開催報告 ワークショップ「生命倫理学の歴史を語ること、その陥穽」

掲載日: 2014年07月03日

 立命館大学生存学研究センターは、去る6月29日(土)、衣笠キャンパス創思館カンファレンスルームにて、ワークショップ「生命倫理学の歴史を語ること、その陥穽」を開催し、学生や一般の参加者など約40名が参加した。

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 今回のワークショップでは、医学史に関する叙述方法論、生命倫理学の歴史に関する研究を牽引しているロジャー・クーター氏(ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン教授)を招聘し、「ヒストリオグラフィからみた生命倫理学」と題してご講演いただいた。
 クーター教授は、現在性、つまり現在の生命倫理学を規定している状況を明らかにし、それに対する批判的視座を保つために、生命倫理学そのものを歴史化すること、具体的にはヒストリオグラフィ=歴史叙述を、現在を理解するテクニック/ツールとして活用することの必要性を強調した。それを理解するための要素として、「西洋的」・「グローバリゼーション」・「新自由主義」といったキーワードが駆使され、「人権」や「正義」といった概念を捉え直すことの重要性も指摘された。

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 続けて、松原洋子氏(本学先端総合学術研究科教授)が登壇し、クーター教授の問題意識に引き付けたかたちで、日本の生命倫理学批判の文脈について詳細に解説を行った。そこでは主に優生学史のヒストリオグラフィと生命倫理の関係性が取り上げられ、時系列ごとのキーパーソン(米本昌平氏ら)の紹介がなされた。また、日本の障害者運動と優生学史との関係性も解説され、最終的に「優生学史は「自律的」たりうるか」という問いを投げかけ、「現在主義」的にならざるをえない研究状況=「限界」のなかで、研究が蓄積されていること自体の意義を評価する視座も必要だという問題意識が提示された。

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 この2つの講演を受け、コメンーターの瀬戸口明久氏(京都大学人文科学研究所准教授)が、「科学論の再帰的転回」をふまえたコメントを行なった。クーター教授に対しては、歴史学×歴史叙述という二分法への疑問と、生命倫理は「西洋的」か?という疑問を、松原教授に対しては「リベラル優生学時代に対応する優生学史をいかに(批判的に)書くのか」という疑問を投げかけられた。これらはいずれも非常に核心的な問いで、一般参加者にも議論のポイントがクリアに示される大きな効果を持った。そして最後に瀬戸口准教授は、このワークショップ全体に対する問いかけとして「有用な批判をすべて飲み込んでしまう「科学技術体制」が存在するなかで、批判的な科学論を取り戻すべきなのか?」という非常に挑発的な問いかけを行なった。

 最終セッションは、クーター教授、松原教授、瀬戸口准教授に加え、本ワークショップの企画と当日の司会・進行を務めた高林陽展氏(清泉女子大学文学部専任講師)クーター教授の通訳を務めた児玉聡氏(京都大学文学部准教授)ら総勢5名による総括ディスカッションが行われ、まずは瀬戸口准教授への応答においてクーター教授は、「自分がヒストリシティ(歴史性)のなかにあるという自覚こそが重要だ」という点が強調され、松原教授からは「当事者による体制批判といっても、当事者の利害も一様ではない。そうした細かな多様性をきちんと記述することが(「限界」を克服するのに)重要なのではないか」という指摘がなされた。
 フロアからは、「なぜ、いま正義論と生命倫理学との関係が問題とされるようになったのか?」、「科学技術体制において「政治」はどの程度の重要性をもつのか?」といった本質を突く質問が提出され、活発なやりとりがなされた。

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 本ワークショップで展開された議論は、生命倫理学を専攻する研究者だけでなく、広く歴史的なものの捉えかたに興味をもつ人たちすべてにとって刺激的な内容であり、非常に普遍的な意味をもつものであった。生存学の周辺に位置する多くの院生・研究者に共有されるべき視点が多く示され、また既存の学史を批判的に検証するメソッドも示されていた。今後、何らかのかたちで本ワークショップの内容が発展的に紹介される機会が生まれることを期待したい。(村上潔)

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