自死遺族の困難におけるわれわれの常識と推論の経験的探求

掲載日: 2014-05-01 English: for English

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21世紀に入り、日本国内においてもようやく自死遺族らが直面しているさまざまな困難への関心が高まりつつあります。そうした困難の一つに、周囲の人たちが遺族らに近親者の自殺の責任を帰属してしまったり、自らに帰属してしまったりする〈責任帰属〉をめぐる問題があります。このことは、人びとが自殺と自死遺族にたいする誤った意識を〈心〉のなかに抱いているせいで生じる、と非難されがちです。しかし、諸個人に内属する心――それは、他者からは観察不可能で本人も正確に把握できているか怪しいものでもあると思います――に研究上の焦点を当ててしまうと、〈本当の心〉をめぐる決着のつけがたい水掛け論に陥ってしまいます。これでは、自死遺族たちが巻き込まれている責任帰属活動をはじめとした、人びとのあらゆる個別具体的な活動の経験的な探求、すなわち明確な根拠を示して調査研究することを拒んでしまうことになります(以上の点に関心のある方は、「エスノメソロドジー」とよばれる方法論、とくにジェフ・クルター〔Coulter, Jeff〕のThe Social Construction of Mind〔邦訳『心の社会的構成』をお読みください)。これは、問題の把握や解決以前の段階でつまづいてしまう事態でもあります。

そこで私は、〈心〉ではなく〈言葉〉、すなわち自死遺族をはじめとする人びとが、どのような言葉をいかように用いて責任帰属を行っているのか、を記述する研究に着手することにしました。発せられた言葉とその使い方に焦点を当てたならば、明確な根拠を示して例証していくことが可能だからです。こうした研究上の方針はすでに社会学領域において1960年代から70年にかけて提起されていました。私はそれらの成果を再建・継承・発展させるべく、(1)記述にかんする方法論の検討、(2)自死遺族らへのインタビュー調査、(3)新聞記事・官庁資料等の収集、(4)得られた資料にもとづいた人びとによる自殺をめぐる責任帰属活動の(再)記述に取り組んでいます。とくにインタビュー調査では、自らが経験した近親者の自殺をめぐる自責・逡巡や周囲の人びととの対立・葛藤を積極的に語る自死遺族たちによって、私の方で事前に死生学などの他領域の先行研究をもとに抱いていた想定が打ち砕かれるということを、幾度となく経験しています。

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人びとによる自殺の責任帰属をめぐる活動の分析は、おおよそ以下のように概観できます。まず、(a)死者の自殺の動機はどのように記述されているか。たとえば〈離婚〉〈いじめ〉〈借金〉〈長時間労働〉〈うつ病〉……なのか。つぎに、(b)彼/彼女は動機を勘案した場合、どのような類型に当てはまる人として記述されているか。たとえば〈元夫〉〈生徒〉〈多重債務者〉〈労働者〉〈患者〉〈自殺者〉……なのか。そして(c)当てはまる類型を勘案した場合に、彼/彼女と他よりも優先して結びつけうる者たちはだれで、(d)その者たちと彼/彼女との間で期待される権利・義務・活動等はなにか。最後に、(e)自殺の動機とされている言葉を勘案した場合、そうした権利・義務・活動等に背いているのはだれか。

しかし実際には、自死遺族、しかも特定の者だけに責任が帰属されがちです。このことは、〈家族〉とそれ以外の範疇に含まれる類型のあいだで、〈家族同士で支え合うべし〉〈支え合う絆=家族〉〈お互いのことをよく理解しているはず〉といった権利・義務・活動等が前者にかたよって配分されているうえに、家族(自死遺族)内部でもそれらが不平等に配分されていることをあらわしています。さらにいえば、私たちの常識的な推論においてそれらの履行は〈家族であること〉の証しとされています。われわれは、彼/彼女が自殺したのは、最も身近な者のはずの(ある特定の)家族員がそうした権利・義務・活動等に背いたためではないか、ならばその家族員に責任があるのではないか、と容易に推論してしまうのです。特定の自死遺族にばかり近親者の自殺の責任が帰属されてしまう問題には、われわれによる家族をめぐる常識、および常識的な推論の実践――家族を家族たらしめている実践の一部――が横たわっています。こうした人びとの実践を記述し例証していくための調査研究活動を継続しつつ、今なお未熟な記述・例証のための方法論を確立していくことが、目下の課題です。

藤原信行

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