ケア分配の倫理学――その責任のありかとありかたとをめぐって

掲載日: 2018年01月01日English

enlearge image (to back to press x)ケアという営みとその必要性を根源から問うた本たち『生の技法』『生あるものはみなこの海に染まり』『母よ!殺すな』

研究の現場とは、一体何であるのか。これは、それぞれの学問領域によって異なるものです。自身が専門としているのは、倫理学のなかでも規範倫理学と呼ばれる分野であり、その研究方法が主として文献研究であることから、書かれたもの――本や論文など――がその研究の直接の現場ということになるでしょう。具体的には、「ケアすべきは誰か」という問い、その責任をめぐってこれまで考え、書いてきました。ケアについて問うことは、社会のあるべき姿と、そして歴史上その主たる担い手であり今もなおそうである女性の処遇について、その両方を併せて問うことに他なりません。そして、こうした問い方はいわゆる「ケアの倫理――思いやりを源泉とした従来の倫理学の伝統への異議申し立て――」と重なるものではありつつも一線を画したものです。伝統的に女性に課されてきたケアするという役割とその意義に光を当てつつも、その仕事が伝統的には女性だけでなく、奴隷や移民、貧困層などの社会において劣位化あるいは周縁化される人たちに偏って課されてきたという点を重視する立場をとります。

人は生きるためにケアを必要としている、としばしば言われます。その「ケアを必要とする」ということは、以下の二つの次元のものとして考えることができます。ひとつは、生存の次元。赤ん坊や子ども、病や障害とともに生きる人、そして年を重ね老い衰えた人。自身では生存すらままならない人も、誰かがその人をケアしてその人が生き延びられるようにすべきというのはこの社会の規範のひとつです。もうひとつは、よりよき生を実現するという次元。人はなぜ生きるのか、といった時に、ただ生きるだけではなく人間らしく生きること、その生において自由を享受するべきであるという考え方もまたこの社会の長い歴史の中で規範として広く共有されてきた社会的通念です。

こうした人間の生に関する重なり合う二つの規範は、ケアする人がいて初めて実現されるものです。では、そのケアする責任を負うべきは誰なのか。この問いは、自明のものではありません。ケアを必要とする人がいるとき、誰かがケアをする必要があります。ケアを必要とする人に近しい人――例えば家族、とりわけ女性――が多くの場合それを担ってきました。

enlearge image (to back to press x)「ケアすべきは誰か」という問いをケアワークの特性と女性労働の観点から問い返した本たち Servant of Globalization, Forced to Care, Love’s Labor

第二波フェミニズム以降、女性の社会進出が進み、かつての専業主婦たちも社会に出て働くようになりました。しかし、人が暮らしていく上でケアにかかわる仕事は残るし、それは必要不可欠なものです。にもかかわらず、家庭内でその構成員におけるケア負担の分担はうまくいかず、その資源も不足している。では、それは誰がやるのか。

そこで、一つの解が提示されます。ケアすることは人間の生にとって必要不可欠なことであるから、その責任は社会で負うべきという、ケアの社会化という考え方です。人は生きるべきである、よりよく生きるべきであるという規範が社会において共有されているのであれば、この分担のあり方は理にかなったものといえます。しかし、こうしたかたちでケアの分担が進んだ国はごくわずかで、先進国の多くでは、有色人種や移民をはじめとする貧困層の人々、とりわけ女性の手に、金銭を媒介として委ねられています。はたして、それでよいのか。賃金さえ支払えば、ケアを誰か他の人に頼む事は道徳的に正当化されうるのか。これまで、例えば障害者の自立生活運動ではケアの必要性が叫ばれ、その脱家族化が目指されてきました。他方で、ケアする役割を偏って課せられてきた人たちからの異議申し立てが、第二波フェミニズムの中でなされました。どちらの主張も理にかなった真っ当なものです。しかし、この両方の主張を調停する方法として、他国からの移民を彼女らの自己決定に基づいて動員し、低賃金でそれを担わせることは妥当なのか。この点を問うために、今一度「ケアすべきは誰か」と規範倫理学の観点から問い直す必要があると考え、研究を進めています。

こうした問いに対して、その根拠を問うことにどれだけの意味があるのかという批判があります。ケア役割が女性に偏って課されていることが問題なら、それを是正すればいい。それこそケアに関する賃金をあげればいいのだし、そのための施策を考えた方がいいのではないか。なぜ殊更に、「責任」について歴史を振り返りつつ云々する必要があるのか、と。問題は〈いまここ〉にある、だからそれを糺せばいい、と。しかし、それはそう簡単にできることではないし、だからこそ今一度歴史を振り返りつつ、その問いについて丁寧な論証を積み重ね、真理を探究することが必要なのではないでしょうか。

倫理学は、エートス(住み慣し)を語源とする人々の生活の在り方やその道徳性について問う営みです。また、事実と規範との関係、とりわけその〈つながらなさ〉を問う営みでもあります。「ケアすべきは誰か」という問いは、一見なんら目新しさのないありふれたもののように見えるかもしれませんが、そのつながらなさに関しての問いは尽くされたとはいえません。そうした日々の暮らしの中にある、一見自明な矛盾を問い返すことは、迂遠であっても実は問題解決にとって近道となることもあるのだという思いとともに研究を進めています。

佐藤 靜(大阪樟蔭女子大学学芸学部/立命館大学生存学研究センター客員研究員)

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