「沖縄問題」の現在を歴史化するために

掲載日: 2012年11月01日English

2012年10月1日、台風の過ぎ去った快晴の沖縄の空を、米軍・垂直離着陸輸送機MV22(オスプレイ)が飛んでいた。沖縄に生きる人々の反対の声を押し切って、日米両政府はオスプレイを沖縄に配備したのだ。オスプレイの沖縄配備によって、私たちは改めて「沖縄問題」に向き合っているだろう。沖縄の軍事化、自治・自立の抑圧、生存の危機という事態がグロテスクなほどに進行しているからだ。

とはいえ、「沖縄問題」とはどのような問題なのだろうか。「沖縄問題」は〈沖縄の人々が抱える、沖縄=あの島で起こっている問題〉と捉えられることが多い。テレビや新聞では、オスプレイ配備撤回を求め、「当事者」とされる沖縄県知事らが日本政府に陳情・要求する姿は、何度となく放送されている。私たちは、「沖縄問題」の外側の傍観者のようにそのシーンを眺めているだろう。

しかし、考えてみれば、沖縄の軍事化を容認しているのは日本の政治に「参加」している私たち一人一人であるのかもしれない。また、世界各地に軍事基地を維持している、アメリカの市民一人一人も「沖縄問題」の「当事者」でありえる。在沖米軍による殺戮と侵略の対象となったベトナム、イラクやアフガニスタンの人々は「沖縄問題」の「当事者」となりえないのか。「沖縄問題」の射程が常に限定され流通し、「沖縄問題」をめぐるいくつもの繋がりは断たれている。このような体制――沖縄に関する知もそれに組み込まれている――が、「沖縄問題」の継続を生みだしているのではないか。

私はこれらの問いを、社会運動、特に1972年の沖縄の日本「復帰」をめぐって沖縄、日本、そして海外の人々によって激しく闘われた「沖縄闘争」を対象に考えてきた。運動団体や個人が残している多くのビラ、機関紙、雑誌や新聞の記事、そして当時の闘争に参加していた方々への聞き取り調査の結果を読み解く作業をつづけている。社会運動は、「沖縄問題」認識が常に問われ、揺さぶられる「現場」そのものだ。

たとえば、1960年代後半、日本「本土」のベトナム反戦運動は、ベトナムへの出撃基地となった沖縄を積極的に問題化した(拙稿「『沖縄問題』の『入り口』で――ベ平連の嘉手納基地ゲート前座り込みと渡航制限撤廃闘争」天田城介ほか編『差異の繋争点』ハーベスト社)。沖縄と日本「本土」の運動とが共同で、座り込みやデモ、雑誌への意見広告掲載などの取り組みをし、沖縄の基地撤去を要求していた。【写真1:ベ平連の沖縄での活動を報じる新聞・雑誌記事】

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ベ平連の沖縄での活動を報じる新聞・雑誌記事

また、在沖米軍基地のなかでは、黒人兵を中心に反戦運動に取り組む兵士がいた。米兵にとって軍隊は、不当な戦争を強要する暴力装置そのものでもあった。米兵は軍隊において被害者でもあった。沖縄、日本「本土」の運動は、基地のなかの反戦米兵との交流を始め、「軍隊解体」を目指す運動を模索していった。【写真2:在沖米軍の兵士が発行した反戦新聞】

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在沖米軍の兵士が発行した反戦新聞

沖縄、日本、米兵たちは、沖縄にある基地・軍隊をそれぞれの立場から主体的に問題化し、経験や思想を分有し、共闘を試みていたのだ。「『沖縄問題』は『自らの問題』だ」と考える人々が無数に存在していたのである。

しかし、多様なアクターが「沖縄問題」を「自らの問題」としたことは、同時に無数の対立や緊張関係を生み出す。沖縄、日本、米兵――彼ら/彼女らの生きている現実は目眩がするほど異なる。沖縄の人々にとって米兵や日本人は加害者そのものでもある。しかし、ベトナム人からすれば、沖縄の人々は加害者でもあった。「沖縄」の内部にも、基地のある地域/ない地域などの差異は存在する。「沖縄問題」を〈沖縄の人々が抱える、沖縄=あの島で起こっている問題〉と限定せずに思考することは、人々に連帯と葛藤の双方を経験させたのだ。

沖縄闘争における連帯とコンフリクトの実相を精緻に検証することで、現在の硬直した「沖縄問題」認識を歴史化し、問題化の別の回路と関係性を生みだせればと思っている。

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