序章 思想と政治体制について ソ連における精神医学と収容所についての覚書

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天田 城介

0.「マイノリティ研究」のために

 本章は、立命館大学グローバルCOE プログラム「生存学」創成拠点院生プロジェクト「地域社会におけるマイノリティの生活/実践の動態と政策的介入の力学に関する社会学研究」(略称:マイノリティ研究会)(2009 年度〜 2010 年度採択)のメンバーによる『生存学研究センター報告14』「『異なり』をめぐる力学――マイノリティをめぐる研究と方法の実践的課題」の一章として書かれるものである。おそらく「はじめに」などで本センター報告所収の諸論文の紹介などはなされているであろうし、各論文はそれぞれを読んでもらえばと思う。ここではそれらについては言及しない。
 その代わりに、ここでは、センター報告の「序章」として、歴史的・政策的・現実的に様々な苦難・困難を被ってきた(いる)人びとについて研究をするならば、要するに「マイノリティ研究」を行うのであれば、私たちはいま何を/いかに問うべきかを考える一つの“筋道”を示すものとしたい。その筋道はいくらでも有り得るし、一義的には決定できないが、きちんと真面目に「マイノリティ研究」の仕事をするのであれば、そもそも「マイノリティ」とはなぜ/誰にとって/いかにして望まれて生まれたものであるのか、その望まれしシステムとダイナミズムはいかに機能し、効果を及ぼしたのか、そのシステムはいかなる思想と政治体制が刻印されたものであり、そしてその後の思想と政治体制を産み出していったのか、などを思考すべきである、といったことを記す。むろん、紙幅的制約からしてその一端しか指し示すことはできないが、せめてその一端・断片だけでも記したい。
 マイノリティ研究会では2011 年度中に著書を刊行する予定であるので、本格的な論考はその本で行うものとしよう。また、本章は上記の断片・欠片を指し示す材料として、ミッシェル・フーコーの『思考集成』のみを扱うものとし、その論考についてもできるだけ平易な表現に留めるように努めたものである。その意味で、ここで書かれることは、あくまで「参考書」程度のものである。

1.日付を刻印したフーコーの生

 1926 年10 月15 日に生を受けたミッシェル・フーコーが死についての最初の大きな恐怖を感じたのは、彼が7 歳9 ヶ月の時に起こったナチスによるオーストリア首相ドールフスの暗殺事件である。事件は1934 年7 月25 日に起こった出来事だ。オーストリア・ナチスの武装した団員150 名が首相官邸を襲撃し、イタリア、フランスと組んでドイツに対抗しようとしたドールフス首相を暗殺したのである。
 幼少期の記憶をほとんど語らなかったフーコーでさえこう言うのである。私たちの世代は、こうした歴史的な大事件によって、子ども時代の思想的基盤を固められている。迫りくる戦争という脅威こそが、私たちの「舞台背景」であり、私たちの「生の枠組み」であった。そして戦争がやってきて、家族の暮らしの彼是よりも、この世界に結びついた出来事こそが、私たちの「記憶の中心部分」である。私が、「歴史」と私たちが巻き込まれている「出来事や個人的な経験との関係」に魅了されているのは、おそらくこうした理由からだろう。そこにこそ、私たちの「理論的欲求の核」となる部分がある、と。
 にもかかわらず、フーコーはファシズムを直接扱わなかった。なぜか。
 成人となった彼にとっては精神医学や監獄や性の問題などが相対的に大きな問題になったから、ではもちろんない。また、言うまでもなく、自らの力量や見識では20 世紀の「大問題」であるファシズムの問題は扱えないと諦めたから、でもない。むしろ、彼の死後に刊行された『思考集成』では何度もファシズムやスターリズムについて言及していることに端的に指し示されているように、彼にとって依然としてそれらは「大問題」であった。想像するに、おそらく彼はファシズムなどの問題だけに照準したのでは《問うべき射程が小さい》《あまりに扱うべき射程圏域が狭すぎる》《ファシズム、スターリニズム、そして資本主義の全ての社会を通約する同一の視座と思想で歴史と現在を捉えるべきだ》と感じていたからに違いない。
 後年、彼は、現代社会における大問題はファシズムやスターリニズムにおいてこそグロテスクに立ち現れたような「権力の生産過剰」を問うことであると幾度も語った。
19 世紀の大問題は、周知のごとく、貧困と悲惨の問題だった。なぜ、富の生産が、富の生産に直接かかわる人間の貧困を招くのかという問題が、つまり、富と貧困が並列して生み出されていく現象が多くの思想家や哲学者の関心をひいていた。〔もちろん、富と貧困に関わる問題は解決されたとは言い難いが〕現代において、この問題は、もう一つの問題に裏打ちされているのだ。つまり、権力の過剰の問題がそれであり、現代において人々を不安に陥れ、あるいは公然たる反抗を呼ぶのは、ファシズムやスターリニズムが非常にグロテスクな形であからさまにした権力の生産過剰という問題にほかならない。したがって、19 世紀の経済学がちょうど富の生産と分配について分析を行ったように、むしろ現代における経済学〔価値や力の生産や配分、循環のシステムの研究〕は、その分析の対象を権力におかなければならない。(Foucault 1994g=2000:124)
 しかしながら、彼は自らの「記憶の中心部分」を形成したはずのファシズムを直接の研究対象とはしなかった。彼が「記憶の中心部分」においてファシズムへの恐怖を抱きながらもそれだけでは《あまりに射程が狭すぎる》と思うようになった背景には、フーコーの生に日付を刻んだもう一つの大きな出来事があると思われる。若かりしフーコーの挫折と失敗が、精神医学や監獄や性などに対する歴史診断と制度分析を通じてこそファシズムを極北とする「権力の生産過剰」の分析に到達できると考えるに至らせたのだ。
 それこそ1952 年の「白衣事件」を契機にしたフランス共産党からの離党という出来事である。彼が30 歳の時だ。1953 年1 月、ジダーノフらを暗殺し、赤軍の元帥らの暗殺を図ったとして9 人の医師たち――うち7 名はユダヤ人――が「反スターリンの陰謀」のかどで告発された。後の1953 年3 月5 日のスターリン死後、その虚偽が明らかになり、医師たちは釈放され復職したが、このソ連における反ユダヤ主義が露呈した「白衣事件」はそれまで度々フーコーが共産党に感じていた不信感を一気に爆発させるものだったのだ1)。その後、アルチュセールの同意のもとに共産党を離党する2)。そして、フランス共産党離党は、単に一党派からの離脱を意味するものではなく、まさにその核心にあったソヴィエト社会主義共和国連邦に対する強烈な不信こそが、彼のその後の仕事=研究を決定づけたものであった。彼はこの出来事を契機にして、ファシズムとスターリニズムを、そして資本主義の社会までをも同じ認識論的・分析的地平から捉えていく仕事を試みていくことになったのだ。
 とは言え、フランス共産党の入党・離党から『狂気の歴史Histoire de lafolie a l’age classique』(Foucault 1961=1975)の執筆までの約10 年、彼の1950年代はおそらく幾重にも深い苦悩と試行錯誤の日々であったに違いない。彼は自らがどのような仕事をなすべきかについて深く悩んでいた。実際、こうした1950 年代のフーコーの仕事の軌跡・来歴・痕跡を端的に示すような出来事がある。1954 年4 月、アルチュセールに執筆を依頼され、彼にとって最初の著作となる『精神疾患と人格』を刊行するが──ほぼ同時に「ビンスワンガー『夢と実存』への序論」を掲載した『夢と実存』のフランス語訳版が上梓される――、そこで大きな挫折を経験することになる。
 この処女作『精神疾患と人格』という書物はフーコーにとって自らの著作の中から消し去りたいものであり続けた。実際、彼の記念碑的著作である『狂気の歴史』刊行の翌年である1962 年に『精神疾患と人格』を再販する際、彼は著書の題名までも『精神疾患と心理学』と変更し、その著作の第二部を全面的に書き換えてしまった。1954 年版での「第二部 病いの現実の諸条件」は1962 年版では「第二部 狂気と文化」に、その第二部の「第五章 狂気の歴史的意味」は「第五章 精神疾患の歴史的形成」に、「第六章 葛藤の心理学」は「第六章 狂気、その全体的構造」に全面改稿した。説明するまでもないが、これは単に「全面改訂」という水準でなく、1950 年代のフーコーの道筋=転回を象徴的に示す出来事であったのだ。
 では、この1954 年版では「狂気」をどのように捉えていたのか。
 第一に、1954 年版では「狂気」に“l’aliénation mentale”という用語を用いたように、疎外論的文脈で「狂気」を理解していた――このことは「疎外」を意味するドイツ語の“entfremdung”に“l’aliénation”のフランス語訳が充てられることからも窺える――。1954 年版はいわば「自己喪失=疎外としての狂気」というテーゼであったのだ。
 第二に、上記のテーゼから、様々な社会諸関係や経験や生存の条件の欠落こそが疎外であり、個人にその人格を取り戻してやることこそが疎外からの解放になると説いた。「社会諸関係などの欠如→狂気(自己喪失=疎外としての狂気)→人格を取り戻す→疎外からの解放」という(後のフーコーであれば忌み嫌った)テーゼを打ち出したのだ。
 第三に、(後に痛烈に批判することになる)当時のフランス精神医学に大きな影響力を及ぼしていたパブロフ流の反射理論を踏まえ、帝国主義や競争や搾取などによって規定される社会諸関係が人間に強い影響を与え、その「極限状況」に人間の神経系が耐えられないとき、人々は「防衛反応」として「狂気」を示すことになると説明したのだ。要するに、「社会諸関係などの欠如→環境(極限状況)→防衛反応→狂気(自己喪失=疎外としての狂気)→人格を取り戻す→疎外からの解放」という構図を描き出したのである。これこそが『精神疾患と人格』の第二部の結論になっているのだ。言うなれば、パブロフ流の反射理論とビンスワンガー流の実存哲学を掛け合わせて「疎外としての狂気」を安直に論じてしまったのだ3)。別の言い方をすれば、疎外論的な狂気テーゼに「⋯→環境(極限状況)→防衛反応→狂気(自己喪失=疎外としての狂気)→⋯」という反射理論的な「極限状況」のもとでの「防衛反応」という機制を部分的に差し込んだものだったのだ。
 だからこそ、のちにこうした歴史的・思想的・政治的状況のもとで執筆してしまった『精神疾患と人格』を徹底的に否定した。実際、1962 年版では書名を変更し、第二部を全面改訂した。その1962 年版でさえも、1966 年に再版されたあとは絶版にしてしまったし、この本の英語版が刊行されようとした際にも彼は何とか阻止しようとした(が、その試みは失敗した)。
 したがって、《幼少期のファシズムへの恐怖の体験》がフーコーに「歴史」と「出来事や個人的な経験との関係」に照準することを選ばせ、その後の共産党離党に端的に示されるようなソ連への強烈な不信感こそが、彼に資本主義社会か非= 資本主義社会にかかわらず、近代社会において「発見」され「受容」されていった権力の技術と制度と思想を明らかにすることに向かわせたと言えよう。このような日付と場所を刻印したフーコーの生において『狂気の歴史』をはじめ、他を圧倒する多数の著作は生み出されていくのである。
 なお、あえてもう一つフーコーにとっての大きな出来事を挙げるならば、おそらく複数回にわたる自殺未遂の経験を挙げることができる。その後の自殺に対する彼の引き裂かれた情念と思想は、彼が「20 世紀最大の思想家」と敬愛するバタイユの「極限体験」と関わるのだが、本稿では措くものとしよう4)。いずれにしても、フーコー自身が「これは〔権力の問題は〕私たちにとって、たんに理論上の問いであるばかりでなく、経験の一部」(Foucault 1994c=1999:12)と語るように、彼は《幼少期のファシズムへの恐怖の体験》と《スターリニズムの暴力への抵抗》を経由して権力の問題に着手するようになったのである。「二つの『権力の病態』――ファシズムとスターリニズム」が「そんなにも私たちを混乱させるのか、数ある理由の一つに、これらが歴史的に特異な存在でありながら決して最初のものではない、ということがある。これらは、他の多くの社会に以前からあった機構を拡大して使用したものである。それどころか、その内的狂気にもかかわらず、われわれのもつ政治的合理性の観念や方策を、最大限に利用したのであった」(Foucault 1994c=1999: 12)。この直感と確信が彼を支えたのだ。

2.周縁的な人間の監視=矯正へ

 では、フーコーが2 つの大きな出来事=体験から描き出そうとした問題と、周縁的な人間の問題はどのようにつながるのだろうか。言いえれば、「マイノリティ」と呼ばれる人びとに対する思考をフーコーの研究はいかに導いていくものなのか。この点を考えてみよう。
 フーコーが「マイノリティ」に類する言葉で論じているものは少ない5)。ほとんどない。むしろ、その言葉を安直に使うことを自ら禁じていたように思う。その理由をこう言う。
あなたが“さあご覧ください、こっちがプロレタリアートで、あっちが周縁的存在ですよ”というような言い方をする時、もはやついて行けなくなる。あなたがたは、この周縁的存在という総称のもとに(中略)、囚人、精神病患者、犯罪者などをまとめていた。しかし、精神病患者、犯罪者、囚人、その他のリストによって、プロレタリアートではない、プロレタリアート化されていない下層民を定義づけることができるのだろうか?(中略)つまり、プロレタリアートがあって、しかるのちにこれこれの周縁的存在がいる、と言ってはならないのであって、下層民全体の集合のなかに、プロレタリアートとプロレタリアート化されていない下層民を分け隔てる断絶がある、と言うべきではないかということです。そして、警察、司法、刑法体系といった諸制度は、資本主義が必要としているこの断絶を絶えず深く刻んでいくために用いられる一連の手段のごく一部ではないか、と思うのです。(Foucault 1994d=1999: 295)
 下層民を分け隔てる断絶を記述すること6)。それこそが彼が歴史診断と制度分析から導き出した重要な問いになっている。なぜそのような分け隔てる断絶=境界設定を前提に語ることはまずいのか。この点は彼の問題意識において決定的に重要なことである。
 フーコー自身が『監獄の誕生Surveiller et Punir: Naissance de la Prison』(Foucault 1975=1977)においてやりたかったのは、19 世紀に刑罰制度と監獄制度がどのように機能していたのかという問題とは「別の問い」を立て、「監獄というのは、結局のところ、社会における違反を処罰する最良の手段であり、最も有効かつ最も合理的な手段の一つだ、という18 世紀末以来の考え方のなかに暗に潜んでいる思考体系、合理性の形式を発見すること」(Foucault1994j=2002: 109)であったと論じているように、権力のもとでの思考体系ないしはその合理性の形式を読み解くことを自らの仕事にしてきた。
 こうした立脚点のもと『狂気の歴史』の要諦を記すならば、以下のようになる。「17 世紀には、老人、障害者、労働に従事できない、あるいは従事する意欲がない人々、同性愛者、精神病患者、浪費癖のある父親、放蕩息子などを、いかなる分け隔てもなく収監していた。皆ひとまとめで同じ場所に閉じ込めていた」。しかし、18 世紀末から19 世紀初頭、フランス革命期になって、区別を立てるようになる。こうして「精神病患者は精神病院に、青少年は教育施設に、犯罪者は監獄にという具合」に区分けされ、加えて、「居住制限をはじめとする数々の分離・差別政策が導入された」(Foucault 1994d=1999: 325)のだ。ちなみに、このような18 世紀末から19 世紀初頭に誕生した「分け隔てる断絶」は「ふたたび総合的な、無差別の収監形態に逆戻りしつつある」と言う。とりわけ、「ナチ強制収容所は、こうした新しい収監形態の、血塗れで、残忍で、非人間的な変種を知らしめた」ものであった。そして、「今日、同じことが、より隠微に覆い隠された形で、一見科学的な様相とともに輪郭を現しはじめている。ソ連の悪名高き精神科病院は、そうした様相のもとに機能しはじめている」。むろん、それはソ連の精神病院に限らず、「フランス国内の、いかにも人道的、医学的、科学的な体裁をした施設の数々、これもすべて同じ」(Foucault 1994d=1999: 325)である。フーコーはここに「分け隔てる断絶」を形成たらしめる「権力の生産過剰」を見て取っていたのである。
 精神病院その他の各種施設では、「一見異なる職業がさまざまに並存しているようでいて、すべてを一つにまとめ上げる共通の機能」たる「牢獄の看守という機能」がある。「すべてそのような職業は、真に犯罪的であるとも、真に病的であるともいえない周縁的な人間存在を監視し、閂のもとに留め置くことをもって共通の機能としている」(Foucault 1994d=1999:304-325)。要するに、ナチ強制収容所、ソ連の精神病院、フランスその他の精神病院などの施設に共通する機能は「周縁的な人間の監視=矯正」という機能なのである。もちろん、フーコーの歴史診断と制度分析の知見からすれば、「周縁的な人間を分け隔てる断絶」とは、もともと刑罰システムがあって、それが次第に医学・精神医学の言語で合理化されるようになったということではなく、もともと精神医学の医学的機能と警察機構の抑圧機能とは深く結び付いた分かち難いものである。そして、その分かち難い機能は、ファシズムやスターリニズムに象徴的に示されているように、今日において、その歴史的反復として、再び迫り出しているということなのだ7)。要するに、資本主義の社会であれ、非- 資本主義の社会であれ、いずれも「権力の生産過剰」という観点からすれば「同じ穴の狢」であり、両者に「周縁的な人間を分け隔てる断絶」を形成たらしめる「権力の生産過剰」を見て取ったのである。彼の《幼少期のファシズムへの恐怖の体験》《スターリニズムの暴力への抵抗》、そして《30 代の挫折と思想的転回》はこうした形式として始めて一つの考古学/系譜学/統治性論として結晶化されていったのである。それこそが彼の生涯の仕事を形成していくのである。
 では、精神医学・警察・司法・刑法体系などが分かち難く結合した統治システムのもと、「周縁的な人間の監視=矯正」が実行されてきたとして、なぜゆえに、こうした「周縁的な人間の断絶」が行われるようになったのであろうか。彼はこう記す。
〔ソ連でもフランスでもその他の地域でも見られる〕世論と犯罪者の断絶は、刑務所システムと、その歴史的起源を同じくしています。あるいは、むしろ、この断絶は、権力が刑務所システムから引き出した幾つもの重要な利点の一つなのです。実際のところ、18 世紀までは(中略)犯罪者と分厚い民衆層の間には、今日存在している敵意に満ちた関係はありませんでした。金持ちと貧乏人の断絶が深いのであり、その間の敵意も大きなものであったので、盗人――富の流れを変える者――は、貧困層においては、歓迎される人物なのです。…… しかし、人々が産業に従事し、都市生活を送る中で、日常的な窃盗や、かっぱらい、詐欺が、あまりに高くつくものになった時、民衆によって容認されてきたこの非合法行為は、結局、深刻な危険として現れることになったのです。そして、新しい経済的規律が社会のあらゆる階級に課されるようになりました。したがって、一方では富をより効率よく保護せねばならなくなり、他方、民衆は非合法行為をきっぱりと否定するという態度をとらねばならなくなりました。こうして権力は――そしてこれには監獄も大きく貢献しているのですが――分厚い民衆層とは実際には何のコミュニケーションも持たない犯罪者達の中核を、民衆には耐え切れぬものとして産み出させたのです。そしてまた、このような犯罪者の孤立化故に、警察が民衆を見渡すことが容易となり、民衆は、19 世紀にその形成が見られる「社会階層」というイデオロギーを発展させることができたのです。(Foucault1994f=2000: 80-81 /ルビ原文)
 「金持ちと貧乏人の断絶」から「民衆と周縁的な人間の断絶」への書き換え。18 世紀における資本主義体制の成立とともに、経済的規律が課せられ、民衆は労働に従事し、多少なりとも財を蓄積するようになると、非合法的行為を容認できなくなっていくと同時に、精神医学・警察・司法・刑法体系などが結合した統治システムによって「周縁的な人間の監視=矯正」が遂行されていく。こうして周縁的な人間たちが監獄や精神病院といった施設へと分離的=差別的に収容されるようになると、かつては歓迎されることさえあった周縁的な人間は民衆と断絶させられ、また他の下層民とも切り離されていく――プロレタリアートとプロレタリアート化されていない周縁的存在を分け隔てる分断――。そして、こうした統治システムのもと「周縁的な人間の監視=矯正」が実効されるだけではなく、むしろその圧倒的な効果は、周縁的な人間と切り離された民衆に対する監視=矯正となって現れてくるのである。したがって、「周縁的な人間」を作り出すことは「周縁的な人間の監視=矯正」よりもむしろ「民衆の保護と監視=矯正」の効果を生み出すのだ。
 こうした権力システムのもと民衆は「社会階層」のイデオロギーを発展させた。犯罪者という「周縁的な人間」を切り離し、彼/女らに敵意・憎悪を向けるようになった。警察による保護さえ求めるようになった。そのことで、民衆は警察から容易に監視されることになった。犯罪者に対して厳罰を求めるようになった。「人種差別反対をしながらも犯罪者には極めて冷酷な対応をする」(Foucault 1994d=1999: 249)ようになった。その社会的帰結として、権力はいとも簡単に民衆を統制することになったのだ8)。
 そして、民衆は犯罪者に対して敵意・憎悪を向けると同時に、自らを犠牲者化していく。確かに、「プロレタリアート自身、犯罪の犠牲者」であることはあるにしても。
老人たちはソレックス〔原動機付き自転車〕欲しさに彼らの最後の蓄えを盗みにくる輩、つまり不良少年に対しては、これっぽっちの同情心を持ち合わせていない。しかし、その少年がソレックスを買うための金を持っていないということについて、また、第二に、少年がそれほどまでにソレックスを買いたがるということについて、責任は一体誰にあるのか? 19 世紀は、プロレタリアートの抑圧にかけては独特の手法を実践していました。集会の自由、組合の権利など、さまざまな政治的権利が認められたのは確かだが、それと引き換えにブルジョワジーはプロレタリアートから政治的な品行方正の確約とおおっぴらな謀反の放棄を取り付けたのです。一般民衆は、支配階級のゲームの規則に屈するかたちでしか、そのささやかな諸権利を行使することができなかった。その挙げ句、プロレタリアートはブルジョワ・イデオロギーのある部分を内化するにいたった。(Foucault 1994d=1999: 249-250)
 プロレタリアートは周縁的な人間に敵意・憎悪を向けると同時に、犠牲者(犠牲者となる可能性のある者)として自らを理解する。現実の利害・危害を超えた犠牲の可能性・犠牲のイメージを感受してしまうのだ。老人は怯え、自ら防衛する方法を何とか考え出すだろう。その過剰な不安は精神医学・警察・司法・刑法体系などの権力を自ら進んで迎え入れてしまうこともあるだろう。犠牲者あるいは犠牲の可能性がある者として権力を招き入れることは自発的に監視=矯正の下に参入することでもある。こうして「周縁的な人間」を作り出すことは「周縁的な人間の監視=矯正」を可能にすると同時に、「民衆の保護と監視=矯正」の完成された効果をもたらすことになるのだ。
 このように「権力とは、どこかただ一カ所で機能しているのではなく、実にさまざまな場所で機能している」ものである。家庭、性生活、精神障害者の扱い、同性愛者の排除、男女関係、等々、これらの関係はすべて政治的な出来事である。したがって、こうした関係を変えずして社会を変えることはできない。その意味で、ソ連の問題を考えることは極めて重要な意義をもつ。「ソ連について真っ先に言えることは、それが、革命以来、生産関係を一変させてしまった国だということでしょう。所有に関する法の体系もまた変わった。同様に支持的な諸制度も、革命以来、変化を遂げ続けている。しかし、家庭での細かな権力関係や、工場における労働者間の性のあり方などは、ソ連でも、ほかの西ヨーロッパの国々とまったく同じまま今日にいたった」(Foucault 1994g=2000:57-58)からである。
 先述したように、資本主義の社会であれ非- 資本主義の社会であれ、「権力の生産過剰」という観点からすれば「同じ穴の狢」である。「同じ穴の狢」たる所以は、いずれの社会もいわば「番犬システム」の社会であるという点にある。敢えてメタフォリカルに表現すれば、「番犬システム」においては、精神医学と監獄などを通じて、狂犬は番犬によって保護=隔離され、狂犬たちは監視=矯正される(あるいは殺される)。と同時に、それ以外の犬たちも監視=矯正のもとに置かれる。こうした番犬システムを通じて犬たちの内部には軋轢・亀裂・断絶が生まれることになる。そして、“ふつうの犬たち”は自らを犠牲者化することで、番犬システムを保持する優等生となっていく。しばしば犠牲者化=優等生化した犬たちは番犬を歓迎し、自ら番犬にさえなっていくのだ。ここにこそ統治権力の強したたかさと怖さがある。

3.精神医学と刑罰――番犬システムとして

 では、この番犬システムを支える精神医学と刑罰はいかにして資本主義と非- 資本主義の社会を貫いてきたのか/貫いているのか。すでに確認してきたように、資本主義と非- 資本主義の社会を貫いてきたものとは「規律権力的統治かつ生政治的統治」である。その統治システムの一形態の現れとして、精神医学システムと刑罰システムはその歴史的起源において分かち難く結び付いてきたものである。その結果、「周縁的存在」が産出されたのだ。
 しかしながら、こうした統治システムに対して、マルクス主義は何も答えていなかった。1974 年7 月のインタビューでのフーコーの応答に明確に示されているように、当時のマルクス主義はナチズムを説明するのに無力であり、経済主義的かつ決定論的な仕方で説明をしてナチズムの個別のイデオロギーについて何ら明らかにしてこなかった。
マルクス主義はナチズムとファシズムに、「ブルジョワジーの最も反動的な部分による公開のテロリズム的独裁」という定義を与えてきました。これは、何の内容もなければ判然としたところもない定義です。とりわけこの定義には、大衆の内部に、抑圧や制御や保安といった国家的機能の一部を担う、かなりの割合を占める部分が存在しうるのでなければナチズムやファシズムは可能ではない、ということが欠けています。ここにこそナチズムの重要な現象があると私は思います。すなわち、大衆の内部にナチズムが深く浸透すること、そして、権力の一部が大衆の一部に実際に委任されるということです。だから、「独裁」という語は一般的には真であり相対的には偽なのです。ナチ体制にあって一個人が、単にSS であるとか党員であるとかいうことで持ちえた権力のことを考えればよいわけです! 隣人を殺し、その妻を我がものにし、その家を自分のものにするということが実際に可能だったのです!(中略)独裁といって普段考えるのは、一人の権力ということですが、事実は反対で、こうした体制にあっては、権力の最も嫌らしい部分、いや、ある意味では最もうっとりする部分でもあるのですが、その部分が、相当数の人々に与えられる、と言えるでしょう。SS とは、殺す権力、強姦する権力を与えられた者でした…… 。(Foucault1994e=2000: 228)
 このように「ナチズムとスターリニズムの終焉以来、資本主義および社会主義社会の内部での権力関係が問題になってきた」のであるが、それはマルクス主義的な視点から国家機能、支配階級、覇権的な特権階級における権力という視点から捉えるのでは十分ではなく、まさに「末端付近の微細なところで働いている一連のミクロ権力、つまり個人個人の日常行為はおろか身体そのものまで及んでいく権力」(Foucault 1994e=2000: 339)を問うことへの認識論的・政治的転回があったのだ。しかし、マルクス主義はそれに明快な回答を与えなかった、とフーコーは診断する。
 権力の最も嫌らしい部分でありながら、多くの人たちが魅惑されてしまう部分、すなわち相当数の大衆が自らの内に抑圧や制御や保安といった国家的機能の一部/かなりの部分を担うことによって遂行される権力の問題をマルクス主義は明らかにしていないことを批判したのである。言うなれば、遍在的に作動する統治権力たる末端かつ全体に現れる「番犬システム」――ふつうの犬が「番犬」として狂犬を監視=矯正すると同時に「番犬」どうしも監視= 矯正し、自らを犠牲者化=優等生化していく中で更なる「番犬」になり上がっていく/なり下がっていくシステム――に対して、マルクス主義は帝国主義や階級支配やヘゲモニーといった言葉で片付けてしまっており、「番犬」がなぜゆえに番犬になり上がって/なり下がっていくのかを説明しないのだ。
 すでに確認したように、18 世紀の西欧における「監禁」は「蒸気機関」に比類する発明であり、その驚異的発明は資本主義社会でも社会主義社会でも全域的に普及したものであった(Foucault 1994e=2000: 434)。「番犬システム」の発見の驚異性・圧倒性はイデオロギーを凌駕して浸透・変容していくその力にあるのだ。フーコーは、ナチズムやスターリニズムへの強烈な批判を胸中に抱きながら、そのおぞましさの歴史的起源と系譜を論考しなければならないと判断したのである9)。これこそがフーコーが1950 年代/ 30 代の苦悩と試行錯誤の先に見出したものなのである。
 ところで、精神医学システムと刑罰システムが分かちがたく結びついているにしても、両者の中でどのようなカテゴリー・言説が受容されていくかは随分と異なるように思える。「排除をめぐる法的カテゴリーは、実際に、必ずといってよいほど医学的ないしは臨床学的な相関項を持つものである」のだが、私たちに「事態を見誤らせているのは、法律用語が、いくつかの理由から、ほとんど一定かつ恒常的なものとなっているのに対し、臨床学的な方は、逆に比較的不安定であり、たちまちのうちに更新されるものであった、という点ではないか」(Foucault 1994d=1999: 271)というように、そのカテゴリー・言説の変容の速度と深度と強度はかなり異なる。だが、精神医学システムと刑罰システムにおけるカテゴリー・言説の変容の速度と深度と強度の差異があるにもかかわらず、いや、差異があるがゆえに、両者は結び付きながらも独自の領域を形成しているのだ。
 確かに、「番犬システム」において、「精神錯乱」「禁治産」などの古典的かつ比較的恒常的な「法的カテゴリー」と、常に書き換えられ更新されていく「医学的・臨床的なカテゴリー」はその言葉の安定性からすれば異なるが、この差異=落差こそが重要なのである。後述するように、医学的・臨床的なカテゴリーが常に批判を受けながら書き換えられていくことで――換言すれば、医学的・臨床的カテゴリーは常に「反医学」「医療批判」や「反精神医学」「精神医療批判」を受けつつも、それを自らのうちに組み込み、忘却することを通じて――、その権力を自らの力にしてきたのである。こうした歴史的ダイナミズムのもとでの《政治経済的な膨張と収縮》を反復することでシステムは再編されていくと同時に、その権力は達成されていく10)。
 1974 年3 月の「権力メカニズムにおける監獄と収容所」のインタビューでフーコーはこう言う。「政治権力は、イデオロギーや人々の意識に作用する以前に、人々の身体に対してずっとはるかに物理的に行使されている」(Foucault1994e=2000: 297)。そして、それは決して「昔のお話」ではなく、今日においても常に既に同様の権力が作動している。厄介なのは、現代社会においては、いわば「番犬性」が脱色されたような「番犬」が権力を行使しているがゆえに、その権力が見えにくくなっているという点である。卑近な例で言えば、その個別の性格や職歴などは別にして、一般的に、小学校教員などは「いかにも番犬的」のように思えるが、今日では様々な職種や業界や領域によって実践されている。例えば、かつて共和国において監視=矯正機能を有していた司祭と小学校教員は、両者の対立や抗争やせめぎあいの中から発展してきたが、今日ではその機能がソーシャルワーカーに委譲されることを通じて統治システムが再編されている。
ソーシャルワークが一つの巨大な機能の内部に組み込まれ、この機能が数世紀来たえず新しい広がりを示し続けている、ということでしょう。この機能こそ、監視=矯正機能です。個々人を監視し、矯正(corriger)すること。ここで矯正という言葉には、罰する(punir)か、さもなくば教育化(pèdagogiser)か、という意味の二つがあるのですが。この監視=矯正機能は、いまだ19 世紀においては、種々の制度によって維持されていた。なかんずく教会、そしてのちには小学校教員によってです。よく、ソーシャルワーカーは結核や性病の根絶運動という無報酬の援助活動から出発した、と言われますが、わたしは、その起源が、むしろ教育者の機能、いわば本来の意味における「小学校教員」(instituteur)の機能にあるのではないか、と思っています。…… 共和国は小学校教員と司祭との対立を通じて発展してきたのです。19 世紀には、こうした監視=矯正機能が政治権力に対して相対的自律を保っていた。政治権力は、教員と司祭の対立、抗争、そしてそれぞれの自律をうまく利用してきたのです。…… 〔しかしながら、現在は〕一方では教会が、他方で知識人たちが権力の手を逃れつつあるだけに、なお一層厳密な仕方でそれを手中に収めている。ブルジョワ国家に対する知識人の大いなる裏切りに対しては、小学校教員、中学校教員、知識人らがいつのまにか果たさなくなった役割をソーシャルワーカーに演じさせるという事態をもって制裁が加えられるわけです。逆説は、そうしたソーシャルワーカーがまさにその知識人らによって養成されるという点にあるのですが…… 。ソーシャルワーカーが、自ら譲り受けた機能を裏切れずにいられないといった事態も、実はそこから生じているのです。(Foucault 1994d=1999: 291-292 /傍点原文)
 このように、精神医学と刑罰は分かち難く結び付いて統治システムを形成してきた。マルクス主義は明らかにしなかった「権力の生産過剰」の問題において最も重要であるのは民衆が権力を自らの内において実践してしまう「番犬システム」にある。そして、一つには、この「番犬システム」のもとでは、医学的・臨床的カテゴリーは常に「反医学」「医療批判」や「反精神医学」「精神医療批判」を受けつつ、書き換えることで《政治経済的な膨張と収縮》を繰り返し権力をその手中に収めてきたのであり、もう一つには、「番犬システム」は常にその担い手を変更し、機能を委譲することを通じて再編してきているのである。
 逆説的なのは、監視=矯正機能を委譲された専門家たち――ソーシャルワーカーを含む――は「ブルジョワ国家」の「大いなる裏切り」をした知識人に教育=養成されるという意味で、専門職たちはその譲り受けた監視=矯正機能を裏切っていく契機・潜在性のうちにあるということである――もちろん、それはその知識人が「大いなる裏切り」たりえる知識人であるかどうか、そもそも「知識人」であるかどうかに依存するのだが――。

4.ソ連における精神医学と収容所

 では、この「番犬システム」はそれぞれの社会における思想や体制においてこそ達成されているとすれば、それはいかにしてか。ここではソ連における精神医学と収容所を例に、フーコーでさえも明示的に語らなかったソ連における番犬システムがどのような思想を刻印したものであり、いかなる体制によって裏付けられ、変容してきたのかを見てみよう。
 まずは、かの悪名高きソ連の強制収容所についての言及から見ていこう。
 1976 年1 月に「ヌーヴェル・オプセルバトゥール」に掲載されたK.S. キャメルとの対話「ソ連およびその他の地域における罪と罰」にて、フーコーは、ソ連の強制収容所がいかなるものであるのかを語る(Foucault 1994b=2000:75-90)。スターリンの粛清に象徴されるソ連の強制収容所とは、一見すると、イデオロギーに塗り固められたソ連に特有のおぞましき支配体制のもとで完遂・完成された施設に思えるが、決してそうではないと言う。繰り返すが、ソ連は、歴史的・政治体制的に「所有権の体制や生産管理における国家の役割に修正を加えてきているとはいえ、残りの部分に関しては、ソヴィエトは、単に、資本主義化下の19 世紀のヨーロッパにおいて開発された管理や権力の技術を自分たちのところに移したに過ぎ」ない(Foucault 1994f=2000: 78)。やはり「同じ穴の狢」なのだ。
 もちろん、ソヴィエト社会主義共和国連邦の体制の中では「政治犯」と「普通犯」の区別が消え去るという極めて大きな特徴があるにしても――後述するように、それは「法への侵害はすべて、盗みでも、ちょっとした詐欺でも、私的利益に対する侵害ではなくて、まさしく、社会全体、人民の財産、社会主義者の生産物、政治体に対する侵害」(Foucault 1994f=2000: 74)であるという意味で、「社会全体への侵犯」となるという特徴があるしても――、「刑罰技術(監禁、剥奪、強制労働、暴力、屈従)としては、それらは18 世紀に発明された古い刑罰装置に近いもの」であり、18 世紀に発明された「ブルジョワ」的な秩序の方法に従って刑罰を行っているものである。ソ連はまさにそれを変更するのではなく、それは「最悪の方向へと向けている」(Foucault 1994f=2000:74-75)。「番犬システム」の観点からすれば、ソ連の強制収容所とはその最もおぞましき優等生が作りあげた阿鼻叫喚なる空間である。
 その一方で、ソ連の恐怖政治は規律訓練の「究極形態」ではなく、その「失敗」である。例えば、スターリン体制下では、警察の最高責任者が、ある日、閣議を終えて出てきた瞬間に処刑されることがあったように、「衝撃や変化を排除することが出来ない体制」であるという意味で、また「限界に達した時に何かが起こるということがあり得た」という想定なくしては成り立たない体制であるという意味で、恐怖政治は常に「転覆可能」なのだ。恐怖政治はその転覆可能性ゆえに、恐怖政治を行使する者たちは自らが常に脅かされる恐怖に怯えなければならないのである――恐怖政治は常にその恐怖の絶えざる循環性のもとにあるのだ――(Foucault 1994f=2000: 83-84)。
 ソ連の強制収容所は恐怖政治と規律訓練の「真ん中」にある方法として生み出されてきたものである(Foucault 1994f=2000: 83)。恐怖政治の恐怖の循環性のもとにありながら、規律訓練システムとして「不完全」なものであるがために、ソ連では強制収容所は常に量産・強化され、その収容は特異な思想的・政治的言説によって覆われていくことになる。
 では、統治システムは常に精神医学と刑罰が分かち難く結び付くことによって変容してきたが、その最も「おぞましき優等生」たるソ連の統治システムにおいて精神医学と刑罰はいかにして結合してきたのであろうか。この点を考えてみよう。

[ph(図1 ソ連における精神医学と収容所の関係(略図))]

 図1 に示したように、18 世紀〜 19 世紀にかけて誕生した統治システムは精神医学の医学的機能と警察機構の抑圧が結び付くことによって発展したものであある。こうした「番犬システム」においては、民衆と周縁的な存在は分け隔てられて分断され、また周縁的な人間どうしも切り離されてしまう。また、周縁的な人間と切り離された民衆は自らを犠牲者化=優等生化することで、より一層、その統治システムを維持・強化していく。
 しかしながら、局域的かつ歴史的な観点からすれば、1930 年代以降のソ連の精神医学にはいわば「脱精神医学化」と呼ぶべき現象が見られたのだ。なぜゆえにこうした1930 年代において「脱精神医学化」が起こったのか、あるいはその後どのように「再精神医学化」の歴史的文脈が形成されてきたのか。こうした歴史的変容に刻印された思想と政治体制を知る必要がある。
 ソ連における精神医学システムと刑罰システムの関係は1977 年10 月に「シャンジュ」誌に掲載された、フーコー、D・クーパー、J.P・ファイユ、M.O・ファイユ、M・ゼッカとの対話「囲い込まれる狂気」に示されている(Foucault1994f=2000: 459-499)。
 最初にフーコーは「精神医学の医学的機能と警ポリス察機構の本来的な抑圧機能」という「二つの全く異なる機能」が重なり合う時があるという理解は正しくなく、この「二つの機能は初めから一体のものでしかなかった」のであり、「最初から、精神医学は社会秩序を構成する機能たらんとする目的を持っていた」(Foucault 1994f=2000: 460-461)と言う。
 そして、こうした「社会秩序を構成する機能たらんとする目的」をもつ精神医学は、ソ連においては「脱精神医学化」と「再精神医学化」の迫り出しとせめぎ合いを通じて形成されていったことが――「反精神医学」の旗手として知られるクーパーからの投げかけに呼応する形でのフーコーの回答によって――指し示される。
 1930 年代のソヴィエト連邦では「脱精神医学化」に向かう運動があり、心理テストやロボトミー手術が法律で禁止されていたのだが、それがスターリンの支配のもとで次第にひっくり返されてしまい、戦後は再び心理テストやロボトミーが実行されるようになった――とは言え、他の西欧諸国ほどは普及せず、戦後の西欧諸国とりわけアメリカ合衆国において政治的目的のために実践されたロボトミーの実践(かつてのデルガドの装置よりは遥かに進展・洗練された実践)はほとんど行われなかった11)――、と言及する。
 このように1940 年代以前のソ連においては精神医学に様々な制約――脱精神医学化の運動を含む――がかけられていたが、1945 年以降は急速に精神医学が人口に膾炙していく。こうした「再精神医学化」の運動はパブロフの研究などに代表される「反リフレクソロジー射理論」の受容と大きく関係している。反射理論は1945 年以降〜 1965 年においてソ連の精神医学が受容した唯一の思想的な「バックグランド」であったのだが――それ以外の知見は全てイデオロギー的、観念論主義的、非理性主義的とみなされていた――、その反射理論が受容される前の「脱精神医学化」には、1930 年代〜 1940 年代のソ連において支配的であった2 つのテーマが深く関係している、とフーコーは語る12)。
 第一のテーマは、「自然はそれ自体善であり、それを悪化させるものは歴史的・経済的・社会的疎外からやって来る」というものであり、第二のテーマは「自然を加工するのは人間の仕事であり、また人間はそうすることができる」というものであった。いわば「自然の尽くしえぬ善性、そして自然を漸進的に加工できる可能性」という二重の言説こそがソ連の「イデオロギー・セット」(Foucault 1994f=2000: 466-467)であったのだ。
 この「二重のテーマ」から、「【1】人間(の身体)を含む自然はそれ自体善であるが、それを『狂気』という形で悪化させるのは歴史的・経済的・社会的疎外によるものである。『狂気』が歴史的・経済的・社会的疎外をもたらす資本主義体制によって作り出されるとすれば、ソヴィエト社会主義共和国連邦に『狂人』はいない。いるとすれば、それはその者が資本主義体制に毒されていることによる。【2】そして、人間(の身体)を含めた『自然』を加工するのは人間の仕事であり、人間はそうすることができるからして、正しい『啓蒙』によってその『狂気』をなくすことが目指されるべきである」というテーゼが導かれることになる。その意味からすれば、ロボトミーとはまさに「(人間の身体という)自然を切除すること」であり、「(人間の身体という)自然そのものを人間の力で変革することをあきらめる」(Foucault 1994f=2000: 467)ことだ。したがって、善たる自然を切除することは「自然それ自体を人間の力で変革することの断念」であり、「人間の敗北」となる。ここにおいてロボトミーは禁止され、「脱精神医学化」の運動が形成されていく13)。言うなれば、外科手術や薬学技術で狂気を治すことは「人間の敗北」である。その「人間の敗北」に塗れては、来るべき世界の秩序を形成する「啓蒙の場所」たるソヴィエト社会主義共和国連邦の存在意義をまさに宙吊りにすることであり、許容されないものであったのだ。
 ところが、スターリンはこれを文字通りひっくり返した。「監獄の政治化」を徹底させたのだ。スターリニズムのもとで強制収容所の引き金が引かれると同時に、その恐怖政治的な「恐怖の循環性」ゆえに、スターリニズムにおいて「狂気」は「転覆」を惹き起こす「危険な存在」となる。スターリンにとっては「政治犯」であれ「普通犯」であれ「狂人」であれ、常に自らを脅かす危険な存在になるのだ。そして、誰もが「危険な存在」になり得るという意味で「危険の潜在性/可能性」を孕む者になっていくのである14)。
 こうして1930 年代のソ連の脱精神医学化の運動を形成してきたテーゼは、スターリニズムのテーゼ「【1】人間(の身体)を含む自然はそれ自体善であるが、それを『狂気』という形で悪化させるのは歴史的・経済的・社会的疎外によるものである。労働の価値を損なう『狂気』が歴史的・経済的・社会的疎外をもたらす資本主義体制によって作り出されるとすれば、ソヴィエト社会主義共和国連邦に『狂人』はいないのだ。いてはならないのだ。加えて、政治犯も普通犯も狂人もソ連の政治経済体制を転覆する可能性があるという意味では『危険な存在』であり、彼/女らは隔離・収容されなければならない。誰であれ、『危険な存在』は収容所に収監されなければならない。【2】そうした『危険な存在』を消去することこそが新たな世界と未来の秩序を作り出すのだ」といったものに変容していくことになる。
 しかしながら、スターリン死後、特に1958 年のフルシチョフ講演の前後になると、スターリン時代のように「危険な存在」とみなされる誰彼を「強制収容所」に隔離していくのではなく、強制収容所を開放すると同時に、反体制派の人たちを「精神医学(精神病院)」によって包囲していくようになるのだ。いわば「再精神医学化」であり、スターリン時代の「監獄の政治化」との対比で表現すれば「精神病院の政治化」が遂行されていく。西欧諸国ほど普及しなかったとは言え、ロボトミーも再開されていく。パブロフの研究などに代表される反射理論が広範に受容されていき、ルイセンコやミチューリン主義などにも引き継がれていく。しかしながら、このように反射理論を背景にした「再精神医学化」の展開は、かつてスターリニズム体制では「収容所」に隔離・収容してきた「危険な存在」を、「精神病院」に包囲・収容するだけであった。加えて、戦後のソ連においても「犯罪者は監獄に、精神病者は精神病院に」といった制度設計にはなっておらず、「政治犯」と「普通犯」の区別も消失したままであり、政治犯・普通犯であれ、精神病者であれ、それらは「社会全体、人民の財産、社会主義者の生産物、政治体に対する侵害」(Foucault 1994f=2000:74)として位置づけ続けたのである。そしてその内部ではソルジェニーツィンの「普通犯」への屈折した敵意・憎悪に見られるような卑しくも滑稽な群像劇が織りなされていったのだ。
 このように社会主義を自称するソ連における精神病院への反体制派の強制収容は幾重にも逆説的である。なぜならば、「反体制派は、単に政治的な処置の対象にされるはず」にもかかわらず――説明するまでもなく「政治的な処置とは、彼にその誤りを気づかせ、その意識の水準を向上させ、ソヴィエトの現実は一体何において理解可能であり必要なのか、望ましく魅力的なものなのかを彼に理解させることを目的としたもの」であるはずだ――、精神医学の「治療処置の対象」とすることは、「ある人に、その人の抵抗は根拠薄弱だということを、理性的な言葉で説得することは不可能であると、いきなり最初から認めること」であり、来るべき世界の秩序のための「啓蒙の場所」たるソ連の存在意義を宙吊りにするものであるはずだからだ。あるいは「人間の敗北」を意味してしまうものであるからだ。
 それは、ソ連の「現実を好まぬ者たちに受け入れさせるための唯一の手段は薬学技術によって彼らのホルモンやニューロンに権威づくで処置を施すことであると認めること」と同様である。それは「ソ連で用いられている刑罰技術が最終的に明らかにするのは、社会主義のプロジェクトを特徴づけるあらゆるものが、このように根本的に放棄されている」(Foucault 1994f=2000: 82-83)ということを指し示してしまっている。
 いずれにしても、戦後のソ連の精神医学のテーゼは「【1】人間(の身体)を含む自然はそれ自体善であるが、それを『狂気』という形で悪化させるのは歴史的・経済的・社会的疎外によるものである。労働の価値を損なう『狂気』が歴史的・経済的・社会的疎外をもたらす資本主義体制によって作り出されるとすれば、ソヴィエト社会主義共和国連邦に『狂人』はいないのだ。いてはならないのだ。加えて、政治犯も普通犯も狂人もソ連の政治経済体制を転覆する可能性があるという意味では『危険な存在』であり、『精神を病む人びと』である。そのためにも、彼/女らは精神医学の観点から精神病院に隔離・収容されることが望ましい。【2】そうした『危険な存在=精神を病む人間』は『治療処置の対象』とすることによって、ソ連の秩序は保たれるのである」といったものに変転・旋回していくのだ。
 大雑把に言ってしまうと、1930 年代以降〜 1960 年代までのソ連の精神医学と収容所の関係は露骨な形で結び付いてきたものであったのだが――18 世紀末〜 19 世紀初頭の発明品たる両者はもともと社会秩序を構成する機能を目的として切り離し難い関係にあったが――、1930 年代における「脱精神医学化」においては「人間(の身体)を含む自然はそれ自体で善であるが、資本主義体制においてその自然は『狂気』という形で悪化させられている。その『狂気』をなくし、自然それ自体を『啓蒙』という人間の力で変革するべきである」というテーゼであったが、同じく1930 年代におけるスターリズム体制においてそれはひっくり返され、「(人間(の身体)を含む自然はそれ自体で善であるが、資本主義体制においてその自然は『狂気』という形で悪化させられている。その『狂気』はソ連の秩序にとって『危険な存在』であり、それは『収容所』において隔離・消去されなければならない」というスターリニズムのテーゼに変容=変転していくのだ。言うなれば、「狂気」を「人間の力で変革すること」は断念され、「狂気=危険な存在」を「収容所」にて処理していくという方法へと切り替わっていってしまったのである。その後、戦後における「再精神医学化」されたソ連の精神医学においては、反体制派は収容所から精神病院へと移し変えられていくのだが、そこでは「人間(の身体)を含む自然はそれ自体で善であるが、資本主義体制においてその自然は『狂気』という形で悪化させられている。その『狂気』はソ連の秩序にとって『危険な存在』であり、それは『精神病院』において隔離・消去されなければならない」といったテーゼに変容=転移していく。戦後における反射理論は「資本主義体制によって作り出された疎外的状況に神経系が耐えられなくなると、人びとは『防衛反応』として『狂気』を示す」という視点を導入することで戦前/戦後の疎外論的な精神医学のテーゼを補強していくものであったのだ。フーコーが処女作『精神疾患と人格』において提示してしまった理論とは、ビンスワンガー流の実存哲学を組み込んでいるとは言え、まさにこうしたソ連の精神医学の思想の連続線上にあったのだ。少なくともそれを根本において書き換えるものではなかった。
 しかしながら、このような思想と政治体制を色濃く反映・投影しているにもかかわらず、ソ連の強制収容所についての言説の多くがそこに刻印されている思想と体制を語らない。強制収容所という極限状況において「加害-被害の同在=流動から生存と淘汰を分かつ偶然性」(中島 2008: 47)やら単独性=固有名問題(東 2002: 130)やらの諸問題として回収してしまう。ソ連の強制収容所はその反復思考の素材として「記号αβθ…… 」の一つとして使用・流用・援用されるばかりである。極論すれば、その「反復思考の素材=記号」はアウシュヴィッツでも文革期の中国の収容所でも戦前日本のフィリピンの捕虜収容所でもテキサス州の監獄でも何ら変わらない。そこから導出される思考にさしたる差異はない。
 あるいは、石原吉郎の仕事のように、シベリア抑留についての思考でいまだその意義は失われないものはあるにせよ、いかなる強制収容所がどのような思想と政治体制のもとで作られ、変容してきたのか、それは精神医学システムや刑罰システムとどのような関係にあるのか、それらはその後の歴史と思想をどのように形作っていったのかを語らない。
 たとえば、四方を高い塀と二重の鉄条網に囲まれ、短機関銃を携えた警備兵によって常に遍く監視されたカザフ共和国アルマ・アタのラーゲリの第三分所における「極限状況」において――私物を取り上げられ、髪の毛のみならず全身の毛までも剃られ、あまりに過酷な労働を強いられるような状況において――互いに不信と憎悪を向け合う二人が、自分が生き延びるために結ぶギリギリの関係として、同じ飯盒に入った僅かな食事を「全き均等に分かち合う」ような「公平な関係」を取り結び、あるいは「無関心と憎悪を前提として成立する共生と連帯」を保持している、といったことが書き記される(石原 1972 ほか)15)。その多くは「生き残った者の負い目」やら「生存の偶然性」やら「極限状況での自由」やらといったお話を導くための記述となってしまう。
 誤解を恐れずに言えば、今日の施設・現場などにおける記述がそうであるように、面倒な人びと・厄介な人びと・手のかかる人びとなどを施設・現場などに隔離・排除し、施設・現場などに押しつけている状況の中では、それらの諸言説は《吹き溜まりの思想》に堕してしまうのだ。私たちに求められているのは《吹き溜まりの思想》ではなく、それらの思想を語らせしめるシステムがいかなる思想や政治経済的体制のもとで形成されてきたのか、それらのシステムの再編によっていかなる現実が立ち現れているのかを語ることである。

5.反精神医学の位置

 では、そのようなソ連の精神医学の思想と(フーコーもその理論的提唱者の一人として数えられることもある)反精神医学の関係はいかなるものであったのかを見てみよう。
 フーコー自身は、1974 年3 月の「権力メカニズムにおける監獄と収容所」のインタビューの中で「『狂気の歴史』を書いたとき、私は無知もいいところで、すでにイギリスに反精神医学論が存在していたことを知らなかった」(Foucault 1994e=2000: 297)と語るように、本人は自覚化・意識化していなかったとはいえ、フーコーもまたクーパー、レイン、サズ、バザーリアなどと同じ時代を生きていた。「反精神医学」的な語りが迫り出す歴史的・時代的文脈のもとを生きていたのだ。
 フーコーは数多くの場面で「反精神医学」に対する肯定的な評価を下す。とりわけ、クーパーやレインなどに代表される「反精神医学」は「狂人であることを病気の一形態とは考え」ず、「まったく新たな関わり方を導入した」ものであったと評価する。「これは精神医学に対する重大な断絶を意味するもの」(Foucault 1994e=2000: 401)と主張した。
 詳説するまでもないが、戦後の西欧社会における反精神医学の潮流の広まりは、当該社会が先述した反射理論をどのぐらい/どのように受容していたのかによって大きく規定されていた。とりわけ、戦前/戦後のフランスにおいても――特に戦後において――精神科医たち自身の中から精神医学の実践を問い直す運動があったにもかかわらず、反精神医学の潮流が広まらなかった理由の一つとして、フランスの左翼の精神科医たちが反射理論のイデオロギーに縛られていたことを挙げる。「フランスの精神科医たち、大雑把にいって左翼の精神科医たちは、その政治的選択ゆえに精神医学という装置を疑問に付すことができたはず」であったにもかかわらず、第一に、ソ連で「危険な存在」が精神病院に隔離・収容されていた事態にあったため、精神医学の装置を問題化するのはよくないという政治的状況にあったゆえに、それを問わなかった。第二に、「彼らは現代的「非理性主義」――実存主義や精神分析等々――に対抗するイデオロギーとして、この反射理論のイデオロギーを押し付けられた」ために、問うことをしなかった。第三に、「彼らの具体的な使命として課せられていたのは、精神医学の実践や精神病院の制度を問題にするということではなくて、精神科医たちの職業集団を防衛することであった」がために、その根本問題を問わなかった(Foucault 1994f=2000: 465-466)。いずれにしても、フーコーが苦悩・格闘した時代の西欧社会――特にフランス社会――における精神医学は「壁の向こう」の思想と体制に呪縛されていた。実際、戦後すぐにサイバネティックスに関する情報技術が知られるようになった際、フランス共産党の公式機関は「ニセ科学だ、典型的な資本主義の技術だ」などと告発した。「ソ連邦において用いられていない技術は、とりあえず価値剥奪された」(Foucault1994f=2000: 468)16)。そして、「反精神医学やあるいは精神医療機関の系譜学が企てられて」から十数年経ても、精神医学には「統一的理論が知の系譜学をよけて通ろうとする」「用心深さ」がある(Foucault 1994f=2000: 83-84)17)とする。
 ともあれ、1970 年代に入ると、「反精神医学」は大きな運動とうねりになっていく。その思想と実践は、「自分たちの都合のいい改革しか提案しない医師や精神科医からそうした権利を剥奪し、さらにそれを学校、病院、監獄など他の施設の実情に対する批判や告発に結び付けることによって、議論を政治的次元にもっていく必要があった」のである。
 そのためにこそ、反精神医学は「権力のたまり場的状態」がいかにして出来上がるのかを暴き出し、「実際の政治団体によってそれに攻撃をかけたり、精神病院の中に規律と権力行使の実態調査班を設置すること」を目指してきたのである。もちろん、「例えば、どうしても仕事に従事できない人も多ければ、どうしても性生活を維持できない人もたくさんいる」といった具合に解決できない問題も残る。「しかし最も肝心な点は、そうした問題に一つの規定を与えてそれをなしくずしにしてきた医学的権力が、もはやそこに入り込めなくなったこと」である。実際、精神病者の当事者組織はこの小さな共同体を通じて互いに支えあい、外部の人たちの助力を得ながら自分たちの問題解決に取り組んでいる。このように「自らの問題を自主管理するグループ」(Foucault1994e=2000: 404)を形成したのだ。
 このように反精神医学の思想と実践を評価するフーコーは、しかしながら、1970 年代以降における「脱施設化」「脱精神病院化」等の政策の動向に対しては極めて懐疑的であった。
イギリス下院の〔1972 年以降20 年かけて全ての精神病院をなくすという〕決議は、たしかに注目に値するものです。むしろ、驚愕に値するといってもいい。その行き着く先が彼らにちゃんと見えているのかどうか、私は疑問に思う。⋯⋯資本主義社会が、そして目下のところ、非= 資本主義社会を自称する社会もまた同様に、とにもかくにも収監する社会として存在しているからです。⋯⋯資本主義社会が収監型の社会であるということ、これは証明済みの事実のようでいて、いざ説明するとなると実に難しい。実際、労働力の売買が行われる場としてあったはずの社会が、なぜ収監する社会にならねばならないのか? 無為、放浪、あるいはよりよい賃金を他所に求めていく人々の移住、すべてそうしたものは、この大衆という碁盤目状組織を押し流し、大衆を雇用市場に引き留める可能性をも運び去ってしまう。そうしたことがすべて収監の実践そのもののなかに書き込まれているのです。だから、ある社会が――イギリス社会のように資本主義的な社会までもが――、収監制度は少なくとも狂人たちにとってはもはや存在しない、などと謳い上げても、わたしは次のように自問せずにはいられない。それは収監制度の残り半分を丸々占めている刑務所が消滅するということだろうか、それとも逆に、精神病院が明け渡した場所を、今後、刑務所が占めてゆくということなのだろうか。英国は、ソ連がやっているのと正反対のことをしているだけではないか。ソ連は精神科病院を普遍化し、それに刑務所の役割を果たさせようとしている。英国は、たとえそれが見事なまでの改善を経た施設であるとしても、刑務所自体の機能を拡張する方向に導かれるのではないか。(Foucault 1994d =1999:274-275)
 フーコーは「脱施設化」「脱精神病院化」を謳う政策に対して常に疑っていたし、冷ややかに評価していたし、断固として手放しで肯定することはなかった。「脱施設化」「脱精神病院化」を謳う政策が実行されたとしても、その政策を通じて精神病院を潰したかのように見えても、その実、病院に収容されていた人たちが刑務所等の施設に居場所を移すだけであったり、彼/女らを各種の中間施設・在宅関連施設に遍在的にバラすだけではないか、という直感・確信がフーコーにはあったのだ。あるいは、逆に、刑務所を開放したとしても、スターリン死後のソ連と同様、精神病院が刑務所の機能を肩代わりするだけではないか。更には、精神病院や刑務所から出てきた人たちを家族+各種の専門家に押し付ける形で統治して、「サテライト型のミニ精神病院/ミニ刑務所」たる「在宅の空間」が生まれるだけではないか。だから、フーコーは「脱施設化」「脱精神病院化」の政策を決して信じてはいなかったのだ。「敵」はそんなに甘くないときちんと見積もっていたのだ。「たとえそれが見事なまでの改善を経た施設であるとしても、刑務所自体の機能を拡張する方向に導かれるのではないか」という直感・確信から常に現実を診断していたのである。
 加えて、確かに先述のようにフーコーは反精神医学に概ね肯定的な評価をするが、それだけではフーコーの「反精神医学」に対する思考の道筋を正確に掴んだことにはならない。「反精神医学」「精神医療批判」に対するフーコーの思考の独自性・画期性は、実は「精神医学」は常に「反精神医学」「精神医療批判」を組み込みながら、その《政治経済的な膨張と収縮》を重ね、統治システムを再編してきたという点である。1974 年のコレージュ・ド・フランス年報に書かれた「精神医学の権力」で以下のように述べるのだ。やや長い引用になるが、フーコーの思考の道筋を理解する上で決定的に重要であるため、引いておこう。
仮説はこうである。危機が開かれた。シャルコが自分の叙述するヒステリーの発作を実際は自分で生産していたのではないかという、時を経ずに確信に変わる疑念が生じた時、反精神医学の時代、今も依然としてほとんど素描されていない反精神医学の時代が始まる。ここには、自分が相手取って闘うものであるはずの疾病を医師が自分で伝播させていた、というパストゥールの発見に等しい何かがある。いずれにせよ、19 世紀末から精神医学を揺るがしてきた大衝撃はすべて、医師の権力を本質的に問いただしてきたように思われる。医師の権力と、これが病人に対して生産する効果とが、医師の知や、医師が疾病について語ることの真理よりも問いただされてきたのだ。もっと正確に言えば、ベルネームからレインあるいはバザリアに至るまで、問題に立ってきたのは、医師の権力が医師の言うことの真理のうちにいかにして含みこまれてきたのか、そしてその逆に、医師の言うことの真理が医師の権力によっていかにして作りあげられ巻き込まれてきたかということである。クーパーは言う。「暴力は我々の問題の中核にある。」バザリアは言う。「こうした制度〔学校、工場、病院〕の特徴は、権力を保持している者たちと保持していない者たちとの間をきっぱりと分離しているということである。」精神医学の実践のあらゆる大改革、のみならず精神医学の思考のあらゆる大改革が、この権力関係を取り巻いている。こうした大改革は、この権力関係をずらし隠し根絶し停止させるためのかくも数多い試みを構成している。近代精神医学の総体はつまるところ反精神医学によって横断されている。反精神医学というのが、疾患の真理を病院空間で生産するという、かつて精神科医が担っていた役割を問いなおすことすべてであるとすれば、そうである。したがって、近代精神医学の歴史を貫いてきた、複数の精神医学について語ることができるだろう。だがおそらくは、歴史的、認識論的、政治的な見地から完全に判別される二つの過程を慎重に区別したほうがよいだろう。まず、「脱精神医学化」の運動があった。シャルコの後すでに現れたのはこれである。これは、医師の権力を停止させるものではなく、これを、より正確な知の名においてずらし、これにまた別の適用、新たな尺度の見地をもたらそうとするものである。…… 脱精神医学化の最初の形式はババンスキとともにはじまる。脱精神医学化の決定的英雄がここに現れる。疾病の真理を演劇的に生産しようとするよりも、これをその最低限の現実へと縮減するほうがよい、というのである。…… もう一つの脱精神医学化の形式は、この形式とちょうど正反対の形式である。そこで問題なのは、狂気本来の真理における狂気の生産をできるだけ強化することであるが、それにあたっては、医師と病人との間の権力関係がこの狂気の生産においてちょうど備給され、権力関係がこの生産に対して適正を保ち、権力関係がこの生産の枠を出ず、この生産がその制御を保つことができるようにするのである。…… 精神分析は、歴史的には、シャルコという名の外傷によって惹き起こされた脱精神医学化の第二の大形式として解読することができるだろう。精神病院という空間から引き籠り、精神医学の過剰権力のもつ逆説的な諸効果を抹消しようというのである。しかしそれは、真理の生産者としての医学の権力を新たにしつらえた空間で再構成し、それによってこの真理の生産が相変わらずこの権力に対して適正を保つようにすることである。(中略)この、脱精神医学化の二大形式は、いずれも権力を保存するものである。というのも、一方は真理の生産を停止させるし、他方は真理の生産と医学の権力を互いに適正なものにしようとするからである。これらの脱精神医学化に対して、反精神医学が立てられる。精神病院という空間から引き籠るのではなく、その空間を内的な作業によって体系的に破壊することが問題となる。自分の狂気とその真理とを生産する権力をゼロに縮減するのではなく、この権力を病人自身に移すということである。ここから発すれば、反精神医学に賭けられているものを理解することできると思われる。それは、認識(つまり診断の正確さないし治療の有効性)という意味での精神医学の真理の価値などではまったくない。反精神医学の中核には、制度を用いた、制度のうちでの、制度に反しての闘争がある。19 世紀初頭に精神病院の大構造が設置された時、それは社会秩序の要請――狂人たちの混乱から身を護ることを要求するもの――と治療上の必要性――病人を隔離することを要求するもの――とのなす驚異的な調和によって正当化されていた。(Foucault 1994e=2000:265-269 /傍点引用者)
 1974 年の年報論文「精神医学の権力」は、翌年刊行の『監獄の誕生』(Foucault 1975=1977)の刊行、翌々年発表の『性の歴史Ⅰ――知への意志Histoire de la sexualité Vol.1: La volonté de savor』(Foucault 1976=1986)の主題と方法論に接続していく論文であるという意味で、「生権力」や「統治性」概念へと展開していく時期のものである。それだけではなく、「後期フーコー」の「統治性論」を読み解くことができる1975-1976 年度講義『社会は防衛しなければならない』(Foucault 1997=2007)、1977-1978 年度講義『安全・領土・人口』(Foucault 2004a=2007)、1978-1979 年度講義『生政治の誕生』(Foucault 2004b=2008)へと連接していく論文としても極めて重要なものである。その意味からすれば、この年報論文には2 つの重要な知見がすでに書き込まれていると言えるだろう。
 第一に、「医学」は「反医学」「医療批判」を、「精神医学」は「反精神医学」「精神医療批判」を常にその内に孕みながら《政治経済的な膨張と収縮》を反復し、そのシステムを編成していくダイナミズムとして提示している点である。実際、年報論文と同時期である1974 年10 月にリオ・デ・ジャネイロ国立大学社会医学研究所生体医学センターにて行なった「医学の危機あるいは反医学の危機?」と題する講演においても、①「医学」は「反医学」「医療批判」を契機にした「危機」とともに変容し、それが新たな《政治経済的な膨張と収縮》を作り出していく歴史的ダイナミズムであること、②そうした「医療国家」は18 世紀の医学・保健衛生システムに歴史的起源をもつが、そこでの大きな認識論的転換は医学の介入の宛先を生命そのものと変容させ、無際限の医療化を雁行させてきたとされるが、現実には「反医学」を契機に医療国家はその領域と範囲を拡大化・複数化させていくこと、更には、③医療国家は健康のため、病気を治すため、医療サービスを消費することで幸福な暮らしを保つことを前提にしているが、それは常に「機能不全」を起こすため、「危機」とともに常に体制は再編されていくことになることを提示している(天田 2010j)。
 つまり、1974 年の日付を刻んだフーコーにとっては、【1】「医学」は「反医学」「医療批判」とともに、「精神医学」は「反精神医学」「精神医療批判」とともに変容・展開していく実に手強く厄介な歴史的・政治経済的ダイナミズムとして理解されており、【2】「医療国家」あるいは「精神医療国家」は18世紀から19 世紀に歴史的起源を持ちながら、それは「反-」「- 批判」を契機にした「危機」を介して《政治経済的な膨張と収縮》の中でシステムを常に再編して生き長らえてきたものであり、【3】その「幸福国家」たる「医療国家」「精神医療国家」は国民の幸福とその機能不全を参照にして幾重にも幾度も組み替えられてきたものとして認識されているのである。
 したがって、精神医学の歴史は――医学の歴史がそうであるように――、「反精神医学」「精神医療批判」を自らの内に孕みながら、それを組み替える形で展開されてきた。シャルコーは自らが診断する空間においてヒステリー患者の女性がヒステリーを模倣し、それを診断する自らが病気を生産しているのではないかという確信を抱くようになった。「脱精神医学」ないしは「反精神医学」の歴史は決して1960 年代という時代状況において開始したものではなく、精神医学の歴史とともにあるのだ――その意味でジャン=マルティン・シャルコー(Jean-Martin Charcot)の発見とはルイ・パスツール(Louis Pasteur)のそれに等しい何かであったのだ――。もっと言えば、「精神医学」には、『生政治の誕生』における自リベラリズム由主義の定義よろしく、「権力の過剰性に対する自己反省的な統治実践」が埋め込まれている。「自由主義」の根底にあるのは「『常4に統治しすぎている』という原理――あるいは少なくとも統治しすぎているのではないかと常に疑わなければならないという原理――である」(Foucault2004b=2008: 393 /傍点引用者)だとすれば、「精神医学」はその自由主義的統治実践=権力の過剰性に対する自己反省的な統治実践を組み込み、精神医学システムを変容させてきたものである――《自由主義とは「統治の過剰性」への不断の自己反省的・自己制御的な統治実践において達成されるもの》であるとすれば、精神医学はその自由主義的統治実践が組み込まれてきた政治経済的システムでもあるのだ(天田 2008d)――。
 だからこそ、「19 世紀末から精神医学を揺るがしてきた大衝撃はすべて、医師の権力を本質的に問いただしてきた」ものであり、「医師の権力と、これが病人に対して生産する効果とが、医師の知や、医師が疾病について語ることの真理よりも問いただされてきた」し、「医師の権力が医師の言うことの真理のうちにいかにして含みこまれてきたのか、そしてその逆に、医師の言うことの真理が医師の権力によっていかにして作りあげられ巻き込まれてきたか」をその根本において問うてきたのだ。精神医学の内部に/外部に自由主義的な統治実践はあるのだ。したがって、フーコーは「反精神医学」を肯定的に評価しながらも、それらに対しても(自らに対しても)やはりどこか冷静な態度を貫いたのだ。
 重ねて彼は言う。「反精神医学というのが、疾患の真理を病院空間で生産するという、かつて精神科医が担っていた役割を問いなおすことすべてであるとすれば」、「近代精神医学の総体はつまるところ反精神医学によって横断されている」。であるからこそ、「反精神医学」を易々と持ち上げることはできないし、すべきでもないと語るのだ。
 もちろん、「反精神医学」とて、きちんと切り分けて論じる必要がある。
 一つには、「脱精神医学化」の運動がある。この「脱精神医学化」の方法には主に2 つの方法がある。第一の方法は、サルペトリエール病院でシャルコーのもと医長を務めた、「バビンスキー反射」の発見者として有名なジョゼフ・ジュール・フランソワ・フェリックス・ババンスキー(Joseph Jules FrançoisFélix Babinski)等に代表される、《身体に対するより適正な診断・治療法を確立する方法》といったものがある。「疾病の真理を演劇的に生産しようとするよりも、これをその最低限の現実へと縮減するほうがよい」ということである。ここに「脱精神医学化の決定的英雄」たるババンスキーの紛うなき功績がある。第二の方法は、第一の方法とは反対に、《過剰な権力が働かぬように、患者と医師の適正な権力関係へと転移させる方法》である。「医師と病人との間の権力関係がこの狂気の生産においてちょうど備給され、権力関係がこの生産に対して適正を保ち、権力関係がこの生産の枠を出ず、この生産がその制御を保つことができるようにする」のである。その意味で、精神分析とはシャルコーの発見=外傷によって惹き起こされたこの第二の方法に属すものである。別の箇所でフーコーが「精神薬学と精神分析はともに、むしろ狂気の過度の医学化に属している」(Foucault 1994e=2000: 272)と述べるように、精神病院からの人的・空間的な転移は、権力関係を適正化しようとしながら、まさによく知られている「転移」に象徴されるように、別様な狂気の姿を作り出してしまったのである。いずれにしても、「脱精神医学化の二大形式は、いずれも権力を保存するものである」という意味で、「権力の生産過剰」内部における改革であり、実践に過ぎないのだ。「精神病院という空間から引き籠り、精神医学の過剰権力のもつ逆説的な諸効果を抹消しよう」という限りにおいて、それは「真理の生産者としての医学の権力を新たにしつらえた空間で再構成し、それによってこの真理の生産が相変わらずこの権力に対して適正を保つようにすること」である。
 こうした「脱精神医学化」とは異なり、「反精神医学」が立てられる。1950年代以降の脱精神医学とは、「その空間を内的な作業によって体系的に破壊すること」にその核心がある。それは「自分の狂気とその真理とを生産する権力をゼロに縮減するのではなく、この権力を病人自身に移す」ものである。精神科医間・専門職間の人的・空間的移転ではなく、当人にその権力を委譲していくのである。その意味で《自由主義的統治実践》でもある。
 言うなれば、反精神医学の賭金とは、《身体に対するより適正な診断・治療法を確立する方法》《過剰な権力が働かぬように、患者と医師の適正な権力関係へと転移させる方法》といった精神医学の真理の価値にあるのではなく、「制度を用いた、制度のうちでの、制度に反しての闘争」に内属した価値にあるのだ。こうした「権力の生産過剰」とその根本において批判し、実践するという意味で、フーコーは反精神医学を評価していたし、自らが反精神医学の旗手として数えられることに対して強く批判をしなかったのだ。
 しかしながら、1974 年の年報論文に書き込まれていたもう一つの知見とは、こうした反精神医学において「権力の生産過剰」が問われながらも、反精神医学ではいかんともし難い問題が提起されていた点である。フーコーは反精神医学の内に留まらなかったのだ。先に引用した箇所(1974 年の年報論文)に続けてこう述べるのだ。
様々な形をとっている反精神医学は、こうした制度的権力の働きに対して立てる戦略に応じて位置づけることができるように思われる。病院と医師双方による自由な同意に基づく一対一の契約という形式によって制度的権力から逃れること(サース)、制度が再構成されるとこれを宙吊りにし追跡すべきものとする特権的な場を整備すること(キングスリー・ホール)、制度を一つずつ標定し、古典的なタイプの制度の内部で漸進的にこれを破壊すること(21 号棟のクーパー)、制度を、既に精神病院の外部で個人の精神疾患の病人として隔離を規程しえてきた他の権力関係と結びつけること(ゴリツィア)。精神医学の実践のア・プリオリを構成してきた権力関係は、精神病院という制度が機能するのを条件づけ、諸個人間の諸関係を精神病院において分配し、医学的介入の諸形式を支配してきた。反精神医学ならではの逆転は、その権力関係を逆に問題の領域の中心に位置させ、本源的な仕方で問いただす、というところにある。(Foucault1994e=2000: 269-270)
 1950 年以降の反精神医学の運動は様々な実践とその方法を生み出してきた。実際、《サズ的な方式=患者と医師・病院による自由な同意に基づいた契約形式によって権力を縮小化・適正化しようとする方法》、《キングスレイ・ホール方式=患者と医師・病院の非対称的かつ権威的な関係性を拒絶し、患者が自らの意思において自由に行動する方法》、《21 号棟のクーパー的な方式=既存の制度の内部に留まりながらも、その制度を漸進的に壊しながら作り変えていく方法》、《ゴリツィア= バザーリア的な民主的精神医療化の方式=患者の隔離・収容を規程してきた諸制度を権力関係のうちに捉え、作り変えていく方法》などがあるが、そこに通底している思想的・実践的な核心は「権力関係を逆に問題の領域の中心に位置させ、本源的な仕方で問いただす」という点にあったのだ。まさにこの「権力の生産過剰」を「中心」に転移させたことこそ「反精神医学ならではの逆転」があったのだ。
 しかしながら、反精神医学は「権力の生産過剰」を問い直しながらも、同時に、反精神医学ではいかんともし難い問題を提起していたとも言える。先にも引用したが、J-M・ドムナック、J・ドンズロ、J・ジュリアール、P・メイエール、R・ピュシュー、P・ティボー、J-R・トレアントン、P・ヴィリリオを交えてのかの「円卓会議table ronde」にて、ヴィリリオの発言に導かれて、フーコーは以下のように発言しているのである。
 私たちの資本主義社会が「収監型の社会」であることは自明かつ証明済みの問題であるかのように見えて、実は、極めて説明することが困難な問いでもある。実際、労働力の売買が行われる場であり、雇用が確保されることが望まれる社会において、なぜゆえに「収監型の社会」となるのか。無為の人びと、放浪する人びと、移住する人びとなどは「大衆という碁盤目状組織を押し流し、大衆を雇用市場に引き留める可能性をも運び去ってしまう」という意味で、安定した労働市場において「脅威」となり得る存在のはずである。しかしながら、現実には「収監の実践」そのものにそうした市場の編成は書き込まれている18)。《吹き溜まりの思想》ではなく、正確に「権力のたまり場的状態」がどうして出来上がるのかを暴き出すことを反精神医学の運動が遂行したことは否定しない。それはその運動がもたらした確実な到達点である。しかしながら、「どうしても仕事に従事できない人」や「どうしても性生活を維持できない人」などがいる。「反精神医学による批判もこの種の問題は解決」できない(Foucault1994e=2000: 404)。その意味では、《吹き溜まり》は《権力のたまり場》ではあるが、主体と経済をめぐるもう一つの別の機制が作動しているのだ。これこそがフーコーが『安全・領土・人口』と『生政治の誕生』において思考実験的に考えながらも、その根底において挫折した思想と政治体制をめぐる問題があったのだ。
6.思想と政治体制をめぐる思考へ
 「マイノリティ研究」とはまさにこの「続き」を、すなわち、私たちが「マイノリティ」と呼ぶことはなぜゆえに/誰において/いかにして可能となっているのか、その望まれしシステムとダイナミズムはいかに機能し、効果を及ぼしたのか、そのシステムにはいかなる思想と政治体制が刻印されたものであり、そしてその後の思想と政治体制を産み出しているのか、その主体と経済をめぐる問題はいかにして可能となっているのか。それらの問いをその根本において徹底的に問うことである。待ち望まれし「マイノリティ研究」の仕事とはここにおいて立ち現れていくであろう。そして、それは文字通り「問題にしている人たち」を宛先にした言葉の数々になっていくであろう。「ジャーナリスト」ないしは「花火師」たる私たちの重要かつ戦略的な思想実践である。
重要なのは――著作家の政治行動にとって――全ての人から理解されるということというよりも、むしろ問題にしている人達から理解されることです。もし『狂気の歴史』が精神科医や心理学者、看護人、精神病患者に読まれうるのなら、そして彼らにとってあの本が何らかの意義あるもので、彼らに衝撃を与えるのであれば、本質は達せられるわけです。労働者があの本を理解しなくても、深刻なことではありません。フランスの労働者の状況について述べた本なら、深刻でしょうが。(Foucault 1994e=2000: 74)
 本章では、ミッシェル・フーコーの『思考集成』の切片・断片群のみを解読・論考することを通じて、【Ⅰ】フーコーが《幼少期のファシズムへの恐怖の体験》と《スターリニズムの暴力への抵抗》、そして《30 代の挫折と思想的転回》を経て、ファシズムとスターリニズムを極北とする「権力の生産過剰」を解明することへと到達したことを明示した上で(第1 節)、【Ⅱ】資本主義体制において精神医学と刑罰が結合する中で「周縁的な存在」は作り出され、「民衆と周縁的な人間の断絶」が達成されると同時に、「周縁的な人間の監視=矯正」「民衆の保護と監視=矯正」「民衆の犠牲者化=優等生化」が共軛的に遂行されていく歴史的・政治経済的ダイナミズムを描出した(第2 節)。次いで、【Ⅲ】18 世紀末〜 19 世紀初頭に発明された精神医学と刑罰が結合した統治システムは「反精神医学」「精神医療批判」を組み込みつつ《政治経済的な膨張と収縮》を反復して再編していく歴史的ダイナミズムを有するものであり、「番犬システム」の「番犬」たちの担い手を変更し、その都度で機能を委譲することを通じて編成していくシステムであることを記した(第3 節)。そして、【Ⅳ】ソ連における精神医学と収容所の関係が指し示すように、精神医学と刑罰の結合は当該社会における思想と政治体制を企図/投影した「脱精神医学化」「再精神医学化」の迫り出しとせめぎ合いを通じて変容・編成・変転していくことを明らかにした(第4 節)。更には、【Ⅴ】「反精神医学の思想」として数えられることがあるフーコーの思想とは、まさに「壁の内部」である資本主義社会と「壁の向こう」の非- 資本主義社会を通約する精神医学と刑罰に刻印された統治技術に書き込まれた思想と政治体制への徹底した批判精神から惹起・醸成されたものであるゆえに、「脱施設化」「脱精神病院化」の政策には極めて懐疑的・冷笑的であったし、「反精神医学」それ自体に対しても一方では肯定的な評価を与えながらも、他方ではそのような「反精神医学」や「精神医療批判」こそが精神医学それ自体を不断に編成し、書き換えてきた《自由主義的な統治実践》を可能にしてきたものであると論考するのだ。また、彼が自らの仕事にて達成し得なかった、反精神医学ではいかんとも解決し難い《主体と経済》の問題について書き残していたことを明示した(第5 節)。最後に、【Ⅵ】まさに「マイノリティ研究」においては、フーコーが指し示したような統治技術に書き込まれた思想と政治体制を、統治技術によって編み直されていく思想と政治体制を論考し、フーコーが挫折した《主体と経済》を思考することこそが重要かつ戦略的な思想実践になることを明示した(第6 節)。本章のささやかな企ては、それ以上でもそれ以下でもない19)。
 しかしながら、こうしたささやかな論考からでさえも、私たちは過去の思考の道筋を辿ることができるし、辿る中で自らの進むべき道程を見つけることが可能となるだろう。そのことは信じてもよい。
[注]
1)フーコーは『思考集成』の中でも「私は1952 年冬、医師たちがスターリンに対して企てたというかの有名な陰謀のあとで党を去りました。(中略)これを機に私はフランス共産党を去ったのです」(Foucault1994h=2001: 206-207)と述べる。
2)よく知られているように、フーコーのフランス共産党入党は、恋人のエレーヌ・ルゴティアン= リトマンの影響で1948 年に入党していたアルチュセールの影響が大きい。もちろん、後年フーコーが語るように、当時の共産党は高等師範学校の学生に絶大な影響を及ぼしており、その学生たちの多くがインドシナ戦争に反対デモを行っていたこともあって入党に至ったのではあるが。
3)フーコーはビンスワンガーを以下のように評す。「私にとって(ビンスワンガーらの)「実存哲学」とか「現象学的精神医学」とか呼ばれたものの読解は、精神病院で働き、精神医学的眼差しが提供する伝統的な読解格子とは違う何か、つまり一つの平カウンターウェイト衡錘を探していた時期には重要なものでした。間違いなく、あのユニークな比類なき根底的経験としての狂気をめぐるみごとな記述は、重要だったのです。そもそも、レインもまたそうした一切に感銘を受けていると思います。彼もまた長いあいだ、実存分析に準拠していました」(Foucault 1994h=2001: 206-207 /ルビ原文)。
4)バタイユへのオマージュは「侵犯への序言」(Foucault 1994a =1998: 304-325)を熟読されたい。なお、バタイユは「内的体験」における主体と主体が連続してしまう瞬間に対して思考は何も意味づけすることができないと言及する。『純然たる幸福』においてこう記す。こうした思考の届かなさを確認することはささやかながら重要である。なぜならば、この確信をもつことで「愚行の助言者である恐怖の意のままに生きない」ことが可能になるからである。更には、こうした確信は、「救いもなく希望もなしに存在してみようとする勇気への勧誘」でもあるのだ。つまり、「宙づりの〔=何にも従属していない〕大胆さ以外の何ものも当てにしない人間の幸福な運動のなかに存在してみようとする勇気、この勇気への勧誘」でもあるからだ。このような《極限体験への省察》こそが、私たちを原初の状況へ連れ戻すのだ。本稿では言及する紙幅的余裕はないが、バタイユの「極限体験」に強く惹かれながらも、その後、フーコーがその「極限体験」の理論からいかに距離を図ったのかを知る必要がある。
5)社会学に限らず、いわゆる「少数派の人びと」についての論文・著書、あるいはその人たちが抱える差異についての/差異をめぐる論文・著書は多い。少なくない論文・著書がある。だが、幾つかの例外を除けば、それらのどれをとっても満足できるものはない。多少なりとも実際の現実を知るものにとっては、それらは事態の複雑さについて何ら記されていない。その意味で、私はこの領域・テーマでこそやるべき仕事が数多く山積されていると思っているのだ。かつて「汗牛充棟」にやられた主題、時代的な知的ファッドからすればあまり注目されていないテーマにこそ、やるべき仕事がたくさんあると言ってよい。ここをまずはきちんと考えていくことが大切だろう。一つには、現実に様々な異なりを生きる人びとがどのように生きているのか、これをきちんと記すことである。もちろん、これまでも様々な差異を抱えて生きる人たちの生活実態や生活史を捉えようとした研究は多い。しかし、その実、どのような困難がいかに生じ、その困難がまさに困難なままに置かれ、その解決の道筋がいかに立ち難いかを記そうとした研究は実に少ない。一つには、彼/女らの集団・組織の中で、彼/女らの運動の中で、どのような繋争点があったのか――現にあるのか――を記すべきと思うのだ。様々な差異を抱えている人びとが集団・組織を形成し、そこで様々な運動を展開している。これもまたこれまで数多く記されている。だが、それらが、なぜゆえに/いかに意見が分かれ、相互の亀裂・葛藤・対立を生むような構図になっているのか、それぞれの主張はいかなる要素によって構成されているのか、それぞれの主張が導いてしまう帰結がいかなるものであるのかについての論考が十分でない。要するに、きちんと調べられ、考えられていないと思うのだ。いま一つには、いかなる制度・政策のもとで少数者たちの歴史と現在は出来してきたのかが調べられてよい。「マイノリティの人たちとの共生を」「少数派の人たちの生き方を知ろう」「様々な差異を抱えて生きる人たちの主体的活動を」等々の言葉は聞かれる。少なくとも言葉だけであれば、少なくない人たちが口にする。しかしながら、事態は全くそうなっていない。そうなっていないにもかかわらず、いかなる歴史的・時代的文脈のもとでどのような政策・制度が実行され、その政策・制度のもとで事態が現出してきたのかが記されない。昨今の社会学の中では特に弱いところであるが、歴史的・政治経済的ダイナミズムのもとで複雑かつ厄介な事態がいかに立ち現れてきたのかが分析されない限り――いわば歴史診断と制度分析がなされない限り――、私たちは事態の困難さだけに捕えられてしまい、基本的な問いを消失してしまうことがある。だからこそ、きちんとこれらを考えるべきなのだ。更には、彼/女らの集団・組織の中での、彼/女らの運動の中での、論争・論点はいかなるものであったのか、それらの繋争点はいかに論じられてきたのか/論じることが可能であるのかについて記されていない。歴史的・政治経済的ダイナミズムのもとで出来した事態は恐ろしいことに問いを封印してしまう。論争・論点がいかなるものであったのかを精査しない限り、事態が困難なままに置かれ、その困難への解決が困難にあることの筋道が見えてこないのだ、だからこそ、私たちはこうした問題をきちんと丁寧に考えたほうがよい。
6)戦後、とりわけ1970 年代以降における言説についてこんなふうにまとめられてしまう。要するに、1970 年の安保自動延長成立を契機に、それまで安保闘争を掲げて活動してきた新左翼、全共闘、ノンセクト活動家はその後の方向性を見失っていたのだが、同じく1970年7 月から10 月にかけて華青闘(華僑青年闘争委員会)による7.7告発、ウーマンリブ運動、青い芝の綱領発表、朝鮮・沖縄問題から天皇制や戦争責任が浮上していく中で、いわば経済成長と安定雇用を前提にした「1970 年パラダイム」が形成された。その「1970 年パラダイム」では、多数派(マジョリティ)は経済成長の恩恵を受けていたため、いわば異議申し立ては被差別部落の人たちや在日コリアンなどの少数派(マイノリティ)に仮託して行われた、と。あるいは、大衆消費社会的な豊かさの中での「生き辛さ」や学歴・能力主義社会批判などを主張すると同時に、そこには乗れない少数派を持ち上げるという意味で、やはり経済成長と安定雇用を前提にした思想であった。もっと言えば、経済成長と安定雇用の土俵に乗った上での能天気な思想であり、だからこそ少数派を持ち上げて自らの正しさを語るようなご都合主義的な思想であったのだ、と。とどのつまりは、「1970 年代以降の思想とは、食うに困らない優等生たる多数派が、少数派を持ち上げて吹き上げたり、食うには困らずとも管理された日々の息苦しさを批判したりしたものであった」ということだ。なぜこんな話になってしまうのだろう。そもそもこうした物言い自体が「少数派/多数派」を自明の境界設定としている。その境界設定を産み出していく社会的機制を解明=解剖するという基本的作業を抜きにして、上記のようなお話=物語を易々と語るべきではないだろう。
7)別の箇所では「ナチズムとスターリニズムの終焉以降、誰にとってもそれが問題になっている今日きっての大問題」(Foucault1994e=2000: 339)と述べる。
8)ちなみに、この境界線を消し去るためには2 つの方法がある、とフーコーは説く。一つには「プロレタリアート化されていない下層民に語りかけて、いくつかの価値、原則、規範を教え込む、というやり方」、つまり「ブルジョワ的価値」を教え込み、「非武装化」すること――プロレタリアート化させること――である。こうして下層民はプロレタリアートとの対立において特殊性を失い、反乱の誘引、暴力の発生源として、ブルジョワジーにとって危険な存在であることをやめる。要するに《教え込み、手なずける》のだ。もう一つには、プロレタリアートと下層民の両方に向かって、「人があなたがたに教え込もうとしている価値の体系」とは「まさに権力の体系、ブルジョワジーが掌握する権力の道具なのだ」と語ることである。要するに、《騙されるなと煽り、抵抗を企てる》のだ(Foucault1994d=1999: 297)。
9)フーコーにしては珍しく言葉を荒げて以下のような言葉を発する。「ナチズムを生んだのは今世紀の偉大な性倒錯者じゃなくて、とんでもないほど陰湿で退屈で卑劣きわまりないプチブルだったんですから。ヒムラーは農学の知識ぐらいしかなかった男で、結婚した相手は看護婦でした。だから、強制収容所が養鶏家と病院の看護婦の想像があいまって生まれたものだということを解っておく必要がある。病院と鶏小屋、これが強制収容所の背景にある幻想ですよ。(中略)ナチスは悪い意味での家政婦です。彼らは雑巾や箒を手に、自分たちが膿や埃やごみと見なすもの全てを社会から一掃しようとした」(Foucault 1994e=2000: 469)。
10)拙稿では、1974 年10 月のリオ・デ・ジャネイロ国立大学社会医学研究所生体医学センターでのフーコーの講演「医学の危機あるいは反医学の危機?」を導きの糸に、①医療国家が「反医学」「医療批判」を通じて新たに《政治経済的な膨張と収縮》を作り出していること、②そうした「医療国家」は18 世紀の医学・保健衛生システムに歴史的起源をもつが、そこでの大きな認識論的転換は医学の介入の宛先を生命そのものと変容させ、無際限の医療化を雁行させてきたとされるが、現実には「反医学」を契機に医療国家はその領域と範囲を拡大化・複数化させていくされること、医療国家は健康のため、病気を治すため、医療サービスを消費することで幸福な暮らしを保つことを前提にしているが、それは常に「機能不全」を起こすため、「危機」とともに常に体制は再編されていくことになることを明らかにしている(天田 2010j)。
11)ロボトミーの実践とその歴史についてはジャック・エル= ハイ(El-Hai 2005=2009)の著作など幾つかあるが、いずれも満足のいく内容・水準ではない。ロボトミーの歴史について、とりわけほとんど知られてないロボトミーの歴史とそれをめぐる言説についての本格的論考が望まれる。
12)ちなみに、こうした反射理論をめぐる議論において、J・P・ファイユは「反射理論がもたらした興味深い結果として、産婦人科医院のレヴェルにおける帰結――「痛みのない出産」という――があったわけですが、それと対になるものとして、精神医学のレヴェルにおいて、そうした絶対的な阻害があったわけです、手を触れるな!という。同じ政治集団が、これらの二重の仕方で機能したわけですね。それにしても驚くべきパラドックスだと思えるのは、警察権力が猛威を振るい最も抑圧的であったとき、すなわち三〇年代、スターリンによる粛清がその絶頂に達していた時期に、おそらくは革命の遺産がソヴィエトの医学いまだ残っていて、それがロボトミーを精神医学の一技術として用いることを禁止し、中断させ、断念させたということです。スターリンが、尽きせぬ善意でもってそうした措置を講じたとはどうしても思えない⋯⋯。それは医学的審級のレヴェルでもって決定されたものなんでしょうか?」と発言している。
13)なお、こうした意味からすれば、ソ連における「自然」とは「若さの否定」を導くように思われるが、そう単純な話ではない。ソ連においては労働と労働者の関係を国家が価値付けを行い、経済を拡大させるために雇用を最大化する必要があったため、1930 年代までに国民ができるだけ高齢まで安心して働けることを推奨するための年金制度が整備された。この年金制度ではあくまでできるだけ高齢になるまで働き続け、福祉への依存状態になって社会参加の機会を奪われることがないことが目指されていた。こうした背景のもと、1935 年、スターリンは高齢労働者の経験を全て活用する重要性を主張した(Lovell 2003)。また、ソヴィエト連邦では「活動的な期間を長くしたいという願望や、究極的には若返りの秘密を明らかにしたいという願望」が強く支持され、実際、ソヴィエト連邦の老年学者たちは「人間は現在の寿命よりもはるかに長生きできる可能性をもっており、百二十歳かそれ以上も達成できるとか、ソヴィエト社会はそれを実現することで総合的優越性を証明できるといった主張を繰り返した」(Thane 2005=2009: 376)。実際、長寿や若さを実現することを目標にした各種の実験がなされたり、ソヴィエト国民が他を優越する長寿を達成したことを報じたりしたのだ。つまり、ソ連において、自然に本来的に内在する「長寿」はそれ自体が善であり――自然の尽くしえぬ善性!――、その長寿を可能たらしめる「若さ」もまたそれ自体で善いものであるが、本来の自然善たる「長寿」は資本主義体制をはじめとする体制によって悪化させられ、疎外されているがために、ソヴィエト社会主義共和国体制のもとでの機構や技術などによって自然善たる「長寿」を斬新的に加工=飛躍化させることは可能であり、またそれは善いことであるとされたのである――自然を斬新的に加工できる可能性!――。その意味で、自然善たる「長寿」はその根本において労働によって価値づけられたものであった。
14)フーコーもこう言及する。「結局のところ、この時導入され、19世紀の精神医学や犯罪学において理論化されたもの――そして、ソヴィエトの法律においていま再び見出されるもの――、それが「危険」という概念です。ソヴィエトの法はこう言うでしょう――あなたがたは、われわれが病人を監獄に(あるいは、囚人を病院に)入れていると仰有るのですか? とんでもない! 当方は「危険」だった人物を監禁しているだけですよ、とね。彼らは〈危険だと感受される〉という事実を、犯罪としてコード化しおおせているのですよ⋯⋯」(Foucault 1994f=2000: 467)。
15)ソ連の強制収容所での抑留体験(シベリア抑留体験)については石原(1972)、寺島(1996a; 1996b)、内田(2001)、加藤(2002)、多田(2004)、坂彦(2010)ほかを参照した。また、ソ連の強制収容所に関する文献はアプルボウム(Applebaum 2003=2006)ほかにも多数あるが、新たな情報と知が与えられているとはいえず、面白みに欠けるものが多い。
16)戦後フランス社会の問い直しは「後に『反精神医学』と呼ばれることになるものが、フランスの1950 年代初等に誕生する可能性があったとさえ思わせるようなもの」であった。しかし、実際は反精神医学は広まらなかった。その理由として、第一に、フランスの「精神科医は、マルクス主義者ではない場合でさえマルクス主義にきわめて近く、その理モチーフ由からソビエト連邦で行っていることに注意を集中するようしむけられて」おり、「そこからパブロフと反射学へ、すなわち唯物論的な精神医学へと、つまり言うまでもなく彼らを遠くまで連れていってくれるはずもない理論的かつ科学的諸問題の総体へと導かれて」いたこと、第二に、「大部分が公務員であるという精神科医の地位のために、とても早い時期に、大勢の人びとが、組合の防衛というタームで精神医学を問うようになっていった」ことが挙げられる(Foucault 1994h=2001: 206-207)。
17)フーコーに対するアンリ・エーの批判(Ey 1977=2002)なども参照されたい。
18)フーコーは1970 年9 月29 日に京都日仏学館における講演「狂気と社会」にて以下のように述べた――ちなみに、通訳者・翻訳者は神谷恵美子――。産業社会の形成に雁行して、特に1720 年〜 1950年頃に西欧社会の都市部では「狂人、老人、病人、失業者、怠け者、売春婦など、全て社会秩序をみだす者を収容する大きな施設がこしらえられた」が、1793 年のピネルに代表されるように、18 世紀末から19 世紀初頭において狂人は解放されたとされているが、その実、「解放したのは不具者、老人、怠け者、売春婦などであって、狂人だけは施設内に残した」。それは、19 世紀初頭の産業社会の飛躍的発達によって、資本主義の第一原則として、「プロレタリア失業者の大群は、労働力の予備軍たるべきもの」とされたため、仕事をする能力があるのに働いていない人たちは収容施設から外に出されることになったが、第二の選択過程において、働きたくない人ではなく、働く能力がない狂人たちが収容所に残されたのだ(Foucault1994c=1999: 475)。
19)医学が「反医学」「医療批判」を組み込みながら編成していく歴史的・政治的ダイナミズムであることについて論考した拙稿(天田2010j)などを参照。また、方法論的には、いかにして歴史的・相互行為的に〈老い衰えゆくこと〉が作り出されていくのかについての分析は天田(2003; 2004; 2007a; 2010a)ほか参照。また、老いをめぐる政策と歴史をフーコーの「統治性governementalité」の視座から解読したものとして天田(2008a; 2008d; 2009a; 2009c; 2010d; 2010e;2010l)などに記している。また、その本格的な論考は天田(2010a;2010j; 2010k; 2010m; 2010n; 2010o; 天田・北村・堀田編 2010)ほかにて記すものとしたい。もともとこうした問題提起を挑発的に行った小泉によって触発された討論である天田・大谷・立岩・小泉・堀田(2009)も参考になるだろう。また、老いや制度・政策に関する諸研究への批判的検討を行った論文として、天田(2007b; 2007c;2007d; 2008b; 2009b; 2010d; 2010g; 2010h)ほか。社会学理論の方法論については天田(2007-2008; 2008-2008; 2010f)、生産・労働・分配・差別との関係を議論したもの(天田・小林・齊藤・橋口・村上・山本 2010)などがある。本稿では言及することはできなかったが、オイコスの位置、統治のエコノミーとの関係について言及していないが、それらは稿を改めて論じるものとする。アガンベンの『ホモ・サケル』のプロジェクトを総合的に検討するものとしたい(Agamben1995=2003; 1998=2001; 2000=2006; 2003=2007; 2009=2010)。とりわけアガンベンの近著『王国と栄光――オイコノミアと統治の神学的系譜学のために』(Agamben 2009=2010)は傑出しているので、参照されたい。また、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(Aerndt 1965=1994)についても批判的かつ総合的に検討しなければならないが、本格的論考は稿を改めるものとしたい。なお、フーコーの生政治のもとでのオイコノミアについては拙稿(天田 2008a;2008d; 2009a; 2010d; 2010i; 2010j; 2010k)にて言及する。本稿ではあえて証言者=ホモ・サケルと生政治の関係について、統治のエコノミーとの関係について言及していないが、それらは稿を改めて論じるものとする。「主体と経済」をめぐる生- 政治についての論考は天田(2008a; 2008d; 2009a; 2010h; 2010i)他を参照。また、ゴフマン『アサイラム』(Goffman 1961=1984)の論考を受けて論考した論考として天田(2008c; 2010c; 2010i)ほかにて説明している。フーコーの権力論と狂気の関係についての新たな視点からの論考は佐々木(2010)、生政治と統治性については中山(2010)、金森(2010)などを参照してもらいたい。それと、1974 年に『反精神医学の道標』を記した小澤勲の仕事についての論考は天田(2006)、小澤との対談は小澤・天田(2006)に記してある。小澤の著作については(小澤1974a: 1974b; 1975; 1984)ほかを通読されたい。
[文献]
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────,2010h,「日付と場所を刻印する社会を思考する──学問が取り組むべき課題の幾つか」『老年社会科学会』32(3).
────,2010i,「底に触れている者たちは声を失い、声を与える
――〈老い衰えゆくこと〉をめぐる残酷な結び目」好井裕明・宮内洋編『〈当事者〉をめぐる社会学』北大路書房,121-139.
────,2010j,「老いをめぐる新たな人権の在処──統治される者たちの連帯をもとに介入すること/奪い返すこと」井上達夫・長谷部恭男・齊藤純一・市野川容孝・愛敬浩二編『人権の再問』(『講座 人権論の再定位』第1 巻).
────,2010k,『老いの身体(仮題)』角川学芸出版.【刊行予定】
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────,2010m,『老いを治める(仮題)』青土社.【刊行予定】
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天田城介・北村健太郎・堀田義太郎編,2010,『老いをめぐる政策と歴史』生活書院.【刊行予定】
天田城介・大谷いづみ・立岩真也+小泉義之・堀田義太郎,2009,「生存の臨界Ⅲ」(座談会). 立命館大学生存学研究センター編『生存学』
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──── , 2008, Le Gouvernement du soi et des autres: cours au Collègede France (1982-1983). ed. François Ewald et A lessandro Fontana,par Frédéric Gros. Gallimard/Seuil.(=2010,阿部崇訳『自己と他者の統治 コレージュ・ド・フランス講義 1982-1983 年度[ミシェル・フーコー講義集成XII]』筑摩書房)
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内田義雄,2001,『聖地ソロフキの悲劇──ラーゲリの知られざる歴史をたどる』日本放送出版協.

生存学研究センター報告

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