他方、人々のためにも学はあり、それはときに一方の側に付いて他方の側を批判することであることが、当然にある。それは自明のことである。であるならば、共同的な研究のプロジェクト自体がそのような部分に参加することもまた当然、原理的に正当である。例えば自然科学の分野でも、ある技術の開発・研究を他に優先して行なうことがあるだろう。常に選択はある。選択とは、あるものを取り、別のものを取らないことだ。もちろん、そのある選択について、一方への加担と他方の否定に対して、それは間違っている、別の選択をすべきであるという反論はありうるし、あってよい。そして時には、たんに反論は自由だ、かまわないというだけでなく、反論の場所の提供も含め、双方に対等な条件を設定するぐらいのことをしてよい。自信があるなら、あるいは確信がもてないがゆえに、そんなことをした上で、自らの立場を主張することがあってよい。

調べることがある
 ただ実際の私たちについていえば、堅固な意思をもって、計画性をもって、この「生存学」なる研究の活動をしているのではない。裁判での争いに自らが関わってしまっている私たちの研究科の大学院生が、この冊子にその記録が収録された昨年のシンポジウムに参加し発言してくれているし、別の講演の記録も収録されている。そんなことが他でなされたことがあるのかどうかは知らない。私は、本人から幾度かそのことに関わる話を聞いて、その主張はもっともだと考えている。ただそれはそれとして、まず、その人(たち)が置かれている位置について、様々なことが考えられたり調べられたりするべきだと思うし、そのことを知ってもらうのがよいと思っている。
 既にいくつも重要な調査・研究がなされてはいる。しかし全体としてはやはり少ない。人手がいない。そしてその少ない人たちの多くは、正当にも、加害・被害がどのようにして生じたのかを研究する。当然のことである。次に、代わりにどのようであればよいのかについて。もちろんそのことについても、すでに様々な方策が提案されていたり、そのいくつかは実現したりしているのではある。それらもまた重要ではある。ただ、実際に争いが、その対立する二者の間において、そしてその各々の陣営の内部においてどうであったのか。そのことはそう明らかにされていないと思う。また、基本的にどのようであったらよいのか、このことについてもまだ考えてよいことが残っているように私は思う。

わかること、わかりきらないこと
 むろん、そこには、事実認識に関わる部分も含め、食い違い、対立がある。それがはっきりしないから、双方の当事者ではない人たちがそこに立ち入りにくいと思うのもまたもっともなことではある。だが、それこそが争いの当人にとって悔しいことでもある。
 だから、一つには、シンポジウムに参加してくださった勝村さんが、年来主張し、またその実現に尽力してきたことでもあるのだが、情報が知らされることである★01。本人以外の場合にはどうするか——例えば子どもについての情報を親や親でない人がどれだけ知ることができるのかできないのか——といった問題、命に関わる悪い知らせの場合にどうするかといった問題はあるけれども、基本的には、当人に当人のことが知らされない理由はない。知らせないことの理由として、とくに後者があげられることがあり、それはそれとして考えるべきことではあると思う。しかし、それはしばしば、別の理由、知らせることで都合のわるいことが起こることを避けたいという理由を表に出さずに、知らせないことをせずにすませるために言われるにすぎない。
 知らせずにすむのであれば、隠すことができるのであれば、自らに都合のようにように振舞ってしまうことはいくらでもある。よくないことであるとわかっても、そのように振舞ってしまう。それは医療にとってもよくない。隠匿・虚言ができないようにしてしまうことは、医療を供給する側にとってもよいことである。だがそうはなっていないのが過去から今までのことであり、そして、このわからない部分、そのことに関わって争いが生ずる部分を大幅に少なくすることはできるし、またするべきだ。
 ただ、例えば公害・薬害といったもののある場合には、その人の今の状態が何に由来するのか、なんとも確定できない場合は残ることがあるだろう。とすると、どう考えるか。これはたんに事実判断の問題というだけでない。

贔屓してよい理由
 まず、しかじかの要因によってある人の今の身体の(苦しい、不安な)状態が引き起こされた「可能性」があるというだけで、その要因を生じさせた、そして/あるいは除去しなかった人・組織には非があり、苦しませた人に詫びなければならないと言える。その人はたとえば肝炎になった。そして肝炎を誘発するしかじかの要因が人為的にもたらされた、あるいは人為的に除去可能であるにもかかわらず除去されなかった。その人が今肝炎であることについて、その要因が関わったかどうか、確証はできないとしよう。しかしその可能性はある。その人は、そんなことで自分が今こうなっているのかもしれないと思わなければならないだけで、すでに十分被害を蒙っている。誰もが病にかかる可能性はあるだろうが、それは仕方がない。しかし生じさせないことができたことを人・組織が生じさせた、あるいは除去することができたものを除去しなかった。このことがその人の苦痛や死に関わっているかもしれない。そのことによってその人・組織は咎められる。
 次に、次項に述べること、理由のいかんにかかわらず、身体の不具合に関わって必要な費用は社会的に賄われるべきであるという原則から考えても、そのようになっていない現行の制度・法は不備である。本来は、別途の医療・福祉制度からの対応がなされねばならないのだが、なされておらず、それが当面変更できないのであれば、仕方なく、補償として受け取らざるをえないことになる。そうして例えば国家から受け取れたとして、それは、すくなくともその大部分は、本来は他の制度から受け取ることができたよかったはずのものである。
 以上いずれの理由からも、被害を示すものとして求められる因果関係は緩いものでかまわない。実際にそうでないとすれば、その基準の方が間違っている。それを今は動かせないのであれば、その基準の運用において、緩くとることの方が義に適っている。他にもあげられる幾つかの理由によって、多く——すべてではない——被害を訴えざるをえない側の不利はあり、かなりうまく制度・仕組みを作っても残る。とりわけこの社会の制度、現行の法・司法においては、今使われている言葉の意味で事実関係・因果関係が明確でない場合にも、そちらの側の肩を持ってよい合理的な理由がある。

後でよいから調べること
 次に、このことと同時に、すくなくとも多くの場合に、事後であったとしても、何が起こったのかの検証の必要・意義はある。それが、結局は事態を前進させるはずだとも考える。傍観者でいるべきでない場面があるとともに、そのことと矛盾せず、冷静に解析するべき場面があるということだ。
 どうしてか。何をしてしまったのか、そこにどんな計算が働いていたのか、その計算は、いかなる意味で妥当なものだったのか、あるいはそうでなかったのか、それらを確認しておくことの意味がある。また、様々な「当事者」がいて、被害を訴える側、裁判の原告側とされる方にしても一様ではない。そして「解決法」もまた多様である。これらの複雑な様相を解析することが、これからどのようにしたらよいか、その仕組みを作っていくことにつながると考えるからである。
 弁護士として「現実的」な解を求める人もいるだろう。あるいは、時には、その弁護士たちも含め、支援する側の人たちの方があくまで「原理原則」を貫くべきだと考えるかもしれない。また原告側の思いもときに一様でない。自分に残された時間を考えるなら、また差し迫った生活のことを考えるなら、早期の解決を望み、また金銭的な補償を求めることになることもある。ただそれと同時に、多くはその人とまったく同一の人が、何が起こったのかをはっきりさせたい、謝罪を求めたいと思うことがある。そんなことが様々あって、また他の要因も絡んで、本人に葛藤が生じ、告発する人たちの内部に対立が生じることがある。
 その時点において、そうしたもろもろを調べ、そして公表することは実際に難しくもあるだろうし、またなすべきでないことがあると思う。その理由はさきに述べたとおりだ。多くの場合にその人たちは支援されるべきである。その時に内部での対立を明らかにすることは争いを不利にすることがある。ただ、その後でよいから、検証の作業がなされてよいと考える★02。
 事後であっても、語りたくないもっともな事情があったりして、困難なことがあるだろうし、また、時間が経ってからのことであるがゆえに、忘れられたり、亡くなられたりして、困難なこともあるだろう。しかしそれでもなにもできないわけではない。それなりに知られている事件について、複数の立場から、それぞれ自らの見方でものを見て書かれたものがある。まず簡単にできることとして、それを読むことはできる★03。そしてそれぞれの立場からということになろうが、話を聞くこともできるかもしれない。そうして調べて、ではどのようであったらよかったのか、またこれから、どのようにしたらよいのかを考えることができるはずだ。

離すこと
 ただ、実際のところがみな明らかにならなければ次を考えることができないわけではない。加害があった場合にどうしたらよいのか。様々に当然なすべきこと、しかし実際になされていないことがある。それを列挙することをここではしない。ただ一つ、大きな一つの問題が、さきにも触れたこと、「補償」の問題であると考えている。私は、害を受けた側の経済のこと、生活のことと、加害者を批難し謝罪させることとを、可能な限り引き離した方がよいと考える。
 たしかに、加害者の側は、謝るだけですべてすむということであるなら、マニュアル通りに詫びるぐらいのことはするだろうとも思うから、それ以上のなにがしかが課されるべきだと思うのももっともではある。その一つとして補償金を払わせるというかたちがある。ただ、今般は医療事故を起こした場合に対応する保険があったりするから、毎月の保険料は払わねばならないにしても、自らが起こしたことについて実質的な負担を免れることもできるから、その実効性はあまりないといったことがある。
 次に、医療過誤の裁判では、原告は多く真相が明らかになることと謝罪が行われることを求めている。金銭的な補償は第ニ義的なことであることがある。けれども、経済的な困難が生じている場合もある。公害、薬害に関わる訴訟では、その害のために生活が苦しくなっていることが多い。その場合には補償はやはり大きな意味をもつ。
 民事裁判であれば、生活をしていくために当座の金が必要で、そのために不本意な和解に応じざるをえないといったこともある。また「救済」をうたう法においても、救済の範囲をどこまでにするのかといったことが議論され、そして基準が作られ、ある人たちは除外されるといったことが出てくる。薬害にしても、結局は、その人の今の状態がその害に起因するものであるのかどうか、そうした問題になってくる。しかし同時に、証明しきれない部分がでてくる。
 現行の機構のもとでは、私は、疑わしい場合には救済するという方向でよいだろうと考える。そのことは先に述べた。ただ本来は、どのような理由によって病気になったにせよ、障害を有するようになったにせよ、医療や介助等の社会サービスを受けられ、そして基本的な所得が得られ、生活が可能であれば、それはそれでよい。
 それがどうして正当であるのかについては、幾度も述べてきたから、ここでは説明しない。ただ、一つに、被害者であること、またその被害が甚大であることを——生活がかかっているがゆえに——言う必要がなくなるということはあるはずだ。救済されるために、自分たちがいかに大きな被害を受けてきたのかを語らねばならない。それはたしかな事実ではある。ただ、たとえば自分の子の被害をそのように語ることがよいのか。ためらわれることがある。そして周囲のけちな人々から、あの人(たち)は悲惨と苦痛を大袈裟に言っているとか、さらにはあの人(たち)は偽っているなどと言われる。そんなことではないのだ、と言っても、聞いてもらえない。そんなこともある。そしてそんなことを言う人たちの中には、代わってもよいとは思わないまでも、うらやましいと思う人がいる。その思いにはもっともなところがあることがある。そんな悲しい世界から抜けるためにも、医療や福祉のサービスを受け取られること、暮らせるだけの所得が得られることは、そうしたサービスの必要や稼ぎのないことが被害に関わっているとしても、それと別に、得られるようにした方がよい★04。
 これに対して、当然そのような制度は現実的でないという批判はあるだろう。そうでないから苦労している。たしかにそれは——現実的な案であると私は考えるが——現実ではない。しかし、基本的にはそのように考えていった方がよいという視点を確保しておくことに意味がないわけではないと思う。つまり、個別の疾病・障害、それをもたらした個別の要因を特定し、その害への補償として生活が可能になることは本筋でない、それを要求せざるをえないことは仕方のないことだと位置づけた上で、争いを構想し構築する場合と、そのようには考えない場合と、いくらか違ってくると思う。
 人による害の場合には、その害をもたらしたことについて、いくらか支払わせることはよいことだろう。ただそれは、障害を得なかったら稼げた一生分の所得(「逸失利益」)といったものである必要はない。そしてそうした方がかえって、きちんと謝罪を求めることができる。また、払わねばならないために偽りを言う必要がなくなって、謝罪を引き出すことができることもある。


★01 著書として勝村[2001][2002a][2002b]、編書に勝村編[1998][1999]。そして、勝村が関わってきた「医療情報の公開・開示を求める市民の会」「全国薬害被害者団体連絡協議会(薬被連)」といった組織の活動を記録することがなされてよいと思う。実践的な書物は、実践的に作られる。それは当然のことである。それととともに、それと別に、その実践を作りだす運動が、研究というかたちで記述されてよい。
★02 このCOEの企画で2007年12月23日に小児科医の山田真にインタビューした。(その記録の一部が山田・立岩[2008]。日本アフリカ協議会の稲場雅紀へのインタビュー——その一部は稲場・立岩[2007]として、そしてその全体は稲場・立岩[2008]として公刊された——と合わせ、稲場の論文等を加え、稲場・山田・立岩[2008]として公刊予定。)その中での立岩の発言。なお、発言内の「山田さんの本」は山田[2005]。
 「何が語りにくいかっていうと、たとえば同じ原告っていうか告発する側の内部における意見の対立であったり齟齬であったり、そういったものは確かに裁判において原告の利になりませんからね。内輪もめとか内部対立みたいなものですから。それを表に出さないのは当然のことだと思うんです。戦術としてね。ただいつまでもそうであってよいことはない。森永の事件・裁判においても、ずいぶんいろいろあったんだけれどもっていうお話、お聞きしたこともありますし、この山田さんの本の中でも一部分取り上げられてる。」
★03 同じインタビューから。
 「山田:裁判でもね、スモンの裁判最後までやった古賀さんっていう人がいて、古賀さんなんかがやった裁判っていうのは、ほんとに、自分の意見を押し通してやる人だったから、あれは被害者自身の裁判だったと思うけれども。ほとんどそういうものはやっぱりなかったし、それぞれが、要するに弁護士が自分の利害も含めて、引くべきか進むべきか考えて、それでやめたり、進めたりしてたようなところがあるっていうか。それは今もC型肝炎でもなんとなく垣間見れるところがあるよね。なんか被害者の思いと弁護士はなんとなく取引してるような感じがあるんだけれども。」
 「立岩:[…]けっこう個別に違うと思うんだけど。確かに医者は一本気にこれは正しいんだろうと言う傾向ってあるのかなって気はする。弁護士は、落としどころっていうか、取るもんとらにゃって思う。そこまではわかるんですよ。そうすると、医療サイドにしても法律サイドにしても、あるいはそうじゃなくて、患者というか本人の側が主導権っていうか、持つ場合とね、一般論で語れないことなのかもしれないけれども、どういうふうに裁判なら裁判、あるいは裁判の闘い方の形態っていうのが変わってくるものなのだろうか。それどうなんですか?
 当事者にとっては、裁判ずっとやってるの待ってたら「俺死ぬかもしれない」っていうのあるじゃないですか。でも適当なとこで和解になったら悔しいっていうのもあるじゃないですか。本人自身が裂かれているっていうか、両方の望みがあると思うんですね。で、そうしたときにね、その本人の中でも、和解でいくのか、最後までいくのかって、分かれる部分がある。で、いろんな人たちが引っ張っていく中で、どっちの方に傾きがちっていうか、傾いちゃうことになるのか。そういうことっていうのは、今までのことでいかがですか?
 山田:僕が関わった範囲で言えば、大きな社会的な事故じゃなくて、医療事故なんかによる個別の事故っていえば、被害者は、実際は、金を請求するっていうかたちでしか裁判できないから、金で請求してるけど、金いくらもらったってすむ話じゃなくて、要するに、手をついて謝ってほしいとかなんかっていうことで始まるわけだよね。でもほとんど手をついて謝ってもらえる光景には出会えない。示談である程度のお金が出ることはあっても。
 だからほんとに裁判なんて悲惨なもんで、僕らが証言で出ててもそうだけども、被告だってほとんど出てこない。全部代理人で、代理人同士で終わってしまって、それで、原告出てきても被告にもいっぺんも会えないままで終わってしまうとかっていうことがよくあって。そこらへんがやっぱりなかなかで。そうするとね、たとえば、弁護士の利害から言えば、謝ってもらったってしょうがないっていうか、実質的に取るもの取らないとしょうがないわけだから。確かに、お金を払わないでただ謝るっていうふうなかたちになることも、まぁありえないといえばありえないから、しょうがないんだけれども。とにかくやっぱりその患者さんの思いっていうのが、その裁判やなんかやってると早い段階で抑えられてしまって、裁判はこういうもんだからこういうふうになるんだよって言われて、なんとなく納得できないまんまに裁判が終わるっていうことが多いという感じはする。それはやっぱり、僕らがその証人として出たりしてみててもそういうところがあるよね。やっぱり食い足らないっていうか、もっとやっぱり本質的に問わなきゃならない問題があったりするのに、やっぱりそこを弁護士がきちんと掘り下げるってことをしてないから。
 Aさん:ちょっといいですか。その医療者と弁護士が主導するかたちでの告発っていうか運動を見て、その、ある意味で、積極的な意味でその主導権を被害者の方に譲り渡していくようなプランというか、案っていうのは考えられたことはありますか?
 山田:患者さんが非常に強くてっていう。強くて、弁護士や医者はついていくしかないみたいなかたちになったことっていうのが、それが滅多にないけれども、たとえば、そのスモンの古賀さんなんかはそうだったと。
 Aさん:ある意味強い患者さんっていうのがいないと、そういうことにはあんまりなりがたいってことですよね。
 山田:そうだよね。水俣なんかはかなり患者さんが前面に出られる運動だったと思う。それはやっぱり、最初にチッソで出てきたときに、その裁判が主たる運動はなくて直接行動を一緒にするっていうことにして、裁判を後ろにやったわけだから、そこからやっぱり患者さんがある程度主導権をにぎって運動をやれるっていうことになった。
 立岩:近ごろ出ている話としては、裁判ってのはそもそもそういうもんで、いろいろ工夫してもそうでしかないから、裁判外のプロセスっていうか仕掛けっていうのを作りましょうかみたいな話はボツボツとあります。僕もそれもありかなと思いつつ、でも裁判は裁判でやらざるをえない…。
 山田:水俣ぐらいに直接行動強いものをやればね、それと平行するかたちで裁判が意味を持つことはあると思うよね。だけど裁判だけということだったら、裁判よりも直接行動の方が。たとえばひどい医者に医療ミスさせられたなんていうんだったら、裁判しても、被告出てこないからなんともないけど、病院の前で毎日ビラまきをしたりする方が有効だって感じだよね。」
 「ボツボツとあります」に註を置いて、文献として和田・前田[2001]をあげた。
 山田の発言に出てくる古賀は古賀照男。いずれも短い文章だが古賀[1986][1999]、高山俊雄のインタビューに答えた古賀・高山[2000]が残されている。山田の著書における言及は以下。
 「被害者のなかで、ぼくたち「支援する医者」にも鋭く批判をするのは古賀照男さんくらいでした。古賀さんはスモンの患者さんでしたが、病気になる前は労働者で、病気になった後で加害者である「田辺製薬」を追求(ママ)するときも作業衣のままだったりしました。二〇〇三年に亡くなられましたが、最後まで製薬会社の追求(ママ)をやめず、その姿勢にぼくは深く感動し、また多くのものを教えられたと思っています。[…]
 古賀さんの闘いでは古賀さんが主役で、医者も黒衣にすぎませんでしたから、スッキリした気持ちでかかわることができましたし、古賀さんの言葉からあらためて日本の医療の問題点を見直すことにもなったりしました。
 しかし、被害者の人たちと医者とがこんな関係になれるのはめずらしいことで、医者が医療被害者運動の先頭に立ってしまうこともしばしばあったのです。」(山田[2005:242-243])
 他に田中[2005:93-98]に言及がある(その引用他、資料をHPhttp://www.arsvi.comに掲載)。和解に応じた人たちよりも古賀が正しかったといったことを言いたいのではない。幾つかあった路線の差異についての分析・考察がなされていないということを言いたいのだ。主流は、批判されているし、またその批判は小さなものでもあるから無視する——例えばスモンについて多くの本があるが、そこに出てくることと出てこないこととがある。他方はもちろん言及する。ただそれは限られた人しか知らない。それはよくない。容易に集められるところから情報を集め、私たちのCOEのウェブサイトに掲載していくこと、これは少しずつ始めている。それを文章・論文にまとめることのできる人がいたら、それをしていってもらう。
★04 「死や苦痛や不便をもたらした者たちは、それだけで十分に糾弾されるに値する。その者たちを追及するのはよい。ただ、第一に、そのことを言うために、その不幸をつりあげる必要が出てくることがあるとしたら、それはなにかその人たちに対して失礼なことであるように思えるということだ。だから、それはしない方がよいと思うようになったということだ。」(立岩[2008])
 ここにユージン・スミスが胎児性水俣病の女性を撮った写真が「封印」されることになった経緯に関わる幾つかの引用を連ねた註を置いた。
 また『自由の平等』では以下のように記した。
 「平等の定義にさほどの意味はないし、何が平等であるかを正確に測ることのできる尺度はない。他方でここまでは譲れないという(健康で文化的な)最低限を保障するというときの最低限も、設定することはできるかもしれないが、設定しなければならないと決まってはいない——こうした議論は、たしかにときに必要なのだが、必要な理由を忘れてのめり込んでしまと、人々がある状態のときにいかに不幸であるかを言わねばならないかのようになってしまい、そしてその真剣な主張が誇張であると受け取られてしまい、さらにそれに反論しなければならないといった嘆かわしい事態が生じてしまうのである。そしてこうした基準が存在しないことは、平等の主張が成立しないことを意味しないし、ましてや分配の主張が無効であることを意味しない。」(立岩[2004])
★05 この短文に述べたことにいくらかを加え、『みすず』での連載(立岩[2008-])> の第4回(2008年10月号)からしばらく、考えたことを書いてみようと思う。

文献
 *HP(http://www.arsvi.com)にこの文章・文献表が掲載され、人や文献にリンクされている。
◇稲場 雅紀・立岩 真也(聞き手) 2007/09/01 「アフリカの貧困と向き合う」,『現代思想』35-11(2007-9):131-155
◇————— 2008/03/07「アフリカ/世界に向かう——稲場雅紀さんから」(インタビュー),立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点[2008:75-154]
◇稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008 『流儀』(仮題),生活書院(近刊)
◇浜 六郎・坂口 啓子・別府 宏圀 編 19991101 『くすりのチェックは命のチェック——第1回医薬ビジランスセミナー報告集』,医薬ビジランスセンターJIP,発売:日本評論者,479p. ISBN-10: 4535981698 ISBN-13: 978-4535981690 5000 [amazon] ※ b d07
古賀 照男 19860315 「薬の神話の被害者として」,東大PRC企画委員会編[1986]
◇古賀 照男 19991101 「スモン被害者として」,浜・坂口・別府編[1999:66-67] http://www.npojip.org/jip_semina/semina_no1/pdf/068-069.pdfhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1990/9911kt.htm◇古賀 照男・高山 俊雄(聞き手) 200003 「孤独と連帯——古賀照男・闘いの記」(インタビュー),『労働者住民医療』2000-3,4,5
 http://park12.wakwak.com/~tity/shadow/koga.htm◇勝村 久司 20010320 『ぼくの「星の王子さま」へ——医療裁判10年の記録』,メディアワークス,発売:角川書店 ISBN:4840218099 269p. NDC分類:498.12 1470  [amazon][kinokuniya] ※ d07.
◇————— 20020401 『レセプト開示で不正医療を見破ろう!——医療費3割負担時代の自己防衛術』,小学館文庫,253p. ISBN-10: 4094180214 ISBN-13: 978-4094180213 [amazon][kinokuniya] ※
◇————— 20020920 『カルテ開示Q&A——患者と医療者のための』,岩波書店,岩波ブックレット No.577,63+8p.ISBN:4-00-009277-4 504 [amazon][kinokuniya][boople][BK1] ※
◇勝村 久司 編 19980300 『払いすぎた医療費を取り戻せ!——レセプト開示&チェックのための完全マニュアル』,メディアワークス,143p.ISBN-10: 4073082876 ISBN-13: 978-4073082873 819 [amazon][kinokuniya] ※ ms.
◇————— 19990105 『レセプトを見れば医療がわかる』,メディアワークス,発売:主婦の友社,270p. ISBN10:9784073000730 ISBN13:407300073X [amazon][kinokuniya] ※ ms.
◇古賀 照男 200003 「孤独と連帯——古賀照男・闘いの記」,『労働者住民医療』2000-3,4,5 http://park12.wakwak.com/~tity/shadow/koga.htm◇立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20080307 『時空から/へ——水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告2,157p. ISSN 1882-6539
◇田中 百合子 20050810 『この命、つむぎつづけて』,毎日新聞社,238p. ISBN-10: 4620317365 ISBN-13: 978-4620317366 1470 [amazon][kinokuniya] ※ d07
◇立岩 真也 20040114 『自由の平等——簡単で別な姿の世界』,岩波書店,20040114,349+41p. ISBN:4000233874 3255 [amazon][kinokuniya][boople][bk1]◇————— 2008/09/04 『良い死』,筑摩書房,384p.
◇————— 2008/07/01- 「身体の現代」(連載),『みすず』2008-7(562):32-41〜
◇東大PRC企画委員会 編 19860315 『脳死——脳死とは何か?何が問題か?』,技術と人間,213p. ISBN-10: 4764500493 ISBN-13: 978-4764500495 1800 [amazon] ot.
◇和田 仁孝・前田 正一 20011015 『医療紛争——メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案』,医学書院,200p. ISBN: 4-260-13880-4 2310 [amazon][boople] ※ f02.
◇山田 真 20050725 『闘う小児科医——ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p.  ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon][kinokuniya] ※
◇山田 真・立岩 真也(聞き手) 20080201 「告発の流儀——医療と患者の間」(インタビュー),『現代思想』36-2(2008-2):120-142

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